2005年-2009年
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2005年10月5日、自身の後任監督である堀内恒夫が成績不振により引責辞任し、その後任として2年ぶりに監督に復帰した。契約年数は3年で、背番号は現役時代の「8」を重ねた「88」とした。 2006年、シーズン当初は開幕ダッシュに成功し5月まで首位をキープしていたが、小久保裕紀、高橋由伸、阿部慎之助など怪我人が続出し、6月から7月の間に立て続けに8連敗、10連敗、9連敗(他に敵地18連敗、保護地域外26連敗など)を喫して優勝争いから脱落、8月4日には最下位に転落する。最終的には2年連続Bクラスとなる4位で終わる。 2007年、故障で出遅れた上原浩治を「同年のみ限定」で抑えに転向させたり、それまでクリーンナップを務めていた高橋由伸を1番打者に固定するなど、型破りな選手起用が成功しチームを5年ぶりのリーグ優勝へと導いた。しかし、この年から導入されたセ・リーグのクライマックスシリーズ2ndステージで、ペナントレース2位の中日に初戦から3連敗を喫し、日本シリーズ出場を逃した。秋季キャンプは対象選手を伸び盛りの若手に特化。また高橋由伸と上原のポジションに関しては、上原が先発復帰(「選手が積み重ねてきたものがあるので強制はできない」としている)。かつての平成3本柱のひとりでリリーフエース経験もある槙原寛己を臨時コーチに招き、守護神候補として野間口貴彦や西村健太朗の指導を依頼。新聞[要文献特定詳細情報]で2007年を「“ホップ、ステップ、ジャンプ”のホップの年くらいにはなった」と語っている。 2008年は、一時は首位・阪神タイガースに最大13ゲーム差をつけられるも、シーズン終盤の8月から9月にかけて12連勝含む26戦で21勝するなどし猛追、そのまま10月8日に阪神を逆転して首位に立ち、10月10日に2年連続リーグ優勝を達成した。クライマックスシリーズ2ndステージでは、中日を相手にアドバンテージの1勝を含む3勝1敗1分の成績を残し、2002年以来の日本シリーズ進出を決めた。日本シリーズではパ・リーグの覇者・埼玉西武ライオンズ相手に3勝4敗で敗退した。11月11日、都内の読売新聞社にオーナーの滝鼻と球団会長の渡辺を訪ねシーズンの報告を行い、両者から続投の要請を受けて受諾し、球団と新たに3年契約を結んだ。 この年、神宮での雨中の開幕戦で、遊撃スタメンだった二岡智宏が足を負傷、二塁スタメンだった当時2年目・19歳の坂本勇人を本来のポジションである遊撃に回したが、坂本はこの試合以降の2008年の全試合、全イニングに起用され、急成長を遂げた。野手では他に亀井義行や、育成枠から隠善智也らを、投手陣でも前年に育成枠から昇格した山口鉄也や、若い越智大祐らを積極的に起用するなど、若手・中堅・ベテランを使い分ける采配が評価された。 同年10月28日、「WBC体制検討会議」で満場一致で推薦されたのを受け、座長を務めるプロ野球コミッショナー加藤良三から2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督への就任を要請され受諾。背番号は「好んでいる数字」として前回監督時と同じ「83」を付けた。11月12日、監督、コーチングスタッフ6名と代表チームの愛称名「サムライジャパン」が発表された。2009年3月24日の決勝戦で韓国を5-3で破り、日本を大会2連覇に導いた。 2009年シーズンが開幕すると、育成枠出身の松本哲也や坂本勇人・亀井善行、原自ら「風神・雷神」と名づけた左右の中継ぎコンビ・山口と越智などの若手が次々に台頭した。また、上原浩治のMLB移籍によって先発投手の戦力低下が危惧されたが、ヤクルトから獲得したディッキー・ゴンザレスやテスト生出身のウィルフィン・オビスポがその穴を埋めたため前年とは対照的に春先から首位を快走した。野手陣においては、3年目の坂本を1番打者として起用、また前年までは代打や守備固めでの起用が多かった松本哲也・亀井善行をスタメンとして固定するなど、勢いのある若手をレギュラーとして起用した。リードした試合の終盤には主力選手をベンチに下げたり、谷佳知を相手先発投手に応じてスタメン・代打と使い分けたり、捕手の阿部慎之助や外野手の亀井を一塁手としても起用するなど選手層の厚さを活かした柔軟な用兵を見せ好成績をキープし首位を快走、9月23日にV9以来のリーグ3連覇を果たした。ベテランの小笠原道大やアレックス・ラミレスが期待通りの成績を残したことも、若手起用にも繋がり相乗効果となり、年間安打数1375本は球団歴代最多となった。第2次巨人監督時代の長嶋らと対照的に、ベテランや本塁打打者に依存せず、若手を積極的に起用する原の手腕は多くの解説者に高く評価された。 クライマックスシリーズ第2ステージでは3年連続となった中日相手に4勝1敗(レギュラーシーズン1位のアドバンテージ1勝を含む)で勝利。2年連続日本シリーズ出場となった。日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズに4勝2敗で勝利。監督として2度目の日本一を達成する。11月12日にはWBC及び日本シリーズの優勝が評価され、2度目の正力松太郎賞を受賞。11月14日にはアジアシリーズの代替大会として行われた日韓クラブチャンピオンシップにも勝利。監督としてWBC、セ・リーグ、日本シリーズ、日韓統一王者の4冠を達成した。さらに12月6日には、スイス・ローザンヌで開かれた国際野球連盟の総会において2009 ワールド・ベースボール・クラシック優勝などの実績が評価され、最優秀賞の監督部門「Coach of the Year」に選出された。
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2005年 - 2009年
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「平城・相楽ニュータウン」の記事における「2005年 - 2009年」の解説
2005年(平成17年) 5月 - 協同組合ハイタッチ・リサーチパークを渡文が脱会することが承認される。 9月8日 - 奈良市が、平城プールの更衣室、シャワー室、便所の合わせて210m2にアスベストが使われている可能性が高いことを発表。 8月27日 - フレンドリーショップ寿屋高の原店が開店。 12月26日 - 奈良市が、平城プールにアスベストが使われていなかったことを発表。 2006年(平成18年) 1月 - 協同組合ハイタッチ・リサーチパークに日本通信機器が加入。 2月 - 木津町立相楽台小学校でロボット実証実験が行われる。 3月27日 - 近鉄けいはんな線開業に合わせ、奈良交通が高の原駅-学研奈良登美ヶ丘駅-学園前駅間、高の原駅-押熊・神功-学研奈良登美ヶ丘駅間の運行を開始。 3月27日 - 近鉄けいはんな線開業に合わせ、奈良交通高の原高山線を高の原駅-学研奈良登美ヶ丘駅-高山サイエンスタウン間に延長、運行開始。 相楽台子ども安全・安心ネットワーク会議および高の原見守り隊が結成される。 4月19日 - フードセンター中村屋高の原店が閉店。 8月28日 - 寿屋の自己破産申立準備のため、フレンドリーショップ寿屋高の原店が休業。 11月15日 - 積水ハウス総合住宅研究所に設置された大気イオン濃度測定器の運用が開始。 2007年(平成19年) 京都南徳洲会病院(仮称)新築の施工が間組に決定。 3月27日 - 木津川市が木津川市西部出張所をサンタウンプラザこすもす館に移転することを発表。 5月1日 - 木津川市と奈良市にまたがって「イオン高の原ショッピングセンター」が開業。一方で、奈良市側のスーパーがイオンの開店に合わせて閉店。 5月1日 - 木津川市西部出張所が「サンタウンプラザこすもす館」に移転し、河井規子市長らがテープカット。 9月2日 - 午後1時45分頃、朱雀1丁目の那羅山橋付近で大渕幹線が電食により破裂し、警察官がそれを発見。翌日、歩道のアスファルトを撤去した際に道路上に水が流出し、木津平城線が全長30m、深さ10cmにわたって浸水。 9月 - 高の原中央病院の増改築・新棟(東館)建築工事が完成。 10月11日 - 花いっぱい運動の会が設立。 12月10日-12月21日 - 京都南徳洲会病院(仮称)予定地でボーリング調査。 11月28日 - クロイハイタッチ研究所の解体が始まる。クロイハイタッチ研究所はクロイ電機の創業者黒井基仁の発案によるもので、ピラミッドパワーにあやかった開発拠点として約13億をかけて建設高さ23.1mの鉄筋4階建てで、外側はガラス約700枚で覆われ、クフ王のピラミッドが7分の1サイズで再現された。しかし、期待されていた近隣との異業種間交流の成果は出なかったことから2002年に開発拠点は本社などに移転され、また土地の用途制限のために生産拠点に転用できなかったため解体が決められた。なお、ピラミッドの重心に当たる部分には瞑想のためのシンキングルームが設けられ、大型テレビ、森や湖の自然の映像・音を収録したビデオソフト、脳波でリラックス度を測定する装置が備えられていた。 12月 - 積水ハウスがフジヤ HRセンターを購入。 2008年(平成20年) 2月2日 - 京都南徳洲会病院(仮称)の地鎮祭が執り行われる。 3月11日 - 奈良市議会一般質問で、藤原昭奈良市長が平城プールを閉鎖することを明らかにする。 3月 - 積水ハウスが積和建設奈良を購入。 3月 - 協同組合ハイタッチ・リサーチパークをフジヤ、積和建設奈良が脱会することが承認される。 4月16日 - 特定医療法人沖縄徳洲会が木津川市に京都南徳洲会病院(仮称)の建設計画を凍結したと報告。 7月18日 - 奈良市が、平城プールのファミリープールの床の防水用樹脂に長さ約1mと約2mの亀裂、ファミリープールと幼児用プールに防水用樹脂の膨らみが確認されたため、同2プールの使用を中止することを発表。 9月12日 - 新日本婦人の会奈良支部の会員らからなる奈良市営プールの存続を求める会が、藤原昭奈良市長に7月末から集めた平城プールと青山プールの存続を求める4326人分の署名を提出。 12月 - 協同組合ハイタッチ・リサーチパーク役員会・所長会合同会議において年度内の組合解散について合意。 2009年(平成21年) 1月 - 協同組合ハイタッチ・リサーチパーク臨時総会において解散を決議。 1月31日 - 奈良市の財政難や入場者数の伸び悩みなどから「野鳥の森」が閉園。その後、2009年の地域活性化・経済危機対策臨時交付金の約2600万円を利用し、2010年4月から2か月間かけてバードケージを撤去、管理棟、散策路を整備することや、グリーンサポート制度を活用して地元住民が維持管理を行うことが決まった。 2月 - 協同組合ハイタッチ・リサーチパークが京都府山城広域振興局に解散届けを提出。 3月 - 協同組合ハイタッチ・リサーチパーク清算結了総会において清算結了決算報告書が可決・承認される。 3月 - 協同組合ハイタッチ・リサーチパーク清算結了登記が完了。 朱雀コープのテナント棟が完成。 朱雀コープに朱雀地区自治連合会、朱雀地区社会福祉協議会、朱雀地区民生児童委員協議会、朱雀地区万年青年クラブ連合会から要望があった地域交流スペース「コープふれあい広場」(愛称:遊楽気)がオープン。朱雀地区自治連合会、朱雀地区社会福祉協議会、朱雀地区民生児童委員協議会、朱雀地区万年青年クラブ連合会および公募した住民有志からなる遊楽気運営委員会がお知らせ掲示や作品展示のコーナーの運営を担当。 11月1日 - ローズライフ高の原が開業。
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2005年 - 2009年
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「松浦亜弥」の記事における「2005年 - 2009年」の解説
2005年 1月26日、第16回日本ジュエリーベストドレッサー賞(東京ビッグサイト(東京・有明)会場)の「10代部門」で受賞。 3月6日、J1の開幕戦神戸対C大阪の試合前に開催されたオープニングセレモニーの特別ゲストとして招待された。 4月、深夜放送パーソナリティーと複数のバラエティ番組のレギュラー出演者に一気に就任。 5月10日、「愛・地球博」会場にて世界湖沼会議を記念したジャパン・ラブリバーコンサートが一日三回開催され参加「夏の思い出」(江間章子(えましょうこ)作詞、中田喜直作曲)等を歌う。 5月27日、大阪ドームにて行われた日本プロ野球セ・パ交流戦巨人対オリックスにて始球式に参加。 6月24日、「歌声はひばりと共に2005〜6.24 美空ひばり17thメモリアルコンサート in 武道館〜」に出場。草原の人を歌う。 8月19日、石見利勝姫路市長から「ひめじ観光大使」に任命される。 8月20日、兵庫県姫路市姫路城三の丸広場特設ステージに於いて「新姫路市誕生記念松浦亜弥・W・メロン記念日 コンサート in 姫路城 〜松浦亜弥 里帰りスペシャル〜」が行われる。 9月25日、愛・地球博の閉会式に出席。徳仁皇太子、小泉純一郎首相、中川昭一経産相、豊田章一郎万博協会会長をはじめ内外の要人が列席する中、閉会式イメージソング「Friend Love Believing〜EXPO2005」を歌う。 10月19日、安倍なつみ、後藤真希、石川梨華とともに「DEF.DIVA」(デフ.ディヴァ)を結成。 11月、日本郵政公社のゆうパックCMキャラクターに抜擢。全国の郵便局に等身大の縦看板を設置。郵便貯金のCMキャラクターを務めていた牧瀬里穂以来約13年ぶり。ステージ衣装(楽曲を歌うときのもの)をイメージしたコスチューム。 11月16日、サッカー日本代表強化試合「キリンチャレンジカップ」日本対アンゴラ戦(国立霞ヶ丘競技場陸上競技場)で、国歌独唱。 12月31日、「松浦亜弥&DEF.DIVA」として第56回NHK紅白歌合戦に出場。デビュー以来5年連続の出場。歌唱曲は「気がつけば好きすぎて♪盛り上がって♪LOVEマシーン!」(モーニング娘。と同枠での出演)。 2006年 2月5日、映画「スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ」制作発表。4代目麻宮サキ就任。 3月18日 - 4月16日、六本木ヒルズ内の森アーツセンターギャラリーで開催された、写真家ウィン・シャ(中国語版)による写真展「ウィン・シャ エキシビション」にて、モデル出演。 6月9日、中国・上海のライブハウス「新天地ARK」にて、単独ライブを開催。 6月14日、藤本美貴とユニットGAMを結成。 6月16日、薬物乱用防止キャンペーン「ダメ。ゼッタイ」のイメージキャラクターとして、首相官邸にて小泉純一郎首相を表敬訪問。 6月28日、パチンコ台「CR松浦亜弥」(ビスティ)を発表。 9月13日に、GAMとしてのデビューシングル「Thanks!」をリリース。 10月9日、顎関節症のため、コンサートツアー「進化ノ季節…」相模原(グリーンホール相模大野)の公演を直前で中止。 12月31日、「GAM」としてモーニング娘。と共に第57回NHK紅白歌合戦に出場。史上4人目(女性では後藤真希についで2人目、藤本美貴も同時達成)となる「三度目の初出場」を達成した。歌唱曲は「Thanks! 歩いてる2006 Ambitiousバージョン」。 2007年 5月26日 - 7月3日「GAM 1stコンサートツアー2007初夏 〜グレイト亜弥&美貴〜」公演を行う(7会場19公演)。 6月19日、薬物乱用防止キャンペーン「ダメ。ゼッタイ」のイメージキャラクターとして、首相官邸にて安倍晋三首相を表敬訪問。 8月5日 - 14日、主演舞台「すけだち」、新宿コマ劇場で上演。 10月13日 - 11月24日、1年振りのソロツアーとなる「松浦亜弥コンサートツアー2007秋 〜ダブル レインボウ〜」公演を行う(5会場14公演)。 2008年 3月7日、「きずな」がスペシャルオリンピックス日本冬季ナショナルゲームの大会応援歌に選定され、山形市総合スポーツセンターで行われた開会式にシークレットゲストとして登場し同曲を披露した。 3月18日、「第25回全国菓子大博覧会・兵庫(姫路菓子博2008)」(兵庫県姫路市にて4月18日から5月11日まで開催)の、広報宣伝局長に任命される。 4月12日、両国国技館での「NSD Challenge 2008 Value up」にタケカワユキヒデと出演。 10月24日、厚生労働省による障害者雇用促進活動「ATARIMAEプロジェクト」のサポーター代表に任命され、舛添要一厚生労働相から任命証等を授与される。 2009年 1月5日、自宅にて左足薬指を強打し、左第四趾末節骨折。全治6週間と診断される。所属事務所からの発表は1月9日。発表翌日の1月10日から始まったエルダークラブコンサートには患部をテーピングで固定して出演した。 3月31日、ハロー!プロジェクト卒業。翌月からファンクラブも「ハロー!プロジェクト」から「AYAWAY」として独立。 8月26日、スタ☆ブロにて公式ブログを開始。初回の書き込みで、翌週から開始するコンサートツアーを最後にツアー活動を当面休止すると宣言。但し単発でのライブ・コンサートは継続するとのこと。
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2005年 - 2009年
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「中森明菜」の記事における「2005年 - 2009年」の解説
2005年、7月より品川のclub eX(450席)にてスペシャル・ライブツアーAkina Nakamori Special Live 2005 Empress at CLUB eXを開催。カバー・アルバム歌姫シリーズである『歌姫』、『-ZEROalbum- 歌姫2』、『歌姫3 〜終幕』の3作を中心に構成され、同シリーズを締め括るライブとなった。 2006年、デビュー25周年目。4月より日本テレビ系の連続テレビドラマ『プリマダム』に出演。自身にとって7年ぶりの連続テレビドラマ出演となる。また、同ドラマのテーマ曲として46枚目のシングル「花よ踊れ」を5月にリリースした。6月には、3年ぶりとなった22枚目のスタジオ・アルバム『DESTINATION』を発売し、同作を携えたツアーAKINA NAKAMORI LIVE TOUR 2006 〜The Last destination〜も開催した。さらに同月には、パチンコメーカー大一商会から自身をモチーフとしたパチンコ台『CR中森明菜・歌姫伝説』が導入され、ヒット機となる。 2007年、デビュー満25周年。1月にカバー・アルバム歌姫シリーズのベスト・アルバム『歌姫ベスト 〜25th Anniversary Selection〜』をリリース。同作は、同年1月29日付のオリコン週間アルバムランキングで『Akina Nakamori〜歌姫ダブル・ディケイド』以来4年ぶりにトップテン入りする。6月には、自身初となる演歌楽曲をカバーしたアルバム『艶華 -Enka-』をリリースし、こちらも同チャートでトップテン入り、第49回日本レコード大賞で企画賞を受賞した。12月31日には、初のファンクラブ限定カウントダウン・ディナーショーAKINA NAKAMORI 25th ANNIVERSARY COUNT DOWN DINNER SHOW 2007-2008を開催した。 2008年、MCAビクター、ガウスエンタテインメントに所属していた1990年代に発表した楽曲を総括したベスト・アルバム『歌姫伝説 〜90's BEST〜』を2月にリリースする。3月には、2007年度第22回日本ゴールドディスク大賞でザ・ベスト・演歌/歌謡曲・アーティストを受賞した。 2009年、カバー・アルバム『ムード歌謡 〜歌姫昭和名曲集』、『フォーク・ソング2 〜歌姫哀翔歌』、3年ぶり通算23枚目のスタジオ・アルバム『DIVA』と6月から8月にかけて3か月連続でアルバムをリリースする。また、8月より、3年ぶりのスペシャル・ライブツアーAKINA NAKAMORI Special Live 2009 “Empress at Yokohama”を行った。このライブは、カバー・アルバムフォーク・ソングシリーズの『フォーク・ソング〜歌姫抒情歌』、『フォーク・ソング2 〜歌姫哀翔歌』の2作を中心に構成され、2005年に行われたEmpressライブに続く第2弾として開催された。NHK・SONGS(第102・103回)に2009年8月12日、19日の2週連続で出演。9月には3年ぶり47枚目となるシングル「DIVA Single Version」を発売した。
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2005年 - 2009年
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「レッドブル・レーシング」の記事における「2005年 - 2009年」の解説
2005年 F1参戦初年度となる2005年は、旧ジャガーから引き続きコスワースエンジンを搭載、シャシも旧ジャガーで「R6」として開発されたものを「RB1」と名称を変えて使用した。 ドライバーは、2004年までマクラーレンに在籍していたデビッド・クルサードをエース待遇で獲得。セカンドドライバーには、旧ジャガーから残留のクリスチャン・クリエンと共に、レッドブル社のスポンサードのもと2004年国際F3000チャンピオンを獲得したヴィタントニオ・リウッツィとも契約。第3戦のバーレーンGPまではクリエンが出走し、リウッツィはサードドライバーとして金曜日のフリー走行に参加、第4戦サンマリノGPから4戦はリウッツィが出走し、クリエンがサードドライバーとしてフリー走行に参加し、その後も交互に参戦レースを決めることとしていた。しかし2005年レギュレーションでは、前戦に出走していないドライバーは予選セッションの走行順が1番目となることから不利になるとして、第8戦以降は開幕時と同様にクリエンをレースに出走させ、リウッツィはサードドライバーの役目を務めた。ただし、マーケティング上の理由からカナダ・アメリカの両GPではサードドライバーに、同じくレッドブルのスポンサードを受けているアメリカ人のスコット・スピードを起用した。 2004年シーズンオフ、レッドブルは買収に関する話題はともかく、マシン性能面においてはほとんど注目されていなかったが、開幕からクルサードは3戦連続、クリエンは2戦連続でポイントを獲得。その後もクルサードを中心にシーズンを通してコンスタントにポイント獲得を続け、最終的にB・A・Rの38ポイントに迫る34ポイントを獲得し、コンストラクターズランキング7位となった。 2006年 2006年からはフェラーリと2年間のエンジン供給契約を結んだ。ドライバーは前年からのクルサード、クリエンに加え、ロバート・ドーンボスを起用しサードドライバーに据えた。また、マクラーレンより移籍したエイドリアン・ニューウェイがチーフテクニカルオフィサーに就いた。シャシーはフェラーリV8エンジンに対応して製作された「RB2」を投入。 第7戦モナコGPにおいてクルサードが3位に入り、チーム初の表彰台を獲得した。第16戦から残り3戦はセカンドドライバーをクリエンからドーンボスに代えた(クリエンはレッドブル陣営から離脱し、2007年からホンダF1のテストドライバーとなった)。それと同時に、レッドブルの育成ドライバーとして、テストドライバーを務めながらGP2に参戦していたミハエル・アメルミューラーがドーンボスに代わってサードドライバーに昇格した。 2007年 2007年はフェラーリとのエンジン供給の契約が継続していたが、これをジュニアチームであるトロ・ロッソヘ移譲。レッドブルはルノーのエンジンを搭載した。マシンは「RB3」。この年からワンメイクとなったブリヂストンタイヤを使用。レギュラードライバーはクルサードに加え、新たにマーク・ウェバーを起用。リザーブドライバーには、テストドライバーのアマミューラー、ドーンボス、セバスチャン・ブエミを、各レース毎に変則起用した。 今季途中から導入したクイックシフトタイプのトランスミッションなどの信頼性不足もあって、決勝ではトラブルに泣かされ、予選で見せた速さを結果につなげられないという状態が続いていた。しかし、第10戦ヨーロッパGPでは、豪雨で赤旗中断などの混乱の中で見事に走り切り、ウェバーがレッドブルで初めての表彰台3位(チームとしては2度目)、クルサードも5位に入賞した。 2008年 ドライバーは引き続きクルサードとウェバーが務め、テストドライバー兼リザーブドライバーにブエミを起用。マシンは「RB4」。カナダGPでは、クルサードが2008年シーズン唯一となる表彰台(3位)を獲得したが、シーズンを通しては弟チームのトロ・ロッソに遅れを取り、この年はコンストラクターズランキングでトロ・ロッソに敗れたばかりか初優勝もトロ・ロッソに先を越されてしまった。 クルサードはこの年をもって現役を引退することを7月3日にシルバーストンで発表した。最終戦となる第18戦ブラジルGPでは、脊髄損傷を受けた人々をサポートするチャリティー団体「Wings for Life」の特別カラーリングを纏ったマシンをドライブした。その後、2009年以降もアドバイザーとしてチームに残留することが発表された。 2009年 2008年イタリアGPで史上最年少で初優勝を遂げたセバスチャン・ベッテルがトロ・ロッソから移籍。ウェバーは残留。リザーブドライバーにはブレンドン・ハートレイを起用する予定だったが、スーパーライセンスが発給されなかったため、第2戦までは2008年いっぱいで引退したクルサードが登録された。 マシンは「RB5」。少々タイヤに厳しいマシンとの評価があるが、スタートから終盤まで安定した速さをもっているのが特徴であった。この年はワークス勢がKERS開発に注力する中、敢えて空力開発を優先させた決断が幸いする結果になる。 第3戦中国GPにおいてウェットコンディションの中、ベッテルがポール・トゥ・ウィンで自身2勝目、チームに初優勝をもたらした。また、ニュルブルクリンクで開催されたドイツGPではマーク・ウェバーが自身にとって初優勝を獲得した。 第15戦日本GPにおいて、セバスチャン・ベッテルがポール・トゥ・ウィン。マーク・ウェバーはピットスタートで最下位に終わったが、ファステストラップを記録するなど、最終的にベッテル4勝、ウェバー2勝と、ブラウンGPに次ぐコンストラクターズランキング2位と好成績を収めた。
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2005年 - 2009年
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「Animelo Summer Live」の記事における「2005年 - 2009年」の解説
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2005年 - 2009年
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「アジャイ・デーヴガン」の記事における「2005年 - 2009年」の解説
『Raajneeti』製作会見に出席するデーヴガン、カトリーナ・カイフ 『Halla Bol』プロモーション中のデーヴガン、ヴィディヤー・バーラン 2005年は成功作に恵まれなかった。『Insan』『Blackmail』『Main Aisa Hi Hoon』『Tango Charlie』『Shikhar』はいずれも興行的に失敗し、成功を収めたのは『Kaal』と『Apaharan』だけだった。両作での演技は高い評価を得ており、『Apaharan』ではナショナル・フィルム・アワード最優秀主演男優賞とフィルムフェア賞最優秀主演男優賞にノミネートされ、『Kaal』ではフィルムフェア賞最優秀悪役賞にノミネートされた。 2006年にウィリアム・シェイクスピアの『オセロ』を原作とした『Omkara』に出演した。同作はウッタル・プラデーシュ州の政治体制を舞台とした男女の愛憎劇で、第59回カンヌ国際映画祭でプレミア上映され、カイロ国際映画祭でも上映された。デーヴガンは批評家から絶賛され、Rediff.comは「オセロは実にトリッキーな役柄であり、主役が悪役に食われてしまう。しかし、ムーア人は陰鬱で人の心を鷲掴みにするキャラクターであり、アジャイ・デーヴガンはその素材を見事に使いこなしている。『Omkara』は『オセロ』から人種差別要素を取り除き、黒い肌を取るに足らないバラモンの混血と交換した。アジャイが最も得意とするのは抑制された演技であり、彼のキャラクターはどこかで見たことがあるように感じるが、映画が終わるころには、彼がどれほど揺るぎない存在だったかが分かるはずだ」、タラン・アダルシュは「アジャイは恋人の貞操に不安を抱く男を、心を揺さぶるパワフルな演技で表現している。アジャイの持つ真剣な表情は、彼の役柄にハマっている。もちろん、映画の中のアジャイは格別で、彼が演じるキャラクターと寸分違わぬ姿を見せてくれる」と批評している。この他にローヒト・シェッティの『Golmaal: Fun Unlimited』、2005年マハーラーシュトラ州洪水(英語版)を描いた短編ドキュメンタリー『The Awakening』に出演した。2007年はアヌバウ・シンハー(英語版)の『Cash』、ラーム・ゴーパール・ヴァルマの『Aag』に出演した。 2008年に『Halla Bol』でパンカジ・カプール(英語版)、ヴィディヤー・バーランと共演した。同作は1989年に路上演劇『Halla Bol』出演中に暗殺されたサフダール・ハシュミ(英語版)の生涯を描いた社会派映画であり、批評家からは酷評された。『U Me Aur Hum』では監督デビューを果たし、カジョールと共演した。同作は中程度の興行成績を記録し、批評家からは高い評価を得た。Rediff.comはデーヴガンの演技について、「彼のキャラクターは成長し、強烈な演技を見せつけています。最初は平凡な言葉しか話さないが、次第に深みのある言葉を発するようになります。このキャラクターは非常に良く描かれており、欠点や親しみやすさを兼ね備えています」と批評している。同年はローヒト・シェッティの3作目『Sunday』に出演した他、弟アニル・デーヴガンの監督作品『Haal-e-Dil』にカメオ出演し、アフザル・カーン(英語版)の『Mehbooba』にも出演している。『Golmaal: Fun Unlimited』の続編『Golmaal Returns』ではカリーナ・カプールと共演し、妻に浮気を疑われる夫役を演じた。インディアン・エクスプレス(英語版)は独創性に欠ける脚本を批判し、「妻が夫を監視するという展開は特に真新しいものではなく、アジャイとカリーナの演技も真新しさは見られなかった」と批評している。同作は酷評されたものの、興行収入は7億9250万ルピーを記録するなど商業的には成功を収めた。2009年には『All the Best: Fun Begins』をプロデュースして興行的な成功を収めたが、『London Dreams』では興行的に失敗している。
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