第2次巨人監督時代
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1990年の川上哲治との和解、1991年の務臺光雄の死去、渡邉恒雄の読売新聞社社長就任など、長嶋の監督再就任への道筋が徐々に出来上がり、1992年オフに報知新聞社客員を辞任し、1992年10月12日に第13代監督として復帰会見を行う。新背番号は「33」(3を2つ合わせたもの)。コーチ陣はヘッドコーチの須藤豊をはじめ、中畑清・山倉和博など気心の知れた人を起用した。同年11月21日のドラフト会議において、星稜高等学校の松井秀喜を引き当てた。長嶋の監督復帰は翌年に発足を控えたJリーグへの対策という意味もあった。 監督に復帰した長嶋は長らく「スピード&チャージ」(後に「チャージ&チャージ」)を標榜。浪人時代に感銘を受けたキューバ野球の実践を目指した。現役大リーガーだったジェシー・バーフィールドを入団させ、また右打者が不足していたチーム事情から一茂をヤクルトから金銭トレードで獲得し、親子で巨人の一員となる。 選手の指導、日常生活はコーチ陣に任せ、試合の采配に専念する大リーグ方式を導入し、長嶋は「前回の監督の時は西本聖・角三男など能力を秘めた若手がふがいない投球すると手を出していたが、2回目の監督の時はそういうことはしなかったので拍子抜けしたんじゃないかなと。」と述べている。 復帰初年度の1993年は3位に終わった。打線は低迷しチーム打率は12球団最下位だった。そのオフ、フリーエージェント制度が導入されると、中日ドラゴンズから落合博満を獲得した。 翌1994年には中日と同率最終戦に勝利し、リーグ優勝達成。長嶋は最終試合を試合前から「国民的行事」とコメントしており、後に「10・8」と語り継がれる名試合となった。日本シリーズではパ・リーグ5連覇の西武ライオンズと対戦し、前評判は圧倒的西武有利だったが、4勝2敗で勝利した。監督として初めて日本一となり、正力松太郎賞を受賞。 1995年、都民文化栄誉章を受章。ヤクルトからFAで広沢克己と自由契約になったジャック・ハウエル、広島からもFAで川口和久、メジャーリーグ・ミネソタ・ツインズからシェーン・マックを4億円で獲得するなど30億補強とも言われた大型補強を敢行したが広沢・松井ら大型打線が落合を除き全体的に調子が上がらず、桑田真澄の故障による長期離脱などチーム状態が上向かずヤクルトの後塵を終始拝し続け3位に終わる。9月30日のヤクルト戦では目の前で優勝を決められ、20年ぶり相手球団の胴上げを許した。 1996年には広島に最大11.5ゲーム差をつけられたが、リーグ優勝を果たし、前年に果たせなかった2年越しの「メークドラマ」を完成させる(1999年は「メークミラクル」、2001年は「ミラクルアゲイン」をそれぞれキャッチコピーとして使用したが、いずれもV逸に終わっている)。しかし日本シリーズではオリックスに1勝4敗で敗退し、同年オフ、一茂に自ら戦力外通告を行い、現役引退させる。 1997年は西武からFAで清原和博、ロッテからエリック・ヒルマン、近鉄から交換トレードで石井浩郎を獲得するなど大型補強を行ったが補強戦力が不振や故障に泣き、またエース斎藤雅樹の不振もあり4位に終わり、若手も伸び悩むなどで長嶋への批判も多くなる。 1998年は大物ルーキー高橋由伸の加入で野手の若返りが進み、開幕5連勝を飾るなど順調なスタートを切ったが、6月以降斎藤や桑田などベテラン投手陣に疲れが見え徐々に失速。7月に横浜に7点差を逆転された試合が契機になり以後は3位でシーズンを終えた。開幕初の4番に座った松井がプロ初タイトルで本塁打・打点の二冠を獲得した。 その間も長嶋は監督に留まり続けるが、シーズンオフになる度に後継監督候補として、堀内恒夫一軍ヘッドコーチ(当時)や森祇晶、江川卓などのOBの名が取り沙汰された。その中、後任とさせるために1999年より原辰徳を一軍野手総合コーチとして入閣させる。(2000年・2001年は一軍ヘッドコーチ) 一方、原はコーチ時代について、「長嶋さんにはいろいろ助言もしたが、最終的に全て長嶋さんが決断をしていた。無責任のようだけど、3年間自分は座っているだけだった」と述べたことがある。 1998年、7月31日の対阪神戦(阪神甲子園球場)において判定を巡りバルビーノ・ガルベスが主審の橘高淳を目掛けてボールを投げ付ける事件が発生した。長嶋は監督としての責任から、球団社長の渡邉恒雄に辞表を提出したが慰留され、カード終了の次の日に頭を丸めた。1999年は大物ルーキー上原浩治が20勝を挙げ、同じく新人の二岡智宏も遊撃に定着、2年目の高橋は3割30本を記録するなど若手が活躍したが、桑田や斎藤、ガルベスのベテラン投手陣に衰えが目立ち、シーズン終盤にこの年好調だった高橋が故障で離脱。高橋や松井ではなく大不振の清原を4番に置き続けた長嶋の采配も疑問視され2位に終わり優勝を逃した。 2000年には、FAで獲得した江藤智に背番号「33」を譲り、長嶋は現役時代の背番号「3」に変更。当初、この背番号3を長嶋は、ユニフォームの上に上着を着て、マスコミ・ファンには隠していた。世間の背番号3の長嶋が見たいという気運が高まった頃にユニフォームを公開し、当時、話題性に欠けていたチームの話題作りに大いに貢献した。またダイエーからFAしていた工藤公康、阪神を自由契約になっていたダリル・メイ、ドラフトで高橋尚成を獲得した。この年は4年ぶりのリーグ優勝を果たした。日本シリーズの相手は王貞治監督が率いる前年日本一のダイエーで、ON対決として注目を集めた。シリーズは第1・2戦を落とすという苦しい展開だったがその後4連勝して日本一を達成した。 翌2001年、この年をもって監督業から勇退した。9月28日に監督退任と、専務取締役終身名誉監督への就任が発表され、9年間の監督生活にピリオドを打った(後任は一軍ヘッドコーチの原)。発表記者会見で吉田填一郎(日本テレビアナウンサー)からの「長嶋さんにとって野球とは何ですか?」という質問に「野球というスポーツは人生そのものです」と答えた。
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