第2次巨人監督時代とは? わかりやすく解説

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第2次巨人監督時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 23:57 UTC 版)

長嶋茂雄」の記事における「第2次巨人監督時代」の解説

1990年川上哲治との和解1991年務臺光雄死去渡邉恒雄読売新聞社社長就任など、長嶋監督就任への道筋徐々に出来上がり1992年オフ報知新聞社客員辞任し1992年10月12日第13代監督として復帰会見を行う。新背番号は「33」(3を2つ合わせたもの)。コーチ陣ヘッドコーチ須藤豊をはじめ、中畑清山倉和博など気心の知れた人を起用した同年11月21日ドラフト会議において、星稜高等学校松井秀喜引き当てた。長嶋監督復帰翌年発足控えたJリーグへ対策という意味もあった。 監督復帰した長嶋長らくスピード&チャージ」(後に「チャージ&チャージ」)を標榜浪人時代感銘受けたキューバ野球実践目指した。現役大リーガーだったジェシー・バーフィールド入団させ、また右打者不足していたチーム事情から一茂ヤクルトから金銭トレード獲得し親子巨人一員となる。 選手指導日常生活コーチ陣任せ試合采配専念する大リーグ方式導入し長嶋は「前回監督の時は西本聖角三男など能力秘めた若手ふがいない投球する手を出していたが、2回目監督の時はそういうことはしなかったので拍子抜けしたんじゃないかなと。」と述べている。 復帰初年度1993年3位終わった打線低迷しチーム打率12球団最下位だった。そのオフフリーエージェント制度が導入されると、中日ドラゴンズから落合博満獲得した。 翌1994年には中日同率最終戦勝利しリーグ優勝達成長嶋最終試合試合前から「国民的行事」とコメントしており、後に「10・8」と語り継がれる試合となった日本シリーズではパ・リーグ5連覇西武ライオンズ対戦し前評判圧倒的西武有利だったが、4勝2敗で勝利した監督として初め日本一となり、正力松太郎賞受賞1995年都民文化栄誉章受章ヤクルトからFA広沢克己自由契約になったジャック・ハウエル広島からもFA川口和久、メジャーリーグ・ミネソタ・ツインズからシェーン・マックを4億円で獲得するなど30補強とも言われ大型補強敢行したが広沢松井大型打線落合除き全体的に調子上がらず桑田真澄故障による長期離脱などチーム状態が上向かずヤクルト後塵終始拝し続け3位に終わる。9月30日ヤクルト戦では目の前で優勝決められ20年ぶり相手球団胴上げ許した1996年には広島最大11.5ゲーム差つけられたが、リーグ優勝果たし前年果たせなかった2年越しの「メークドラマ」を完成させる1999年は「メークミラクル」、2001年は「ミラクルアゲイン」をそれぞれキャッチコピーとして使用したが、いずれもV逸に終わっている)。しかし日本シリーズではオリックスに1勝4敗で敗退し同年オフ一茂に自ら戦力外通告行い現役引退させる。 1997年西武からFA清原和博ロッテからエリック・ヒルマン近鉄から交換トレード石井浩郎獲得するなど大型補強行った補強戦力不振故障泣き、またエース斎藤雅樹不振もあり4位に終わり若手伸び悩むなどで長嶋への批判多くなる1998年大物ルーキー高橋由伸加入野手若返り進み開幕5連勝を飾るなど順調なスタート切ったが、6月以降斎藤桑田などベテラン投手陣疲れ見え徐々に失速7月横浜7点差を逆転され試合契機になり以後3位シーズン終えた開幕初の4番座った松井プロ初タイトル本塁打打点二冠獲得したその間長嶋監督留まり続けるが、シーズンオフになる度に後継監督候補として、堀内恒夫一軍ヘッドコーチ当時)や森祇晶江川卓などのOBの名が取り沙汰された。その中、後任とさせるために1999年より原辰徳一軍野手総合コーチとして入閣させる。(2000年・2001年一軍ヘッドコーチ一方、原はコーチ時代について、「長嶋さんにはいろいろ助言もしたが、最終的に全て長嶋さんが決断をしていた。無責任のようだけど、3年自分座っているだけだった」と述べたことがある1998年7月31日の対阪神戦阪神甲子園球場)において判定巡りバルビーノ・ガルベス主審橘高淳目掛けてボール投げ付ける事件発生した長嶋監督としての責任から、球団社長渡邉恒雄辞表提出した慰留され、カード終了次の日に頭を丸めた。1999年大物ルーキー上原浩治20勝を挙げ同じく新人二岡智宏遊撃定着2年目高橋は3割30本を記録するなど若手活躍したが、桑田斎藤ガルベスベテラン投手陣衰え目立ちシーズン終盤この年好調だった高橋故障離脱高橋松井ではなく不振清原4番に置き続けた長嶋采配疑問視され2位終わり優勝逃した2000年には、FA獲得した江藤智背番号33」を譲り長嶋現役時代背番号「3」に変更当初、この背番号3を長嶋は、ユニフォームの上上着着て、マスコミ・ファンには隠していた。世間背番号3の長嶋見たいという気運高まった頃にユニフォーム公開し当時話題性欠けていたチーム話題作り大い貢献した。またダイエーからFAしていた工藤公康阪神自由契約になっていたダリル・メイドラフト高橋尚成獲得したこの年4年ぶりのリーグ優勝果たした日本シリーズ相手王貞治監督率い前年日本一ダイエーで、ON対決として注目集めたシリーズ第1・2戦を落とすという苦しい展開だったがその後4連勝して日本一達成した。 翌2001年この年をもって監督業から勇退した。9月28日監督退任と、専務取締役終身名誉監督への就任発表され9年間の監督生活にピリオドを打った後任一軍ヘッドコーチの原)。発表記者会見吉田填一郎日本テレビアナウンサー)からの「長嶋さんにとって野球とは何ですか?」という質問に「野球というスポーツ人生そのものです」と答えた

※この「第2次巨人監督時代」の解説は、「長嶋茂雄」の解説の一部です。
「第2次巨人監督時代」を含む「長嶋茂雄」の記事については、「長嶋茂雄」の概要を参照ください。

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