第2次巨人監督退任以降
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2002年2月20日に宮崎市名誉市民、同年3月に佐倉市名誉市民顕彰。4月22日アテネ五輪を目指す日本代表の強化委員長に選出される。7月には立教学院栄誉賞(第1号)を受賞する。12月2日アテネオリンピック出場を目指す野球日本代表チームの監督に就任。 2003年11月に行われたアジア選手権で中国・台湾・韓国に勝利して優勝し、オリンピック出場が決定したが、2004年3月4日、脳梗塞で倒れ、入院。一命は取り留めたものの、右半身に麻痺が残り、言語能力にも影響が出た。長嶋や周囲はアテネオリンピックでの復帰を考えていたが、短期間での病状回復は不可能と判断され、一茂が「(アテネには)行かせられない」と記者会見を行った ため、肩書きはそのままだったが長嶋が現地アテネで指揮を執ることはできなかった。長嶋の代理としてヘッド兼打撃コーチの中畑清がチームの指揮を執ったが、結果は3位に終わった。 2005年7月3日、長嶋は東京ドームの巨人対広島戦を観戦し、病気で倒れてから約1年4か月ぶりに公の場に姿を現した。同観戦には同年1月1日から「球団代表特別補佐」となった一茂が同行した。この時は事実上読売グループの独占取材となり、長嶋の肉声は伝えられなかったが、同年11月4日に皇居で行われた天皇・皇后との懇談会に出席した際には、軽く受け答えできる長嶋の姿が伝えられた。 2005年11月3日、平成17年度文化功労者(スポーツ振興)に決定される。 2006年には少年の野球教室に飛び入りで参加し、リハビリの成果もあって少しずつ公の活動を拡大した。また、アテネオリンピックの代表選手達を中心に2005年から始められた「長嶋茂雄ドリームプロジェクト」 にも特別ゲストとしての参加が可能となり、子ども達への野球指導を行った。 2007年7月、日本経済新聞の「私の履歴書」に登場した。2010年には『週刊文春』誌上で阿川佐和子と対談を行い、発病時の様子を振り返っている。 2012年11月、キューバより、友好勲章を授与される。 2013年4月16日、国民栄誉賞を松井秀喜と同時受賞した。5月5日の東京ドームの巨人対広島戦の試合前に、松井の引退セレモニーと合わせて、授与式が行われ、8年ぶりに公でスピーチを行い、試合前の始球式では長嶋が片手打ちで打席に入り、投手に松井、捕手は巨人の監督の原辰徳、球審は首相の安倍晋三が務めた。 これに続いて、5月31日に千葉県県民栄誉賞、7月12日に佐倉市民栄誉賞をそれぞれ受賞した。後者の受賞に合わせて、会場の佐倉市岩名運動公園第一野球場が同日より長嶋茂雄記念岩名球場に改称された。 2014年8月、東京都名誉都民の授与が決定し、10月1日、顕彰式が行われた。 2014年12月、日本プロ野球名球会の理事を退任し、顧問に就任。 2018年7月初旬に体調が優れずに入院。検査で胆石が見付かり、そのまま治療を継続した。同年末に退院し、自宅での療養、リハビリを継続した。 2020年開催予定だった東京オリンピックの聖火ランナーの有力候補に挙げられていたが、胆石での長期入院によって以前のリハビリで鍛えた筋力が入院生活で落ちてしまい、夏の時点では参加が不可能な状況だった。しかし、東京オリンピックの開催が2021年に延期され、長嶋は秋からリハビリを再開。胆石での入院以降、表舞台にあまり登場しなくなっていた長嶋だが、2021年には東京ドームで開幕戦を観戦するまでに回復。そして、2021年、6月下旬頃に大会組織委員会から正式にオファーを受け、迎えた2021年7月23日のオリンピック開会式、国立競技場での聖火リレーに王貞治、松井秀喜とともに参加。吉田沙保里と野村忠宏から、長嶋が左手に持ったトーチにトーチキスを受ける役割を担った。そのトーチを王に渡し、松井に背中を支えられながらゆっくりと場内を歩んだ。 2021年10月26日、日本国政府は長嶋に文化勲章を授けることを発表した。
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