和田春樹批判とは? わかりやすく解説

和田春樹批判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 05:32 UTC 版)

萩原遼」の記事における「和田春樹批判」の解説

萩原遼は、和田春樹の『朝鮮戦争』は同じく和田の『金日成満州抗日戦争』より売れず、さらに発行3年絶版となったが、岩波書店のような宣伝力のある出版社売れないのは、著者責任大半があり、端的に言って中身がないからであり、金日成攻撃しなかったから売れなかったのではなく買うに値しないからであり、中身のなさは、研究者大切な要素である一次資料当たっておらず、他人著作物ノリハサミでつなぎ合わせているからであり、朝鮮戦争に関する一次資料は、アメリカ議会図書館所蔵する北朝鮮一時的に占領したアメリカ軍押収した文書及び崩壊したソ連資料であるが、「この二つ一次資料当たらず和田は『朝鮮戦争』を書いた中身のあろうはずがない」と評している。アメリカ軍押収文書は、出版社経営者在米韓国人の方善が、3回通覧したと称して7点の重要資料韓国語活字起こして1986年発表したが、方善朝鮮語がよくできず、間違いだらけであり、和田この方間違いだらけの資料を基にして『朝鮮戦争』を書いており、萩原は「お笑いである」と評しており、この和田の「欠陥だらけの本」において、方善和田使った資料萩原盗用した言わんばかり主張を行おこない萩原は『諸君!』(1995年4月号)で、事実関係誤り指摘した。それによると萩原は、和田が『朝鮮戦争』において「私の名誉を毀損する悪意にみちた一文」「この一文のもつ特殊な政治的意図」を検討している。萩原は「もっとも腹にすえかねる和田氏誹謗」として、「(萩原の)叙述の中で引用されるもっとも印象的な資料は、方善氏が、1987年発掘発表し、私が1990年紹介した資料A、B、C、D、Gなのである。にもかかわらず萩原氏は方氏の発表資料について『これらの資料はいずれ小さな部隊のもので、師団級のものでないこと、……部隊名を解読していないため、どの師団属するどの部隊かが特定できず、これらの資料戦争全体局面位置づけることができないことなどによって、資料的価値減じている』と述べるだけで、自分引用する資料が方氏によってすでに発表されたものであることを隠している。これは研究する者のモラル反すると言わざるをえない」(351頁)という文章取り上げ萩原は「和田氏の目はどこについているのか。その4前には私はこうのべている」として、「その後在米韓国人学者の方善氏が1986年に、北による南進証拠として米国公文書館の『奪取文書』を3度通覧して発見したという7点公表した。もとの朝鮮語文書写真版紹介されている。これ自体たいへん貴重な作業である」と記述しており、方善功績評価しているのは明々白々であり、そもそも方善発見した資料は、朝鮮戦争時アメリカ軍押収した文書であり、方善のものでも誰のものでもなく、公開され資料幾つか先に発見したからといって新種彗星の如く第一発見者の名前を冠するものではなく、方善資料出所教えなかったため、萩原1990年1月から1992年6月にかけて『奪取文書』を読破して発見したのであり、和田と方善の「一心同体ぶり」から、和田のこの萩原批判には方善意向反映したものであり、方善発表資料は「ずさんで使いものにならない」として、方善は、秘匿名657軍の朝鮮人民軍第6師団13連隊副部長張勲1950年6月24日指令書ロシア語の表が読めておらず、萩原は「このていどのロシア語読めなくて朝鮮戦争について語ることができるか」と批判、さらに対戦車地雷を指す意味も解読できていない日本式破壊筒を指す朝鮮語文字読み誤っており「こんなお粗末資料使いものになるか」疑問視せざるをえず、萩原独自に発見したことから方善杜撰さが明らかとなり、読者正確な認識寄与結果和田氏はこのずさんな方氏の資料全面的に依拠して今回岩波書店刊の『朝鮮戦争』を書いた」のであり、この「ずさんな方氏の資料」を和田は「これらの資料を私自身は手に取って再確認してはいないが、方氏の資料操作信頼しうる」(12頁)と評価しており、萩原は「研究信仰告白ではない。研究者自称する以上、自分の手でもとの一次資料にあたらずしてこうしたことがどうしていえるのか。世間あざむくものではないか」と批判萩原最大発見資料は、1950年6月13日付け朝鮮人民軍第6師団政治部の最高秘密文書の南侵計画書「戦時政治文化事業」であるのに対して和田論拠にした方善発見資料7点師団級は一つもなく、すべて連隊以下であり、結果戦争全体局面をみるうえにはなんの役にも立た」ず、さらに部隊秘匿名が解読できていない部隊配置され地名特定できていないことからくる「どの師団属するどの部隊」「どこから来てどこをめざしているのか」「開戦どういうふうにおこなわれたのかが皆目わからずまことに他愛ない内容」でとなっていると指摘している。 萩原自著朝鮮戦争 金日成マッカーサー陰謀』を、和田著書朝鮮戦争』において「印象深い資料発表されている。しかし疑問感じる点もある。1950年10月14日付で人民軍最高司令官金日成人民軍総政局長朴憲永連名で、全軍軍務に対して退却をやめよという命令出された。この命令米軍入手して翻訳し英文でのみ残っているものである」と評している ことについて、自身朝鮮語原本発見しコピー手元持っているからこそ書いたのであり、1950年10月アメリカ韓国連合軍38度線突破平壌陥落目前となり、錯乱した朝鮮人民軍逃亡始めたため、金日成朴憲永逃亡者職位関わらず処刑すべし、処刑部隊督戦隊組織すべしという命令発令した絶対秘密」「1950年10月14日朝鮮人民軍最高司令官 命令○○七○号」と記されコピー図示したうえで、「私が発見し、げんにもっているにもかかわらず、その存在疑問投げかけ『英文でのみ残っているものだ』などという和田氏の言がいかに軽率な一知半解のものであるかが明白」「よく知らない者はことばをつつしむべきだろう。『英文でのみ残っているものである』などという知ったかぶり世間まどわせてはいけない」「善良な庶民まどわしてはいけない」と評し萩原は「疑問感じる」なら電話でも手紙でも疑問を解く方法があり、実際に1994年4月御茶ノ水駅ホーム和田萩原は偶然会い萩原著書朝鮮戦争』について話をしたのに、それらの解決策取らずに「疑問感じる」と記述するのは「資料出所不明の、なにやらうさんくさいのであるかの印象世間与えようとする意図」「本の価値できるだけ小さくみせようとする意図」があると批判している。 その後萩原による和田批判岩波書店関係者の間で大きな問題となり、和田の『朝鮮戦争』は4000刷っただけで事実上絶版萩原は「岩波東大教授権威をかさにきて、私を無名ジャーナリストとあなどって不当な攻撃加えてきた報い」「一篇雑誌批判事実上絶版追い込まれるような、吹けば飛ぶようなものを書くのではなく、なぜもっと勉強をして確かなものを書かないのか。岩波書店にも失礼ではないか」「国民税金で養なわれ、研究条件保障され国立大学教官の当然の責務」、和田の『朝鮮戦争』を「このていどの内容の本なら本屋での立ち読みですます」「電話帳のようにボリュームだけはあるが中身のない本を『業績』と称してエツいってい和田氏」と批判している。その後和田は『朝鮮戦争全史』(岩波書店2002年)を刊行したが、萩原は「前掲書と同工異曲の本であり、全史とはおこがましい羊頭狗肉の本」「新味のないうえに500ページもの退屈な長談義」であり、和田は『諸君!1995年4月号の萩原による和田朝鮮戦争批判反論しているが、萩原は「彼の反論なるものはすべて誤りないし根拠のない憶測」と断じている。和田による反論次の様だった。 萩原発見した朝鮮人民軍第6師団の南侵計画書「戦時政治文化事業」は、訓練用である。 朝鮮人民軍第7師団12師団と呼ぶのが正し在日朝鮮人運動幹部韓徳銖1949年6月平壌開催され祖国統一民主主義戦線結成大会において中央委員選出されたのは、在日朝鮮連盟から派遣され平壌にいたからである。 対して萩原次の様な再反論をしている。 「戦時政治文化事業」は、朝鮮人民軍朝鮮戦争開戦直前集結区域38度線への移動、南侵命令接受韓国へ侵攻占領地活動など文化部が行活動記した文書であるが、和田は「内容上とても南を解放する戦争具体計画書とは考えられない。この点で文書最後に『以上提供する指導参謀訓練時に使用さるべき戦時政治文化事業材料に対して管下全体文化工作者深刻に研究執行すべきであり、実際訓練課程でえた経験により本材料内容をいっそう豊富にすることを望む』と書かれているのを従来研究者無視しているが、当をえない。『第3階段』には2カ所で『戦闘命令訓練)』という表現使われており、この文書訓練演習用の教材であることが明らかである」とするが、萩原は「誤った認識」であり、国共内戦戦った朝鮮中国人部隊ある朝鮮人民軍第6師団は、1949年7月南朝鮮武力解放のために密かに北朝鮮へ派遣されたが、「戦時政治文化事業」が訓練用であるなら、わざわざ広大な中国から狭い北朝鮮訓練行った再度中国帰国したとでもいうのか、第6師団朝鮮戦争開戦後開城攻撃ソウル突入アメリカ第24師団撃破ディーン師団長生け捕りなどの戦果挙げるなど実戦のために朝鮮戦線投入された最精鋭部隊であり、「現実ありのままに見なければならない」、和田文書中に訓練」とあるのを「鬼の首でも取ったかのように言うが、和田氏開戦にいたるまでの朝鮮人民軍動き自分ではなに一つ調べていないことは前著でもこの新著でも明らかであるが、なにも調べずしてなぜこうしたことが言えるのか」、そもそも朝鮮戦争北朝鮮仕掛けたにも係わらずアメリカ韓国侵略した偽った謀略戦争であり、それ故最初から訓練装ったのであり、1950年4月28日北朝鮮民族保衛相崔庸健発令の「夏期戦闘文化訓練」には「全軍務者は愛国的熱誠つくして軍事政治訓練猛進することによって共和国民主基地固く守り祖国人民が呼ぶときにはいつでも反動勢力撃破できるように準備ととのえよ!」と命令、その訓練には南侵が企図され、「祖国人民が呼ぶとき」に直ち韓国攻撃する戦時体制造りおこなったのであり、この命令受けて第6師団文化部が行計画つくったのが、「戦時政治文化事業」であり実戦計画書であることは明らかである。和田は「(6月12日にはじめて開戦方針説明されたのに、師団文化部持ち帰ってその方針を盛り込んだ文書作成してガリ版刷り12頁の冊子にして翌日出すのは無理である。物理的にも間に合うはずがない」というが、萩原は「和田氏創作どおり」12日開戦方針なされた仮定すると、13日付で冊子出されたが、400字詰め原稿用紙251万文字程度であり、この程度なら6時間で書き上げることができ、ガリ切りを合わせて10時間ほどあれば十分であり、一晩物理的に可能であり、「和田氏の言う『物理的に間に合わない』から南進計画書ではないという論拠なりたたない」と批判、また和田のいう12日開戦方針なされたというのは「アメリカ研究者の本からの引用で、確たる証拠とはいえない。他人の説を受け入れて彼の頭の中で創作されたもの」であり、和田が南侵計画ではなく訓練用教材だと主張するのは、「北朝鮮先に攻撃したことを一貫して否定しなんとかして北を擁護したい『曲学阿北』(学を曲げて北におもねる)の徒である」ブルース・カミングス疑問視していることに「追随したものであり、「和田氏は、開戦にいたる過程自分ではなに一つ調べていないから、他人本の引用すませている」という。 和田は「第7師団第12師団というのが正しであろう」と批判するが、萩原は「まったく正しくない」「第7師団第12師団に名称を変えたことを彼が知らないことからくる」「完全な誤り」であり、1950年5月31日付け民族保衛省砲兵司令部指令もとづき第7師団開戦前までの呼称であり、開戦後第12師団改称したことは「このことは常識」であると反論している。和田論拠呂政証言とキム・ジュンセンの証言アメリカ軍押収した朝鮮人民軍総参謀部偵察命令案であるが、和田呂政証言を「ほとんど唯一の根拠として誤った認識固執」しており、呂政証言記憶違いであり、所属した825軍部隊(第7師団)は、1950年4月18日中国から北朝鮮元山入った朝鮮中国人部隊であるが、第7師団韓国春川攻撃したが、韓国軍第6師団抵抗遭遇して攻略大幅に遅延金日成怒りを買い師団長全宇解任され崔春国交替した際に、朝鮮人民軍改編が行われ第7師団廃止され第12師団に名称が変更された。従って第7師団呼称されていたのは、4月18日から名称変更6月29日頃までの2カ月余りであり、春川攻略6月28日萩原の持つ825軍部隊の文書中に第12師団の名称が登場するのは6月30日であり、それ故萩原改称日を6月29日推定したという。これに対して和田は、「戦闘中師団名を変える理由ありはしないのである」(135頁)と批判しているが、萩原は「和田氏断定はまったくの虚偽」として、北朝鮮の公式朝鮮戦争史の『朝鮮人民の正義祖国解放戦争史』には、「党は戦争勃発同時に新し師団編成し、各技術兵糧の部隊拡大し後備兵力の準備事業遂行した」(39頁)とあり、新師団編成すら戦闘中におこなっており、萩原は「北朝鮮シンパ任ずる和田氏は北の公式戦史の記述尊重すべき」と批判している。さらに元朝鮮人民軍第2軍団指揮部所属工兵将校朱栄福著書朝鮮人民軍の南侵と敗退』(コリア評論社1979年)において、「今年1950年萩原4月東北から入朝し、元山第7師団編成麟蹄行動起こした第7師団は、第12師団改称された。同師団長全宇少将は、解任され崔忠国崔春国正しい:萩原少将がこれに代わった」(295296頁)と述べており、また韓国側停戦委員金点坤著書韓国動乱』(光明出版社1973年)において、「(春川占領作戦の手違い対す責任問題から……第7師団7月3日第12師団改編されると同時に師団長全宇から崔忠国に代わった」(262頁)と述べている。また元朝鮮人民軍第6師団政治保衛部責任軍官朝鮮人民軍初代歴史記録部長崔泰煥は、萩原記述どおり、当初第7師団であったが、春川攻略において十分な戦果を果たさなかったために改編され、12師団改称されたと明確に述べているという。またアメリカ陸軍の公式朝鮮戦争史『南は洛東江、北は鴨緑江まで』は、「第7師団第12師団)」と表現しており、アメリカ陸軍第7師団第12師団改編されたと理解しており、萩原は「和田氏はこうしたことをまったく知らず、『第7師団第12師団という方が正しであろう』という。ものをいうときはまずよく調べるべきであろう彼の軽薄さ一知半解ぶりは少々度が過ぎる」「軽率早とちり排し、もっと勉強」をすべしと指摘している。和田はこのアメリカ陸軍の公式朝鮮戦争史について、アメリカ軍確認できなかったことから生じている混乱評しているが、萩原は「アメリカ軍諜報員不確かな報告などを引き合い出して煩瑣な小理屈をこねている」と批判、一諜報員報告公式戦史とでは重み違いアメリカ軍混乱しているのではなく和田氏混乱している」「根拠のない独断」と批判している。萩原は「和田氏誤謬打ちくだく新たな証言」として元第7師団30歩兵連隊直属76ミリ歩兵中隊文化中隊長寛容は、鄭州から元山到着したときは第7師団だったが、帰国後日浅く国内地理不案内準備不足から戦果挙げることができず、洪川横城経て原州占領した1950年7月3日責任を取らされて師団長全宇解任第12師団になった証言しており、池寛容証言した連隊秘匿名の827(第30歩兵連隊)は、萩原のもつ朝鮮人民軍文書正確に一致するという。和田論拠にしている呂政証言は、戦争後40年経過した1990年に『東亜日報紙上おこなわれたものであり、萩原によると「事実関係誤りが多い」という。呂政は、自らか所属していた師団の砲連隊を第12連隊というが21連隊誤りであり、師団元山から南へ移動開始した日付1950年6月19日というが17日であり、麟蹄到着した日付6月23日というが21日であり、萩原は「決定的誤り」として、呂政は「(朝鮮戦争開戦前に)3個の38度線警備旅団歩兵第7、第8、第9師団として改編され、咸鏡北道会寧にあった青年訓練所歩兵師団に、第3軍官学校が戦闘部隊として編成された」というが、師団編成開戦直後であり開戦前ではなく師団編成されたのは38度線警備旅団ではなく民青訓練所であり、第7・第8・第9の師団名も誤りであり、歩兵司令官武亭1950年5月31日付け指令書には、この時点における朝鮮人民軍は、7個師団、第105戦車旅団、第1・第2・第3の3個の民青訓練所第1軍校、582軍部隊、586軍部隊を擁しており、呂政のいう3個の38度線警備旅団編成対象になっておらず、萩原呂政証言なるものがいかにあやふやなのであるかは明瞭」と結論付けている。初版1966年であり、戦争後12年経過した製造者多数存在した時期であり信憑性は高いという佐々木春隆『朝鮮戦争』(原書房)によると、これらの部隊は、開戦直後に第1民青訓練所第13師団に、第2民青訓練所第10師団に、第3民青訓練所第15師団になったという。結果萩原は「呂政証言誤り多く証言としては採用できない」と結論付けている。また和田論拠とした金中生の『朝鮮義勇軍の密入北と6・25戦争』(ミョンジ出版社2000年)には「(北朝鮮に)入国して7師団となった戦争時12師団改称されたという記録誤りである」という記述があるが、萩原ソウルにいる金中生を訪問して根拠質したところ、その根拠呂政証言だと回答したという。さらに金中生の所属部隊第6師団15連隊であり第7師団事情を知る立場にない、1950年4月17歳新兵として入隊しており部隊上層部のことを知る立場になく、萩原は「和田氏依拠する呂政金中両氏証言は、歴史的事実解明するためにはなんらの役割果たさない」として、元朝鮮人民軍の将兵たちの記憶混乱生じるのは、第7師団中国から元山入ったのは、1950年4月18日であり、第12師団改称されたのは同年6月であり、第7師団称されていたのは実質2か月程度しかなく、最初から第12師団だったと思い違い生じており、また証言戦争後40年経過して記憶風化していることを挙げている。和田が「米軍押収したロシア文の人民軍参謀部偵察命令案(1950年6月18日付)には『第12師団参謀長』あてになっている」と批判したことについて、萩原は「和田氏は私への反論7年かかって書いたが、私は数か月足らず再反論なければならない。とてもロシア文まで当たる余裕はない。こうした文書出てきたというならもっと確かなものを書いて歴史事実明らかになければならない」「『部隊番号第12師団とつけるということはそれだけ師団数が多いかのように装って、敵を威嚇するためである』などという子供戦争ごっこのようなことを書くのではなく、また根拠あやふやな証言振りかざして不確かなことを書いて世の中善良な民を惑わすではなく社会貢献する確かなものを書かねばならない」として、この問題極秘資料発掘することも含めて明らかにすることが歴史家責務であり、開戦直後師団編成時期師団名の特定研究をおこなうべきだと指摘している。和田は「(萩原は)1950年5月31日付け砲兵司令官武亭指令書に、第7師団明記されているかのごとく主張しているが、氏の挙げるその種の資料には、12萩原注:正しく14)の指令対象部隊7番目に第825軍部隊の名があげられているにすぎない(『北韓解放直後極秘資料(3)高麗書房206頁、224頁)」(『朝鮮戦争全史』、135頁)と批判しているが、萩原は「無知による完全な誤解」「開戦前第7師団などと部隊名を露出することが厳禁されたことを和田氏知らないためこうした常識はずれのことをいうのだ」として、こうした誤解予想したため原資料刊行したのが『北朝鮮極秘文書』(夏の書房)であり、北朝鮮韓国隠密に攻撃する態勢1950年4月頃から進めており、従って師団名も秘匿として、秘匿名の3桁の数字を代号と呼称して、第1師団115第2師団235第3師団395第4師団は485、第7師団825という具合に各師団連隊大隊まで厳格に代号の使用徹底萩原は「こうした数字では読者混乱するから私の解読した部隊名を書いたまで」であり、秘匿名に隠され部隊名を割り出したのは萩原であり、和田恩恵受けており、和田著作朝鮮戦争』では隠され部隊名をひとつも知らなかったが『朝鮮戦争全史』では萩原割り出した部隊名を使って多少整理されていると評している。 和田は「金天海は翌1950年平壌渡ったときには労働党社会部長になり、祖国戦線議長にもなっている」(85頁)と記述しているが、萩原によると「すべて間違い」であり、労働党社会部になったのは1951年11月労働党第2期第4回全員会議祖国戦線議長になった日は特定できない祖国戦線議長団肩書最初に登場するのは1953年9月13日平壌からの放送演説であり、萩原は「決定的誤り」として、1949年6月25日から28日開催され祖国統一民主主義戦線結成大会で、在日朝鮮人運動の幹部韓徳銖大幹部金天海恩哲をさしおき中央委員選出されたことを和田は「当時朝連から平壌派遣されていた韓徳銖中央委員選ばれのである」(57頁)とするが、萩原は「なんの論証もない」として、和田根拠挙げた祖国統一民主主義戦線結成大会文献集』にも朝連韓徳銖平壌派遣したとの記述はなく、公安調査庁朝鮮担当坪井豊吉の内部資料在日朝鮮人運動の概況』には、「(韓徳銖は)また(昭和24年夏には北鮮密航して祖国統一民主主義戦線中央委員になったお礼いってきた」という記述韓徳銖動向伝え唯一であり、「朝連韓徳銖派遣したという和田氏はその根拠を示すべきだ。示さず断定するならば根も葉もない捏造といわれても仕方あるまい」と批判している。朝連から派遣され祖国統一民主主義戦線中央委員推挙するなら在日朝鮮人運動の最高指導者かつ朝連顧問金天海任命されるべきであるが、韓徳銖在日朝鮮人から唯一中央委員任命されたことが「金日成陰謀であったというのが萩原見解であるが、和田は「なぜ陰謀なのか説得的でない」(85頁)と批判しているが、萩原は『北朝鮮消えた友と私の物語』(文藝春秋1998年)を読めば理解できるし、金日成工作員南信子を日本派遣南信子は韓徳銖との間に生まれた子と平壌暮らしており、韓徳銖は死ぬまで朝鮮総連幹部隠れて仕送り続けており、このような工作結果金日成韓徳銖取り込み南信子を通じて平壌人質取り在日朝鮮人10万人を労働力として北朝鮮におびき寄せたのであり、「説得的であるからこそこれまで10万近く売れているのだ」「なにも知らず和田氏憧れ金日成北朝鮮それほど甘い相手ではない」と批判している。 結論として萩原は、「私への反論材料がよほどなかったとみえて朝鮮戦争とは関係のない私の著書北朝鮮消えた友と私の物語』まで引き合い出して反論したつもり」になっているが、「すべて虚偽根拠のない憶測」であり、「私への反論なるものは、ただの一つ真実もなく、すべて誤りか、根拠のない憶測創作のたぐいである。反論7年もかけてこの体たらくである。なぜもっと勉強をして確かなものを書かないのか」、和田は『朝鮮戦争に対して萩原が「激し非難浴びせた」と「まるで被害者のように装う」が、事実和田と方善発見した資料を「(萩原が)剽窃したかのごとく主張した和田氏前著名誉棄損にたいし、私が限定的に反論したにすぎない今回新著でも私にわびる言葉はない。和田、方善両氏による資料なるものは使い物にならないお粗末なもの」と評している。その後萩原は『諸君!』(2003年8月号)において、「かれ(『朝鮮戦争全史』)のすべての謬論事実をあげて完膚なきまでに論破した」「いまだに何の音沙汰もない。ふだんはどんな小さな批判にも大仰に反論するが、勝ち目がないとだんまりを決め込むのが彼の癖である。今回の『北朝鮮本をどう読むか』で、『朝鮮戦争全史』でおこなった私への言いがかり繰り返しているが、まず私の反論にきちんと答えるのが礼儀ではないか」、萩原反論などもあり、岩波書店は『朝鮮戦争』を4000刷ったところで中止したが、「今回新著は、もう一度チャンス与えようという岩波書店温情であろうが、いいかげんなことを垂れ流す和田氏原稿チェックする見識ある編集者岩波にはいないのだろうか」と批判朝鮮戦争北朝鮮韓国侵略したのか或いは韓国北朝鮮侵略したのかが最大争点だが、「この問題では和田氏はなに一つ貢献していない。北朝鮮文書同じく重要なロシア側の文書和田氏集めたものは一つもない。産経新聞名雪雅夫モスクワ特派員発掘した文書や、アメリカ研究者ウィザースビー(Kathryn Weathersby、ジョンズ・ホプキンス大学女史集めた100点上の旧ソ連資料の提供をうけて和田氏はこの本を書いた。なぜ一つぐらい自分発掘しないのか」「自分何一つ手を汚さず多く研究者辛苦研究によって事実明らかになったあとでああだこうだ論ず学者のあと知恵を私は好まない和田氏は、他人書いた本を積み上げ座ってハサミとのりで切り刻み、つなぎあわせ、尊大にコメントするだけである。『論証がない』『正しくない』『説得的でない』……いったい何様のつもりなのか」「朝鮮戦争全史を書くには30年早い和田氏新著これまでの朝鮮戦争研究書籍解題の域を出ない羊頭狗肉である」と批判している。 和田は「北朝鮮武力統一望んで、南を攻撃したことはすでにわかっていたこと」と述べているが、萩原は「わかっていたならなぜそれを立証しないのか。それをあえてしないところにカミングス和田氏のように開戦責任曖昧にようとする特殊な政治的立場がある。これなら北朝鮮にとって痛くもかゆくもないどころかむしろ北当局大い喜ばれ」ると批判している。 萩原自著朝鮮戦争 金日成マッカーサー陰謀』について、和田が「(萩原の)本の最大貢献は、開戦時北朝鮮人民軍部隊カムフラージュ番号解読成功したことである」と評したことに対し同書は、1. 朝鮮戦争開戦北人民軍の周到な準備のすえの奇襲攻撃によっておこなわれたことを彼らの極秘資料使って全面的に解明したこと、2, 朝鮮戦争という数百万人もの人命犠牲にした大戦争開戦責任放火者はだれかを明らかにしたこと であるとして、和田評価は「的はずれである。たんに的はずれというより意図的に的をはずしている」とし、その目的は「本の価値低めるためであり、読者誤導ため」であるとした。 萩原は、和田萩原対す反論は「あれが足りない、これが抜けている、と重箱の隅をつつくあら捜し」であり、和田著作年表綴るように事項並べているが、「私はもともと年表など書くつもりはないのだ。凡庸な学者がおのれの甲羅似せて穴を掘るのは、それはそれでよい。だが、それをジャーナリスト仕事にまで当てはめさせようお門ちがいはなはだし」く、萩原朝鮮戦争における北朝鮮の戦先攻北朝鮮内部文書明らかにしたことが、「和田はそれが口惜しく、自分1990年主張していたという。朝鮮語一次資料にも当たらない者が、そして当たるだけの朝鮮語の力のない者が、なぜそういうこと言えるのか。事実資料による裏づけのないものはただの駄法螺にすぎない。これなら研究いらない子供でも言えるのだ」として、和田萩原への非難は「すべてデマ根拠のない憶測」「これが研究者とか学者名乗る人間言辞であろうか」と批判している。萩原は、和田は「拉致証拠がない」とデマ書いたことから、国民的な反発受けたが、その核心は「和田は人を非難するなら、なぜ直接その人取材をしないのか、取材すれば誤報誤解防げたはずだ」というものであり、対して和田答えは「取材したから真実がわかるものでもない真実探求などどうでもいい」というものであり、「自分主観的判断至上とするきわめて傲慢な言いぐさ」であり、萩原和田デマの手口として①あからさまなデマを流す②つまらぬ部分褒めて重要なものを無視することにより読者の目をくらませる③表むき評価するみせかけての裏でけなす④デマ垂れ流すのに必須の要件取材真実究明作業をしないことを挙げており、佐々木春隆(防衛大学校教授)・小此木政夫桜井浩(久留米大学教授)らの『朝鮮戦争 金日成マッカーサー陰謀』への評と和田の「最大貢献人民軍部隊カムフラージュ番号解読」という評との乖離大きいことは「あえて異をたてて私の成果のごくささいなものを誉め真の功績黙殺するのは、私の本の意義低め読者目をくらますため」「手のこんだある種の政治的狙いをもっている」「この一文一貫してプロデマゴーグの手法にのっとている」 として、和田萩原和田及び方善資料使用しながらそのこと隠しておりモラル反するという批判は①あからさまなデマを流すに該当、「萩原最大貢献カモフラージュ番号解読」だというのは②つまらぬ部分褒めて重要なものを無視することにより読者の目をくらませる該当し和田学者らしく公平さ萩原評価していると錯覚させ、もっとも重要な箇所から目を背けさせる効果狙っており、和田の「印象深い資料である」と誉めておきながら「疑問感じる」と腐す行為を、萩原は「本全体うさんくさい印象与える」「小細工」と批判している。また萩原は「(和田が)デマ中傷だけをこととする支離滅裂な文章発表」してデマゴーグ役を買った理由を「私の本で打撃をうけた者とはいうまでもなく北朝鮮金日成金正日父子朝鮮労働党である。彼らの40余年にわたる国家的虚偽を私の本は白日の下にさらした」ことを挙げており、「私の本にもっとも打撃をうけた者や組織意向代弁」するために「彼ら(金日成金正日朝鮮労働党)の憎悪和田氏一文反映」しており、「一文で彼はあきらかに北側意向代弁することで自身正体をかなり鮮明」にして、和田が『思想』(1990年9月号)掲載論文発表した後の1991年1月平壌招かれて、黄長燁懇談し歓待されており、和田著書金日成満州抗日戦争』(1992年平凡社)の前書きに「私の論文読んで平壌招いて下さった黄長燁先生討論して下さったヒョン・ドゥヒョク、チェ・ジンヒョク先生たち……に深く感謝したい」と記しており、萩原は「黄長燁らはこれにも当然目をとおしている。そのうえで乏し外貨事情のなかから和田氏平壌招きごちそうし歓待した。その意図は明白である。和田氏になにかを期待しているのである。彼らがタダ飯を食わせることはけっしてない」として、その目的萩原は「和田氏一連の著作平壌政権にとって好ましいからである。朝鮮戦争について和田氏の『研究』なるものが他愛もないもので、北朝鮮にとって痛くもかゆくもないどころかむしろ彼らにとって好ましいものであることはすでにのべた。この線で大いにやってほしいということであろう」と推測している。さらに萩原は、和田平壌歓待され1991年1月は、ベルリンの壁の崩壊チャウシェスク夫妻処刑1年後であり、「北の最大の後ソ連の崩壊はじまりという北朝鮮にとって存亡の危機時期」であり、「その時期に乏し外貨割いて北朝鮮和田氏招いたのは、彼らの生き残りをかけた必死工作一環」であり、政治家賄賂ジャーナリスト取材先との癒着同様に、「(北朝鮮は、社会主義国なかでも最悪独裁国家であり、国中監獄といって過言ではない人民抑圧人権抹殺の国である)独裁国家親しい関係を結ぶなどとは、あってはならないこと」「その国の最高指導者一人親しくメシを食うなどは論外」「デマ中傷一文をみるにつけ、タダ飯を食うこういう汚いこともやらされということ和田氏肝に銘じるべき」と厳しく指弾岩波書店に対しても「意図的な文書の流布手を貸したことは、社会の公器としての出版悪用する行為」であり、事情賢察良識ある措置講じるべしと直言している。

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