南極観測船宗谷 SÔYAとは? わかりやすく解説

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南極観測船宗谷 SÔYA(PL107)

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宗谷 (船)」の記事における「南極観測船宗谷 SÔYA(PL107)」の解説

選定から改造 1957年昭和32年7月1日から1958年昭和33年12月31日開催される国際地球観測年International Geophysical Year、略称:IGY)にあわせて日本南極観測を行うことにし、1955年昭和30年7月開催され第1回南極会議文書南極観測参加意志伝えたそれに伴い砕氷船が必要となった候補として宗谷とともに国鉄宗谷丸などが選定される砕氷能力船体キャパシティ宗谷丸のほうが勝っていたが、改造予算問題や耐氷構造船運強さ魚雷被弾するも不発弾等)船齢等の結果最終的に宗谷選定された。 1955年11月24日-12月12日には、三菱日本重工横浜造船所ドック総点検が実施された。12月24日灯台補給としての解任が行われ、同日をもって巡視船PL107)へ種別変更された。一般的に南極観測船として知られる本船だが、海上保安庁での扱い大型巡視船だった。12月28日海上保安庁船舶技術部2400馬力主機関を2基、新潟鉄工所発注した1956年昭和31年1月23日宗谷改造および運航に関する業務円滑に実施するため、海上保安庁内に南極調査船宗谷整備委員会設置した。また本格的砕氷船への改造は、日本にとって初の経験であったので、内外資料により調査研究行った1月31日、さらに慎重を期するため、海上保安庁内に宗谷設計審議会設置し造船学職経験者委員に委属した2月13日適格造船所十社を指名して入札おこなった不調に終わり、翌2月14日再入札不成立終わったが、最低入札だった日本鋼管(現ジャパン マリンユナイテッド浅野船渠随意契約の形で改造工事依頼することになった。しかし修理専門とする浅野船渠では詳細図面の作成はできなかったことから、海上保安庁船舶技術部長の品政雄は、船舶設計協会常務理事牧野茂詳細図面の作成依頼した3月12日日本鋼管浅野船渠海上保安庁船舶技術部徳永一朗監督官とし、南極観測船への改造工事着手造船所以外からも集まった職人達が意地プライド賭けて突貫工事始めた一方独自に新技術編み出していた各企業454社も惜しげもなく資材提供し10月17日竣工した宗谷は以下のような改造受けた船首部アメリカウィンド砕氷艦参考に、厚さ25mmのキルド鋼板製で、喫水線対し27度の傾斜角有する新船首部改造する。これにより1mの砕氷能力得た復原能力大幅強化、デリックブームの新規交換レイセオン社製の観測用/航海40マイル大型レーダー及び見張所の新設船体色巡視船の白からアラートオレンジに塗装蒸気機関からディーゼル機関2機2軸への換装を行う。これにより航続距離が8ノット4080海里から、12.5ノット14950海里大きく延伸した。ファンネル換装、11m大発救命艇含む作業艇4隻及びダビット換装宇宙線観測室の新設後部マストを門型に換装居住区換装、舵の換装ヘリコプター発着飛行甲板新設ヘリコプター格納庫新設、バルジタンクの新設ベル47G型ヘリコプター2機の搭載セスナ180型1機の搭載ビルジキール撤去、QCU-2型ソナー音響測探儀を最新の物に再装備。まだ護衛艦などでもヘリ搭載例無く戦後日本の艦船としては最初本格的な回転翼機搭載実現した第1次観測(1956年11月8日-1957年4月24日) 初代南極観測船として、東京水産大学(現東京海洋大学)の海鷹丸二世(1.452t)を随伴船に従え1956年11月8日東京晴海埠頭1万人以上の大群衆と島居辰次郎海上保安長官乗組員観測隊員家族らを乗せた巡視船「むろと」(PL-03)、「げんかい」(PM-07)、「つがる」(PL-105)に見送られ宗谷永田隊長西堀越冬隊長以下第1次南極観測隊51名、松本船長下乗組員76名、樺太犬22頭(オス20頭・メス犬2頭)、1匹、カナリア2羽を乗せ南極に向け出港した11日巡視船おおよど接近し挨拶を交わす戦艦大和沈没地点にて花束献花14日早朝ルソン島沖にて花束献花翌日フィリピン洋上台風19号遭遇16日台風20号発生し二つ台風はさまれ宗谷横揺れ40度にも達しそれをなんとか切り抜けたセスナ機さちかぜ損傷した20日松本船長出港前に訪ねてきた元士官の「戦時中宗谷が沈まなかったのは艦内宗谷神社のおかげ」とアドバイスされたことを思い出し宗谷神社」を復活させた。この船内神社海上保安庁始まって以来最初に誕生した船内神社となった23日シンガポール到着さちかぜ修理補給行った28日シンガポール出港12月1日赤道通過甲板上で赤道祭が行われた。12月5日インド洋上で幻の流星群遭遇、この流星群母彗星100年以上行方不明だったブランペイン彗星であることが2005年判明した12月19日ケープタウン入港海鷹丸合流20日-25日船内一般公開おこない5日間で7,000人以上の人見学おとずれた。24-25日、元旦暴風圏最中でゆっくりできないので、後甲板模擬店クリスマスツリー設けケープタウン人々とともに盛大に祝った25日午後6時ソ連観測船コオペラツィア号(3850t)が入港し午後9時ソ連観測隊長以下5名が交歓のため宗谷に来船した。29日大阪商船ぶえのすあいれす丸」に見送られケープタウン出港1957年1月3日海鷹丸からアメリカ観測隊のアネーブ号(12.700t)がアデア岬沖合氷山はさまれ浸水しプロペラ折れ脱出困難との報告を受ける。4日暴風圏通り抜けて最初氷山遭遇7日宗谷偵察ベル47G型ヘリコプター飛ばした。このヘリコプター日本航空史上初の南極飛んだ航空機となった10日パックアイス縁に到着海鷹丸から航空機燃料入りドラム缶47本を受け取り、ここで海鷹丸別れ宗谷パックアイス進入していった。16日偵察出たさちかぜ号がプリンスオラフ海岸沿って続く細長い水域発見。この開水域は「利根水路」と名付けられ宗谷はこの水路向けて進んでいった。 1957年昭和32年1月24日南緯690022秒・東経393524オングル島プリンスハラルド海岸接岸1月29日、公式上陸第1次南極地域観測隊昭和基地開設宗谷プリンスハラルド接岸の間、「プリンスハラルド宗谷船内郵便局」が船内置かれた。2月13日オングル島の北にある小島に「宗谷神社」を分祀しこの小島を「宗谷島」と命名した14日、この日まで151tの氷上輸送成功15日越冬隊員に見送られ離岸したが、翌日天候悪化し氷に閉じ込められた。28日早朝天候回復しビセット状態から解放され外洋向けて砕氷再開午後2時、氷原中間点にて海鷹丸誘導救援到着したソ連砕氷船オビ号(全長140m、12.600t、8400馬力)と会合オビ航跡追い午後11時、外洋への脱出成功し海鷹丸合流オビ号とケープタウン落ち合う約束をした後オビ号と別れ帰路についた3月4日ケープタウン沖の暴風圏宗谷は最高片舷69度に及ぶ横揺れ見舞われたがこれを見事に切り抜け3月10日ケープタウン寄港13日オビ号が寄港、両船の船長隊長相互訪問行い祝宴開かれた。またオビソ連科学者宗谷日本科学者において科学情報意見交換おこなわれた3月15日永田隊長山本航海長南極本部命令により空路帰国し宗谷ケープタウン発った4月5-13日までシンガポール寄港後、台湾沖を経由し海鷹丸コロンボ香港経由し21日鹿児島沖にて鳥居長官乗せた巡視船さつま(PL-105)と会合23日午後9時、宗谷海鷹丸羽田沖にて合流4月24日、陸、海、空をうめつくす大観衆に迎えられ東京の日の出桟橋帰港した第2次観測(1957年10月21日-1958年4月28日) 南極本部第1次行動における輸送氷海航行経験かんがみ第2次にそなえ宗谷再使用可決早急に決定する必要があったため、永田隊長山本航海長空路帰国させ詳細な報告受けた。これにもとづき種々検討結果宗谷より砕氷能力の高い船舶使用することが望ましいが、内外ともに適船を得る見込みがないので宗谷砕氷能力その他の性能改善実施して使用することが決まった。また随伴船も必要ないことが決まり宗谷単独航海となった4月28日東京日の出桟橋にて一般公開の後、5月2日横浜浅野ドック回航工事開始6月1日宗谷運用円滑にするため第3管区東京海上保安部から海上保安庁警備救難部配属替えした。 第1次反省踏まえ特製ビルジキール装着水上機デ・ハビランド・カナダ DHC-2昭和号に換装砕氷能力を1.2mに高め積載量500tに増大海洋観測及び極地航海のため10000m深海音響測深儀ソナー室に装備舷側の氷の状態を確認するため30cm探照灯2つ投光器8個を増設暴風圏での姿勢安定のため帆を常備するなどの改善行った10月9日東京港日の出桟橋接岸していた宗谷高松宮夫妻見学した第一次経験元に出港10月21日繰り上げたものの、この年南極気象状態はきわめて悪く宗谷以外にも各国砕氷船が氷に閉じ込められた。この時は救援待たず脱出成功したが、1958年2月1日には密群氷を航行中に左スクリュー・プロペラ1枚折損した。6日46日ぶりに外洋脱出成功し7日アメリカ海軍ウィンド砕氷艦「バートン・アイランド」号と会合支援受けて8日、密群氷に突入したが、その日午後3時半、誘導していたバートン・アイランド号のベルヘリコプター不時着し救出活動入って進入をやめ、ここから昭和号を飛ばすことになった11日、6便に分かれて1次越冬隊11名、母シロ子、子犬8匹、雄の三毛猫タケシカナリア2羽が宗谷帰船12日2次隊員3名が昭和基地到着13日天候の悪化により空輸が困難となった同日船長航海士機関長操舵手らが宗谷前方300メートルくらいの所に大型未確認動物目撃、それは30秒くらい見えていたが機関長カメラ取って船橋戻って来た時には見えなくなっていたので写真撮影する事はできなかった。当時船長であった松本満次が自著にて南極ゴジラ記述した14日晴れの間をみて昭和号を飛ばし2次隊員3名を収容、これ以降天候悪化15日、バートン・アイランド号は砕氷航行中氷盤乗り上げ動けなくなってしまい宗谷ロープ引っ張ったロープ切れてしまった。16日、バ号側が氷盤爆破して抜けだすことに成功2月17日外洋脱出し18日、密群氷に再進入し昭和号を発進させられそうな水路氷山探したが見つからず19日風速30メートル超える吹雪により探照灯電話アンテナがもぎ取られた。2月24日南極本部より第二次越冬・本観測放棄せよとの命令下り計画断念し帰途についた。これがタロとジロ物語につながる。 3月7-13日、ケープタウン寄港潜水作業行い損傷箇所調査した応急修理要しないことが確認された。4月7-15日、シンガポール寄港4月28日日の出桟橋帰港し第2次南極観測行動終了第3次観測(1958年11月12日-1959年4月13日) 第2次観測終了後斉藤主計長ケープタウン購入したシルバーリーフ5鉢が昭和天皇献上されることが決まった5月3-5日、日の出桟橋にて一般公開開催日の出桟橋から浜松町駅まで行列ができた。7日映画ぶっつけ本番ロケ行った後、横浜港向けて出港8日横浜港開港百年祭にて帆船海王丸 (初代)と共に一般公開おこなった第2次観測失敗経験第3次観測では雪上車による輸送体勢から大型ヘリコプターによる空輸主体とすることに方針転換し、3回亘る航空輸送機会議の結果輸送用大型ヘリコプター候補としてシコルスキーS58型とバートル44型の2種選定され、両機とも性能上から甲乙の差はなく、海上保安庁審議結果機種選定について次長、警救監他11名が選定調査官となり、バートル445月29日米軍昭和基地にて試乗調査おこないシコルスキーS586月3日米軍追浜ヘリポートにて機体の性能装備品等の説明受け、公開飛行見学した。この報告受けた鳥居長官6月8日海上保安庁幹部による打合会を行いバートル44発注生産であり事前訓練最少2か月要することが必要となり見送られシコルスキーS58海上自衛隊対潜哨戒機として20数機が量産中でありこの中から割くことにし、海上保安庁就役中のシコルスキーS55訓練できる判断されシコルスキーS58採用決まり10月11日宗谷搭載され27日まで訓練行った第3次改装では大型ヘリ発着甲板従来ヘリ甲板の上増設し小型ヘリ格納庫撤去航空機ガソリンタンク新設航空司令室増設ヘリコプター吊上げ用のクレーン増設等の、ヘリコプター運用特化した航空母船式に大改装され、世界ではじめての砕氷航空機母船となった偵察ベル47G2機、シコルスキーS58型2機、測地用DHC-2ビーバー1機を搭載した宗谷乗組員観測員からヘリ空母ミニ空母呼ばれていた。大型ヘリコプターによる人員物資資材基地まで空輸するという、前例の無い輸送方法だった。また生物実験室、化学分析室の新設地磁気極光夜光電離層宇宙線海象、氷象、気象等の船上観測設備一新され観測能力大幅に強化された。島居辰次郎長官は「この空母型改造船体の8割余もその原型とどめず改造することになった」と語った1958年10月27日東京港日の出桟橋船内201号機の着船訓練当時皇太子正仁親王見学11月12日松本船長以下92名の乗組員永田隊長村山越冬隊長以下36名の観測隊員樺太犬の子3頭を乗せて東京の日の出桟橋出港12月19日ケープタウン入港、翌20日初の外国人オブザーバー、D.J.メロイ乗船1959年昭和34年1月14日午前8時15分宗谷水平線上にグリーンフラッシュ現象現れるなか、昭和基地から約163kmの地点空輸拠点定め氷盤横付けし、氷盤ヘリポート設置午後1時38分、S58201号が発進した第一便のヘリ昭和基地上空走り回る熊のように大きな2頭を発見午後10時15分第五便のヘリ到着した第1次越冬隊係だった北村泰一が2頭のタロとジロ確認1959年2月1日宗谷から昭和基地輸送した物資は57tに達し第3次南極観測隊隊長永田武は、第3次越冬隊成立宣言する。そして、囲まれていた氷を爆破する宗谷離岸した。2月3日宗谷は氷に囲まれ身動きがとれなくなったベルギー隊のポーラーハブ号(600t、1200馬力)を救出にあたるためリュツォ・ホルム湾待機する第3次南極観測隊宗谷待機中にプリンスハラルド海岸測量行い昭和基地への追加輸送行った2月4日、ポーラーハブ号から「状況好転した」との連絡受けた後、宗谷2月12日までプリンスオラフ海岸沖の海洋および海底地質調査行い13日任務終えて帰路についた1959年1月14日-2月3日20日間に58便の輸送行い村山雅美越冬隊長以下14名の越冬隊員及び資材57tの空輸成功した悪天候下の飛行強行した場面多く航空界の常識をもって想像できない飛行敢行結果大型ヘリコプターによる57tの空輸実績当初の計画の2倍以上の成果上げ各国(特にアメリカソ連)もおおいに注目した。この空輸基本とした体制後継艦のふじ、しらせにも受け継がれることになる。 2月23日ケープタウン入港3月3日、D.J.メロイ下船しケープタウン出航4月13日東京の日の出桟橋帰港し第3次南極観測行動完了した第4次観測(1959年10月31日-1960年4月23日) 第3次における空輸経験から越冬観測必要な物輸送時昭和号による航空測量並行実施することは極めて困難であるとの意見海上保安庁から提出され検討結果航空観測越冬終了のさいに実施されることになり、第4次観測から昭和号は携行しないことになった第3次観測経験踏まえ航空関連長けた明田一郎船長に就任宗谷航空機指揮一元化及び航空通信強化するため船橋海図室の後部航空司令室新設後部マスト吊上げ装置新設光達距離40キロ航空標識灯新設S58降着装置水陸両用型から陸上型に交換などの改装おこなった1959年10月31日明田新船長以下94名の乗組員立見隊長以下36名の観測隊員乗せて灯台補給若草巡視船むつき、げんかい等に見送られ日の出桟橋出港11月12日シンガポール入港18日出港20日南極観測本部ソ連昭和基地航空機基地連絡中継地として利用することを許可したその後第4次観測隊員オビ号側に共同接岸申込みオビ号側はそれに同意した12月11日ケープタウン入港14日ベルギー隊からグリーンランド・ハスキーの子プレゼントされた。22-29日、オビ号との連絡取り合い合流1月1日となった1960年1月1日オビ号と合流2日昭和基地から43マイル位置から輸送開始。この日の夜、明田船長立見隊長オビ号を訪問して会談結果5日当地をはなれることになった3日午後宗谷オビ乗組員との親善バレーボール大会開催4日午後8時、オビ号ドピーニン船長一行来訪オビ号の滞在期間延長決定7日オビ号と別れ第1期空輸終了となった。この時点での輸送量天候恵まれたこととオビ号の協力もあって第3次輸送量の57tを上回る77tに達した16日-18日第2期空輸村山越冬隊長含む8名の隊員収容その後海洋観測をしつつ輸送行い2月6日まで103便126t、雪上車による輸送28t含めると総計154tの輸送成功した1960年4月16日沖縄からの要請第4次観測帰途那覇入港し大歓迎受けた17日船内一般公開18日夕刻那覇港出港4月23日東京の日の出桟橋帰港し第4次南極観測行動完了した第5次観測(1960年11月12日-1961年5月4日) 宗谷老朽化海上保安庁でのパイロット不足により通常の業務支障をきたす事態になり南極観測第6次打ち切ることがきまった。5月3日故障して飛行できなくなったS58202号機を名古屋修理工場輸送することになり東京出港4日名古屋港回航して航空機陸揚げしたのち一般公開行って7日東京帰投14日東京湾にて海上保安庁観閲式観閲船として参加して16日浅野ドック回航、ただちに調査工事開始された。宗谷帰国することが決まったタロ用の冷房付き小屋新設、スペクタルフレームに亀裂発見されたので新替え船橋甲板補強プロペラに氷が当たった時の応力測定をするトルクメーターの設置船体リベット1400打ち直す等の整備改装おこない9月30日完工した。 1960年9月16日第5次観測備え新三菱重工にて整備中のS58202号機が試験横転し大破した。この事故のため出港1週間遅れ、海上自衛隊からHSS-1対潜ヘリ緊急に借用し203号機として使用することになったその際海上自衛隊から俵良通中尉パイロットとして海上保安庁出向した1960年11月12日午前10時50分、日の出桟橋出港24日シンガポール入港新鮮な野菜、果物調達し30日出港インド洋航海中、観測隊員一人虫垂炎にかかり船内手術が行われた。12月8日インド洋にてマグロ漁船第八大浅丸」からインドマグロ貰った宗谷からもお礼の品を贈り別れた22日ケープタウン入港燃料食料補給オブザーバーウォルター.L.ボクセル乗船28日出港1961年1月7日流氷域に到着9日ベル106機による氷上偵察結果これ以上進入は困難と判断し近く氷盤横付けし、氷上ヘリポート設置し空輸拠点とした。昭和基地まで51マイル地点であった13日天候悪化によりヘリポート撤収して第1期空輸終了16日氷海をでて海洋観測行ってたところ、天候安定兆し見えたので、19日に再び進入開始20日長さ70m、幅50m、厚さ8m氷盤横付けし、ヘリポート設置して空輸拠点とし第2期空輸開始した同日清水タンク内に浸水発生していることが確認されたが宗谷は各タンク間等が細かく区画され、異常タンク内が満水状態になるとそれ以上浸水はなく行動問題はなかった。25日氷盤移動により第2期空輸終了30日第3期空輸開始して2月4日タロ乗船第5次越冬隊の必要資材すべての空輸終了し繋留していた氷盤離れ外洋向かった5日第4次越冬隊員の1人腹痛訴え虫垂炎診断され、すぐに手術となった7-10日、海洋観測プリンスオラフ海岸調査飛行15日アムンゼン湾オビ号と行き会ったその後3月2日まで海洋観測地形や氷状の調査大陸沿岸略図おこなった3日氷海出て氷海行動終了同日生物資源調査関しモーリシャス島に2泊3日寄港許可外務省からおりた。7日捕鯨船第三極洋丸」の作業艇がやってきて、鯨肉等をもらった宗谷からも贈り物をし作業艇帰って行った14日ケープタウン入港20日ウォルター.L.ボクセル下船しケープタウン出港モーリシャス向かった31日モーリシャスポートルイス岸壁横付けした。4月2日ポートルイス出港。16-21日シンガポール寄港5月1日九州沖で巡視船さつまと会合南極の氷入った木箱2つ贈った2日、潮の岬おきで巡視船くまのと会合4日午前10時40分、日の出桟橋帰投第5次南極観測行動終了した。総航程24276海里所要日数174日。 第6次観測(1961年10月30日-1962年4月17日) 5月13日海上保安庁観閲式観閲船として参加南極観測終了後北洋警備巡視船への転身決まった26日浅野ドック入り第6次観測目的昭和基地閉鎖第5次越冬隊収容および、日本隊の担当区域でまだ地図のない東経35度から45度までの海岸線航空写真測量を行うことであり、航空測量のためセスナ185携行することになった。本来なら昭和号が航空測量担当するになっていたが昭和号は1961年1月17日北海道千歳飛行場での飛行訓練終え羽田航空基地への帰還最中釜石沖で不時着水沈没していた。昨年大破したS58202号機が復帰203号機は自衛隊返還された。 1961年10月30日午前10時55分、巡視船むろと、すみだ等に見送られ日の出桟橋から出港11月2日奄美大島通過4日バシー海峡5日バリタン海峡6日ルソン島沖を航行11-16日、シンガポール寄港12月8-16日、ケープタウン寄港23日氷縁到着ベル47G106号機の組立から試験飛行開始。24-28日、氷上調査実施29日202号機で氷上調査行いながら外洋出て東航1962年1月5日、「宗谷周辺氷上調査終了し氷海進入6日昭和基地まで114マイル地点から氷上ヘリポート作成し空輸開始7日201機により昭和基地へのセスナ302号機の胴体スリング輸送成功同日202機により302号機の主翼がはいったコンテナスリング輸送成功9日セスナ302号機の組立完了昭和基地飛行場整備10日第1期空輸終了航空機50時間整備開始13日第2期空輸開始昭和基地派遣中の隊員虫垂炎疑いで、202号機で宗谷緊急搬送15日302機による航空写真測量開始18日第2期空輸終了24日宗谷付近天候悪化により氷縁への移動開始26日昭和基地付近天候悪化により航空写真測量終了し302号機の主翼取り外した29日昭和基地にて201号、202号機の15時整備2月1日氷縁到着主機関点検行った後、氷縁沿って東航撤収開始地点向かった2-5日進入開始したが氷状悪化ヘリポート設営可能な氷盤がなく漂泊6日宗谷付近天候回復したが、昭和基地付近回復しないので、宗谷長さ30m、幅25m、厚さ4m氷盤接舷昭和基地から70マイル地点であったその後基地天候回復空輸開始したが、宗谷付近断続するのため202号機が着船したのみ中止となった7日302号機の主翼コンテナ吊り下げ離陸したところ、揺れ大きくなり201号機の機体接触したので、基地から1マイル氷上降ろし同機基地引き返した接触した部分応急修理飛行可能となった8日船長航空長が協議結果主翼左右それぞれ切断し201号、202号機の機内収納して空輸することになった撤収8便で302号機の切断した片翼整備員1名が、最終便となった9便で、片翼村山第5次越冬隊長、吉川第6次隊長宗谷帰着し昭和基地閉鎖大陸沿岸航空写真測量終了した9日宗谷外洋にでて東航アムンゼン湾の氷調査向かった16日南極洋離れケープタウン針路をとった。26日ケープタウン、ビクトリアベーシンふ頭停泊3月6日ケープタウン出港3月30日-4月4日シンガポール寄港4月17日日の出桟橋帰投26日、全荷役陸揚げし第6次南極観測行動終了し南極観測船としての役目終えた。総航程23228海里所要日数170日。 宗谷派遣回数と同じ回数修理改装繰り返し通算6回の南極観測任務遂行し次のような功績残した世界で初め電離層船上観測成功南極地域において、着岸不可能といわれた前人未到プリンスオラフ海岸リュツォ・ホルム湾オングル島着岸し昭和基地建設し越冬観測実施可能にした。プリンスオラフ海岸天測点を設置してシコルスキーS58により東経35度から45度までの航空写真測量実施し南極地図作成貢献した東経33度から51度までの南極大陸周辺海域海洋観測氷上調査沿岸調査実施し1961年3月2日には東経3041分・南緯6901分の地点達し南進新記録を樹立した。 ケープタウン寄港すること前後12回、あたかも定期船の観を呈し船内公開では見学のため長蛇の列つくられ宗谷対す親愛感が深く残された。宗谷船中機械装備類がことごとく国産品であることから日本工業力の高さを示し南アフリカ共和国から宗谷モデルとした南極観測船R.S.A号の建造日本藤永田造船所発注させるにいたったこの間前後6回にわたる南極航海における総航程は約144,276海里、総日数1,031日であった

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