南極観測船宗谷 SÔYA(PL107)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 09:30 UTC 版)
「宗谷 (船)」の記事における「南極観測船宗谷 SÔYA(PL107)」の解説
選定から改造 1957年(昭和32年)7月1日から1958年(昭和33年)12月31日に開催される国際地球観測年(International Geophysical Year、略称:IGY)にあわせて、日本は南極観測を行うことにし、1955年(昭和30年)7月に開催された第1回南極会議に文書で南極観測参加の意志を伝えた。それに伴い、砕氷船が必要となった。候補として宗谷とともに国鉄の宗谷丸などが選定される。砕氷能力や船体のキャパシティは宗谷丸のほうが勝っていたが、改造予算の問題や耐氷構造、船運の強さ(魚雷を被弾するも不発弾等)船齢等の結果、最終的に宗谷が選定された。 1955年11月24日-12月12日には、三菱日本重工横浜造船所のドックで総点検が実施された。12月24日、灯台補給船としての解任式が行われ、同日をもって巡視船(PL107)へ種別変更された。一般的に南極観測船として知られる本船だが、海上保安庁での扱いは大型巡視船だった。12月28日、海上保安庁船舶技術部は2400馬力の主機関を2基、新潟鉄工所に発注した。 1956年(昭和31年)1月23日、宗谷の改造および運航に関する業務を円滑に実施するため、海上保安庁内に南極調査船宗谷整備委員会を設置した。また本格的砕氷船への改造は、日本にとって初の経験であったので、内外の資料により調査研究を行った。1月31日、さらに慎重を期するため、海上保安庁内に宗谷設計審議会を設置し、造船の学職経験者を委員に委属した。2月13日、適格造船所十社を指名して入札をおこなったが不調に終わり、翌2月14日も再入札も不成立に終わったが、最低入札だった日本鋼管(現ジャパン マリンユナイテッド)浅野船渠に随意契約の形で改造工事を依頼することになった。しかし修理を専門とする浅野船渠では詳細図面の作成はできなかったことから、海上保安庁船舶技術部長の水品政雄は、船舶設計協会常務理事の牧野茂に詳細図面の作成を依頼した。 3月12日、日本鋼管浅野船渠で海上保安庁船舶技術部の徳永陽一朗を監督官とし、南極観測船への改造工事に着手、造船所以外からも集まった職人達が意地とプライドを賭けて突貫工事を始めた。一方、独自に新技術を編み出していた各企業全454社も惜しげもなく資材を提供し、10月17日、竣工した。 宗谷は以下のような改造を受けた。船首部はアメリカのウィンド級砕氷艦を参考に、厚さ25mmのキルド鋼板製で、喫水線に対し27度の傾斜角を有する新船首部に改造する。これにより1mの砕氷能力を得た。復原能力の大幅強化、デリックブームの新規交換、レイセオン社製の観測用/航海用40マイル大型レーダー及び見張所の新設、船体色を巡視船の白からアラートオレンジに塗装、蒸気機関からディーゼル機関2機2軸への換装を行う。これにより航続距離が8ノット4080海里から、12.5ノット14950海里と大きく延伸した。ファンネル換装、11m大発型救命艇含む作業艇4隻及びダビットを換装、宇宙線観測室の新設、後部マストを門型に換装、居住区の換装、舵の換装、ヘリコプター発着飛行甲板の新設、ヘリコプター格納庫の新設、バルジタンクの新設、ベル47G型ヘリコプター2機の搭載、セスナ180型1機の搭載、ビルジキール撤去、QCU-2型ソナー、音響測探儀を最新の物に再装備。まだ護衛艦などでもヘリの搭載例は無く、戦後日本の艦船としては最初の本格的な回転翼機搭載を実現した。 第1次観測(1956年11月8日-1957年4月24日) 初代南極観測船として、東京水産大学(現東京海洋大学)の海鷹丸二世(1.452t)を随伴船に従え、1956年11月8日、東京晴海埠頭の1万人以上の大群衆と島居辰次郎海上保安長官、乗組員、観測隊員の家族らを乗せた巡視船「むろと」(PL-03)、「げんかい」(PM-07)、「つがる」(PL-105)に見送られ、宗谷は永田隊長、西堀越冬隊長以下第1次南極観測隊員51名、松本船長以下乗組員76名、樺太犬22頭(オス犬20頭・メス犬2頭)、猫1匹、カナリア2羽を乗せ、南極に向け出港した。11日巡視船おおよどが接近し挨拶を交わす。戦艦大和沈没地点にて花束献花、14日早朝、ルソン島沖にて花束を献花。翌日フィリピン洋上で台風19号に遭遇、16日、台風20号が発生し、二つの台風にはさまれた宗谷は横揺れが40度にも達しそれをなんとか切り抜けたがセスナ機のさちかぜが損傷した。20日、松本船長は出港前に訪ねてきた元士官の「戦時中宗谷が沈まなかったのは艦内の宗谷神社のおかげ」とアドバイスされたことを思い出し「宗谷神社」を復活させた。この船内神社は海上保安庁始まって以来、最初に誕生した船内神社となった。23日シンガポールに到着、さちかぜの修理と補給を行った。28日シンガポールを出港。12月1日、赤道を通過、甲板上で赤道祭が行われた。12月5日、インド洋上で幻の流星群に遭遇、この流星群の母彗星は100年以上行方不明だったブランペイン彗星であることが2005年に判明した。 12月19日、ケープタウン入港、海鷹丸と合流。20日-25日、船内の一般公開をおこない5日間で7,000人以上の人が見学におとずれた。24-25日、元旦は暴風圏の最中でゆっくりできないので、後甲板に模擬店とクリスマスツリーを設けケープタウンの人々とともに盛大に祝った。25日、午後6時半ソ連の観測船コオペラツィア号(3850t)が入港し、午後9時ソ連観測隊隊長以下5名が交歓のため宗谷に来船した。29日、大阪商船「ぶえのすあいれす丸」に見送られケープタウンを出港。1957年1月3日、海鷹丸からアメリカ観測隊のアネーブ号(12.700t)がアデア岬沖合で氷山にはさまれ、浸水しプロペラが折れ脱出困難との報告を受ける。4日暴風圏を通り抜けて最初の氷山に遭遇。7日、宗谷は偵察にベル47G型ヘリコプターを飛ばした。このヘリコプターは日本航空史上初の南極を飛んだ航空機となった。10日、パックアイス縁に到着、海鷹丸から航空機燃料入りのドラム缶47本を受け取り、ここで海鷹丸と別れ宗谷はパックアイスに進入していった。16日、偵察に出たさちかぜ号がプリンスオラフ海岸に沿って続く細長い開水域を発見。この開水域は「利根水路」と名付けられ宗谷はこの水路に向けて進んでいった。 1957年(昭和32年)1月24日、南緯69度00分22秒・東経39度35分24秒オングル島プリンスハラルド海岸に接岸。1月29日、公式上陸、第1次南極地域観測隊が昭和基地を開設、宗谷がプリンスハラルドに接岸の間、「プリンスハラルド宗谷船内郵便局」が船内に置かれた。2月13日オングル島の北にある小島に「宗谷神社」を分祀しこの小島を「宗谷島」と命名した。14日、この日まで151tの氷上輸送に成功。15日、越冬隊員に見送られ離岸したが、翌日天候が悪化し氷に閉じ込められた。28日早朝、天候が回復しビセット状態から解放され、外洋に向けて砕氷再開。午後2時、氷原の中間点にて海鷹丸の誘導で救援に到着したソ連の砕氷船オビ号(全長140m、12.600t、8400馬力)と会合。オビの航跡を追い午後11時、外洋への脱出に成功し海鷹丸と合流。オビ号とケープタウンで落ち合う約束をした後オビ号と別れ帰路についた。3月4日、ケープタウン沖の暴風圏で宗谷は最高片舷69度に及ぶ横揺れに見舞われたがこれを見事に切り抜け、3月10日ケープタウンに寄港。13日オビ号が寄港、両船の船長と隊長は相互訪問を行い祝宴が開かれた。またオビのソ連科学者と宗谷の日本科学者において科学情報の意見交換がおこなわれた。3月15日、永田隊長、山本航海長は南極本部の命令により空路で帰国し、宗谷もケープタウンを発った。4月5-13日までシンガポールに寄港後、台湾沖を経由し。海鷹丸はコロンボと香港を経由し、21日、鹿児島沖にて鳥居長官を乗せた巡視船さつま(PL-105)と会合。23日午後9時、宗谷と海鷹丸は羽田沖にて合流。4月24日、陸、海、空をうめつくす大観衆に迎えられ東京の日の出桟橋に帰港した。 第2次観測(1957年10月21日-1958年4月28日) 南極本部は第1次行動における輸送・氷海航行の経験をかんがみ、第2次にそなえ宗谷の再使用の可決を早急に決定する必要があったため、永田隊長、山本航海長を空路で帰国させ詳細な報告を受けた。これにもとづき種々検討の結果、宗谷より砕氷能力の高い船舶を使用することが望ましいが、内外ともに適船を得る見込みがないので宗谷の砕氷能力その他の性能を改善を実施して使用することが決まった。また随伴船も必要ないことが決まり、宗谷単独航海となった。4月28日、東京日の出桟橋にて一般公開の後、5月2日、横浜浅野ドックに回航し工事開始。6月1日、宗谷の運用を円滑にするため第3管区東京海上保安部から海上保安庁警備救難部へ配属替えした。 第1次の反省を踏まえ特製ビルジキールを装着、水上機をデ・ハビランド・カナダ DHC-2の昭和号に換装、砕氷能力を1.2mに高め、積載量500tに増大、海洋観測及び極地航海のため10000mの極深海用音響測深儀をソナー室に装備、舷側の氷の状態を確認するため30cm探照灯2つと投光器8個を増設、暴風圏での姿勢安定のため帆を常備するなどの改善を行った。10月9日東京港日の出埠桟橋に接岸していた宗谷を高松宮夫妻が見学した。第一次の経験を元に出港を10月21日に繰り上げたものの、この年の南極の気象状態はきわめて悪く、宗谷以外にも各国砕氷船が氷に閉じ込められた。この時は救援を待たず脱出に成功したが、1958年2月1日には密群氷を航行中に左スクリュー・プロペラ1枚を折損した。6日、46日ぶりに外洋に脱出に成功し、7日、アメリカ海軍のウィンド級砕氷艦「バートン・アイランド」号と会合。支援を受けて8日、密群氷に突入したが、その日の午後3時半、誘導していたバートン・アイランド号のベル型ヘリコプターが不時着し救出活動に入って進入をやめ、ここから昭和号を飛ばすことになった。11日、6便に分かれて1次越冬隊11名、母犬シロ子、子犬8匹、雄の三毛猫タケシ、カナリア2羽が宗谷に帰船。12日、2次隊隊員3名が昭和基地に到着。13日、天候の悪化により空輸が困難となった。同日、船長・航海士・機関長・操舵手らが宗谷の前方300メートルくらいの所に大型の未確認動物を目撃、それは30秒くらい見えていたが機関長がカメラを取って船橋に戻って来た時には見えなくなっていたので写真を撮影する事はできなかった。当時の船長であった松本満次が自著にて南極ゴジラと記述した。14日、晴れの間をみて昭和号を飛ばし2次隊隊員3名を収容、これ以降天候が悪化、15日、バートン・アイランド号は砕氷航行中、氷盤に乗り上げ動けなくなってしまい宗谷がロープで引っ張ったがロープが切れてしまった。16日、バ号側が氷盤を爆破して抜けだすことに成功。2月17日、外洋に脱出し18日、密群氷に再進入し昭和号を発進させられそうな水路や氷山を探したが見つからず、19日、風速30メートルを超える吹雪により探照灯と電話アンテナがもぎ取られた。2月24日、南極本部より第二次越冬・本観測を放棄せよとの命令が下り計画を断念し帰途についた。これがタロとジロの物語につながる。 3月7-13日、ケープタウン寄港、潜水作業を行い、損傷箇所を調査したが応急修理を要しないことが確認された。4月7-15日、シンガポール寄港。4月28日、日の出桟橋に帰港し第2次南極観測行動を終了。 第3次観測(1958年11月12日-1959年4月13日) 第2次観測終了後、斉藤主計長がケープタウンで購入したシルバーリーフ5鉢が昭和天皇に献上されることが決まった。5月3-5日、日の出桟橋にて一般公開を開催、日の出桟橋から浜松町駅まで行列ができた。7日、映画ぶっつけ本番のロケを行った後、横浜港に向けて出港。8日横浜港開港百年祭にて帆船海王丸 (初代)と共に一般公開をおこなった。第2次観測の失敗を経験に第3次観測では雪上車による輸送体勢から大型ヘリコプターによる空輸を主体とすることに方針転換し、3回に亘る航空輸送機会議の結果、輸送用大型ヘリコプターの候補としてシコルスキーS58型とバートル44型の2種が選定され、両機とも性能上から甲乙の差はなく、海上保安庁は審議の結果機種の選定については次長、警救監他11名が選定調査官となり、バートル44は5月29日、米軍昭和基地にて試乗調査をおこない、シコルスキーS58は6月3日米軍追浜ヘリポートにて機体の性能、装備品等の説明受け、公開飛行を見学した。この報告を受けた鳥居長官は6月8日に海上保安庁幹部による打合会を行い、バートル44は発注生産であり事前訓練に最少2か月を要することが必要となり見送られ、シコルスキーS58は海上自衛隊が対潜哨戒機として20数機が量産中でありこの中から割くことにし、海上保安庁に就役中のシコルスキーS55で訓練できると判断され、シコルスキーS58の採用が決まり、10月11日、宗谷に搭載され27日まで訓練を行った。 第3次改装では大型ヘリ発着甲板を従来のヘリ甲板の上に増設し、小型ヘリ格納庫を撤去、航空機ガソリンタンク新設、航空司令室を増設、ヘリコプター吊上げ用のクレーン増設等の、ヘリコプター運用に特化した航空母船式に大改装され、世界ではじめての砕氷航空機母船となった。偵察用ベル47G2機、シコルスキーS58型2機、測地用DHC-2ビーバー1機を搭載した宗谷は乗組員や観測員からヘリ空母、ミニ空母と呼ばれていた。大型ヘリコプターによる人員、物資、資材を基地まで空輸するという、前例の無い輸送方法だった。また生物実験室、化学分析室の新設、地磁気、極光、夜光、電離層、宇宙線、海象、氷象、気象等の船上観測設備も一新され、観測能力も大幅に強化された。島居辰次郎長官は「この空母型の改造で船体の8割余もその原型をとどめず、改造することになった」と語った。 1958年10月27日東京港日の出桟橋で船内と201号機の着船訓練を当時の皇太子と正仁親王が見学。11月12日、松本船長以下92名の乗組員と永田隊長、村山越冬隊長以下36名の観測隊員と樺太犬の子犬3頭を乗せて東京の日の出桟橋を出港。12月19日、ケープタウンに入港、翌20日初の外国人オブザーバー、D.J.メロイが乗船。 1959年(昭和34年)1月14日午前8時15分、宗谷は水平線上にグリーンフラッシュ現象が現れるなか、昭和基地から約163kmの地点を空輸拠点と定め氷盤に横付けし、氷盤にヘリポートを設置。午後1時38分、S58型201号が発進した。第一便のヘリが昭和基地上空で走り回る熊のように大きな犬2頭を発見、午後10時15分、第五便のヘリで到着した第1次越冬隊で犬係だった北村泰一が2頭の犬をタロとジロと確認。 1959年2月1日、宗谷から昭和基地へ輸送した物資は57tに達し、第3次南極観測隊の隊長永田武は、第3次越冬隊の成立を宣言する。そして、囲まれていた氷を爆破すると宗谷は離岸した。2月3日、宗谷は氷に囲まれて身動きがとれなくなったベルギー隊のポーラーハブ号(600t、1200馬力)を救出にあたるためリュツォ・ホルム湾で待機する。第3次南極観測隊は宗谷の待機中にプリンスハラルド海岸の測量を行い、昭和基地への追加輸送も行った。2月4日、ポーラーハブ号から「状況が好転した」との連絡を受けた後、宗谷は2月12日までプリンスオラフ海岸沖の海洋および海底地質調査を行い13日に任務を終えて帰路についた。 1959年1月14日-2月3日の20日間に58便の輸送を行い、村山雅美越冬隊長以下14名の越冬隊員及び資材57tの空輸に成功した。悪天候下の飛行を強行した場面も多く航空界の常識をもっては想像できない飛行を敢行の結果、大型ヘリコプターによる57tの空輸実績は当初の計画の2倍以上の成果を上げ、各国(特にアメリカとソ連)もおおいに注目した。この空輸を基本とした体制は後継艦のふじ、しらせにも受け継がれることになる。 2月23日、ケープタウンに入港。3月3日、D.J.メロイが下船し、ケープタウン出航。4月13日、東京の日の出桟橋に帰港し第3次南極観測行動を完了した。 第4次観測(1959年10月31日-1960年4月23日) 第3次における空輸経験から越冬観測に必要な物資輸送時に昭和号による航空測量を並行実施することは極めて困難であるとの意見が海上保安庁から提出され、検討の結果航空観測は越冬終了のさいに実施されることになり、第4次観測から昭和号は携行しないことになった。第3次観測の経験を踏まえ、航空関連に長けた明田末一郎が船長に就任、宗谷は航空機指揮の一元化及び航空通信を強化するため船橋海図室の後部に航空司令室を新設、後部マストに吊上げ装置を新設、光達距離40キロの航空標識灯を新設、S58は降着装置を水陸両用型から陸上型に交換などの改装をおこなった。 1959年10月31日、明田新船長以下94名の乗組員と立見新隊長以下36名の観測隊員を乗せて、灯台補給船若草、巡視船むつき、げんかい等に見送られ、日の出桟橋出港。11月12日、シンガポール入港。18日、出港。20日、南極観測本部はソ連が昭和基地を航空機の基地連絡中継地として利用することを許可した。その後、第4次観測隊員はオビ号側に共同接岸を申込みオビ号側はそれに同意した。12月11日、ケープタウン入港。14日、ベルギー隊からグリーンランド・ハスキーの子犬をプレゼントされた。22-29日、オビ号との連絡を取り合い、合流は1月1日となった。1960年1月1日、オビ号と合流。2日、昭和基地から43マイルの位置から輸送を開始。この日の夜、明田船長と立見隊長はオビ号を訪問して会談の結果、5日頃当地をはなれることになった。 3日午後、宗谷とオビ号乗組員との親善バレーボール大会開催。4日午後8時、オビ号ドピーニン船長一行が来訪、オビ号の滞在期間延長が決定。7日、オビ号と別れ第1期空輸は終了となった。この時点での輸送量は天候に恵まれたこととオビ号の協力もあって第3次輸送量の57tを上回る77tに達した。16日-18日、第2期空輸。村山前越冬隊長含む8名の隊員を収容。その後は海洋観測をしつつ輸送を行い、2月6日まで103便126t、雪上車による輸送28t含めると総計154tの輸送に成功した。1960年4月16日、沖縄からの要請で第4次観測の帰途、那覇に入港し大歓迎を受けた。17日船内を一般公開、18日夕刻、那覇港を出港。4月23日、東京の日の出桟橋に帰港し第4次南極観測行動を完了した。 第5次観測(1960年11月12日-1961年5月4日) 宗谷の老朽化と海上保安庁でのパイロット不足により通常の業務に支障をきたす事態になり南極観測を第6次で打ち切ることがきまった。5月3日故障して飛行できなくなったS58型202号機を名古屋の修理工場へ輸送することになり東京を出港、4日名古屋港に回航して航空機の陸揚げしたのち一般公開を行って7日東京に帰投。14日東京湾にて海上保安庁の観閲式に観閲船として参加して、16日浅野ドックに回航、ただちに調査工事が開始された。宗谷は帰国することが決まったタロ用の冷房付きの小屋の新設、スペクタルフレームに亀裂が発見されたので新替え、船橋、甲板梁の補強、プロペラに氷が当たった時の応力測定をするトルクメーターの設置、船体のリベット1400本打ち直す等の整備改装をおこない9月30日完工した。 1960年9月16日、第5次観測に備え新三菱重工にて整備中のS58型202号機が試験中横転し大破した。この事故のため出港が1週間遅れ、海上自衛隊からHSS-1対潜ヘリを緊急に借用し203号機として使用することになった。その際海上自衛隊から俵良通中尉がパイロットとして海上保安庁に出向した。1960年11月12日午前10時50分、日の出桟橋出港。24日、シンガポール入港。新鮮な野菜、果物を調達し、30日、出港。インド洋航海中、観測隊員の一人が虫垂炎にかかり船内で手術が行われた。12月8日、インド洋にてマグロ漁船「第八大浅丸」からインドマグロを貰った。宗谷からもお礼の品を贈り別れた。22日、ケープタウン入港。燃料、食料の補給、オブザーバーのウォルター.L.ボクセルが乗船。28日、出港。 1961年1月7日、流氷域に到着。9日、ベル106号機による氷上偵察の結果これ以上の進入は困難と判断し近くの氷盤に横付けし、氷上ヘリポートを設置し空輸拠点とした。昭和基地まで51マイルの地点であった。13日、天候悪化によりヘリポートを撤収して第1期空輸を終了。16日、氷海をでて海洋観測を行ってたところ、天候安定の兆しが見えたので、19日に再び進入開始。20日、長さ70m、幅50m、厚さ8mの氷盤に横付けし、ヘリポートを設置して空輸拠点とし第2期空輸を開始した。同日清水タンク内に浸水が発生していることが確認されたが宗谷は各タンク間等が細かく区画され、異常タンク内が満水状態になるとそれ以上の浸水はなく行動に問題はなかった。25日、氷盤の移動により第2期空輸を終了。30日、第3期の空輸を開始して、2月4日、タロが乗船、第5次越冬隊の必要資材等すべての空輸を終了し繋留していた氷盤を離れ外洋へ向かった。5日、第4次越冬隊員の1人が腹痛を訴え虫垂炎と診断され、すぐに手術となった。7-10日、海洋観測とプリンスオラフ海岸調査飛行、15日、アムンゼン湾でオビ号と行き会った。その後3月2日まで海洋観測、地形や氷状の調査、大陸沿岸の略図をおこなった。3日、氷海を出て氷海行動を終了。同日、生物の資源調査に関しモーリシャス島に2泊3日の寄港の許可が外務省からおりた。7日、捕鯨船「第三極洋丸」の作業艇がやってきて、鯨肉等をもらった。宗谷からも贈り物をし作業艇は帰って行った。14日、ケープタウン入港。20日、ウォルター.L.ボクセルが下船し、ケープタウン出港、モーリシャスに向かった。31日モーリシャスのポートルイスの岸壁に横付けした。4月2日、ポートルイス出港。16-21日シンガポール寄港、5月1日、九州沖で巡視船さつまと会合、南極の氷が入った木箱を2つ贈った。2日、潮の岬おきで巡視船くまのと会合。4日午前10時40分、日の出桟橋に帰投し第5次南極観測行動を終了した。総航程24276海里、所要日数174日。 第6次観測(1961年10月30日-1962年4月17日) 5月13日、海上保安庁の観閲式に観閲船として参加、南極観測終了後、北洋警備の巡視船への転身が決まった。26日、浅野ドック入り。第6次観測の目的は昭和基地の閉鎖、第5次越冬隊の収容および、日本隊の担当区域でまだ地図のない東経35度から45度までの海岸線の航空写真測量を行うことであり、航空測量のためセスナ185を携行することになった。本来なら昭和号が航空測量を担当する事になっていたが昭和号は1961年1月17日、北海道千歳飛行場での飛行訓練を終え羽田航空基地への帰還の最中、釜石沖で不時着水し沈没していた。昨年大破したS58型202号機が復帰、203号機は自衛隊に返還された。 1961年10月30日午前10時55分、巡視船むろと、すみだ等に見送られ、日の出桟橋から出港。11月2日、奄美大島通過。4日バシー海峡、5日バリタン海峡、6日ルソン島沖を航行。11-16日、シンガポール寄港。12月8-16日、ケープタウン寄港。23日、氷縁に到着。ベル47G106号機の組立から試験飛行開始。24-28日、氷上調査実施。29日、202号機で氷上調査を行いながら外洋に出て東航。1962年1月5日、「宗谷」周辺の氷上調査を終了し氷海進入。6日、昭和基地まで114マイルの地点から氷上ヘリポートを作成し空輸開始。7日、201号機により昭和基地へのセスナ302号機の胴体のスリング輸送に成功、同日202号機により302号機の主翼がはいったコンテナのスリング輸送に成功。9日、セスナ302号機の組立完了、昭和基地の飛行場整備。10日、第1期空輸を終了、航空機の50時間整備開始。13日、第2期空輸開始、昭和基地へ派遣中の隊員が虫垂炎の疑いで、202号機で宗谷へ緊急搬送。15日、302号機による航空写真測量開始。18日、第2期空輸終了。24日、宗谷付近の天候悪化により氷縁への移動開始。26日、昭和基地付近の天候悪化により航空写真測量を終了し、302号機の主翼を取り外した。29日、昭和基地にて201号、202号機の15時間整備。2月1日、氷縁に到着、主機関の点検を行った後、氷縁に沿って東航し撤収開始地点に向かった。2-5日、進入を開始したが氷状悪化。ヘリポート設営可能な氷盤がなく漂泊。6日、宗谷付近の天候が回復したが、昭和基地付近が回復しないので、宗谷は長さ30m、幅25m、厚さ4mの氷盤に接舷、昭和基地から70マイルの地点であった。その後基地は天候が回復、空輸を開始したが、宗谷付近が断続する雪のため202号機が着船したのみで中止となった。7日、302号機の主翼コンテナを吊り下げ離陸したところ、揺れが大きくなり201号機の機体に接触したので、基地から1マイルの氷上に降ろし、同機は基地に引き返した。接触した部分を応急修理し飛行可能となった。 8日、船長、航空長が協議の結果、主翼の左右をそれぞれ切断し、201号、202号機の機内に収納して空輸することになった。撤収8便で302号機の切断した片翼と整備員1名が、最終便となった9便で、片翼と村山第5次越冬隊長、吉川第6次隊長が宗谷に帰着し、昭和基地の閉鎖と大陸沿岸の航空写真測量を終了した。9日、宗谷は外洋にでて東航、アムンゼン湾の氷調査に向かった。16日、南極洋を離れ、ケープタウンに針路をとった。26日、ケープタウン、ビクトリアベーシンふ頭に停泊。3月6日、ケープタウン出港。3月30日-4月4日、シンガポール寄港。4月17日、日の出桟橋に帰投。26日、全荷役を陸揚げし、第6次南極観測行動を終了し南極観測船としての役目を終えた。総航程23228海里、所要日数170日。 宗谷は派遣回数と同じ回数の修理・改装を繰り返し、通算6回の南極観測任務を遂行し次のような功績を残した。世界で初めて電離層の船上観測に成功。南極地域において、着岸不可能といわれた前人未到のプリンスオラフ海岸リュツォ・ホルム湾オングル島に着岸し昭和基地を建設し越冬観測実施を可能にした。プリンスオラフ海岸に天測点を設置して、シコルスキーS58により東経35度から45度までの航空写真測量を実施し南極地図作成に貢献した。東経33度から51度までの南極大陸周辺海域の海洋観測、氷上調査、沿岸調査を実施し、1961年3月2日には東経30度41分・南緯69度01分の地点に達し、南進の新記録を樹立した。 ケープタウンに寄港すること前後12回、あたかも定期船の観を呈し、船内の公開では見学のため長蛇の列がつくられ、宗谷に対する親愛感が深く残された。宗谷船中の機械、装備類がことごとく国産品であることから日本の工業力の高さを示し、南アフリカ共和国から宗谷をモデルとした南極観測船R.S.A号の建造を日本の藤永田造船所に発注させるにいたった。この間前後6回にわたる南極航海における総航程は約144,276海里、総日数1,031日であった。
※この「南極観測船宗谷 SÔYA(PL107)」の解説は、「宗谷 (船)」の解説の一部です。
「南極観測船宗谷 SÔYA(PL107)」を含む「宗谷 (船)」の記事については、「宗谷 (船)」の概要を参照ください。
- 南極観測船宗谷 SÔYAのページへのリンク