九頭竜川とは? わかりやすく解説

くずりゅう‐がわ〔クヅリユウがは〕【九頭竜川】

読み方:くずりゅうがわ

福井県北部流れる川。源を岐阜県境の油坂峠付近に発し坂井市日本海に注ぐ。長さ116キロ上流には九頭竜峡などがあり、また鉛・亜鉛森林などの資源が豊富。


九頭竜川

伝説生きている青き川
九頭竜川は、福井県岐阜県境の油坂峠標高717m)に発し九頭竜峡谷を経て大野盆地北流し大野市勝山市との境付近で左支川真名川合わせ永平寺町鳴鹿にて福井平野入り、そこから西流します。そして、福井市高屋において左支川日野川合流し流れ北西転じ三国町日本海注いでます。途中支川合わせる流域面積2,930.0km2流路延長116.0kmの北陸地方屈指の大河となります

九頭竜川・日野川に囲まれた福井市街地
九頭竜川・日野川囲まれ福井市街地

河川概要
水系九頭竜川水系
河川名九頭竜川
幹川流路延長116.0km
流域面積2,930.0km2
流域内人666,225
流域関係都県福井県岐阜県

九頭竜川流域図
○拡大図
1.九頭竜川の歴史
"九頭竜川は北陸地方屈指の大河川であるとともに、この地域代表する「母なる川」として縄文弥生時代から現代まで人々の生活密接な関わり持ち親しまれています。"

 
九頭竜川流域は、本州日本海側のほぼ中央にあり、福井県嶺北地方位置してます。流域主流である九頭竜川は幹川流路延長116kmを有し北陸地方屈指の大河川であるとともに、この地域代表する「母なる川」として古くから人々の生活密接な関わり持ち親しまれきました
恐竜の足跡の化石(勝山市)
恐竜の足跡化石勝山市
九頭竜川がもたらす、みのり豊かな自然環境の中で生活していた古代人足跡は、出土した縄文・弥生時代土器石器あるいはそして古墳など様々な遺跡として、今に伝えられています。珍しいものとしては、昭和57年勝山市北谷町杉山の手層群で、約1億2千年前の恐竜化石発見されたことが挙げられます。この地は大和京の都近く北陸玄関口であったため、都の影響を受けつつも、風土調和した文化育み、人を育て歴史刻んできました

また、九頭竜川は交通路としても利用され山間部物資下流部さらには河口三国湊集積され東北蝦夷北海道)、あるいは大坂などにも運ばれました。一方東北蝦夷大坂などから物資三国湊集まり、川を上って方々越前の里へと運ばれました。こうして、流域の町やは川を軸に深い結びつきを持つようになり、遠く地域とも関わり持ち文化交流なされるようになっていきました
紫式部の像(武生市)
紫式部の像(武生市
そして、流域からは娘時代武生過ごした紫式部などを輩出する一方近松門左衛門松尾芭蕉など多く文人歌人がこの地を訪れ、この地方文化全国広めていったのです。
このように流域内には九頭竜川、日野川足羽川三大河川はじめとする河川人々との関わりを示す歴史文化などが、様々な形態で川にまつわる文化遺産として残されています。
2.地域の中の九頭竜川
"九頭竜川の豊かで良質なは、コシヒカリ代表される福井平野米作り利用され、またお盆時期になると河原では精霊迎え灯籠流しといった信仰行事が行われ、地域社会と密接につながってます。"


灯籠流し (永平寺町 九頭竜川河原)
灯籠流し (永平寺町 九頭竜川河原
永平寺町の九頭竜川河原武生市では、毎年お盆祖先の霊を迎えて供養し幾日家族とともに過ごすものとして精霊迎え行いお盆過ぎればお送りするという信仰行事が行われます精霊迎えには、川を通ってこの世へ来る霊もあり、川端出て祖先の霊を迎えたり、山に行って祖霊を背に乗り移し、家の盆棚なり仏壇にこれを迎え入れたります。そして、精霊送りには、灯籠流し精霊舟流し行って祖霊死者の世界送り返します
また、九頭竜川の名前の由来一つ伝えられている黒龍大明神伝説や、真名川名前の由来になった真名姫の伝説などの、流域河川まつわる民話伝説数多く残ってます。

毛谷黒龍神社 (福井市毛谷)舟橋黒龍神社 (福井市舟橋)
毛谷黒龍神社 (福井市毛谷舟橋黒龍神社 (福井市舟橋


真名姫立像(大野市)
真名立像大野市
そして、干ばつ苦し人々雨乞い祭りや、また、大雨の時は川が氾濫し被害出ないように、が止むよう祈りをこめて伏せが行われていましたこのように、九頭竜川流域には、禊ぎ水神祭りや雨乞い祭りなどや川・まつわる祭り数多く伝承されています。

福井が生んだ「コシヒカリ」
福井生んだコシヒカリ
また、九頭竜川の豊かで良質なコシヒカリ代表される福井平野米作りに、伏流した地下水豆腐、そば、地酒醤油作りにと、密接に地域社会つながってます。
こうした事から、九頭竜川は古くから現在に至るまで地域社会人々精神社会物質社会において非常に大切な役割担ってます。
3.九頭竜川の自然環境
"九頭竜川の中流域は、「アラレガコ生息地」として天然記念物の指定受けてます。絶滅危惧種希少種危急種多く見られこうした事からも九頭竜川が豊かな自然に溢れている事がうかがえます。"

九頭竜川流域平成6年度に行われた植生調査結果によると、101科638種の植物植生し、河川敷代表的な植物種としては、上流部水際ではツルヨシ・タチヤナギ・カワヤナギがみられ、下流部水辺ではヨシ・ヒメガマ・マコモ、高水敷ではオギ・ススキ・ヨモギ・チガヤなどがあげられます。
確認され特定種としては、絶滅危惧種フジバカマ危急種のタコノアシ・ツクシガヤ・ミクリ・キンガヤツリ・ミズネコノオです。
動物環境では、平成5年度に行われた調査で、1434122種の鳥類確認されました。
代表的な鳥類としては、冬季カモ類・カイツブリ類・カモメ類などが水面利用してます。また、ガン類・ワシタカ類が採食地・休息地として中州高水敷利用してます。
確認され特定種としては、国指定天然記念物でかつ希少種のコクガン・マガン・ヒシクイの3種希少種のチュウサギ・コハクチョウ・オシドリ・コアジサシ・オオジシギの5種、危急種としては、カンムリカイツブリ・チュウヒ・ミサゴ・オオタカの4種で、このうちオオタカ絶滅指定種です。
獣類水生ほ乳類モグラ目コウモリ目およびネズミ目のうち、ネズミ科を除くと1118種の分布確認されています。
昆虫類平成9年水辺国勢調査で、2綱17231科1,578種が確認され春季および夏季にはコウチュウ目秋季にはチョウ目占め割合高くなります
九頭竜川・日野川足羽川など九頭竜川流域生息する魚種は、平成5年度の調査では58種が確認されました。
上流域には、イワナアマゴニジマスアユアブラハヤアジメドジョウカジカなどが生息しており、中流域には、フナヤツメ、カワヤツメアユタビラヤリタナゴニゴイカマツカシマドジョウヨシノボリカマキリカジカなどが生息してます。カマキリ福井では「アラレガコ」と呼ばれ、九頭竜川中流域代表種であり、カジカ科属する頭の大きハゼ似た底生魚です。九頭竜川の大野市花房町から福井市舟橋新までの区間は「アラレガコ生息地」として天然記念物の指定受けてます。


アラレガコ
アラレガコ

下流域には、カワヤツメナマズニゴイヒガイなどのほか、ボラスズキヌマガレイコノシロなどの汽水性の魚類がみられ種類も豊富です。
このように多く動植物豊かな九頭竜川の恩恵受けて生命育んでます。
4.九頭竜川の主な災害

発生発生原因被害状況
昭和28年9月23日25日台風13号前線ともなった台風13号による暴風雨で、九頭竜川流域日野川及び嶺南地方南川北川大災害となり、4市7町38災害救助法発動された。日野川では各所破堤越水したが特に日野川右岸三郎丸地先破堤によって福井市西北部一部泥海化した
昭和36年9月14日16日台風18号第二室戸台風台風18号)によって、水源山間部豪雨見舞われ、九頭竜川本川下流布施田および中角日野川深谷計画高水位越え大洪水となった福井敦賀では明治30年以来最低気圧観測し台風接近時の強風によっても大きな被害発生した
流失損壊家屋125棟、床上浸水家屋1740棟、床下浸水家屋2621棟。
平成10年9月22日台風7号台風7号による豪雨朝日町織田町宮崎村で、46棟が床上浸水し、60棟が床下浸水被害受けた日野川深谷地点警戒水位越えた天王川越水した。

(注:この情報2008年2月現在のものです)

九頭竜川

読み方:クズリュウガワ(kuzuryuugawa)

所在 埼玉県

水系 荒川(東京都埼玉県)水系

等級 1級


九頭竜川

読み方:クズリュウガワ(kuzuryuugawa)

所在 福井県

水系 九頭竜川水系

等級 1級


九頭竜川

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/14 04:14 UTC 版)

九頭竜川
永平寺町の五松橋から見た九頭竜川
水系 一級水系 九頭竜川
種別 一級河川
延長 116 km
平均流量 86.4 m3/s
(中角観測所2002年)
流域面積 2,930 km2
水源 油坂峠(福井県大野市)
水源の標高 717 m
河口・合流先 日本海(福井県坂井市)
流域 日本
岐阜県福井県

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九頭竜川(くずりゅうがわ)は、日本福井県嶺北地方を流れる一級河川。九頭竜川水系の本流。流域面積2,930km2は福井県の面積の約70%にあたり、県のシンボルの一つとされている[1]

地理

大野市東市布の岐阜県との県境にある油坂峠(717m)付近に源を発し、九頭竜ダムを経て岐阜県郡上市から流れる石徹白川を合わせる。大野盆地勝山盆地を北西に進み、福井平野にて日野川を合わせ北進、坂井市日本海に注ぐ。

流域の自治体

本川
支流のみ

なお、流域の岐阜県部分はすべて、1958年に福井県から分割編入となった区域である。

語源

諸説があり、定かではない[2][3][4]

  • 『越前名蹟考』によると、寛平元年(889年)6月、平泉寺白山権現衆徒の前に示現され、その尊像を川に浮かばせたところ、一身九頭の竜が現れ、尊像を頂くように流れに下って、黒龍大明神の対岸に着かれた[4]。このことから古名は「黒龍川」(くつれうかわ)と呼ばれ、九頭竜川に転じたとされている[4]。「黒龍(川)」を九頭竜川の別名として使用されることがある[5][6]
  • 『国主記』によると、承平の頃(931年頃)に国土を守るために国の四隅、すなわち東は常陸鹿島、西は安芸厳島、南は紀伊熊野、北は越前の崩山に四神が置かれた。この崩山の黒龍大明神の祭神は黒龍王であり、その前を流れる川を「黒龍川」と呼ばれた。
  • 荘園当時に記された『大乗院寺社雑事記』(1480年)の絵図に「崩川」という名前が見られ、『太平記』には黒竜神社を「クズレ明神」と記されて、時を経て九頭竜川と転じた。

九頭竜川開発史

九頭竜川勝山橋、勝山市
九頭竜川河口

九頭竜川は急峻な地形の上に上流の奥越地域は多雨地帯であること、また中流部の鳴鹿地区から扇状地となり、放射状に流れが変遷していたことから、有史以来氾濫を繰り返し「崩れ川」と呼ばれるほどであった。その一方、有数の穀倉地帯でもあり、古代より治水・利水のための開発が繰り返し行われてきた。

越前支配の要・十郷用水

古代には福井平野は大きな湖であり、洪水のたびに水害が起きていた。5世紀から6世紀に掛けて越前を支配していた男大迹王(継体天皇)は九頭竜川河口を広くして湖の水を海に出やすくしたといわれている。継体天皇が九頭竜川治水の先駆者であると現在でも伝えられている。奈良時代に入ると東大寺領の墾田が数多く開墾され、利水のための用水路整備が始まった。766年の溝江における用水が九頭竜川の利水の端緒といわれている。

下る平安時代末期の保元年間(1156年 - 1159年)、越前国惣追捕使・藤原国貞は九頭竜川流域の灌漑を図るため鳴鹿地区より用水路を掘削・取水した。これが十郷用水である。鎌倉時代以降は十郷用水を中心とした利水開発が主体となった。1515年、越前守護・朝倉孝景は十郷用水の支配に乗り出し運用に関する詳細な規定を定めた。その後朝倉氏を滅ぼした織田信長は北陸総司令官として柴田勝家を越前に封じたが、勝家は「十郷用水条々」を1578年に制定。更なる運用規定を定めた。一方治水に関して手付かずに近い状況であった。

福井藩による治水・利水事業

関ヶ原の戦いの戦功により越前北ノ庄68万石の太守となった結城秀康徳川家康次男)は、重臣を要衝に配置し加賀前田氏の押さえとなった。秀康は北ノ庄を福井と改め、福井藩の藩祖となるが藩政確立のための領内整備を行った。特に治水・利水においては家老・本多富正の功績が大きい。富正は家康の重臣・本多重次(作左衛門)の養子で秀康付きの家老となった人物である。

彼は福井城外堀への引水と城下の上水道・灌漑を目的に九頭竜川から日野川まで芝原用水を開削、日野川筋にも関ヶ鼻用水を開削して新田開発を促進した。また、九頭竜川本川に「元覚堤」、日野川に「昼夜堤」を建設して中世には放置同然であった治水にも力を注いだ。この他家老の一人今村盛次は十郷用水の公正な配水慣例を制定し、以後この慣例にしたがって十郷用水の水利権は履行された。

これ以降も洪水を起こす九頭竜川の治水は藩政として続き、1796年(寛政8年)には木部輪中が造成された。幕末、松平慶永(春嶽)は混乱期の中においても九頭竜川の治水計画を策定し、1869年明治2年)より大規模な引堤に着手したが1871年(明治4年)の廃藩置県によって計画は頓挫した。

明治の大改修と水力発電

明治に入り、内務省はお雇い外国人による河川改修を木曽川淀川など全国で実施した。その中心となったのがG.A.エッセルヨハニス・デ・レーケであるが、彼らは九頭竜川流域でも治水工事を指導監督した。具体的には沈床工・護岸工の設置、土砂堆積が問題だった三国港改修のための突堤整備と九頭竜川導流堤の建設である。その後も1900年(明治33年)に足羽川放水路開削事業が開始されるなど治水事業は継続されたが、1906年(明治39年)の大水害を契機に国策での河川整備の要望が高まった。九頭竜川は1908年(明治41年)に内務省直轄河川事業に指定されたが、春江堤防・東藤島堤防築堤などの「明治の大改修」事業の完成までには杉田定一の尽力によるところが大きい。

一方、絹織物産業などの殖産興業の発達により電力需要も増大し、急流で水量の豊富な九頭竜川は水力発電の適地として次第に電源開発が行われていった。1899年(明治41年)、京都電燈が足羽川に水路式発電所である宿布水力発電所を建設したのが始まりであるが、1909年(明治44年)越前電気は同じ足羽川に持越水力発電所を建設した。これにより絹織物業の力織機動力源の確保や、1914年(大正3年)に営業運転を開始した京福電気鉄道への電力供給が可能となった。電源開発は九頭竜川本川にも波及し、1919年大正8年)から1923年(大正12年)にかけては西勝原第1・第2発電所が建設され、九頭竜川水系における大規模電源開発の嚆矢となった。

鳴鹿から始まる国営農業水利事業

戦後に入ると、食糧増産のための施策として農林省(現在の農林水産省)は1948年昭和23年)より国営九頭竜川農業利水事業に着手した。十郷用水と芝原用水の安定した水供給を図るために鳴鹿地先に鳴鹿堰堤を1954年(昭和29年)建設した。当時は固定堰であったが1964年(昭和39年)に国営九頭竜川第2農業水利事業が着手されるにおよび、1966年(昭和41年)に鳴鹿堰堤は可動堰へと改造された。しかし、老朽化の進行や水需要の再分配、大野市の上水道需要の増大等から堰の改良が必要となり、1989年平成元年)より建設省近畿地方建設局(現在の国土交通省近畿地方整備局)によって鳴鹿堰堤再開発事業、九頭竜川鳴鹿大堰の建設が開始された。堰は2003年(平成15年)に完成し、灌漑のほかに洪水調節・不特定利水・上水道を目的とした多目的ダムとなった。

福井大震災と昭和の大改修

1948年6月28日、福井市を震度7級の激震が襲った。この福井地震により市街地は壊滅的被害を受けたが、それに追い討ちを掛けるように同年7月25日には集中豪雨により、上志比村左岸の堤防が決壊[7][8]。福井市内は冠水して再起不能寸前に陥った[9]。当時の福井市長熊谷太三郎が、福井市内の浸水被害から河川への排水を重要視、建設省などに治水のための予算配分などを要望した。結果、福井市内などに排水機場や排水樋門などの整備が進行、また足羽川放水路の改良工事などの大改修を行った。

この熊谷による治水事業は、杉田定一の「明治の大改修」に比肩するものとして「昭和の大改修」と呼ばれた。この改修事業で福井市は災害から復興を始めることができた。また、九頭竜川は鳴鹿地点で分流しそれぞれ表川・裏川と呼ばれたが、洪水調節と農地開墾のために表川を本川として裏川を締め切ることになり、1968年(昭和43年)に締め切り工事は完成し流路は一本化された。

奥越地域総合開発事業

九頭竜川の電源開発は戦後北陸電力電源開発によって上流部に発電用ダムの建設計画が進められた。一方、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風1961年(昭和36年)の第2室戸台風による水害を契機に建設省も九頭竜川水系の総合開発計画を策定した。すでに福井県によって1951年(昭和26年)より真名川総合開発事業が始まり、笹生川ダム(1957年完成)や雲川ダム(1956年完成)が建設されていたが、九頭竜川本川上流部に大規模な多目的ダムの建設を骨子とした九頭竜川総合開発事業が1961年より着手された。これにより水系最大のダムである九頭竜ダムが建設され、発電施設として揚水発電である長野発電所や鷲ダム仏原ダム山原ダム・石徹白ダムが相次いで建設された。

だが1965年(昭和40年)明治以後では最悪の水害・奥越豪雨が流域を襲った。この時には上流で3日間で1,044mmの猛烈な豪雨が降り注ぎ、笹生川ダムは堤頂全体から越水し決壊の危機に襲われ、下流の西谷村(現在の大野市)中島地区は壊滅的な被害を受け集団移転の憂き目に遭った。 さらに九頭竜川でも勝山市内で堤防が決壊。住宅5棟、工場1棟が流出、住宅3棟が半壊した[10]。 こうしたことから建設省は九頭竜川水系工事実施基本計画を1968年に改訂、この中で更なる洪水調節を図るため真名川ダムの建設に着手、1978年(昭和53年)に完成した。支流においても福井県によって日野川総合開発事業・竹田川総合開発事業などが実施され、広野ダム桝谷ダム龍ヶ鼻ダム永平寺ダム浄土寺川ダムなどが完成。現在、吉野瀬川ダムが建設中である。

公共事業見直しと平成16年7月福井豪雨

1990年代の公共事業見直しの風潮は九頭竜川水系にも及んだ。その最大の焦点となったのが足羽川ダムである。1983年(昭和58年)より福井県より事業継承した建設省が足羽川本川に計画した高さ80mの重力式コンクリートダムである足羽川ダムは、水没世帯数188戸におよび激しい反対運動が巻き起こった。本体着工が実施されない状態で1997年、建設省の諮問機関である「九頭竜川流域委員会」・「足羽川ダム建設事業審査委員会」が現行でのダム建設は認められないという答申を出したため建設は凍結された。

その後建設省は福井市などの流域自治体に代替案を提示し、判断を求めた。その賛否両論が渦巻くさなかの2004年(平成16年)7月、平成16年7月福井豪雨が発生した。この豪雨により足羽川流域に記録的な水害が発生、福井市内で堤防が決壊し福井市街中心部が浸水したのを始め足羽川流域を中心に死者5人、浸水戸数14,172戸と甚大な被害となり、激甚災害に指定された。その一方で、足羽川より総雨量の多かった筈の真名川流域では真名川ダムの洪水調節により下流の大野市では被害がなかった。この事実と水害の被害の惨たる様は福井市など流域自治体の行政のみならず被災住民にも大きな衝撃を与え、ダムによる抜本的治水対策が要望されることとなった[要出典]

これを受け国土交通省は足羽川支流の部子川に高さ96.0mの重力式コンクリートダムを建設することで、旧ダム案と同様の洪水調節能力と住民の犠牲があらゆる代替案よりも軽微になることから、2006年(平成18年)より平常時は貯水しない治水専用ダムとして足羽川ダム建設事業は再開された。いったんは計画凍結されたダムが復活することは極めて異例であるが、 住民のニーズに応えた形で公共事業が再評価されたモデルケースであり、観念的な反対論を排除した客観的検討によって関係者が議論した方法であるといわれている。その一方で日本共産党や全国の公共事業に対し厳しい監視を行っている「国土問題研究会」は足羽川ダム建設には反対し、従来どおりの堤防などによる治水対策を訴えている。ただし、現在のところ流域市町村や豪雨被災住民、そして当の水没予定地域に住む住民はダム建設に賛成の意思を示しており、ダム反対派は不利な状況下にある[要出典]。今後は水没地域住民への補償の充実性や地域振興への国土交通省の対応が焦点となっている。

九頭竜川水系の主要河川

九頭竜川水系の河川施設

九頭竜川水系で残存する最初の河川施設は、保元年間に藤原国貞が開削した十郷用水である。この用水は後に代々の越前支配者により管理される重要な施設となった。灌漑施設は戦後、用水の水源である鳴鹿に鳴鹿堰堤が1954年(昭和29年)に建設されることで近代化した。水力発電1899年(明治41年)に京都電燈が足羽川に発電所を建設したのが始まりで、戦後には大規模な水力発電計画が北陸電力電源開発により進められるが、水利権の問題で紛糾した。建設省(現在の国土交通省)は調停に乗り出す一方、伊勢湾台風による水害を機に九頭竜川の総合開発に乗り出し、ここに治水と電源開発が一体となった「奥越総合開発計画」が動き出す。1965年(昭和40年)の奥越豪雨によって未曾有の災害を受け、計画は修正されて現在九頭竜川はダム・堰が一体化した管理を行っている。

河川施設一覧

九頭竜川鳴鹿大堰
足羽川頭首工(足羽川)
八乙女頭首工(日野川)
一次
支川名
(本川)
二次
支川名
三次
支川名
ダム名 堤高
(m)
総貯水
容量
(千m3)
型式 事業者 備考
九頭竜川 九頭竜ダム 128.0 353,000 ロックフィル 国土交通省
電源開発
九頭竜川 鷲ダム 45.0 9,650 重力式アーチ 電源開発
九頭竜川 仏原ダム 48.6 3,723 重力式 北陸電力
九頭竜川 九頭竜川鳴鹿大堰 5.7 742 可動堰 国土交通省
石徹白川 石徹白ダム 32.0 917 重力式アーチ 電源開発
石徹白川 山原ダム 23.0 900 重力式 電源開発
真名川 笹生川ダム 76.0 58,806 重力式 福井県
北陸電力
真名川 真名川ダム 127.5 115,000 アーチ式 国土交通省
北陸電力
真名川 雲川 雲川ダム 39.0 1,490 アーチ式 福井県
浄土寺川 浄土寺川ダム 72.0 2,160 重力式 福井県
滝波川 小原ダム 35.5 152 重力式アーチ 北陸電力
滝波川 滝波ダム 30.3 426 ロックフィル 福井県
永平寺川 永平寺ダム 55.0 770 重力式 福井県
馬戸谷川 総ヶ谷ダム 32.4 236 アース 福井県
日野川 二ッ屋分水堰 24.7 重力式 農林水産省
日野川 広野ダム 63.0 11,300 重力式 福井県
北陸電力
日野川 松ヶ鼻頭首工 固定堰 福井県
日野川 桝谷川 桝谷ダム 100.4 24,200 ロックフィル 農林水産省
福井県
日野川 吉野瀬川 吉野瀬川ダム 59.5 7,900 重力式 福井県 建設中
日野川 足羽川 足羽川頭首工 固定堰 福井県
日野川 足羽川 足羽川放水路 放水路 国土交通省
日野川 足羽川 部子川 足羽川ダム 96.0 28,700 重力式 国土交通省 建設中
開谷川 開谷ダム 25.0 107 ロックフィル 福井県
竹田川 龍ヶ鼻ダム 79.5 10,200 重力式 福井県
北陸電力

(注):黄色欄は建設中もしくは計画中のダム(2022年時点)。

三国競艇場(旧)

三国競艇場は開設時の1953年から1968年まで、九頭竜川の河口部にほど近い河川敷堤内地に所在し、競艇レースを実施していた。1966年の九頭竜川一級河川昇格に伴い建設省より移転通達が出されたことで、1968年に三国町池上(現在の坂井市三国町池上)と芦原町舟津(現在のあわら市舟津)に跨がる現在地へと移転した。そもそも当時の三国町が競艇事業を始めるきっかけになったのも、九頭竜川から流れ出る土砂で河口に位置する三国港(現在の福井港三国港地区)が埋そくされるため、その浚渫事業の費用を償還するためのものであった[11]

この九頭竜川河口時代の競艇場は、全国でも数少ない河川水面の競艇場であったが、『九頭竜の三角波』といわれる特有の波が発生する全国屈指の高難度の競走水面として名高く、選手も恐れる競艇場として知られていた。

九頭竜川にちなんだ作品など

楽曲
清酒
  • 黒龍 - 吉田郡永平寺町の酒造メーカー「黒龍酒造」が醸造・販売する日本酒の銘柄[4][5][6]。九頭竜川の別名「黒龍川」にちなんでいる[4]

脚注

  1. ^ 福井ふるさと百景 命を育む母なる大河 九頭竜川 (PDF) - 福井県
  2. ^ 九頭竜川の名の由来”. www.kkr.mlit.go.jp. 2019年9月6日閲覧。
  3. ^ 「福井県の九頭竜川(くずりゅうがわ)について、九頭竜にまつわる神話、民話、伝説にはどんなものがあるのか。九つの頭にそれぞれ何か意味があるのか、宗教との関わりなども含めて知りたい。」(福井県立図書館) - レファレンス協同データベース
  4. ^ a b c d e 知ってる?有名な日本酒の名前の由来”. @DIME (2022年2月23日). 2022年7月24日閲覧。
  5. ^ a b 福井の銘酒「黒龍」の蔵を訪ねる1”. All About (2006年8月11日). 2022年7月24日閲覧。
  6. ^ a b 【20歳以上限定】日本酒ブランド「黒龍」、食と酒を楽しむ大人の観光施設「ESHIKOTO」を福井にオープン!”. マイナビニュース (2022年6月9日). 2022年7月24日閲覧。
  7. ^ 3度の災禍を乗り越えた「不死鳥の街」”. ナショナルジオグラフィック日本版 (2019年5月29日). 2022年1月13日閲覧。
  8. ^ あの駅には何がある? (37) 災禍頻発でも不屈の精神、福井市の中心軸は福井城 - 福井駅(前編)”. マイナビニュース (2021年5月3日). 2022年1月13日閲覧。
  9. ^ 「北陸三県に豪雨禍」『朝日新聞』昭和23年7月26日.2面
  10. ^ 「福井・岐阜にも豪雨禍 真名川などはんらん」『日本経済新聞』昭和40年9月16日夕刊,7面
  11. ^ 競艇沿革史 武生三国モーターボート競走施行組合”. 日本財団図書館. 2020年10月7日閲覧。
  12. ^ “石原慎太郎氏25年ぶり作詞 五木ひろしが作曲&歌唱”. スポーツニッポン. (2016年2月15日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/02/15/kiji/K20160215012044570.html 2022年7月24日閲覧。 
  13. ^ “五木ひろし、石原慎太郎氏作詞の新曲「思い出の川」を披露”. サンケイスポーツ. (2016年4月12日). https://www.sanspo.com/article/20160412-GIFCLHYNQJLEZOZ7R2XCZYGYNE/ 2022年7月24日閲覧。 
  14. ^ “嵐が大トリ、紅組トリは石川さゆり 紅白曲順発表”. 日刊スポーツ. (2016年12月25日). https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1756574.html 2022年7月24日閲覧。 
  15. ^ 石川さゆりが“毎年違う”「天城越え」アピール、坂本冬美は姪っ子との秘話明かす”. 音楽ナタリー (2016年12月29日). 2022年7月24日閲覧。
  16. ^ “福井)五木ひろしさん「九頭竜川」歌碑 大野市に建立”. 朝日新聞デジタル. (2018年10月11日). https://www.asahi.com/articles/ASL9X7347L9XPGJB00S.html 2022年7月24日閲覧。 

参考文献

  • 『九頭竜川流域史』:国土交通省近畿地方整備局 福井河川国道事務所
  • 『ダム便覧 2006』:日本ダム協会。2006年
  • 『日本の多目的ダム』1972年版:建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編。山海堂 1972年
  • 『日本の多目的ダム』1980年版:建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編。山海堂 1980年
  • 大庭桂『竜の谷のひみつ』、旺文社、2000年 ISBN 4010695560

関連項目

外部リンク


九頭龍川

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/03 22:55 UTC 版)

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九頭龍川
水系 一級水系 荒川水系
種別 一級河川
延長 1.7[1] km
水源の標高 -- m
河口・合流先 和田吉野川に合流
流域 埼玉県東松山市
テンプレートを表示

九頭龍川(くずりゅうがわ)は、埼玉県東松山市を流れる荒川水系の一級河川

概要

和田吉野川比企丘陵の縁に挟まれた低地排水を目的とした延長1.7キロメートルの水路(人工河川)。水路の管理者は埼玉県である[2]。和田吉野川の右岸堤防沿いを流れる。周辺では通殿川が同じように和田吉野川堤防左岸沿いを流れる。周囲は主に水田などの農地である。河川名は九頭龍権現に祀られていた九頭龍から。

橋梁・施設

  • 埼玉県岡排水機場
  • 相上堤 - 江戸時代初期に水害防止を目的として築かれた控堤[3][4]。九頭龍川の最下流部に位置する。
  • 吉見神社 - 相上神楽(熊谷市指定無形民俗文化財)がある[5]

脚注

  1. ^ 埼玉県地域防災計画 資料編:第3編(風水害編) (PDF) p. 501(p. 19) - 埼玉県 .(2016年3月)、2016年6月13日閲覧。
  2. ^ 荒川水系 荒川中流右岸ブロック河川整備計画 (県管理区間) (PDF) p. 20 - 埼玉県 .(2006年2月)、2016年6月13日閲覧。
  3. ^ 河川の堤防 - 近世以前の土木・産業遺産、2016年6月13日閲覧。
  4. ^ 和田吉野川 - 和田川の合流から相上堤まで - 有限会社フカダソフト(気まぐれ旅写真館)、2016年6月13日閲覧。
  5. ^ 熊谷市指定無形民俗文化財 相上神楽 - 熊谷市立江南文化財センター(熊谷デジタルミュージアム)、2016年6月13日閲覧。

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