縄文・弥生時代
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時代を遡り、すりつぶした栗や芋類(サトイモ、ヤマイモなど)などを同様に一口大程度に平たく押しつぶして焼いた物が、縄文遺跡の住居跡からも出土している。 吉野ヶ里遺跡や登呂遺跡の住居跡から、一口大程度に平たく潰し焼いた穀物製の餅が出土しており、既に弥生時代には煎餅に近い物が食されていたのではないかと考えられている。
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縄文・弥生時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 21:40 UTC 版)
「御津町 (愛知県)」の記事における「縄文・弥生時代」の解説
御津町に隣接する豊橋市の瓜郷遺跡には多数の農耕具が出土しているが、御津町地域はこの瓜郷に居住していた人々の生活圏内にあったとみられる。町内では、長床遺跡をはじめ石堂野遺跡、河原田A遺跡などの遺跡群が確認されている。 長床(ながとこ)遺跡は1936年、御津南部尋常高等小学校(現・豊川市立御津南部小学校)の講堂建設工事の際に発見された。高坏を含む数々の土器が出土したが、それまで知られていた弥生土器とはいくつかの点で様式が異なっていた。具体的には、壺の胴部が算盤の玉のように上下のすぼまった形状をしており、波線と直線が交互に引かれていた。また、脚台のある土器には丹塗りが施されていた。蒲郡市在住の考古学研究家・久永春男は、長床遺跡で発掘されたこれらの土器と特徴を同じくする土器を「長床式土器」と称することを提唱した。 発見から約半世紀後の1987年、講堂の取り壊しと校庭拡張が行われたのを機会に、再び調査が実施された。 石堂野遺跡では1985年、愛知県立御津高等学校の建設工事に際して愛知県埋蔵文化物センターが調査を実施した結果、弥生時代後期の土器が出土した。河原田A遺跡は、県道国府前芝線の建設工事中に土器片などが発見されたことによって存在が明らかとなった。1965年11月に行われた愛知大学文学部史学研究室の調査では、石器(石鏃、石槌、石包丁など)、長床式土器の存在が報告された。また、萩原神社遺跡及び二本松遺跡には、土器片が散乱している。 広石の新宮山では1878年、道路工事中に銅鐸が出土した。この銅鐸は高さ46cm、底部長径24cmの流水文銅鐸で、1974年に愛知県の有形文化財に指定された。町内には、このほかに2つの銅鐸が出土したと記録されているが、いずれも実在が確認されていない。
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縄文・弥生時代
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1987年に現在の狛江弁財天池特別緑地保全地区近くで行われた調査で、縄文時代以降に作られたとされる敷石住居や方形周溝墓、落とし穴の跡が発掘されたことからこの頃からすでに人が定住していたと考えられている。特に方形周溝墓は一辺が18mとかなり大きく、この時にはすでに指導者的立場の人物が存在していて、ある程度社会ができていたことを窺わせる。
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縄文・弥生時代
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縄文時代後期から弥生時代中期に竪穴式住居や、花弁形の建物、土坑(貯蔵穴)が使用されていたことが分かっている。この時代は大野郡の陣箱遺跡の地域が発達した。
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縄文・弥生時代
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一説には、すでに縄文時代に存在していたとされるが、歴史文書に初めて登場するのは弥生時代であり、『後漢書』の東夷伝に、「倭国王・帥升が、生口160人を安帝へ献上した」(西暦107年)という趣旨の記録がある。また、いわゆる『魏志倭人伝』にも、邪馬台国の女王・卑弥呼が婢を1000人侍らせ、西暦239年以降、魏王へと生口を幾度か献上した旨の記述がある(ただし、「生口」は奴隷の意味ではないと解釈する説もある)。
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縄文・弥生時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 21:23 UTC 版)
周防灘側の猿喰や平山では、縄文時代のものと見られる土坑墓が発見され、櫛毛川や中畑では、土器、鏃が発見されている。これらは、九州自動車道建設の際の調査で発見された。中畑遺跡(縄文後期後葉)では、竪穴式住居跡が確認され、三万田(みまんだ)式土器を出土した。櫛毛川遺跡(縄文後期末葉-晩期初頭)で発見された土器は、小さな破片ばかりである。 弥生時代の遺跡としては、大里地区の大里桃山遺跡、周防灘側の大積浜方遺跡で、土器等が出土している。弥生時代、稲作の先進地域だった北部九州の中でも、遠賀川以東の北豊前は、遠賀川以西(福岡平野、筑後平野、唐津平野)とは文化が異なり、重弧紋、綾杉紋、羽状紋、山形紋などを施した多彩な壺は北豊前独特の文化であるとされる。
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