ソロモン諸島の戦いとは? わかりやすく解説

ソロモン諸島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 00:33 UTC 版)

夕凪 (2代神風型駆逐艦)」の記事における「ソロモン諸島の戦い」の解説

1942年昭和17年8月7日早朝米軍ツラギ島ガダルカナル島上陸し南太平洋での本格的な反攻転じた急報受けた外南洋部隊指揮官三川軍一中将第八艦隊司令長官)は重巡鳥海第八艦隊旗艦)と第六戦隊司令官五藤存知少将)の重巡4隻(青葉加古衣笠古鷹)の計5隻で米揚陸部隊撃滅計画した軽巡天龍夕張夕凪はたまたラバウル在泊中で、第十八戦隊参加上申し夕張夕凪艦隊加わった鳥海以下の艦船同日午後2時半ラバウル出撃、約2時間後に第六戦隊合流しガダルカナル島進撃した三川長官直率の外南洋部隊連合軍重巡洋艦4隻を撃沈し巡洋艦駆逐艦複数隻に損傷与えた帰路重巡加古喪失したものの、勝利を収めた海戦到る経緯行動詳細は、当該記事参照)。 詳細は「第一次ソロモン海戦」を参照 8月11日夜、追風夕凪と共にラバウル出撃13日ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃し14日帰投した。8月24-25日の第二次ソロモン海戦前後における外南洋部隊は、日本陸軍一木支隊をのせた輸送船団第二水雷戦隊司令官田中頼三少将護衛)を間接支援するため、ソロモン諸島機宜行動する夕凪は、鳥海第八艦隊旗艦)や第六戦隊青葉古鷹衣笠)などと行動を共にし、また8月19日からはサンタイサベル島レカタ水上機基地設営協力した21日外南洋部隊白露型駆逐艦江風(第24駆逐隊)と夕凪ガダルカナル島ルンガ泊地進入襲撃命じた。だが波浪のため夕凪速力22ノット以上を出すことができず、江風のみでの突撃となった江風はルンガ泊地駆逐艦ブルー撃沈している。夕凪引き揚げてきた江風合流しショートランド泊地移動した第二次ソロモン海戦当日夕凪外南洋部隊重巡洋艦群と行動を共にし、輸送船団支援おこなった夕凪8月下旬までソロモン諸島方面行動し9月上旬からはナウル島オーシャン島攻略作戦従事した以降中部太平洋輸送ルートを守る第二海上護衛隊の各艦と共に活動ソロモン諸島マーシャル諸島などで護衛任務従事した10月中旬マーロン・S・ティスデール英語版少将指揮する重巡洋艦ポートランド軽巡洋艦サンフアンは、南太平洋南下していた。ポートランド旗艦)は単艦で10月15日タラワ島到達しタラワ在泊および近海日本軍艦船夕凪浮島丸筑紫日立丸)やタラワ守備隊横須賀鎮守府第六特別陸戦隊に対して艦砲射撃をおこなう。また艦載機SOCシーガル水上観測機空襲敢行した。当初筑紫ポートランド大和型戦艦武蔵思っていたという。夕凪当初戦艦報告している。ポートランドは約30分間にわたり砲撃敢行する日本側各艦に若干損害があったが決定的な被害はなく、ポートランド日本軍の空襲懸念して去っていった。翌日、米巡洋艦監視艇2隻を撃沈しソロモン諸島むかった。この砲撃により、タラワの横六特は収容中民間人3名と捕虜19名を処刑してしまった。 10月26日第四艦隊司令長官井上成美中将から鮫島具重中将交代した11月中旬鮫島長官練習巡洋艦鹿島乗艦し、マーシャル群島視察することにした。夕凪朝凪鹿島護衛して中部太平洋諸島クェゼリン環礁ルオット島、イミエジ島、ヤルート島ヤルート島)を視察する途中で朝凪マーシャル方面残り鹿島夕凪12月2日トラック帰投した。以後夕凪は、ふたたび第二海上護衛隊として護衛任務就いた

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ソロモン諸島の戦い

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萩風 (駆逐艦)」の記事における「ソロモン諸島の戦い」の解説

8月7日米軍ガダルカナル島フロリダ諸島上陸ガダルカナル島の戦いがはじまる。8月16日午前5時、陽炎型駆逐艦6隻(指揮官/有賀第4駆逐隊司令:嵐《司令駆逐艦》、萩風陽炎谷風浦風浜風)は陸軍一木支隊900名(指揮官一木清直大佐)を分乗させトラック泊地出撃8月18日21以降ガダルカナル島タイボ岬へ揚陸した。この部隊21日イル川渡河戦全滅している。第17駆逐隊3隻(谷風浦風浜風)はラビの戦い(「レ」号作戦)に従事するためガダルカナル島海域離脱してラバウル向かった陽炎型3隻(嵐、萩風陽炎)は警戒艦として、ひきつづきルンガ泊地附近行動した8月19日、「萩風陽炎」はサボ島周辺米軍魚雷艇数隻を砲撃撃沈。「萩風」は1隻を拿捕し調査したあと自沈させた。日中B-17爆撃機空襲を受け艦尾三番砲塔とも)に被弾。舵故障起こす。「萩風」は「嵐」の援護下でガ島浅瀬停泊、舵を中央固定した有賀司令は「陽炎」にガ島海域警戒任務を引き継がせると、2隻(嵐、萩風)をトラック泊地回航させた。泊地到着直前23日午後1時、「嵐、萩風」は山本五十六連合艦隊司令長官座乗戦艦大和」、空母春日丸(大鷹)」、第7駆逐隊(漣、潮、曙)と遭遇した9月8日附で岩上中佐萩風艦長)は陽炎11番艦「浦風駆逐艦長転任萩風駆逐艦長には畑野健二少佐睦月型駆逐艦1番艦「睦月沈没駆逐艦長)が任命された。10月1日左舷推進軸損傷していた「萩風」は日本本土へ回航される。7日、右推進器の切損により航行不能となり、朝潮型駆逐艦山雲」に護衛され8日横須賀港戻った到着後、翌1943年昭和18年1月22日まで浦賀船渠修理従事するこの間12月1日附で畑野萩風艦長夕雲型駆逐艦8番艦「清波」艤装員長任命されている。清波艤装員長職務12月28日附で有馬時吉中佐交代した。また第4駆逐隊僚艦野分」は12月7日鼠輸送中に損傷、「嵐」は昭和18年1月15日鼠輸送作戦損傷、「舞風」は2月4日ガダルカナル島撤退作戦ケ号作戦従事中に損傷それぞれ内地帰投修理余儀なくされる1943年昭和18年2月20日、第4駆逐隊司令有賀幸作大佐から杉浦嘉十大佐交代する2月24日杉浦司令司令駆逐艦を「嵐」から「萩風」に変更した修理終えた萩風」は、夕雲型駆逐艦7番艦「大波と共に空母冲鷹」を護衛して2月28日横須賀出港しトラック進出3月8日、「萩風」は第27駆逐隊駆逐艦夕暮と共に空母冲鷹」の横須賀回航護衛する横須賀帰投後の2隻(萩風夕暮)は戦艦金剛」の内海西部回航護衛した3月下旬は、空母翔鶴」及び第50航空戦隊(鳳翔龍鳳)の訓練協力28日トラック泊地より内地帰投中の第七戦隊部隊鈴谷熊野浦風掩護派遣される4月1日第三戦隊司令官栗田健男中将指揮下の各艦(金剛榛名浦風萩風)は呉を出発6日トラック泊地到着その後、同泊地ラバウル方面輸送任務従事した4月下旬トラック泊地にあった15駆逐隊親潮黒潮陽炎)、第24駆逐隊海風)、第4駆逐隊萩風)は4月24日附で南東方面部隊編入され中部ソロモン方面輸送作戦従事することになった。各艦は26日ラバウル到着して増援部隊編入作戦のためブイン進出した。2隻(萩風海風)は4月29日第二次コロンバンガラ島輸送作戦5月4日第四次輸送任務従事した。ところが第五次輸送作戦従事中の第15駆逐隊親潮黒潮陽炎)は米軍敷設した機雷によって大破、さらに航空攻撃受けて3隻とも沈没した第六次作戦のため待機中の2隻(萩風海風)は急遽出動コロンバンガラ島一周して15駆逐隊捜索し内火艇1隻を発見する乗船中の陽炎先任将校から第15駆逐隊3隻沈没生存者救助済の連絡を受け、2隻(萩風海風)は引き返した。第15駆逐隊全滅によって鼠輸送駆逐艦輸送作戦)は5月下旬まで中止されている。なお「陽炎」の除籍にともない陽炎型駆逐艦は『不知火型駆逐艦』に改定された。 5月17日、「萩風」は第四水雷戦隊司令官高間少将旗艦長良」)に編入された。煙突短艇標識塗装変化はない。6月5日、「萩風」は夕雲型駆逐艦「清波」、吹雪型駆逐艦「潮」と共に空母2隻(雲鷹冲鷹)の横須賀回航護衛するになった6月5日トラック出発し本土へ向かう。6月10日横須賀到着前日)、「萩風」は第四水雷戦隊指揮下を離れた同日夕刻第27駆逐隊有明夕暮)に護衛されていた空母飛鷹」は米潜水艦トリガー雷撃受けて航行不能となる。横須賀回航中の軽巡洋艦五十鈴」が被雷現場おもむき曳航救難開始6月11日横須賀停泊中の扶桑型戦艦2番艦「山城」と「萩風」にも飛鷹曳航のため出撃命令下されるが、飛鷹側は曳航状態良好のため「山城の曳航必要なきものと認む」と発信した6月12日飛鷹隊は横須賀到着する6月16日附で萩風駆逐艦長畑野少佐から馬越正博少佐交代した7月10日第三艦隊司令長官小沢治三郎中将指揮する空母4隻(翔鶴瑞鶴瑞鳳冲鷹)、重巡洋艦3隻(利根筑摩最上)、軽巡洋艦2隻(大淀阿賀野)、水上機母艦日進」、駆逐艦部隊(第4駆逐隊《嵐、萩風》、第17駆逐隊磯風》、第61駆逐隊涼月初月》、夕雲型駆逐艦玉波》)は横須賀出撃。各艦は、マーシャル諸島ソロモン諸島派遣予定陸軍部隊軍需物資搭載していた。7月15日暗号解読僚艦からの通報により、米潜水艦ティノサポーギートラック諸島近海小沢機動部隊待ち伏せていた。ティノサは距離3500mで魚雷4本を発射する回避され小沢艦隊被害なくトラック泊地到着した7月19日大型艦5隻(利根筑摩最上大淀日進)と第十戦隊阿賀野萩風、嵐、磯風涼月初月)は更にトラック泊地経てラバウル進出した7月21日第十戦隊司令官大杉守一少将は「阿賀野」から一時的に萩風」へ移乗旗艦変更した。「嵐」は「利根」、「萩風」は「筑摩」、「磯風」は「大淀」に接舷し、それぞれ補給を受ける。準備完了後、不知火型3隻(萩風、嵐、磯風)は、中戦車22両・野16門・歩兵三個大隊各種軍需物資満載した水上機母艦日進」を護衛してラバウル出撃ブーゲンビル島ブインへと向かう。第61駆逐隊涼月初月)も続けて出港しブカ島向かった。だがブイン輸送隊ブイン直前米軍機70機以上の攻撃を受け「日進」は撃沈される。3隻(萩風、嵐、磯風)はブインに約750名の兵員輸送したのち日進沈没現場戻り海軍92名・陸軍81名を救助した。「日進」の沈没3月3日ビスマルク海海戦再現になってしまった。

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ソロモン諸島の戦い

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朝潮 (朝潮型駆逐艦)」の記事における「ソロモン諸島の戦い」の解説

1942年昭和17年10月20日第8駆逐隊満潮復帰した第8駆逐隊第八艦隊司令長官三川軍一中将)に編入された。10月22日第8駆逐隊満潮朝潮)は横須賀出発10月30日ラバウル到着11月1日からガダルカナル島輸送作戦鼠輸送東京急行)に従事する11月1日増援部隊第一攻撃隊(衣笠川内天霧初雪)を率いて1日23時ショートランド泊地出撃した。甲増援隊(駆逐艦朝雲軽巡天龍、第2駆逐隊村雨春雨夕立》、第27駆逐隊時雨白露有明夕暮》、第6駆逐隊《暁、》、第11駆逐隊白雪》)および乙増援隊(満潮朝潮、第19駆逐隊浦波敷波綾波》、望月)も第一攻撃隊と前後してショートランド泊地出撃した。甲増援部隊揚陸ガ島揚陸地点強風波浪により一部失敗したが、乙増援部隊輸送成功した11月4日、甲増援隊(朝雲村雨春雨夕立時雨白露有明夕暮朝潮満潮)は4日23時30分にショートランド泊地出撃。乙増援隊(浦波敷波綾波白雪望月天龍)は5日午前0時に同泊地出撃した。5日深夜各隊ガ島揚陸成功し、2隻(朝雲天龍)が米潜水艦雷撃されるも損害はなかった。7日ガ島輸送は乙増援隊(朝雲望月村雨夕立時雨白露夕暮朝潮満潮)によって実施された。7日23時ショートランド泊地出撃輸送作戦成功した詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照 11月12日以降ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場基地対す砲撃日本軍輸送船団をめぐり、日米双方主力艦隊を投入して大規模海戦発展していった(第三次ソロモン海戦)。12日第一次夜戦帝国海軍は3隻(戦艦比叡》、駆逐艦夕立、暁》)を喪失飛行場砲撃中止された。11月13日未明アメリカ軍大型機の空襲により出撃準備中満潮大破このため主隊所属朝潮飛行場砲撃時に支援隊を護衛することになった同日午前3時-4時30分、外南洋部隊主隊(重巡鳥海衣笠》、軽巡洋艦五十鈴》)と外南洋部隊支援隊(重巡鈴谷摩耶》、天龍第10駆逐隊夕雲巻雲風雲》、朝潮)はショートランド泊地出撃する同日23時30分より鈴谷摩耶ヘンダーソン飛行場砲撃敢行するが、飛行場作戦能力影響はなかった。このあとガ島海域離脱してニュージョージア諸島南方航行中外南洋部隊空母エンタープライズ艦載機ヘンダーソン基地から飛来し急降下爆撃機SBDドーントレスおよび雷撃機TBFアベンジャー攻撃を受ける。衣笠沈没し朝潮損傷した軽巡五十鈴護衛して帰投した。 11月17日朝、朝潮以下、外南洋部隊主力艦艇はラバウル到着パプアニューギニアブナ上陸した連合軍対処することになったブナ・ゴナの戦い)。駆逐艦3隻(朝潮海風江風)と鴻型水雷艇2隻による陸兵500名のバサブア輸送作戦は、揚陸中にB-17空襲をうけて本艦以下3隻が損傷海風大破江風中破朝潮小破)。海風航行不能となった江風は単艦で退避朝潮海風曳航して21日ラバウル戻ったラバウル停泊中だった駆逐艦2隻(親潮陽炎)も救援のため出撃している。 12月1日午前0時第8駆逐隊司令指揮下の駆逐艦4隻(朝潮荒潮磯波、電)はブナ輸送のためラバウル出撃するアメリカ軍大型爆撃機執拗な空襲悩まされた上に揚陸地点大発動艇部隊との連絡がつかず、2日未明一部物件揚陸したにとどまった。電・朝潮B-17交戦して撃墜され友軍航空機搭乗員1名をそれぞれ救助した12月8日早朝風雲夕雲朝潮荒潮磯波、電はブナ輸送実施するためラバウル出撃するが、8時15分飛来したB-24(1機)を味方機と誤認した朝潮空襲を受け艦尾至近弾となり二番三番砲塔損傷中破した。天龍救援に向かう中、外南洋部隊下令従い輸送駆逐隊反転した帰途磯波至近弾で小破した。 応急修理後の12月17日陸兵輸送のため朝潮望月ラバウル出撃してカビエンニューアイルランド島)へ移動18日カビエン出撃19日ダンピール海峡ニューギニア側のフォン半島フィンシュハーフェン陸兵250名を揚陸した。帰途空襲をうけた望月死傷者40数名出した12月20日カビエン回航望月ラバウル帰投)。朝潮重巡2隻(熊野鈴谷)より燃料補給受けた21日朝潮カビエン出発ラバウル向かった12月22日外南洋部隊朝潮ショートランド泊地への移動下令同地取り残されていた満潮トラック泊地までの曳航駆逐艦天霧護衛命じた12月29日大潮第8駆逐隊復帰最前線進出した1943年昭和18年1月7日駆逐艦6隻(電、磯波有明夕暮朝潮天霧)、鈴谷戦艦陸奥空母瑞鶴トラック泊地出発内地向かった12日、3隻(陸奥朝潮、電)は横須賀帰投する。 2月7日駆逐艦3隻(村雨浦波朝潮)は空母冲鷹護衛して横須賀出港2月12日、4隻はトラック到着2月15日駆逐隊司令佐藤康夫大佐就任した2月20日大潮が米潜水艦アルバコア雷撃大破2月21日沈没した22日夜、朝潮浦波マダン陸軍航空基地250名を揚陸した。

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ソロモン諸島の戦い

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朝雲 (駆逐艦)」の記事における「ソロモン諸島の戦い」の解説

不時着した二式飛行艇捜索むかった夏雲」(19日トラック着)を除く第9駆逐隊朝雲峯雲)は第4戦隊愛宕/第二艦隊旗艦高雄)を護衛してトラック泊地進出24日-25日第二次ソロモン海戦参加するその後9月20日からガダルカナル島輸送に9回従事した10月5日、第9駆逐隊僚艦峯雲」は空襲により損傷戦線から離脱した10月12日サボ島沖海戦損傷艦救援むかった第9駆逐隊僚艦夏雲」が空襲を受け沈没、「朝雲」は同艦乗組員救助を行う。10月25日第四水雷戦隊旗艦秋月」が被弾して中破、「秋月以前の旗艦だった軽巡洋艦由良」も沈没した高間第四水雷戦隊司令官一時村雨」に将旗掲げたのち、10月31日から旗艦を「朝雲」に変更した詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照 11月中旬第四水雷戦隊旗艦朝雲」は第2駆逐隊村雨五月雨夕立春雨)・第27駆逐隊時雨白露夕暮)を指揮し第11戦隊(司令官阿部弘毅少将戦艦比叡霧島)を中核とする『挺身艦隊』に所属して第三次ソロモン海戦参加する挺身艦隊悪天候の中で何度も反転したため四水戦陣形崩れ警戒隊として先行するはずだった「朝雲」及び第2駆逐隊第1小隊村雨五月雨)は第11戦本隊同行する事になり、第2駆逐隊第2小隊夕立春雨)のみ艦隊前面突出する格好となったこのような状況下ではじまった13日第一夜戦で、挺身艦隊駆逐艦「暁」沈没戦艦/旗艦比叡操舵不能駆逐艦夕立航行不能「雷」天津風中破、「村雨」「春雨損傷という損害を受ける。午前1時、「朝雲」は炎上する夕立」に接近高間司令官は「夕立乗組員に艦を放棄してガダルカナル島へ向かうよう命令したカッターボート降ろした朝雲」は「夕立」を残して離脱していった。その後、「五月雨」が救援のために到着し夕立乗組員救助している。「朝雲」は戦艦霧島」を護衛して戦闘海域離脱した第一夜戦で「朝雲」は主砲88発・魚雷8本を発射、敵駆逐艦1隻撃沈記録した一方、「雪風」、「照月」、「時雨」、「白露」、「夕暮」に護衛されていた「比叡」は空襲受けて損傷進み13日夕刻になって放棄され沈没した詳細は「霧島 (戦艦)#第二夜戦」を参照 日本海軍艦隊の再編行い戦力整えた第一夜戦参加した朝雲」、「五月雨」、「照月」は近藤信竹中将旗艦愛宕」)の指揮下に入り、再びガダルカナル島へ向かう。これを米軍64任務部隊司令官ウィリス・A・リー少将)の米新鋭戦艦2隻(ワシントンサウスダコタ)が迎撃し、第三次ソロモン海戦第二夜戦生起する。「朝雲」は秋月型駆逐艦照月」に対し魚雷戦を命令。「朝雲」は酸素魚雷4本を発射して2本命中を確認、他艦と共同によりノースカロライナ級戦艦1隻撃沈記録した同様に愛宕」「高雄」も多数酸素魚雷発射して戦艦撃沈報告したが、実際には米駆逐艦残骸命中する自爆しており、米戦艦命中した魚雷は1本もなかった。結局愛宕」、「高雄」、「霧島」、「朝雲」、「照月」は米戦艦決定的損害与えられず、逆に霧島」がワシントン撃沈された。戦闘終了後駆逐艦3隻(朝雲五月雨照月)は沈没直前の「霧島」に接近して救助活動実施。「朝雲」は「霧島」の乗員618名を救助しトラック帰投する。本海戦において「朝雲」が受けた被害無かった11月下旬、四水戦旗艦軽巡洋艦長良」に変更された。12月中旬、「朝雲」「時雨」は横須賀からトラック泊地進出する空母2隻(龍鳳冲鷹)と駆逐艦2隻(時津風卯月)をサイパン附近まで出迎え予定であったが、「龍鳳」は12日の米潜水艦雷撃中破横須賀避退した。「冲鷹」「卯月」のみ横須賀からトラック向かい、「朝雲」「時雨」はサイパン北西で2隻と合流したこの後も「朝雲」「時雨」は空母冲鷹」の横須賀トラック往復護衛した1943年昭和18年1月21日、米潜水艦シルバーサイズの雷撃撃沈された輸送船「明宇丸」救援のため「朝雲」はトラック泊地出発し、「明宇丸」の乗員救助した1943年昭和18年2月上旬、「朝雲」はガダルカナル島撤収作戦ケ号作戦参加した当初支援部隊として行動していたが、第一次撤収作戦2月1日)で第31駆逐隊巻波」が大破第10駆逐隊巻雲」が沈没、その代艦として「朝雲」と「五月雨」は撤収部隊編入されガダルカナル島方面進出する。第4駆逐隊舞風」が損傷した第二次撤収作戦2月4日)、第17駆逐隊磯風」が損傷した第三次撤収作戦2月7日)の両方参加したが、被害はなかった。2月中旬、「朝雲」は第9戦隊(北上大井)、第10駆逐隊秋雲夕雲風雲)、「五月雨」、「皐月」、「文月」、「長月と共にウェワク輸送船団護衛した2月28日第3水雷戦隊木村昌福少将旗艦/第11駆逐隊白雪」)・第8駆逐隊荒潮朝潮)・第9駆逐隊朝雲)・第16駆逐隊雪風時津風)・第19駆逐隊浦波敷波)は陸軍輸送船団護衛されラバウル出撃速力9ノット西方へ向かう。3月2日B-17爆撃機による爆撃輸送船「旭盛丸」が沈没、「朝雲」と「雪風」は船団先行してラエ向かい、「旭盛丸」の人員物資揚陸すると再び船団戻った詳細は「ビスマルク海海戦」を参照 3月3日ラエ輸送中にダンピア海峡ビスマルク海海戦起こり輸送船団クレチン南東沖でアメリカオーストラリア軍機の空襲受けたダンピール海峡の悲劇)。空襲により輸送船は全隻沈没。また護衛駆逐艦4隻(白雪朝潮荒潮時津風)も沈没した。「朝雲」は「雪風」、「浦波」、「敷波」および救援のために駆け付けた「初雪」と共に救助活動を行う。485名を救助最後まで救助活動行った朝雲」、「敷波」、「雪風」は3月5日カビエン帰投した。同日コロンバンガラ島輸送作戦従事していた駆逐艦村雨」と第9駆逐隊峯雲」は米艦隊奇襲により一方的に撃沈される(ビラ・スタンモーア夜戦)。「峯雲」の喪失により第9駆逐隊は「朝雲」1隻となったが、4月1日附で駆逐艦薄雲」「白雲」が編入され戦力回復した。なお朝潮型ネームシップ朝潮」の沈没にともない同日附で朝潮型駆逐艦は『満潮駆逐艦』に改定された。その後、「朝雲」はコロンバンガラ島輸送作戦従事3月8日朝雲雪風長月敷波浦波)、3月13日朝雲雪風長月)。4月1日五月雨朝雲夕雲風雲秋雲)、4月5日五月雨朝雲夕雲秋雲)。4月6日をもって朝雲」は外南洋部隊からのぞかれ、北方部隊編入された。13日は「雪風」、16日には第10駆逐隊秋雲夕雲風雲)が外南洋部隊からのぞかれ、代わりに15駆逐隊親潮黒潮陽炎)、「海風」、「萩風」が同部隊編入された。

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ソロモン諸島の戦い

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熊野 (重巡洋艦)」の記事における「ソロモン諸島の戦い」の解説

第七戦隊が呉で整備待機中の1943年昭和18年5月12日アメリカ軍北方方面反攻作戦実施アッツ島上陸開始したアッツ島の戦い)。5月17日第七戦隊最上航空巡洋艦)が復帰したアリューシャン方面の戦い備えて作戦準備を行うが、アッツ島守備隊5月29日全滅し第七戦隊内海西部へ戻った6月15日附で第七戦隊前進部隊編入され第三戦隊司令官栗田健男中将指揮下、第三戦隊(金剛榛名)、空母3隻(龍鳳大鷹沖鷹)、軽巡五十鈴駆逐艦部隊(第7駆逐隊《潮、曙、漣》、雪風、第17駆逐隊浜風谷風》、第27駆逐隊時雨有明夕暮》、涼風新月、清波)と共に横須賀出港21日トラック泊地到着した6月23日熊野鈴谷新月涼風有明ラバウルへの輸送任務実施27日トラック戻った新月外南洋部隊増援部隊編入されラバウル残った詳細は「ニュージョージア島の戦い」を参照 6月30日連合軍ニュージョージア諸島レンドバ島上陸開始南東方面状勢緊迫化したニュージョージア島の戦い)。7月9日第七戦隊南東方面部隊指揮官草鹿任一南東方面艦隊司令長官)の指揮下に入り外南洋部隊支援隊に編入される7月10日西村司令官直率の4隻(熊野鈴谷有明朝凪)はラバウル進出した7月15日第七戦隊外南洋部隊夜戦部隊編入される7月16日出撃熊野鈴谷川内雪風浜風夕暮、清波)は空振り終わった7月20日第七戦隊指揮下の夜襲部隊重巡3隻《熊野鈴谷鳥海》、水雷戦隊川内雪風浜風夕暮、清波》)は、輸送部隊三日月水無月松風と共にコロンバンガラ島輸送のためラバウル出撃。だがPBYカタリナ飛行艇"ブラックキャット"に誘導されアメリカ軍機の夜間空襲を受ける。夕暮と清波が沈没した熊野にはTBFアベンジャー雷撃機投下した魚雷1本が命中魚雷命中させた敵機魚雷投下後「熊野」の後部マストに翼を引っ掛けて墜落したという。木俣滋郎によれば魚雷ではなく反跳爆撃であるという。舵故障起こしたため熊野浜風護衛され避退した。 7月21日旗艦鈴谷変更された。熊野工作艦山彦丸の支援を受ける。7月29日応急修理終えた熊野駆逐艦皐月望月護衛されラバウル出発トラック回航される。トラック到着後、8月中は工作艦明石等の応急修理受けた8月28日トラック泊地出発9月2日熊野雪風は呉に帰還した熊野は呉にて修理行った11月3日熊野駆逐艦浜風南方出撃した(8日トラック泊地着)。その後小沢機動部隊と共にクェゼリン環礁等、中部太平洋諸島行動する12月5日トラック到着12月7日第七戦隊旗艦復帰25日までトラック泊地待機その後カビエンへの輸送任務(戊三号輸送任務)に第一部隊熊野鈴谷谷風満潮)として参加するちなみに、戊一号輸送任務は3隻(戦艦大和》、駆逐艦谷風山雲》)による本土からトラック泊地への陸兵輸送任務、戊二号輸送任務重巡洋艦3隻(妙高羽黒利根)・駆逐艦2隻(白露藤波)によるトラックカビエン輸送任務、戊三号輸送任務第二部隊は、軽巡洋艦2隻(能代大淀)・駆逐艦2隻(秋月山雲)によるトラックカビエン輸送任務である。12月26日熊野戦艦大和横付けして陸兵物資積載すると、同日夜にトラック出撃してカビエンに向かう。第一部隊熊野鈴谷谷風満潮)はアメリカ軍大型爆撃機発見された事で一旦トラック避退したのち、再出撃29日カビエン到着し物資揚陸成功すると、1944年昭和19年1月1日トラック泊地帰還した

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ソロモン諸島の戦い

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鈴谷 (重巡洋艦)」の記事における「ソロモン諸島の戦い」の解説

第七戦隊が呉で整備待機中の1943年昭和18年5月上旬アメリカ軍北方アリューシャン列島反攻作戦実施5月12日アッツ島上陸開始したアッツ島の戦い)。5月17日第七戦隊最上復帰したアリューシャン方面の戦い備えて作戦準備を行うが、アッツ島守備隊全滅し第七戦隊内海西部へ戻った6月15日附で第七戦隊前進部隊司令官栗田健男中将)に編入し第三戦隊(金剛榛名)、空母3隻(龍鳳大鷹沖鷹)、軽巡五十鈴駆逐艦部隊(第7駆逐隊《潮、曙、漣》、雪風、第17駆逐隊浜風谷風》、第27駆逐隊時雨有明夕暮》)、涼風新月、清波と共に横須賀出港21日トラック泊地到着した6月23日鈴谷熊野新月涼風有明と共にラバウルへの輸送任務実施27日トラック戻った詳細は「ニュージョージア島の戦い」を参照 6月30日連合軍ニュージョージア諸島レンドバ島上陸開始南東方面状勢緊迫化したニュージョージア島の戦い)。7月9日第七戦隊南東方面部隊司令長官草鹿任一中将)の指揮下に入り外南洋部隊支援隊に編入される7月10日鈴谷熊野有明朝凪と共にラバウル進出した7月15日第七戦隊外南洋部隊夜戦部隊編入された。7月16日出撃熊野鈴谷川内雪風浜風夕暮、清波)は空振り終わった7月20日鈴谷熊野鳥海水雷戦隊軽巡川内雪風浜風夕暮、清波)は夜戦部隊編制輸送部隊三日月水無月松風と共にラバウル出撃コロンバンガラ島向かった。だがPBYカタリナ飛行艇誘導されアメリカ軍機の夜間空襲を受け、夕暮と清波が沈没した熊野被雷したため7月21日旗艦鈴谷変更された。7月29日熊野修理のためトラック回航した。鈴谷10月上旬までラバウルとどまったのち、トラック泊地戻った11月1日連合軍ラバウル対す攻勢強化するため、ブーゲンビル島飛行場建設するため上陸作戦敢行した(ブーゲンビル島の戦い)。この脅威対処するため、連合艦隊トラック泊地待機している第二艦隊第三艦隊機動部隊)の艦艇ラバウル方面派遣することになった第七戦隊鈴谷最上)は遊撃部隊と共に南東方面部隊編入ろ号作戦協力する11月3日朝、遊撃部隊第四戦隊愛宕高雄摩耶鳥海》、第七戦隊鈴谷最上》、第八戦隊筑摩》、第二水雷戦隊能代早波玉波藤波、涼波》)はトラック泊地出撃被弾しタンカー救援のため2隻(鳥海、涼波)を分離した遊撃部隊は、南下中の4日夜、輸送任務従事する第十四戦隊那珂五十鈴)と遭遇する11月5日午前6時30前後遊撃部隊ラバウル到着した同地にはブーゲンビル島沖海戦参加した連合襲撃隊の一部艦艇阿賀野長波時雨白露五月雨若月)等が待機していた。 詳細は「ラバウル空襲」を参照 遊撃部隊ラバウル到着してから間もなく空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) と軽空母プリンストン (USS Princeton, CVL-23) から発進した米海軍艦載機100機が空襲した(ラバウル空襲)。草鹿任一南東方面艦隊長官遊撃部隊トラック泊地におくりかえす事を決定摩耶以外の遊撃部隊駆逐艦部隊(涼波、玉波島風)等に護衛され同日夕刻ラバウル出発鈴谷速度のでない最上島風玉波と共に援護し8日昼過ぎトラック泊地到着した11月19日よりアメリカ軍タラワ島マキン島対す空襲強化し21日上陸開始してマキンの戦いタラワの戦い生起するギルバート諸島の戦い)。トラック泊地連合艦隊も対応にせまられ遊撃部隊鳥海鈴谷熊野筑摩能代早波藤波初月野分舞風)は南洋方面部隊編入されマーシャル諸島進出した一種陽動作戦だったが、圧倒的なアメリカ海軍戦力比較すると、遊撃部隊あまりにも劣勢だった。しばらく待機したが、陸軍部隊ヤルート環礁ミレ環礁への輸送終わったこと、アメリカ軍占領したマキンより空襲を受ける危険が高まったことでトラック退避指示される12月3日夜、栗田中将指揮下の重巡4隻(鳥海筑摩鈴谷熊野)、水雷戦隊能代早波藤波涼月初月浜風)はロイ=ナムル島ルオット島)を出発トラック着後の12月7日第七戦隊旗艦鈴谷から熊野移った12月25日までトラック泊地待機したその後カビエンへの輸送任務(戊三号輸送任務)に第一部隊熊野鈴谷谷風満潮)として参加するちなみに、戊一号輸送任務戦艦大和駆逐艦2隻(谷風山雲)による本土からトラック泊地への陸兵輸送任務、戊二号輸送任務重巡洋艦3隻(妙高羽黒利根)・駆逐艦2隻(白露藤波)によるトラックカビエン輸送任務、戊三号輸送任務第二部隊は、軽巡洋艦2隻(能代大淀)・駆逐艦2隻(秋月山雲)によるトラックカビエン輸送任務である。12月26日鈴谷戦艦大和横付けして陸兵物資積載すると、同日夜にトラック出撃してカビエンに向かう。第一部隊熊野鈴谷谷風満潮)はアメリカ軍大型爆撃機発見された事で一旦トラック避退したのち、再出撃29日カビエン到着し物資揚陸成功すると、1944年昭和19年1月1日トラック泊地帰還した

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ソロモン諸島の戦い

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チャールズ・オースバーン (DD-570)」の記事における「ソロモン諸島の戦い」の解説

チャールズ・オースバーンは太平洋向かい1943年6月28日ニューカレドニアヌーメア到着するガダルカナルの戦い支援する哨戒護衛任務の夏が始まりエファテ島エスピリトゥサント島のような港からガダルカナル島への船団護衛従事した8月27日、チャールズ・オースバーンはパーヴィス港を拠点に、夜間ソロモン諸島からブーゲンビル島ニューブリテン島兵員撤退させる東京急行」(鼠輸送)の日本海軍駆逐艦阻止する攻撃部隊参加した8月27日から28日にかけての「ザ・スロット」(ニュージョージア海峡)での最初哨戒は何も起こらなかったが、9月7日敵機空襲によって最初会敵発生する。この時、ソロモン諸島兵員展開させるLST護衛し夜間戦闘機共同行動をとる試みに加わった1943年9月27日から28日にかけての夜、ベララベラ島沖合でチャールズ・オースバーンは正確な砲撃によって舟艇2隻を撃沈した10月初め、チャールズ・オースバーンは訓練補給のためエスピリトゥサント島へ戻る。そこで10月23日駆逐戦隊で最も有名な司令となるアーレイ・バーク大佐迎え、チャールズ・オースバーンに司令旗掲げられた。バーク大佐指揮した、彼自身命名による通称リトル・ビーバーズ」(Little Beavers)は海戦史における非凡な存在であり、それは殊勲部隊章授けられたことで示された。リトル・ビーバーズによる日本海軍水上部隊沿岸拠点対す作戦続き、ソロモン諸島の戦いでの勝利多大な貢献残した。チャールズ・オースバーンは1943年10月31日から1944年2月23日にかけて、最も激し戦い置かれることになった。 チャールズ・オースバーンは1943年10月31日ブーゲンビル島の戦いでの支援開始し所属する任務部隊激し砲撃ブカ島日本軍飛行場無力化した。チャールズ・オースバーンはまた、給油南下する際に任務部隊通過するショートランド沿岸砲台を砲撃した11月1日早朝米軍エンプレス・オーガスタ湾侵攻し、そして日本巡洋艦4隻と駆逐艦6隻がブーゲンビル島沖の輸送船攻撃するためにラバウル出撃南へ移動しているという連絡受けた。すぐにチャールズ・オースバーンと僚艦敵艦迎撃のため北上した11月2日午前2時27分に最初会敵起こりブーゲンビル島沖海戦生起した。 旗艦レーダー敵艦がはっきりと捉えられた時、チャールズ・オースバーンと3隻の僚艦からなるリトル・ビーバーズ魚雷攻撃敢行した。チャールズ・オースバーンらは、既にアメリカ海軍巡洋艦による攻撃炎上中の軽巡洋艦川内片付けると、続いて32ノット駆逐艦初風接近するスペンス攻撃加わり、チャールズ・オースバーンは初風沈めた。それから雷撃損傷したフート護衛してパーヴィス湾へ戻った11月残りの期間、チャールズ・オースバーンはブーゲンビル島周辺砲撃哨戒行い島へ補給船団護衛したボニス英語版)にある日本の飛行場へ猛砲撃加え橋頭堡対空戦闘実施駆逐戦隊はほとんど障害なく行動した1943年11月24日駆逐戦隊ハーボーン海峡給油中だったが、ブカ島から兵員撤退活動を行う日本艦隊迎撃せよとの命令受けた速やかにチャールズ・オースバーンら5隻の駆逐艦ラバウル-ブカ島間を捜索するために北上しセント・ジョージ海峡駆逐戦隊哨戒中だった11月25日午前1時41分にレーダー目標発見セント・ジョージ岬沖海戦発生した。 チャールズ・オースバーンは2隻の僚艦引き連れ残りの2隻による援護を受けながら2隻の日本駆逐艦魚雷攻撃を行うべく突進した魚雷大波撃沈し巻波真っ二つにした。援護している僚艦巻波止めを刺すと、チャールズ・オースバーンと僚艦は、退避しようとしている輸送任務中の3隻の敵駆逐艦追跡するため速やかに転回した。3隻の敵艦散開したが、チャールズ・オースバーンはそのうち夕霧に対して追跡継続し繰り返し命中弾を与えた。すぐに艦首から艦尾へかけて火災発生し夕霧遁走を図るも急速に接近され沈められた。日の出近づき駆逐戦隊ラバウル日本飛行場から距離を離すために後退した。このセント・ジョージ岬沖海戦で、日本側は駆逐艦3隻を喪失したが、チャールズ・オースバーンらアメリカ側には全く損害がない完勝であった1943年12月の間、チャールズ・オースバーンはブーゲンビル島での作戦支援し哨戒護衛対空地上砲撃といった任務こなした。チャールズ・オースバーンはオーストラリアつかの間オーバーホールを行うと、1944年1月30日ソロモン諸島北部に戻る。2月3日には再び戦闘任務向かい日本軍激し航空攻撃はねのけながらブーゲンビル島北部沿岸への砲撃任務行ったグリーン諸島の戦い支援したほか、2月18日カビエン攻撃はじめとする多くの敵水上目標捜索実施した。この攻撃により、敵の港湾施設滑走路備蓄物資はほぼ完全に破壊された。 1944年2月22日、チャールズ・オースバーンとダイソンスタンリーUSS Stanly, DD-478)はニューアイルランド島沖で日本敷設艇夏島沈めコンヴァーススペンス加えた5隻はカビエン北西救難曳船長浦沈めたまた、他にも特設駆潜艇第八玉丸(西大漁業279トン)、小型貨物船Choryu MaruNo.9 Tokuyama Maru海軍徴用船協成丸(東和汽船556トン)を沈めたとされている。 その後ビスマルク諸島北方哨戒に向かう3月5日まで揚陸艇護衛行った

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