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興福寺の仏像」の記事における「個別解説」の解説

木造薬王菩薩・薬上菩薩立像重要文化財鎌倉時代建仁2年1202年)。像高 薬王菩薩362.0cm、薬上菩薩360.0cm 中金堂に安置ヒノキ材の寄木造で、漆箔仕上げとする。台座は反花(かえりばな)までが当初のもので、上框うわがまち)・下は後補である。明治40年1907年修理時に像内から銘発見されたが、修理後、像内に再納入された。この銘によると、両像は法師千栄勧進建仁2年1202年)に完成したもので、薬王菩薩像は法印宗有が願主となって嫡女菩提のために造立薬上菩薩像は大中姉子願主となって定詮中子のために造立したものであることが知られる薬上菩薩像の足枘(あしほぞ)には正応元年1288年)の修理銘がある。もとは西金堂の本尊釈迦如来像両脇であった享保2年1717年)の西金堂・中金炎上の際に運び出され中金堂が再建されてからはそちらへ移された。 なお、本像の重要文化財指定名称は「木造日光菩薩月光菩薩立像となっていたが、1999年に「木造薬王菩薩薬上菩薩立像」に名称変更された。 木造四天王立像中金堂)(国宝鎌倉時代像高 持国天206.6cm、増長天197.5cm、広目天200.0cm、多聞天197.2cm 中金堂の須弥壇四隅に立つ、等身超える像高四天王像である。2017年東京国立博物館開催された「運慶展」後に、それまで中金にあった四天王像入れ替わる形で南円堂から中金堂に移された。かつては南円堂内の本尊不空羂索観音坐像法相六祖坐像と同様、康慶一門の作と信じられていた。しかし、後述のような研究成果により、従来中金にあった2017年以降南円堂安置)像が康慶一門作の四天王像であり、本像は本来南円堂にあったものではなく他所から移入されたものであるとするのが定説となっている。 各像はカツラ材の寄木造で、玉眼眼の部分水晶嵌入する技法)を用いず彫眼とする。持国天右手は腰のあたりに構えて拳をつくり、左手三叉戟支える。増長天右手で剣の柄を持ち下向き構えた剣の先に左手添える。広目天右手を腰に当て左手三叉戟(さんさげき、長柄付の三又武器)を支える。多聞天右手三叉戟支え左手宝塔捧持する服装は、大袖表さず下半身着ける裙(くん)は短めで、両脚の間に裙の裾が垂れ表現取らず全体軽快な姿に表されるこうした服装特色は、東大寺法華堂金剛力士像、同寺戒壇四天王像新薬師寺十二神将像などの奈良時代天部像にみられる特色であり、復古作風とみられる2017年まで南円堂にあった本像(以下、この節において「本像」という)が本来の南円堂像でないことを指摘したのは藤岡穣である。藤岡は、1990年国華』に発表した論文興福寺南円堂四天王像中金四天王像」において、一乗寺本『南円堂曼荼羅図』に描かれ四天王像甲冑形式などの細部に至るまで1990年当時中金四天王像2017年以降南円堂安置。以下、この節において「旧中金堂像」という)と一致することに着目し同時代天部像の遺品との様式比較踏まえ、旧中金堂像が本来南円堂にあったものであり、本像は元々東金にあったものとした。藤岡説のうち、旧中金堂像が本来南円堂にあったのであるという点は定説となっているが、本像の本来の所属については異説もある。藤岡は、興福寺諸堂再興年代仏像様式検討結果踏まえ東金維摩居士像(定慶作)と本像のうち持国天像の顔貌表現骨格、耳の彫法の類似などをもとに、本像はもと東金にあったもので、定慶一派の作であるとした。一方伊東史朗松島健、西川杏太郎用材図像特色などの点から、本像はもと北円堂にあったものとした。本像はカツラ材を用いており、北円堂弥勒仏像および無著世親像と樹種共通すること、および、京都国立博物館本『興福寺曼荼羅図』の北円堂部分描かれる四天王像は、持国天増長天広目天それぞれ増長天広目天持国天位置置き換えると、本像の図像一致することなどがその論拠となっている。 中金四天王像のうち持国天(左)・広目天(右) 中金四天王像のうち増長天(左)・多聞天(右)

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銅造薬師如来及び両脇侍像重要文化財薬師如来室町時代応永22年1415年)。両脇侍は奈良時代像高 薬師如来255.0cm、伝・日光菩薩300.3cm 、伝・月光菩薩がっこうぼさつ)298.0cm 東金堂に本尊として安置される三尊像。中尊薬師如来像両脇侍像は制作年代異なり中尊室町時代東金再建時の作、両脇侍は制作年代諸説あるが、奈良時代の作とされている。薬師如来坐像は、奈良古市の鋳師9名が応永22年1415年)に鋳造したもの。頭部と体部を別鋳とする。台座木造漆箔である。左手に持つ薬壺(やっこ)は木造寛永8年補作両脇侍像は国宝仏頭と同様、旧山田寺像で、奈良時代の作とされているが、製作年代には諸説ある。治承兵火7年後文治3年1187年)、興福寺僧兵飛鳥山田寺薬師三尊像略奪して興福寺東金堂本尊据えた三尊のうちの中尊像はその後火災体部焼け落ち頭部のみが現存する(「興福寺仏頭」と呼ばれるもの)。両脇侍像は現在も東金堂に安置されるが、中尊仏頭)とは作風異なり中尊同時ではなく、やや遅れて制作されたものと推定されている。左脇侍像(伝・日光菩薩)は両手の指の一部を欠く。右脇侍像(伝・月光菩薩)は首の三道部分亀裂入り左腕ヒノキ材の後補とする。両像とも髻(もとどり)の前面阿弥陀如来化仏(けぶつ)を表す。頭上阿弥陀化仏を表すのは、図像的には観音菩薩標識である。薬師如来両脇侍は通常日光菩薩・月光菩薩だが、東金堂本尊の脇侍像は、図像的には左右とも観音菩薩像ということになり、制作年代の点と合わせ、謎の多い像である。 木造文殊菩薩坐像国宝鎌倉時代像高93.9cm 東金堂本薬師如来像の左(向かって右)、維摩居士像と対称となる位置安置ヒノキ材の寄木造で、玉眼嵌入する。肉身金泥彩は後補である。獅子支え蓮華座上に坐すが、両脚結跏趺坐けっかふざ坐禅坐法ではなく安座の形とする。両手持物(じもつ)をとる構えだが、持物失われている。甲(よろい)を着用した上に衣を着る。頭上に梵篋(ぼんきょう経箱)を載せ、甲の胸当人面を表すなど、特異な図像特色示し、宋画の影響感じられる銘記はないが、対となる維摩像と同様、定慶の作と推定される。本像と維摩居士像の台座獅子を表すのは、『維摩経』に言及される獅子座因むのである木造維摩居士坐像国宝鎌倉時代建久7年1196年)、定慶作。像高88.6cm 東金堂本薬師如来像の右(向かって左)に安置ヒノキ材の寄木造で、玉眼嵌入する。反対側に安置する文殊菩薩像と対をなす。これら両像は、『維摩経』「文殊師利問疾品」に説く維摩文殊菩薩問答場面造形化したもので、興福寺法会である維摩会ゆいまえ)の本尊として造像された。像内の銘により、建久7年1196年)、法印定慶によって造られ法橋幸円が彩色したことがわかる。台座天板裏面長禄4年1460年)の修理銘があり、この時に彩色改めたことがわかる。台座大部分と後屏の一部は後補である。文殊菩薩像の台座平面円形であるのに対し、本像の台座方形とするなど、一対の像としての対照性意識されている。 木造四天王立像東金堂)(国宝平安時代初期像高 持国天162.5cm、増長天161.0cm、広目天164.0cm、多聞天153.0cm ヒノキ材、一木造四天王像。頭体部から足下邪鬼、その下の岩座中心部まで一材から彫出し、袖先、沓先、邪鬼の脚などの突出部に別材を矧ぎ足す。天衣(てんね)は乾漆形成し頭髪、甲(よろい)の縁、邪鬼の髪などの一部木屎漆こくそうるし)を盛り上げて形成している。持国天右手宝珠捧持し、左手は剣を持つ。増長天右手を腰に当て左手三叉戟(さんさげき、長柄付の三又武器)を支える。広目天右手挙げて羂索けんさく、環のついた縄)を持ち、体の右に立てた三叉戟左手支える。多聞天右手宝塔捧持し、左手三叉戟支える。増長天多聞天は冑(かぶと)をかぶる。身色は持国増長広目多聞の順に緑青肌色赤紫白緑とする。甲や着衣繧繝彩色うんげんさいしき)と截金きりかね)をほどこし当初彩色遺存している。太造りの体形一木造乾漆併用した造像技法など、平安時代初期特色表し9世紀頃の作とみられる東金堂内の他の諸像とは時代異なり、もともとどこの堂にあったものかは不明である。 広目天持物が筆と巻物でなく、羂索三叉戟になっているのは『陀羅尼集経』(だらにじっきょう所説に依った図像である。持国天増長天広目天多聞天それぞれ東・南・西・北守護するとされ、一般仏堂では須弥壇の手前に持国天増長天後方広目天多聞天配するのが原則である。東金堂の四天王像もこの原則にしたがって安置されているが、東金堂は西を正面とする仏堂であるので、実際方位にしたがって四天王像配置しなおすと、須弥壇の手前に増長天広目天後方多聞天持国天位置することになる。仮にこのように配置した場合増長天広目天阿吽一対となり、両腕構え三叉戟位置左右対称形になることが指摘されている。 木造十二神将立像国宝宮毘羅(くびら)、伐折羅(ばさら)、迷企羅(めきら)、安底羅あんていら)、頞儞羅(あにら)、珊底羅(さんていら)、因達羅いんだら)、波夷羅(はいら)、摩虎羅(まこら)、真達羅(しんだら)、招杜羅しょうとら)、毘羯羅(びから)の12体。像高113.0〜 126.3cm 東金堂の須弥壇上に安置される一具十二神将像である。十二神将は『薬師如来本願経』に説かれ薬師如来とその信仰者守護するとされる12体の夜叉である。本一具鎌倉時代の作で、ヒノキ材の寄木造。波夷羅像と招杜羅像は上半身下半身を別材から木取りして矧いでいるが、このような寄せ法は旧西金堂の金剛力士像にも例がある。眼は玉眼眼の部分水晶用い技法)を嵌入せず彫眼とするが、摩虎羅像と毘羯羅像は瞳の部分漆塗の玉を嵌入する。安底羅像の髪には乾漆併用している。各像の天衣(てんね)、台座持物(じもつ)などの一部を後補とするが、本体保存状態はよい。作者正確な制作年代不明である。ただし、波夷羅像の右足枘(あしほぞ)には「建永二年四月廿九日菜色了」との墨書があって、建永2年1207年)に彩色終えたことがわかり、制作時期目安となる。珊底羅像の右足枘には「衆阿弥」という墨書があり、作者一人を指すと思われる作者いわゆる慶派仏師思われるが、各像の作風にはばらつきがあり、表面の仕上げにも截金文様多用するもの(宮毘羅)、彩色文様主とするもの(波夷羅)などがあって、複数仏師による制作とみられる東金堂の維摩居士像、もと東金にあった可能性の高い梵天像などの作者である仏師定慶も本群像造立参加した可能性がある。上体前傾させ、振り上げた右手持った剣で仏敵にとどめを刺すかのような伐折羅像、ひょうきんな表情見せる毘羯羅像などが高く評価されている。甲冑着衣などは像ごとに微妙に異なっている。伐折羅安底羅、波夷羅の3躯は臑当すねあて)を着けずに脚部露出しており、伐折羅像は12躯の中で唯一、沓ではなくサンダル状のものを履いている。真達羅像の腰部にみえる頭付の毛皮など、珍しい細部もあり、図像には宋画の影響想定される銅造仏頭国宝館に安置)(国宝飛鳥時代後期白鳳期)、天武天皇14年685年)。総高98.3cm 旧山田寺講堂本尊薬師如来像頭部である。『上宮聖徳法王帝説裏書記述により、この像は天武天皇7年678年)に造像開始され、同天皇14年685年)に完成したことがわかる。治承兵火7年後文治3年1187年)、興福寺僧兵飛鳥山田寺薬師三尊像略奪して興福寺東金堂本尊据えたその後応永18年1411年)の東金堂の火災の際には薬師如来像運び出すことができず、かろうじて頭部のみが焼け残った。この焼け残った頭部は、新しく造られ本尊像台座内部納められ20世紀に至るまでその存在知られていなかった。台座内から仏頭再発見されたのは1937年10月30日のことである。頭部のみの残欠ではあるが、造像年代事情判明する7世紀基準作として貴重である。現存する仏頭頭頂部と左の耳朶(じだ)を欠失し、後頭部大きく陥没している。鍍金痕跡とどめるのみで剥落している。上瞼の線を弓形に、下瞼をほぼ直線表した両眼の形は、法隆寺金堂本尊などの止利派の像の杏仁形アーモンド形)の眼の表現とは異なり、隋から初唐仏像様式影響示している。 この時代金銅仏は、東大寺大仏のような例外的なもの除いて蝋型鋳造であった蝋型鋳造とは、土で像の概形作った後、これを蜜蝋覆って細部造形し、さらにその上から外型の土を被せるもので、この蜜蝋の厚みが鋳造後の像のの厚みになる鋳造時には中型と外型の位置ずれないように、金属製または土製型持置いたり、笄(こうがい)と称する釘状のものを刺したりする。興福寺仏頭蝋型鋳造で、頭部内面には土製型持銅製の笄が残っている。本像は、鋳造時に中型の土に亀裂入って中型と外型がずれたとみられ、の厚みが不均衡な部分があり、中型亀裂流れ込んだとなって頸部内面残っている。同じく蝋型鋳造薬師寺金堂本尊像では、型持と笄が一体化した画鋲型の型持使用するなど、仏頭比して鋳造技法進歩みられるこうした技法の差を製作年代の差とみるか、工人の差とみるかは意見分かれる大型造仏では像内の状況直接観察することは通常不可能であるが、本仏頭は上述のような鋳造技法がわかる点でも貴重である。 十二神将のうち因達羅 十二神将のうち真達羅 十二神将のうち招杜羅

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木造弥勒仏坐像国宝鎌倉時代建暦2年1212年)頃、運慶工房作。像高141.9cm 正式の国宝指定名称は次のとおり。木造弥勒仏坐像 運慶作(北円堂安置) 一躯 像内に木造弥勒菩薩立像一躯、建暦二年奉籠弥勒願文一巻(以上黒漆厨子入)、木製五輪塔二枚一具建暦二年宝篋印陀羅尼経一巻水晶一顆納める 台座内枠源慶、静慶、湛慶康運康弁康勝運助、運勝等の仏師名がある 本像は北円堂須弥壇中央本尊として安置される。『猪熊関白記』の記載と、台座墨書から、建暦2年1212年)、運慶一門による造像であることが明らかである。台座墨書によれば、本像を主に担当したのは上座大仏師源慶と□慶(静慶または浄慶)である。カツラ材の寄木造で、本体主要部前後左右の4材から彫出する。本体は指の一部を後補するのみで、造像当初の姿をよく残す。光背は後補。台座裳懸部を後補するほか、おおむね当初のものである。像内は、地付から20センチほど上、膝頭の高さに棚板があって、像底を塞いでいる。このように像底近く棚板状のものを設けるのは運慶派の特徴的な技法で、像内納入品保持するための工夫とみられる。本像の内部には後述納入品があることが1934年修理時に確認されているが、これらの納入品は修理後にすべて像内に元通り納められたため、写真でしか見ることができない。 像内には木造弥勒菩薩立像1躯、建暦二年奉籠弥勒願文がんもん1巻(以上黒漆厨子入)、木製五輪塔2枚一具建暦二年宝篋印陀羅尼経1巻水晶珠1顆(か)が納入されている。水晶珠は木製蓮台付きで、像内の胸の高さに固定されており、心月輪(しんがちりん)すなわち像の魂にあたるものである頭部内面には木製の台の上板状五輪塔2枚立て、この2枚挟まれる形で小型厨子(高さ11センチ)があり、厨子内には像高7センチ木造弥勒菩薩立像建暦二年奉籠弥勒願文1巻がある。厨子の脇に宝篋印陀羅尼経1巻立てる。願文によれば前述弥勒菩薩像は、専心という僧が日頃所持していた仏像納めたもので、像の頭部内には唐招提寺舎利納めるという。 木造無著・世親立像国宝鎌倉時代建暦2年1212年)頃、運慶工房作。像高 無著194.7cm、世親191.6cm 北円堂内、本尊弥勒仏後方左右に立つ2躯の僧形像で、運慶工房の作である。左(向かって右)が無著、右(向かって左)が世親である。無著アサンガ)と世親ヴァスバンドゥ)は4世紀ガンダーラ現在のパキスタン)で活動した兄弟唯識学者で(無著が兄)、法相宗寺院である興福寺では祖師として尊ばれている。弥勒仏像台座反花内面墨書には無著世親像の担当仏師の名も書かれているが、肝腎仏師名の部分は字が薄れ判読困難である。世親像の担当仏師名は「運賀」または「運勝」と読めるとされ、無著像の担当仏師名は字が薄れているが、「運助」と読める可能性があるという。運賀運助は、それぞれ運慶の五男・六男とされている。 無著像は頭・体の主要部分カツラの一材から造り体部両側面・背面に別材を矧ぐ玉眼眼の部分水晶嵌入する技法)を入れるため、面部をいったん仮面状に割り放している。世親像はカツラ材の寄木造で、頭・体の主要部前後2材から造り体部両側面と頭頂部に別材を矧ぐ。眼には玉眼嵌入する。両像とも布貼り下地黒漆錆漆塗布した後、白土彩色を施すが、彩色はほとんど剥落している。両像の台座大正時代の後補である。両像とも法衣袈裟着用し直立する同様のポーズ造るが、顔貌衣文袈裟吊環形状など相違がある。無著両手持物(布で包んだ箱状のもの)を捧持する世親像は現状持物がないが、両手構え方からみて、無著同様に何らかの持物捧持していたと思われる。これらの持物については、弥勒下生時に供養する仏舎利無著持物)と仏塔であるとする説がある。 両像は鎌倉時代彫刻代表作として早くから著名であり、明治時代には岡倉覚三天心)が当時彫刻家命じて両像の模造を造らせている。模造東京国立博物館で、無著像は明治24年1891年竹内久一作、世親像は明治26年1893年山田鬼斎作である。 木心乾漆四天王立像北円堂)(国宝平安時代延暦10年791年)。像高 持国天136.6cm、増長天125.0cm、広目天139.7cm、多聞天134.7cm 北円堂須弥壇上の四隅に、それぞれ外方向いて立つ四天王像である。増長天多聞天台座(かまち)の天板裏に修理銘があり、それによると、この四天王一具延暦10年791年)の作で、もとは大安寺にあり、弘安8年1285年)に興福寺の経玄得業修理したのである。 各像は木で概形造り木屎漆こくそうるし)を盛り上げて形成した木心乾漆造である。各像の持物(じもつ)はすべて失われており、そのために現状では各像の両腕構え不自然にみえる。持国天右腕を上にして体の前で両腕交差させており、元は右手持った剣を地面突き立ていたものとみられる増長天は体の右側三叉戟立て、これに両手添えていたものとみられる広目天右手を腰に当て左手高く挙げて持物持っていたとみられる多聞天右手高く挙げ左手体側下げる。右手には通例どおり宝塔捧持していたとみられる。各像のひるがえった袖や天衣遊離部などは鉄心乾漆被せ形成している。甲などの細部乾漆造形成されているが、肉身部は乾漆薄く木彫に近い。像の彩色前述弘安8年修理時のものとみられる。各像の体躯太造りで、平安時代初期特色を示す。持国天像の口を「へ」の字に結び、眼球突出するのような顔貌表現特色がある。大分・永興寺四天王像元亨元年1321年康俊作、香川鷲峰寺四天王像南北朝時代)は、各像の図像特色北円堂四天王一致しており、北円堂像の写しであることが明らかである。 右から無著像、世親像、弥勒仏像、法苑菩薩像 無著 世親 弥勒仏 無著 世親

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興福寺の仏像」の記事における「個別解説」の解説

木造不空羂索観音坐像国宝鎌倉時代文治5年1189年)、康慶作。像高336.0cm ヒノキ材、寄木造南円堂本尊として堂内中央安置される、三眼八臂の坐像である。西国三十三所観音霊場第9番札所本尊でもある。南円堂内部平素は非公開で、本像は(特別公開時を除き毎年10月17日にのみ公開されている。現存する像は文治5年1189年)、運慶の父・康慶の作である。興福寺藤原氏氏寺であるが、特に本像は藤原北家ゆかりの像として、藤原氏から格別尊崇受けた像である。藤原氏氏長者であった九条兼実日記玉葉によれば、兼実は治承兵火後の本像の復興状況を気にかけ、制作現場足を運んで実況見分したこともあった。像は三眼八臂の坐像で、左右第一手は合掌第二手は左に蓮華、右に錫杖しゃくじょう)を持ち第三手は左右とも与願印(掌を正面向けて開き指先を下に向ける)、第四手は右に羂索けんじゃく)、左に払子(ほっす)を持つ。光背13の剣形を並べた独特の形式になり、台座中ほどの敷茄子(しきなす)と呼ばれる部分大きな宝瓶形となるのが特色である。『図像抄』(平安時代末期図像集)に、治承焼失以前当初像の図像収録されているが、それを見ると、特徴的な光背台座形式含め奈良時代当初像の形が忠実に引き継がれていることがわかる。ただし、両脚図像では右脚を上に組むのに対し現存像では左脚が上になっている。三眼のうち、額にある第三の眼は瞳の部分のみに水晶嵌入し、左右の眼には瞳の部分動物の骨を嵌入している。本像は「南円堂本仏」「南円堂様(よう)」として尊重され彫像画像ともに多く像が残っている。彫像では、奈良応現寺(東鳴川観音講)の像は治承兵火以前の姿を伝え像として貴重である。 木造四天王立像国宝鎌倉時代文治5年1189年)、康慶工房作。像高 持国天204.0cm、増長天202.2cm、広目天204.5cm、多聞天198.0cm。2018年国宝指定2017年東京国立博物館開催された「運慶展」後に、それまで南円堂にあった国宝四天王像入れ替わる形で仮講堂(旧金堂)から移された。ヒノキ材、寄木造四天王像玉眼眼の部分水晶嵌入する技法)は用いないが、瞳の部分黒色の珠を嵌入する。持国天右手宝珠捧持し、左手は剣を持つ。増長天右手三叉戟(さんさげき、長柄付の三又武器)を支え左手に剣を持つ。広目天右手羂索けんじゃく、環のついた縄)を持ち左手三叉戟支える。多聞天右手宝塔捧持し、左手三叉戟支える。増長天以外の3体は冑をかぶる。身色は持国増長広目多聞の順に緑青肌色群青とする。かつては作者不明とされていたが、一乗寺本『南円堂曼荼羅図』に描かれる四天王像図像特色細部まで一致することから、この四天王像一具最初から南円堂にあったもので、南円堂本尊不空羂索観音坐像などと同様、康慶一門の作であることが明らかになった。なお、『南円堂御本尊以下御修理先例』という記録によれば四天王像制作は、康慶指導のもと、実眼という仏師担当している。広目天像が筆と巻物代わりに羂索三叉戟を持つ点など、本四天王像一具形式は『陀羅尼集経』に説くところによるものである。 木造法相六祖坐像 6躯国宝鎌倉時代文治5年1189年)、康慶作。像高 伝・常騰じょうとう)73.3cm、伝・神叡しんえい)81.2cm、伝・善珠ぜんじゅ)83.0cm、伝・玄昉げんぼう)84.8cm、伝・玄賓げんぴん)77.2cm、伝・行賀ぎょうが)74.8cm 康慶運慶の父)一門の作。興福寺属す法相宗祖師である6名の僧の肖像彫刻である。一時期国宝館に移され一部の像は奈良国立博物館寄託されていたが、2018年現在南円堂戻っている。京都国立博物館本『興福寺曼荼羅図』によると、本尊不空羂索観音坐像後方左右に3躯ずつ安置されていたことがわかる。像名は寺伝では常騰神叡善珠玄昉玄賓行賀とされているが、古記録絵画資料照合すると、寺伝の像名には混乱があり、像主の比定には問題残している(詳しく後述)。ヒノキ材の寄木造で、玉眼眼の部分水晶嵌入する技法)を用いる。各像の基本的な構造前後2材矧ぎ、割首とし、体側、脚などに適宜別材を矧ぎ付ける。坐法結跏趺坐けっかふざ)するもの、跪坐するもの、片脚立膝にするものがそれぞれ2躯ずつで、顔貌は各像の個性年齢違い彫り分けている。各像は衣文彫りが非常に深くこのために衣の内部肉体存在感希薄になっているとの指摘がある。 6躯のうち3躯は畳座の裏に像名が墨書されており、伝常騰像の台座には「行賀大僧都」、伝善珠像の台座には「善珠僧正」、伝玄昉像の台座には「玄濱大僧都」とある。このことから、伝善珠像の像名は正しく、伝常騰像は本来の行賀像、伝玄昉像は本来の玄賓ということになる。以上の3躯の像主比定については諸家意見一致しているが、残り3躯(伝神叡、伝玄賓、伝行賀)の本来の像名については説が分かれる。 像主については、『興福寺流記』では「善珠玄賓供養僧形四柱とあって善珠玄賓以外の像主を特定していない。建久年間(1190 - 1199年成立の『建久御巡礼記』では、6躯の像名を北から、つまり堂内向かって右から順に常榺(原文ママ)、信叡、善珠玄昉玄賓行賀としている。『七大寺日記』および『七大寺巡礼私記』では、善殊(善珠)、玄賓行賀、喜操(嘉操)、常騰、真叡(信叡)としており、玄昉抜けて伝記不明の喜操(または嘉操)という僧の名が入っている。興福寺所蔵室町時代絵画法相曼荼羅図』には、他の祖師像とともに南円堂六祖像の姿が忠実に絵画化され、各像の脇に像主名が墨書されている。墨書の像主名は善珠僧正玄賓僧都行賀僧都、基操大徳、信叡大徳とあるが、残り1名分墨書剥落していて僧名が判読不能である。 法相六祖像の像主比定について、早い時期疑問呈したのは毛利久である。毛利は、1954年発表した論考で、台座裏に墨書のある3躯については墨書された像名を正当とし、残りの3躯については、伝神叡像を玄昉像、伝玄賓像を神叡像、伝行賀像を常騰像とした。この像名比定は、興福寺鎌倉復興期成立である『建久御巡礼記』に記録される像名とその配列順序重視したのである法相六祖像には結跏趺坐像、跪坐像、立膝像が2躯ずつ含まれるが、毛利説にしたがえば、坐法異なる3躯の像が須弥壇左右に振り分けられることになる。ただし、『建久御巡礼記』の写本において、該当箇所貼紙をした上に筆写され、他の部分筆跡異なることから、これを根拠に像名を比定することはできないとの意見もある。『法相曼荼羅図』に着目したのは岡直巳である。岡は1961年発表した論考で、伝神叡像は信叡像、伝玄賓像は玄昉像、伝行賀像は常騰像であるとした。これは、『法相曼荼羅図』に名前のある僧のうち、伝記不明の基操を除いて玄昉加えた形になる。20世紀末以降解説書図録等では、『法相曼荼羅図』を典拠として、伝神叡像を基操(喜操)像、伝行賀像を信叡像とし、『法相曼荼羅図』で名前の消えている1躯(伝玄賓像)を常騰像にあてるのが定説となっている。これを整理する下表のとおりである。 寺伝による名称法相曼荼羅による像主比定坐法像容常 騰 行 賀 結跏趺坐 数珠を持つ 神 叡 基 操 立膝 柄香炉を持つ、若年 善 珠 善 珠 結跏趺坐 柄香炉を持つ 玄 昉 玄 賓 跪坐 外縛印 玄常 騰 跪坐 柄香炉を持つ 行 賀 信 叡 立膝 柄香炉を持つ、老相

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個別解説

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四十八体仏」の記事における「個別解説」の解説

観音菩薩立像165号) 像高23.5センチ7世紀651年台座刻銘から西暦651年の作と判明する両手胸前構え右手を上、左手を下にして宝珠捧持する形の観音像である。本像のように胸前両手宝珠を持つ形式の像は法隆寺夢殿本尊木造観音菩薩立像救世観音)のほか、日本および朝鮮半島古代金銅仏中に複数の例があり、四十八体仏の中では他に166号像、167号像がある。この種の宝珠捧持像の中には正確な像名が不明のものもあるが、本像は、宝冠正面観音標識である化仏(けぶつ)を表しており、観音像であることが明らかである。『阿弥陀経所説に基づき宝冠化仏表した観音像で、造像年代明らかな作品としては日本最古遺品である。頭部には頂上宝珠三日月形表した山形宝冠戴き、冠の左右にパルメット状の飾り付し冠帯長く垂らす。胸には幅広胸飾り付け体部両側面には天衣左右相称状に表す。像は側面から見ると肉付け薄く扁平な側面感を表し正面観照性が強い。両手宝珠を持つポーズのほか、正面観照性の強さ状に図式的に広がる天衣などの造形上の特色は、法隆寺救世観音像共通性がある。像本体から蓮肉までを一鋳とし、反花(かえりばな)以下の台座は別鋳である。像は頭部のみムク鋳造で、像内には鋳造時に支えとして用いた残存している。 台座側面に以下の刻銘がある。 辛亥七月十日記笠評君名□古臣辛丑日崩去辰時故児在布奈太利古臣又伯在建古臣二人志願 「□古臣」は「左古臣」とも「太古臣」とも読まれている。銘文辛亥年に没した「笠評君□古臣」のために、その子の「布奈太利古臣」と伯父の「建古臣」が発願して造像したと解される銘文中の辛亥年については、西暦591年とする説と、干支一巡した60年後の651年とする説とがあった。文中の「評」字が「郡」(こおり)の意味解され、この意味での「評」の用例591年崇峻朝)にはまだ見られないことから、本像については651年作とするのが定説となっている。 菩薩半跏像(156号) 像高坐高)28.6センチ、(頭頂足先)39.0センチ7世紀606または666年宣字座呼ばれる箱形台座坐し、左脚を踏み下げ半跏像である。右手軽く頬に当てて思惟の相を示す、いわゆる半跏思惟像一例である。体に比して頭部大きく、胴を細く作るプロポーション特色がある。頭部には三面宝冠戴き、肩に垂髪表し、胸飾、腕釧、臂釧を身に着ける台座内部空洞だが、像本体ムク鋳造とする。 台座下端側面次の刻銘がある。 歳次丙寅年正月生十八日記高屋大夫為分韓婦夫人名阿麻古南无頂礼作奏也 銘文は、「丙寅の年高屋大夫が、亡くなった朝鮮半島出身夫人・阿麻古のために造像した」と解される。この丙寅年については、606年推古朝)とする説と、干支一巡した60年後の666年天智朝)とする説とがあり、定説をみない。同じ丙寅年の造像銘有する大阪野中寺銅造弥勒菩薩半跏像は、銘文中の年月日干支組み合わせから666年の作であることが明らかであるが、この野中寺像に比べて156号像の作風が古様であり、同じ年の作品には見えないということが、606年説の根拠となっている。一方156号像の三面宝冠銘文中の「大夫」の語の使用推古朝にはなかったとするのが666年説の根拠となっている。

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