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木造薬王菩薩・薬上菩薩立像(重要文化財) 鎌倉時代、建仁2年(1202年)。像高 薬王菩薩362.0cm、薬上菩薩360.0cm 中金堂に安置。ヒノキ材の寄木造で、漆箔仕上げとする。台座は反花(かえりばな)までが当初のもので、上框(うわがまち)・下框は後補である。明治40年(1907年)修理時に像内から銘札が発見されたが、修理後、像内に再納入された。この銘札によると、両像は法師千栄の勧進で建仁2年(1202年)に完成したもので、薬王菩薩像は法印宗有が願主となって嫡女の菩提のために造立、薬上菩薩像は大中臣姉子が願主となって定詮中子のために造立したものであることが知られる。薬上菩薩像の足枘(あしほぞ)には正応元年(1288年)の修理銘がある。もとは西金堂の本尊釈迦如来像の両脇侍であった。享保2年(1717年)の西金堂・中金堂炎上の際に運び出され、中金堂が再建されてからはそちらへ移された。 なお、本像の重要文化財指定名称は「木造日光菩薩月光菩薩立像」となっていたが、1999年に「木造薬王菩薩薬上菩薩立像」に名称変更された。 木造四天王立像(中金堂)(国宝) 鎌倉時代。像高 持国天206.6cm、増長天197.5cm、広目天200.0cm、多聞天197.2cm 中金堂の須弥壇の四隅に立つ、等身を超える像高の四天王像である。2017年に東京国立博物館で開催された「運慶展」後に、それまで旧中金堂にあった四天王像と入れ替わる形で南円堂から中金堂に移された。かつては、南円堂内の本尊不空羂索観音坐像や法相六祖坐像と同様、康慶一門の作と信じられていた。しかし、後述のような研究成果により、従来、中金堂にあった(2017年以降は南円堂安置)像が康慶一門作の四天王像であり、本像は本来南円堂にあったものではなく、他所から移入されたものであるとするのが定説となっている。 各像はカツラ材の寄木造で、玉眼(眼の部分に水晶を嵌入する技法)を用いず彫眼とする。持国天は右手は腰のあたりに構えて拳をつくり、左手は三叉戟を支える。増長天は右手で剣の柄を持ち、下向きに構えた剣の先に左手を添える。広目天は右手を腰に当て、左手は三叉戟(さんさげき、長柄付の三又の武器)を支える。多聞天は右手で三叉戟を支え、左手は宝塔を捧持する。服装は、大袖を表さず、下半身に着ける裙(くん)は短めで、両脚の間に裙の裾が垂れる表現を取らず、全体に軽快な姿に表される。こうした服装の特色は、東大寺法華堂金剛力士像、同寺戒壇堂四天王像、新薬師寺十二神将像などの奈良時代の天部像にみられる特色であり、復古的作風とみられる。 2017年まで南円堂にあった本像(以下、この節において「本像」という)が本来の南円堂像でないことを指摘したのは藤岡穣である。藤岡は、1990年『国華』に発表した論文「興福寺南円堂四天王像と中金堂四天王像」において、一乗寺本『南円堂曼荼羅図』に描かれた四天王像が甲冑の形式などの細部に至るまで1990年当時の中金堂四天王像(2017年以降は南円堂安置。以下、この節において「旧中金堂像」という)と一致することに着目し、同時代の天部像の遺品との様式比較を踏まえ、旧中金堂像が本来南円堂にあったものであり、本像は元々東金堂にあったものとした。藤岡説のうち、旧中金堂像が本来南円堂にあったものであるという点は定説となっているが、本像の本来の所属については異説もある。藤岡は、興福寺諸堂の再興年代や仏像の様式検討の結果を踏まえ、東金堂維摩居士像(定慶作)と本像のうち持国天像の顔貌表現、骨格、耳の彫法の類似などをもとに、本像はもと東金堂にあったもので、定慶一派の作であるとした。一方、伊東史朗、松島健、西川杏太郎は用材、図像的特色などの点から、本像はもと北円堂にあったものとした。本像はカツラ材を用いており、北円堂の弥勒仏像および無著・世親像と樹種が共通すること、および、京都国立博物館本『興福寺曼荼羅図』の北円堂の部分に描かれる四天王像は、持国天、増長天、広目天をそれぞれ増長天、広目天、持国天の位置に置き換えると、本像の図像に一致することなどがその論拠となっている。 中金堂四天王像のうち持国天(左)・広目天(右) 中金堂四天王像のうち増長天(左)・多聞天(右)
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銅造薬師如来及び両脇侍像(重要文化財) 薬師如来は室町時代、応永22年(1415年)。両脇侍は奈良時代。像高 薬師如来255.0cm、伝・日光菩薩300.3cm 、伝・月光菩薩(がっこうぼさつ)298.0cm 東金堂に本尊として安置される三尊像。中尊薬師如来像と両脇侍像は制作年代が異なり、中尊は室町時代の東金堂再建時の作、両脇侍は制作年代に諸説あるが、奈良時代の作とされている。薬師如来坐像は、奈良古市の鋳師9名が応永22年(1415年)に鋳造したもの。頭部と体部を別鋳とする。台座は木造漆箔である。左手に持つ薬壺(やっこ)は木造で寛永8年の補作。 両脇侍像は国宝の仏頭と同様、旧山田寺像で、奈良時代の作とされているが、製作年代には諸説ある。治承の兵火の7年後の文治3年(1187年)、興福寺の僧兵は飛鳥山田寺の薬師三尊像を略奪して興福寺東金堂の本尊に据えた。三尊のうちの中尊像はその後の火災で体部は焼け落ち、頭部のみが現存する(「興福寺の仏頭」と呼ばれるもの)。両脇侍像は現在も東金堂に安置されるが、中尊(仏頭)とは作風が異なり、中尊と同時期ではなく、やや遅れて制作されたものと推定されている。左脇侍像(伝・日光菩薩)は両手の指の一部を欠く。右脇侍像(伝・月光菩薩)は首の三道の部分に亀裂が入り、左腕をヒノキ材の後補とする。両像とも髻(もとどり)の前面に阿弥陀如来の化仏(けぶつ)を表す。頭上に阿弥陀の化仏を表すのは、図像的には観音菩薩の標識である。薬師如来の両脇侍は通常は日光菩薩・月光菩薩だが、東金堂本尊の脇侍像は、図像的には左右とも観音菩薩像ということになり、制作年代の点と合わせ、謎の多い像である。 木造文殊菩薩坐像(国宝) 鎌倉時代。像高93.9cm 東金堂本尊薬師如来像の左(向かって右)、維摩居士像と対称となる位置に安置。ヒノキ材の寄木造で、玉眼を嵌入する。肉身の金泥彩は後補である。獅子が支える蓮華座上に坐すが、両脚は結跏趺坐(けっかふざ、坐禅の坐法)ではなく安座の形とする。両手は持物(じもつ)をとる構えだが、持物は失われている。甲(よろい)を着用した上に衣を着る。頭上に梵篋(ぼんきょう、経箱)を載せ、甲の胸当に人面を表すなど、特異な図像的特色を示し、宋画の影響が感じられる。銘記はないが、対となる維摩像と同様、定慶の作と推定される。本像と維摩居士像の台座に獅子を表すのは、『維摩経』に言及される獅子座に因むものである。 木造維摩居士坐像(国宝) 鎌倉時代、建久7年(1196年)、定慶作。像高88.6cm 東金堂本尊薬師如来像の右(向かって左)に安置。ヒノキ材の寄木造で、玉眼を嵌入する。反対側に安置する文殊菩薩像と対をなす。これら両像は、『維摩経』「文殊師利問疾品」に説く維摩と文殊菩薩の問答の場面を造形化したもので、興福寺の法会である維摩会(ゆいまえ)の本尊として造像された。像内の朱銘により、建久7年(1196年)、法印定慶によって造られ、法橋幸円が彩色したことがわかる。台座天板裏面に長禄4年(1460年)の修理銘があり、この時に彩色を改めたことがわかる。台座の大部分と後屏の一部は後補である。文殊菩薩像の台座が平面円形であるのに対し、本像の台座は方形とするなど、一対の像としての対照性が意識されている。 木造四天王立像(東金堂)(国宝) 平安時代初期。像高 持国天162.5cm、増長天161.0cm、広目天164.0cm、多聞天153.0cm ヒノキ材、一木造の四天王像。頭体部から足下の邪鬼、その下の岩座の中心部まで一材から彫出し、袖先、沓先、邪鬼の脚などの突出部に別材を矧ぎ足す。天衣(てんね)は鉄芯に乾漆で形成し、頭髪、甲(よろい)の縁、邪鬼の髪などの一部に木屎漆(こくそうるし)を盛り上げて形成している。持国天は右手で宝珠を捧持し、左手は剣を持つ。増長天は右手を腰に当て、左手は三叉戟(さんさげき、長柄付の三又の武器)を支える。広目天は右手を挙げて羂索(けんさく、環のついた縄)を持ち、体の右に立てた三叉戟を左手で支える。多聞天は右手で宝塔を捧持し、左手は三叉戟を支える。増長天と多聞天は冑(かぶと)をかぶる。身色は持国・増長・広目・多聞の順に緑青、肌色、赤紫、白緑とする。甲や着衣は繧繝彩色(うんげんさいしき)と截金(きりかね)をほどこし、当初の彩色が遺存している。太造りの体形、一木造に乾漆を併用した造像技法など、平安時代初期の特色を表し、9世紀頃の作とみられる。東金堂内の他の諸像とは時代が異なり、もともとどこの堂にあったものかは不明である。 広目天の持物が筆と巻物でなく、羂索と三叉戟になっているのは『陀羅尼集経』(だらにじっきょう)所説に依った図像である。持国天・増長天・広目天・多聞天はそれぞれ東・南・西・北を守護するとされ、一般の仏堂では須弥壇の手前に持国天と増長天、後方に広目天と多聞天を配するのが原則である。東金堂の四天王像もこの原則にしたがって安置されているが、東金堂は西を正面とする仏堂であるので、実際の方位にしたがって四天王像を配置しなおすと、須弥壇の手前に増長天と広目天、後方に多聞天と持国天が位置することになる。仮にこのように配置した場合、増長天と広目天が阿吽の一対となり、両腕の構えや三叉戟の位置も左右対称形になることが指摘されている。 木造十二神将立像(国宝) 宮毘羅(くびら)、伐折羅(ばさら)、迷企羅(めきら)、安底羅(あんていら)、頞儞羅(あにら)、珊底羅(さんていら)、因達羅(いんだら)、波夷羅(はいら)、摩虎羅(まこら)、真達羅(しんだら)、招杜羅(しょうとら)、毘羯羅(びから)の12体。像高113.0〜 126.3cm 東金堂の須弥壇上に安置される、一具の十二神将像である。十二神将は『薬師如来本願経』に説かれ、薬師如来とその信仰者を守護するとされる12体の夜叉である。本一具は鎌倉時代の作で、ヒノキ材の寄木造。波夷羅像と招杜羅像は上半身と下半身を別材から木取りして矧いでいるが、このような木寄せ法は旧西金堂の金剛力士像にも例がある。眼は玉眼(眼の部分に水晶を用いる技法)を嵌入せず彫眼とするが、摩虎羅像と毘羯羅像は瞳の部分に漆塗の玉を嵌入する。安底羅像の髪には乾漆を併用している。各像の天衣(てんね)、台座、持物(じもつ)などの一部を後補とするが、本体の保存状態はよい。作者と正確な制作年代は不明である。ただし、波夷羅像の右足枘(あしほぞ)には「建永二年四月廿九日菜色了」との墨書があって、建永2年(1207年)に彩色を終えたことがわかり、制作時期の目安となる。珊底羅像の右足枘には「衆阿弥」という墨書があり、作者の一人を指すと思われる。作者はいわゆる慶派の仏師と思われるが、各像の作風にはばらつきがあり、表面の仕上げにも截金文様を多用するもの(宮毘羅)、彩色文様を主とするもの(波夷羅)などがあって、複数の仏師による制作とみられる。東金堂の維摩居士像、もと東金堂にあった可能性の高い梵天像などの作者である仏師定慶も本群像の造立に参加した可能性がある。上体を前傾させ、振り上げた右手に持った剣で仏敵にとどめを刺すかのような伐折羅像、ひょうきんな表情を見せる毘羯羅像などが高く評価されている。甲冑、着衣などは像ごとに微妙に異なっている。伐折羅、安底羅、波夷羅の3躯は臑当(すねあて)を着けずに脚部を露出しており、伐折羅像は12躯の中で唯一、沓ではなくサンダル状のものを履いている。真達羅像の腰部にみえる獣頭付の毛皮など、珍しい細部もあり、図像には宋画の影響が想定される。 銅造仏頭(国宝館に安置)(国宝) 飛鳥時代後期(白鳳期)、天武天皇14年(685年)。総高98.3cm 旧山田寺講堂本尊薬師如来像の頭部である。『上宮聖徳法王帝説』裏書の記述により、この像は天武天皇7年(678年)に造像が開始され、同天皇14年(685年)に完成したことがわかる。治承の兵火の7年後の文治3年(1187年)、興福寺の僧兵は飛鳥山田寺の薬師三尊像を略奪して興福寺東金堂の本尊に据えた。その後、応永18年(1411年)の東金堂の火災の際には薬師如来像を運び出すことができず、かろうじて頭部のみが焼け残った。この焼け残った頭部は、新しく造られた本尊像の台座内部に納められ、20世紀に至るまでその存在は知られていなかった。台座内から仏頭が再発見されたのは1937年10月30日のことである。頭部のみの残欠ではあるが、造像の年代と事情が判明する、7世紀の基準作として貴重である。現存する仏頭は頭頂部と左の耳朶(じだ)を欠失し、後頭部は大きく陥没している。鍍金は痕跡をとどめるのみで剥落している。上瞼の線を弓形に、下瞼をほぼ直線に表した両眼の形は、法隆寺金堂本尊などの止利派の像の杏仁形(アーモンド形)の眼の表現とは異なり、隋から初唐の仏像様式の影響を示している。 この時代の金銅仏は、東大寺大仏のような例外的なものを除いて、蝋型鋳造であった。蝋型鋳造とは、土で像の概形を作った後、これを蜜蝋で覆って細部を造形し、さらにその上から外型の土を被せるもので、この蜜蝋の厚みが鋳造後の像の銅の厚みになる。鋳造時には中型と外型の位置がずれないように、金属製または土製の型持を置いたり、笄(こうがい)と称する釘状のものを刺したりする。興福寺仏頭も蝋型鋳造で、頭部内面には土製の型持と銅製の笄が残っている。本像は、鋳造時に中型の土に亀裂が入って中型と外型がずれたとみられ、銅の厚みが不均衡な部分があり、中型の亀裂に流れ込んだ溶銅が銅塊となって頸部内面に残っている。同じく蝋型鋳造の薬師寺金堂本尊像では、型持と笄が一体化した画鋲型の型持を使用するなど、仏頭に比して鋳造技法に進歩がみられる。こうした技法の差を製作年代の差とみるか、工人の差とみるかは意見が分かれる。大型の銅造仏では像内の状況を直接観察することは通常不可能であるが、本仏頭は上述のような鋳造技法がわかる点でも貴重である。 十二神将のうち因達羅 十二神将のうち真達羅 十二神将のうち招杜羅
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木造弥勒仏坐像(国宝) 鎌倉時代、建暦2年(1212年)頃、運慶工房作。像高141.9cm 正式の国宝指定名称は次のとおり。木造弥勒仏坐像 運慶作(北円堂安置) 一躯 像内に木造弥勒菩薩立像一躯、建暦二年奉籠弥勒像願文一巻(以上黒漆塗厨子入)、木製五輪塔二枚一具、建暦二年宝篋印陀羅尼経一巻、水晶珠一顆を納める 台座内枠に源慶、静慶、湛慶、康運、康弁、康勝、運助、運勝等の仏師名がある 本像は北円堂の須弥壇中央に本尊として安置される。『猪熊関白記』の記載と、台座墨書から、建暦2年(1212年)、運慶一門による造像であることが明らかである。台座墨書によれば、本像を主に担当したのは上座大仏師の源慶と□慶(静慶または浄慶)である。カツラ材の寄木造で、本体の主要部は前後左右の4材から彫出する。本体は指の一部を後補するのみで、造像当初の姿をよく残す。光背は後補。台座は裳懸部を後補するほか、おおむね当初のものである。像内は、地付から20センチほど上、膝頭の高さに棚板があって、像底を塞いでいる。このように像底近くに棚板状のものを設けるのは運慶派の特徴的な技法で、像内納入品を保持するための工夫とみられる。本像の内部には後述の納入品があることが1934年の修理時に確認されているが、これらの納入品は修理後にすべて像内に元通りに納められたため、写真でしか見ることができない。 像内には木造弥勒菩薩立像1躯、建暦二年奉籠弥勒像願文(がんもん)1巻(以上黒漆塗厨子入)、木製五輪塔2枚一具、建暦二年宝篋印陀羅尼経1巻、水晶珠1顆(か)が納入されている。水晶珠は木製蓮台付きで、像内の胸の高さに固定されており、心月輪(しんがちりん)すなわち像の魂にあたるものである。頭部内面には木製の台の上に板状の五輪塔2枚を立て、この2枚に挟まれる形で小型の厨子(高さ11センチ)があり、厨子内には像高7センチの木造弥勒菩薩立像と建暦二年奉籠弥勒像願文1巻がある。厨子の脇に宝篋印陀羅尼経1巻を立てる。願文によれば、前述の弥勒菩薩像は、専心という僧が日頃所持していた仏像を納めたもので、像の頭部内には唐招提寺の舎利を納めるという。 木造無著・世親立像(国宝) 鎌倉時代、建暦2年(1212年)頃、運慶工房作。像高 無著194.7cm、世親191.6cm 北円堂内、本尊弥勒仏の後方左右に立つ2躯の僧形像で、運慶工房の作である。左(向かって右)が無著、右(向かって左)が世親である。無著(アサンガ)と世親(ヴァスバンドゥ)は4世紀のガンダーラ(現在のパキスタン)で活動した兄弟の唯識学者で(無著が兄)、法相宗寺院である興福寺では祖師として尊ばれている。弥勒仏像の台座反花内面墨書には無著・世親像の担当仏師の名も書かれているが、肝腎の仏師名の部分は字が薄れ、判読困難である。世親像の担当仏師名は「運賀」または「運勝」と読めるとされ、無著像の担当仏師名は字が薄れているが、「運助」と読める可能性があるという。運賀、運助は、それぞれ運慶の五男・六男とされている。 無著像は頭・体の主要部分をカツラの一材から造り、体部両側面・背面に別材を矧ぐ。玉眼(眼の部分に水晶を嵌入する技法)を入れるため、面部をいったん仮面状に割り放している。世親像はカツラ材の寄木造で、頭・体の主要部を前後2材から造り、体部両側面と頭頂部に別材を矧ぐ。眼には玉眼を嵌入する。両像とも布貼り下地に黒漆、錆漆を塗布した後、白土地彩色を施すが、彩色はほとんど剥落している。両像の台座は大正時代の後補である。両像とも法衣に袈裟を着用し直立する同様のポーズに造るが、顔貌、衣文、袈裟の吊環の形状などに相違がある。無著は両手で持物(布で包んだ箱状のもの)を捧持する。世親像は現状は持物がないが、両手の構え方からみて、無著像同様に何らかの持物を捧持していたと思われる。これらの持物については、弥勒下生時に供養する仏舎利(無著の持物)と仏塔であるとする説がある。 両像は鎌倉時代彫刻の代表作として早くから著名であり、明治時代には岡倉覚三(天心)が当時の彫刻家に命じて両像の模造を造らせている。模造は東京国立博物館蔵で、無著像は明治24年(1891年)竹内久一作、世親像は明治26年(1893年)山田鬼斎作である。 木心乾漆四天王立像(北円堂)(国宝) 平安時代、延暦10年(791年)。像高 持国天136.6cm、増長天125.0cm、広目天139.7cm、多聞天134.7cm 北円堂須弥壇上の四隅に、それぞれ外方を向いて立つ四天王像である。増長天と多聞天の台座框(かまち)の天板裏に修理銘があり、それによると、この四天王一具は延暦10年(791年)の作で、もとは大安寺にあり、弘安8年(1285年)に興福寺の経玄得業が修理したものである。 各像は木で概形を造り、木屎漆(こくそうるし)を盛り上げて形成した木心乾漆造である。各像の持物(じもつ)はすべて失われており、そのために現状では各像の両腕の構えが不自然にみえる。持国天は右腕を上にして体の前で両腕を交差させており、元は右手に持った剣を地面に突き立てていたものとみられる。増長天は体の右側に三叉戟を立て、これに両手を添えていたものとみられる。広目天は右手を腰に当て、左手は高く挙げて持物を持っていたとみられる。多聞天は右手を高く挙げ、左手は体側に下げる。右手には通例どおり宝塔を捧持していたとみられる。各像のひるがえった袖や天衣の遊離部などは鉄心に乾漆を被せて形成している。甲などの細部は乾漆造で形成されているが、肉身部は乾漆が薄く、木彫に近い。像の彩色は前述の弘安8年の修理時のものとみられる。各像の体躯は太造りで、平安時代初期の特色を示す。持国天像の口を「へ」の字に結び、眼球が突出するかのような顔貌表現に特色がある。大分・永興寺の四天王像(元亨元年・1321年、康俊作、香川・鷲峰寺の四天王像(南北朝時代)は、各像の図像的特色が北円堂四天王に一致しており、北円堂像の写しであることが明らかである。 右から無著像、世親像、弥勒仏像、法苑林菩薩像 無著 世親 弥勒仏 無著 世親
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木造不空羂索観音坐像(国宝) 鎌倉時代、文治5年(1189年)、康慶作。像高336.0cm ヒノキ材、寄木造。南円堂の本尊として堂内中央に安置される、三眼八臂の坐像である。西国三十三所観音霊場第9番の札所本尊でもある。南円堂内部は平素は非公開で、本像は(特別公開時を除き)毎年10月17日にのみ公開されている。現存する像は文治5年(1189年)、運慶の父・康慶の作である。興福寺は藤原氏の氏寺であるが、特に本像は藤原北家ゆかりの像として、藤原氏から格別の尊崇を受けた像である。藤原氏の氏長者であった九条兼実の日記『玉葉』によれば、兼実は治承兵火後の本像の復興状況を気にかけ、制作現場へ足を運んで実況見分したこともあった。像は三眼八臂の坐像で、左右の第一手は合掌、第二手は左に蓮華、右に錫杖(しゃくじょう)を持ち、第三手は左右とも与願印(掌を正面に向けて開き、指先を下に向ける)、第四手は右に羂索(けんじゃく)、左に払子(ほっす)を持つ。光背は13枚の剣形を並べた独特の形式になり、台座は中ほどの敷茄子(しきなす)と呼ばれる部分が大きな宝瓶形となるのが特色である。『図像抄』(平安時代末期の図像集)に、治承の焼失以前の当初像の図像が収録されているが、それを見ると、特徴的な光背や台座の形式を含め、奈良時代の当初像の形が忠実に引き継がれていることがわかる。ただし、両脚は図像では右脚を上に組むのに対し、現存像では左脚が上になっている。三眼のうち、額にある第三の眼は瞳の部分のみに水晶を嵌入し、左右の眼には瞳の部分に動物の骨を嵌入している。本像は「南円堂本仏」「南円堂様(よう)」として尊重され、彫像、画像ともに多くの模像が残っている。彫像では、奈良・応現寺(東鳴川観音講)の像は治承兵火以前の姿を伝える模像として貴重である。 木造四天王立像(国宝) 鎌倉時代、文治5年(1189年)、康慶工房作。像高 持国天204.0cm、増長天202.2cm、広目天204.5cm、多聞天198.0cm。2018年国宝に指定。 2017年に東京国立博物館で開催された「運慶展」後に、それまで南円堂にあった国宝の四天王像と入れ替わる形で仮講堂(旧金堂)から移された。ヒノキ材、寄木造の四天王像。玉眼(眼の部分に水晶を嵌入する技法)は用いないが、瞳の部分に黒色の珠を嵌入する。持国天は右手で宝珠を捧持し、左手は剣を持つ。増長天は右手で三叉戟(さんさげき、長柄付の三又の武器)を支え、左手に剣を持つ。広目天は右手に羂索(けんじゃく、環のついた縄)を持ち、左手で三叉戟を支える。多聞天は右手で宝塔を捧持し、左手で三叉戟を支える。増長天以外の3体は冑をかぶる。身色は持国・増長・広目・多聞の順に緑青、朱、肌色、群青とする。かつては作者不明とされていたが、一乗寺本『南円堂曼荼羅図』に描かれる四天王像と図像的特色が細部まで一致することから、この四天王像一具は最初から南円堂にあったもので、南円堂本尊不空羂索観音坐像などと同様、康慶一門の作であることが明らかになった。なお、『南円堂御本尊以下御修理先例』という記録によれば、四天王像の制作は、康慶の指導のもと、実眼という仏師が担当している。広目天像が筆と巻物の代わりに羂索と三叉戟を持つ点など、本四天王像一具の形式は『陀羅尼集経』に説くところによるものである。 木造法相六祖坐像 6躯(国宝) 鎌倉時代、文治5年(1189年)、康慶作。像高 伝・常騰(じょうとう)73.3cm、伝・神叡(しんえい)81.2cm、伝・善珠(ぜんじゅ)83.0cm、伝・玄昉(げんぼう)84.8cm、伝・玄賓(げんぴん)77.2cm、伝・行賀(ぎょうが)74.8cm 康慶(運慶の父)一門の作。興福寺が属する法相宗の祖師である6名の僧の肖像彫刻である。一時期、国宝館に移され、一部の像は奈良国立博物館に寄託されていたが、2018年現在は南円堂に戻っている。京都国立博物館本『興福寺曼荼羅図』によると、本尊不空羂索観音坐像の後方左右に3躯ずつ安置されていたことがわかる。像名は寺伝では常騰、神叡、善珠、玄昉、玄賓、行賀とされているが、古記録や絵画資料と照合すると、寺伝の像名には混乱があり、像主の比定には問題を残している(詳しくは後述)。ヒノキ材の寄木造で、玉眼(眼の部分に水晶を嵌入する技法)を用いる。各像の基本的な構造は前後2材矧ぎ、割首とし、体側、脚などに適宜別材を矧ぎ付ける。坐法は結跏趺坐(けっかふざ)するもの、跪坐するもの、片脚を立膝にするものがそれぞれ2躯ずつで、顔貌は各像の個性や年齢の違いを彫り分けている。各像は衣文の彫りが非常に深く、このために衣の内部の肉体の存在感が希薄になっているとの指摘がある。 6躯のうち3躯は畳座の裏に像名が墨書されており、伝常騰像の台座には「行賀大僧都」、伝善珠像の台座には「善珠僧正」、伝玄昉像の台座には「玄濱大僧都」とある。このことから、伝善珠像の像名は正しく、伝常騰像は本来の行賀像、伝玄昉像は本来の玄賓像ということになる。以上の3躯の像主比定については諸家の意見が一致しているが、残り3躯(伝神叡、伝玄賓、伝行賀)の本来の像名については説が分かれる。 像主については、『興福寺流記』では「善珠、玄賓、供養僧形四柱」とあって、善珠と玄賓以外の像主を特定していない。建久年間(1190 - 1199年)成立の『建久御巡礼記』では、6躯の像名を北から、つまり堂内向かって右から順に常榺(原文ママ)、信叡、善珠、玄昉、玄賓、行賀としている。『七大寺日記』および『七大寺巡礼私記』では、善殊(善珠)、玄賓、行賀、喜操(嘉操)、常騰、真叡(信叡)としており、玄昉が抜けて、伝記不明の喜操(または嘉操)という僧の名が入っている。興福寺所蔵の室町時代の絵画『法相曼荼羅図』には、他の祖師像とともに、南円堂の六祖像の姿が忠実に絵画化され、各像の脇に像主名が墨書されている。墨書の像主名は善珠僧正、玄賓僧都、行賀僧都、基操大徳、信叡大徳とあるが、残り1名分は墨書が剥落していて僧名が判読不能である。 法相六祖像の像主比定について、早い時期に疑問を呈したのは毛利久である。毛利は、1954年に発表した論考で、台座裏に墨書のある3躯については墨書された像名を正当とし、残りの3躯については、伝神叡像を玄昉像、伝玄賓像を神叡像、伝行賀像を常騰像とした。この像名比定は、興福寺の鎌倉復興期の成立である『建久御巡礼記』に記録される像名とその配列順序を重視したものである。法相六祖像には結跏趺坐像、跪坐像、立膝像が2躯ずつ含まれるが、毛利説にしたがえば、坐法の異なる3躯の像が須弥壇の左右に振り分けられることになる。ただし、『建久御巡礼記』の写本において、該当箇所は貼紙をした上に筆写され、他の部分と筆跡も異なることから、これを根拠に像名を比定することはできないとの意見もある。『法相曼荼羅図』に着目したのは岡直巳である。岡は1961年に発表した論考で、伝神叡像は信叡像、伝玄賓像は玄昉像、伝行賀像は常騰像であるとした。これは、『法相曼荼羅図』に名前のある僧のうち、伝記不明の基操を除いて、玄昉を加えた形になる。20世紀末以降の解説書、図録等では、『法相曼荼羅図』を典拠として、伝神叡像を基操(喜操)像、伝行賀像を信叡像とし、『法相曼荼羅図』で名前の消えている1躯(伝玄賓像)を常騰像にあてるのが定説となっている。これを整理すると下表のとおりである。 寺伝による名称法相曼荼羅による像主比定坐法像容常 騰 行 賀 結跏趺坐 数珠を持つ 神 叡 基 操 立膝 柄香炉を持つ、若年 善 珠 善 珠 結跏趺坐 柄香炉を持つ 玄 昉 玄 賓 跪坐 外縛印 玄 賓 常 騰 跪坐 柄香炉を持つ 行 賀 信 叡 立膝 柄香炉を持つ、老相
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観音菩薩立像(165号) 像高23.5センチ、7世紀(651年) 台座框の刻銘から西暦651年の作と判明する。両手を胸前に構え、右手を上、左手を下にして宝珠を捧持する形の観音像である。本像のように胸前で両手で宝珠を持つ形式の像は法隆寺夢殿本尊の木造観音菩薩立像(救世観音)のほか、日本および朝鮮半島の古代金銅仏の中に複数の例があり、四十八体仏の中では他に166号像、167号像がある。この種の宝珠捧持像の中には、正確な像名が不明のものもあるが、本像は、宝冠正面に観音の標識である化仏(けぶつ)を表しており、観音像であることが明らかである。『阿弥陀経』所説に基づき、宝冠に化仏を表した観音像で、造像年代の明らかな作品としては日本最古の遺品である。頭部には頂上に宝珠と三日月形を表した山形の宝冠を戴き、冠の左右にはパルメット状の飾りを付し、冠帯を長く垂らす。胸には幅広の胸飾りを付け、体部の両側面には天衣を左右相称に鰭状に表す。像は側面から見ると肉付けが薄く、扁平な側面感を表し、正面観照性が強い。両手で宝珠を持つポーズのほか、正面観照性の強さ、鰭状に図式的に広がる天衣などの造形上の特色は、法隆寺救世観音像と共通性がある。像本体から蓮肉までを一鋳とし、反花(かえりばな)以下の台座は別鋳である。像は頭部のみムク鋳造で、像内には鋳造時に支えとして用いた鉄芯が残存している。 台座框の側面に以下の刻銘がある。 辛亥年七月十日記笠評君名□古臣辛丑日崩去辰時故児在布奈太利古臣又伯在建古臣二人志願 「□古臣」は「左古臣」とも「太古臣」とも読まれている。銘文は辛亥年に没した「笠評君□古臣」のために、その子の「布奈太利古臣」と伯父の「建古臣」が発願して造像したと解される。銘文中の辛亥年については、西暦591年とする説と、干支が一巡した60年後の651年とする説とがあった。文中の「評」字が「郡」(こおり)の意味に解され、この意味での「評」の用例は591年(崇峻朝)にはまだ見られないことから、本像については651年作とするのが定説となっている。 菩薩半跏像(156号) 像高(坐高)28.6センチ、(頭頂〜足先)39.0センチ、7世紀(606または666年) 宣字座と呼ばれる箱形の台座に坐し、左脚を踏み下げる半跏像である。右手を軽く頬に当てて思惟の相を示す、いわゆる半跏思惟像の一例である。体に比して頭部が大きく、胴を細く作るプロポーションに特色がある。頭部には三面宝冠を戴き、肩に垂髪を表し、胸飾、腕釧、臂釧を身に着ける。台座内部は空洞だが、像本体はムク鋳造とする。 台座下端の框の側面に次の刻銘がある。 歳次丙寅年正月生十八日記高屋大夫為分韓婦夫人名阿麻古願南无頂礼作奏也 銘文は、「丙寅の年に高屋大夫が、亡くなった朝鮮半島出身の夫人・阿麻古のために造像した」と解される。この丙寅年については、606年(推古朝)とする説と、干支が一巡した60年後の666年(天智朝)とする説とがあり、定説をみない。同じ丙寅年の造像銘を有する大阪・野中寺の銅造弥勒菩薩半跏像は、銘文中の年月日と干支の組み合わせから666年の作であることが明らかであるが、この野中寺像に比べて156号像の作風が古様であり、同じ年の作品には見えないということが、606年説の根拠となっている。一方、156号像の三面宝冠や銘文中の「大夫」の語の使用は推古朝にはなかったとするのが666年説の根拠となっている。
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