木造十二神将立像とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 文化 > 美術 > 立像 > 木造十二神将立像の意味・解説 

木造十二神将立像(巳神戌神) (東京都)


木造十二神将立像

主名称: 木造十二神将立像
指定番号 3522
枝番 0
指定年月日 2005.06.09(平成17.06.09)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 彫刻
ト書 神像内に応永八年六月法橋朝祐作、未神像内に同十五六月覚園寺住持悦岩思咲、朝祐、申神像内に同十六卯月大仏師朝祐、酉神像内に同十七五月、覚園住思咲、施主随珍、亥神像内に同十八四月、朝祐の銘がある
員数 12
時代区分 室町
年代
検索年代
解説文:  建保六年(一二一八)、北条義時により創建された大倉薬師堂は、建長三年一二五一)に焼失し弘長三年一二六三)ころに復興された。覚園寺と号されたのはこのころで、本尊薬師如来像重文)はその復興期のものと考えられているが、両脇侍像をはじめその他の造像遅れて八代住持悦岩思咲【えつがんししょう】のときである。応永八~十八年(一四〇一~一一)に十二神将像、同二十五年に伽藍神像、同二十九年に日光月光菩薩像重文)がいずれも仏師朝祐【ちょうゆう】により造顕されている。等身大きさをもつ本群像頭上十二支表し変化に富む形姿とするが、大仰身振りなのは、朝祐作の他の像が比較おちついた形姿なのに対して天部形のせいかとも考えられる
 構造は頭体を前後数列矧ぎ各列とも数材を寄せ、さらに一部の材は頭体共木で割首するという複雑なもので、その特徴覚園寺日光月光菩薩像にも通じており、銘に記されるとおり同一作者であることを証している。
 すべての像に十二支の銘があり名称が確定できる。うち五体の像内銘により、応永八年に午神像、同九年から十四年にかけて子、寅、卯、辰、巳、丑の各神像、同十五年に未神像、同十六年に申神像、同十七年に酉神像、同十八年に亥神像造立されたことがわかる。一年に一体ずつつくられたのであろう。銘に記載がなく像高も少し小さい戌神像の製作時期だけを遡らせようとする見解があるが、構造原則が他と異ならず、また作風大きく外れるものでないことから、一連のものと推定される
 関東地方にはこの期「朝」字を有する仏師活躍見られる東京光厳寺釈迦如来像の運朝(建長寺旧蔵康安二年〈一三六二〉)、群馬南光寺釈迦如来像朝安(伝大日如来応永十年)、鎌倉極楽寺興正菩薩像を修理した浄朝と清朝応永三十二年)などである。鎌倉宝戒寺昌景惟賢像の「ちゃうけい」(応安五年〈一三七二〉)をも入れて、朝祐と同系の仏師とする見方がある。製作時期および仏師判明する完備した十二神将作例で、関東基準としての意義大きい。

木造十二神将立像

主名称: 木造十二神将立像
指定番号 329
枝番 00
指定年月日 1914.04.17(大正3.04.17)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 彫刻
ト書
員数 12
時代区分 平安
年代
検索年代
解説文: 平安時代作品

木造十二神将立像

主名称: 木造十二神将立像
指定番号 683
枝番 00
指定年月日 1911.08.09(明治44.08.09)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 彫刻
ト書
員数 12
時代区分 鎌倉
年代
検索年代
解説文: 鎌倉時代作品

木造十二神将立像〈(伝運慶作)/〉

主名称: 木造十二神将立像〈(伝運慶作)/〉
指定番号 864
枝番 00
指定年月日 1901.08.02(明治34.08.02)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 彫刻
ト書
員数 12
時代区分 鎌倉
年代
検索年代
解説文: 鎌倉時代作品

木造十二神将立像

主名称: 木造十二神将立像
指定番号 1254
枝番 00
指定年月日 1901.08.02(明治34.08.02)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 彫刻
ト書
員数 8躯
時代区分 鎌倉
年代
検索年代
解説文: 鎌倉時代作品

木造十二神将立像

主名称: 木造十二神将立像
指定番号 1284
枝番 00
指定年月日 1940.10.14(昭和15.10.14)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 彫刻
ト書
員数 12
時代区分 平安
年代
検索年代
解説文: 平安時代作品

木造十二神将立像

主名称: 木造十二神将立像
指定番号 1331
枝番 00
指定年月日 1940.10.14(昭和15.10.14)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 彫刻
ト書
員数 12
時代区分 平安
年代
検索年代
解説文: 平安時代作品

木造十二神将立像〈十二躯ノ内亥神戌神ヲ除ク/(西円堂安置)〉

主名称: 木造十二神将立像〈十二躯ノ内亥神戌神ヲ除ク/(西円堂安置)〉
指定番号 1545
枝番 00
指定年月日 1906.09.06(明治39.09.06)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 彫刻
ト書
員数 10
時代区分 鎌倉南北朝
年代
検索年代
解説文: 鎌倉南北朝時代作品

木造十二神将立像〈戌神、亥神/(西円堂安置)〉

主名称: 木造十二神将立像〈戌神、亥神/(西円堂安置)〉
指定番号 1585
枝番 00
指定年月日 1929.04.06(昭和4.04.06)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 彫刻
ト書
員数 2躯
時代区分 桃山南北朝
年代
検索年代
解説文: 桃山南北朝時代作品

木造十二神将立像

主名称: 木造十二神将立像
指定番号 1645
枝番 00
指定年月日 1913.04.14(大正2.04.14)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 彫刻
ト書
員数 12
時代区分 鎌倉
年代
検索年代
解説文: 鎌倉時代作品

木造十二神将立像

主名称: 木造十二神将立像
指定番号 1694
枝番 00
指定年月日 1909.09.21(明治42.09.21)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 彫刻
ト書
員数 12
時代区分 鎌倉
年代
検索年代
解説文: 鎌倉時代作品

木造十二神将立像(所在本堂)

主名称: 木造十二神将立像(所在本堂
指定番号 3479
枝番 00
指定年月日 1999.06.07(平成11.06.07)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 彫刻
ト書 うち一躯の像内に嘉禄三年七月大仏師南京三川慶等の銘がある
員数 12
時代区分 鎌倉
年代 1227
検索年代
解説文:  大善寺本堂国宝内陣須弥壇上の本尊厨子左右に六躯ずつ安置される十二神将像である。各像は、いずれも四尺を超え頭部標幟表し、着甲像や上半身裸形像などもあり、甲制やその体勢多彩変化富み平安後期から鎌倉期十二神将図像則りながら変化加えている。
 各像ともヒノキ材製で、玉眼(午神のみ珠を外から当てる)を嵌入する。一木造の戌・午神像や、頭体別材製(巳神〈頭部・躰部とも各前後矧〉、卯神〈頭部前後矧、躰部は前後左右の四材製〉)のものもあるが、それ以外の像はおおむね頭体を通して前後の上割首・割足の構造をなす。
 寅神像内銘により嘉禄三年一二二七七月十三日大仏師南京三川慶によって造られたことが判明する。『甲斐国志大善寺条には、十二神将中の午・酉・未神の像内に嘉禄三年安貞二年(一二二八)に大仏師運慶三河公造り始めた旨の銘記があることが記録されている。現在、すべての像内銘を確認することはできないが、寅神の墨書銘からみれば、『甲斐国志』に記される運慶とは慶の誤りみなされ、他の像も慶とその一派による造像考えられる
 慶は、同県御坂町福光園寺吉祥天像寛喜三年一二三一〉、重文)の像内銘に大仏慶大徳と称する銘文があるが、特に吉祥天脇侍である持国天多聞天像は、前後二材矧の上割首・割足とする構造技法に本像と共通するものがあり、動勢控えた穏やかな姿態など作風も非常に類似している。このころ十二神将像の優品として知られる興福寺東金堂像(建永二年〈一二〇七〉、国宝)の激し動勢比べれば穏健な表現で、こうした点が慶の作風ともとれる。この特徴は、嘉禄元年一二二五)に仏師慶が造った奈良県吉野水分神社の伝若宮神像にも同様の指摘ができ、これらはいずれ同一人の作と考えて差し支えなく、これまで作風の明らかでなかった慶の作品新たに加わった意義大きい。
 本一具は、慶銘を有する寅神に作風類似する子・酉神や、ひときわ眼の大きい丑・辰・巳未・申・亥神像一木造の午・戌神像などはそれぞれに作風等若干違いがあり、幾人かの仏師参加想定されるしかしながら作風多少違いはあるが慶を中心とする仏師により製作されたものとすべきであろう
 このうち午神は面相部の忿怒表現異様に誇張され、他の像に比べて体躯著しく痩身で、本一二躯の中でも異色な像である。他に比較すべき作例求めがたく、こうした表現が製作時期の遅れを示すものとも考えられるものの、大きく降らないころには造像されていたと考えられる
 いずれにしても本像が一具として伝来してきたことは大い推賞され、単に慶の事績物語のみならず鎌倉前期十二神将像基準作として、慶派仏師作風発展・伝播考え貴重な作例となりえよう。

木造十二神将立像

主名称: 木造十二神将立像
指定番号 1740
枝番 00
指定年月日 1915.08.10(大正4.08.10)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 彫刻
ト書
員数 12
時代区分 室町
年代
検索年代
解説文: 室町時代作品

木造十二神将立像

主名称: 木造十二神将立像
指定番号 1821
枝番 00
指定年月日 1939.09.08(昭和14.09.08)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 彫刻
ト書
員数 12
時代区分 鎌倉
年代
検索年代
解説文: 鎌倉時代作品

木造十二神将立像〈/(本尊ニ属スル分)〉

主名称: 木造十二神将立像〈/(本尊ニ属スル分)〉
指定番号 2045
枝番 00
指定年月日 1904.02.18(明治37.02.18)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 彫刻
ト書
員数 12
時代区分 南北朝
年代
検索年代
解説文: 南北朝時代作品

木造十二神将立像

主名称: 木造十二神将立像
指定番号 2047
枝番 00
指定年月日 1912.09.03(大正1.09.03)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 彫刻
ト書 安底羅(申)迷企羅(酉)宮毘羅(亥)ノ三躯ヲ除ク)
員数 9躯
時代区分 平安
年代
検索年代
解説文: 平安時代作品

木造十二神将立像(巳神戌神)

主名称: 木造十二神将立像(巳神戌神)
指定番号 3008
枝番 00
指定年月日 1952.07.19(昭和27.07.19)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 彫刻
ト書
員数 2躯
時代区分 鎌倉
年代
検索年代
解説文: 像高7080センチ十二神将像の二躯。もと京都府加茂町浄瑠璃寺にあった伝えられ,他にも二躯が東京国立博物館,八躯が別に所蔵されている。本二躯はそれぞれ頭頂部に(巳),(戌)の標識をあらわす。いずれもヒノキ材の寄木造りで,玉眼嵌入する。表面には漆下地施した上に切金をまじえた華麗な彩色を施す。
 製作に際して図像典拠したことが指摘されているが,彫刻としての立体感破綻をきたすことなく,はげしい動感的確につくりあげ高い格調保っており,慶派様式受け継ぐ鎌倉時代初期正統仏師造ったものと考えられる

木造十二神将立像

主名称: 木造十二神将立像
指定番号 3416
枝番 00
指定年月日 1990.06.29(平成2.06.29)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 彫刻
ト書
員数 8躯
時代区分 鎌倉
年代 附 江戸
検索年代
解説文:  当時薬師堂本尊薬師三尊像延慶三年一三一〇・院保作銘)と共に祀られる像高ほぼ三尺十二神将像である。いずれも材、彩色仕上げ玉眼嵌入とする。構造は頭躰幹部前後あるいは左右(未、申像)二材矧とする寄木造りのもののほかに、一部一木割矧造りのものも認められる
 十二躯のうち、子(頭部後補)、丑・寅・卯・巳・酉・戌・亥の八躯の像は鎌倉時代の作と推定されそれぞれ形姿や、衣・甲の制に変化をつけながら、激し動態一瞬破綻なくとらえられ忿怒表情にも生彩があり、躍動する筋肉描写もまた巧みである。彩色も、布を貼り、錆下地施し黒漆塗り白下の上切金交えて入念に施されている。その作風は、当代十二神将像の優品として知られる建永二年(一二〇七)頃の興福寺東金堂像(国宝)に通じるものもあるが、動態表現筋肉描写にやや誇張がみられ、制作時期が下ることを物語っている。また、赤・緑・青系の繧繝多用し所々盛り上げ彩色用いる賦彩も十三世中頃から後半南都仏師諸作品に共通しており、その制作十三世後半頃と考えられこの頃十二神将像秀作として注目される
 附の辰・午・未・申の四躯は、いずれも彫り総体的に固く動勢にも多少ぎこちなさ認められ、また表面を紙貼白下彩色としており、江戸時代前期頃の補作考えられる。現薬師堂元禄五年(一六九二)に建立されたことが棟札によって知られるが、この時薬師三尊像十二神将像支院より移安されたことが当寺記録(『慈恩寺伽藍記』)にみえ、附の四躯はその際前述鎌倉期の古像に倣って制作されたものかと推察される。彩色もあえて古色付すなど、古像と一具としての調和図られていることも興味深く補作ではあるが、近世彫刻としても出色出来映えを示すものである

木造十二神将立像(伝長勢作)

主名称: 木造十二神将立像(伝長勢作)
指定番号 67
枝番 00
指定年月日 1953.03.31(昭和28.03.31)
国宝重文区分 国宝
部門種別 彫刻
ト書
員数 12
時代区分 平安
年代 1064
検索年代
解説文: 平安時代作品

木造十二神将立像(所在東金堂)

主名称: 木造十二神将立像(所在東金堂)
指定番号 79
枝番 00
指定年月日 1953.02.14(昭和28.02.14)
国宝重文区分 国宝
部門種別 彫刻
ト書 波夷羅大将像の足〓に「建永二年四月廿九日菜色了」珊底羅大将像の足〓に「衆阿弥」の銘がある
員数 12
時代区分 鎌倉
年代 1207
検索年代
解説文: 鎌倉時代作品

木造十二神将立像

主名称: 木造十二神将立像
指定番号 64
枝番 00
指定年月日 1940.10.14(昭和15.10.14)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 彫刻
ト書
員数 1躯
時代区分 鎌倉
年代
検索年代
解説文: 鎌倉時代作品

木造十二神将立像

主名称: 木造十二神将立像
指定番号 83
枝番 00
指定年月日 1949.02.18(昭和24.02.18)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 彫刻
ト書
員数 2躯
時代区分 鎌倉
年代
検索年代
解説文: 鎌倉時代作品

木造十二神将立像

主名称: 木造十二神将立像
指定番号 128
枝番 00
指定年月日 1940.10.14(昭和15.10.14)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 彫刻
ト書
員数 7躯
時代区分 鎌倉
年代
検索年代
解説文: 鎌倉時代作品

木造十二神将立像

主名称: 木造十二神将立像
指定番号 192
枝番 00
指定年月日 1925.04.24(大正14.04.24)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 彫刻
ト書
員数 12
時代区分 鎌倉
年代
検索年代
解説文: 鎌倉時代作品

木造十二神将立像

主名称: 木造十二神将立像
指定番号 314
枝番 00
指定年月日 1914.04.17(大正3.04.17)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 彫刻
ト書
員数 12
時代区分 平安室町
年代
検索年代
解説文: 平安~室町時代作品
重要文化財のほかの用語一覧
彫刻:  木造十二神将立像  木造十二神将立像  木造十二神将立像  木造十二神将立像  木造十大弟子立像  木造十大弟子立像  木造十大弟子立像

木造十二神将立像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 06:27 UTC 版)

法隆寺の仏像」の記事における「木造十二神将立像」の解説

重要文化財鎌倉・室町時代像高75.7–96.0センチ。西円堂本尊薬師如来像台座囲んで外向きに立つ十二神将像頭上十二支動物標識付ける。12躯すべてが同時の作ではなく作風制作時期異ないくつかのグループ分けられ、古い像は鎌倉時代作だが、一部の像は室町時代に下る。12躯ともヒノキ材で玉眼用いるが、子神像と亥神像のみが一木造で他10躯は寄木造である。『奈良六大大観』は、亥神像頭部過大制作年代子神像よりやや下がり、巳神・午神・未神像がこれに次ぐとする。同書によれば丑・寅卯・辰申・酉の各像は体勢堅く動き少ない点に共通点があり、応永5年1398年)に西円堂修理が行われた際に造られた像かとし、戌神像はさらに時代が下るとする。『国宝法隆寺図録』は、子神像と亥神像古く、戌神像時代が下るとする点は『奈良六大大観』と同様だが、子神像と亥神像用材ヒノキでなくクスノキとする。同図録は、残り9躯のうち午神像と未神像の作が優れているとする。また、寅・卯・辰・巳・申・酉の各像を同一グループ見なし、丑神像はこれらとは別作見ている

※この「木造十二神将立像」の解説は、「法隆寺の仏像」の解説の一部です。
「木造十二神将立像」を含む「法隆寺の仏像」の記事については、「法隆寺の仏像」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「木造十二神将立像」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



木造十二神将立像と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「木造十二神将立像」の関連用語

木造十二神将立像のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



木造十二神将立像のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
文化庁文化庁
Copyright © 2025 The Agency for Cultural Affairs. All rights reserved.
文化庁文化庁
Copyright (c) 1997-2025 The Agency for Cultural Affairs, All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの法隆寺の仏像 (改訂履歴)、興福寺の仏像 (改訂履歴)、東大寺の仏像 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS