木造不空羂索観音坐像
主名称: | 木造不空羂索観音坐像 |
指定番号: | 3389 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1986.06.06(昭和61.06.06) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 彫刻 |
ト書: | |
員数: | 1躯 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 新薬師寺の東隣りに建つ当寺は、真偽は不明だが、鑑真、空海が住んだとの伝えをもち(菅家本『諸寺縁起集』)、土地柄からみても創建はかなり古くにさかのぼるものと考えられる。鎌倉時代には、南都四律匠の一人に数えられた興福寺僧円晴が住み(仁治二年〈一二四一〉六十二歳没、『本朝高僧伝』)、近世の伝承では、円晴が興福寺南円堂を模して、八角宝形堂と不空羂索観音を造立したという(『奈良坊目拙解』)。円晴造立の当否はともかく、像は鎌倉時代初期の作風を示し、一端の真実を伝えたものであろう。なお八角堂は現存しないが、当寺に残る近世の境内図には、その姿が描かれている。 像は一面三目八臂の通行の形だが、文治五年(一一八九)復興造立の南円堂像とは、鹿皮の有無、第三手の位置に小異がある。いきいきとした現実感に富んだ表現は、鎌倉時代初期に康慶、運慶らの南都仏師たちが示した新様式と基本的に共通し、構造的にも等身大の像としては木寄せが細かい点に、定慶作とみられる建久七年(一一九六)頃の興福寺文殊菩薩像などと共通する特色がある。その製作はおよそ十三世紀初め頃と考えられよう。なお、素直で明るい表情や、おだやかな衣文に示されるくせのない表現は、当時の南都仏師の個性的な作品の間ではやや珍しいものであるが、むしろそこに、作者の穏健な個性を認めるべきであろう。 檜材、寄木造、漆箔、玉眼。頭躰幹部は左右二材を矧ぎ、両躰側部に厚さ二~三センチの薄材をあて、内刳りのうえ割首。面部を割矧ぐ。両足部前後二材矧。腕は肩、臂、手首で矧ぐ。髻、左右第二・三手の手首以下、腕・臂釧、持物、全体の漆箔などは後補である。 光背は檜材、大略左右二材矧。圏帯内区に花弁形を鱗状に浮彫する。周縁部亡失。台座は檜材、漆箔。受座、反花、上・中框に当初のものを残す。銅製飾具後補。 |
木造不空羂索観音坐像(所在講堂)
主名称: | 木造不空羂索観音坐像(所在講堂) |
指定番号: | 51 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1952.11.22(昭和27.11.22) |
国宝重文区分: | 国宝 |
部門・種別: | 彫刻 |
ト書: | |
員数: | 1躯 |
時代区分: | 平安 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 平安時代の作品。 |
木造不空羂索観音坐像〈康慶作/(南円堂安置)〉
主名称: | 木造不空羂索観音坐像〈康慶作/(南円堂安置)〉 |
指定番号: | 56 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1952.11.22(昭和27.11.22) |
国宝重文区分: | 国宝 |
部門・種別: | 彫刻 |
ト書: | |
員数: | 1躯 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | 1189 |
検索年代: | |
解説文: | 鎌倉時代の作品。 |
木造不空羂索観音坐像
主名称: | 木造不空羂索観音坐像 |
指定番号: | 1982 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1913.08.20(大正2.08.20) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 彫刻 |
ト書: | |
員数: | 1躯 |
時代区分: | 平安 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 平安時代の作品。 |
木造不空羂索観音坐像
主名称: | 木造不空羂索観音坐像 |
指定番号: | 3390 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1986.06.06(昭和61.06.06) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 彫刻 |
ト書: | |
員数: | 1躯 |
時代区分: | 平安 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 応現寺本堂に、客仏として安置される。伝来は不明だが、伝えではこの近くにあり、廃絶した鳴河寺(善根寺)の旧仏という。鳴河寺は、平安時代、久安三年(一一四七)に興福寺権別当恵信が籠山し(『大乗院座主次第』)、中世には近くの中川成身院などと共に、興福寺末であった寺で、平安時代後期にはすでに興福寺の勢力下にあって、栄えていたものとみられる。 像は一面三目八臂、両肩に鹿皮をまとう姿にあらわされる。この形は、藤原氏の氏寺である興福寺の中においても、北家ゆかりの像として特に盛んな信仰を集めた、南円堂本尊不空羂索観音と同一であることが知られている。平安時代後期に、藤原忠実ら摂関家の要人が、南円堂本尊をしばしば模造したことが文献にみえる。その形の一致と、興福寺と関係の深い土地での造立であることから、本像は当時の盛んな南円堂信仰の風潮の中で、その模像として造られた、類例のまれな遺品だと考えられる。 このように南円堂像を模しながら、おだやかな垂髻の形や、やわらかい躰躯の肉取りなどには、いわゆる定朝様の影響を受けた平安時代後期の彫刻としての特色が顕著である。顎の少しとがった顔の形や、浅くしのぎ立った脚部の衣文はやや古風であるが、地理的に近い浄瑠璃寺薬師如来像(永承二年〈一〇四七〉造立説がある)のそれを、穏やかにしたようなところがあり、製作年代は十一世紀末から十二世紀前半頃と考えられる。 檜材、割矧造、もと漆箔。頭躰幹部は一材製で、前後に割矧ぎ、内刳りを施し、割首。両足部、両腰脇、腕等を矧ぐ。躰部材と、両足、両腰脇部の内刳りが通じず、それらの接合部で材を地付まで刳り残すことは、当時の手法としてやや異色である。この技法が浄瑠璃寺薬師如来像、法隆寺に残る平安時代後期の作とみられる等身大の釈迦、薬師、阿弥陀如来像など奈良周辺の遺品に共通することは、作者の系統を考える上であるいは参考になろう。髻頂、左耳後方、右耳、左右第一手・右第二・四手の各手首以下等、及び表面の古色仕上げは後補。 台座は木造、彩色。懸裳、蓮弁、受座以下後補。 |
彫刻: | 木造不動明王立像 木造不空羂索観音坐像 木造不空羂索観音坐像 木造不空羂索観音坐像 木造不空羂索観音立像 木造不空羂索観音立像 木造久麻加夫都阿良加志比古神坐像 |
木造不空羂索観音坐像(国宝)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 06:43 UTC 版)
「興福寺の仏像」の記事における「木造不空羂索観音坐像(国宝)」の解説
鎌倉時代、文治5年(1189年)、康慶作。像高336.0cm
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