奈良坊目拙解とは? わかりやすく解説

奈良坊目拙解

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/25 18:50 UTC 版)

村井古道」の記事における「奈良坊目拙解」の解説

古道代表作中本15巻14冊。享保15年(1730年)、古道50歳時記した自序に「三十年にして草案ほぼ成る」と記されているため、構想20歳代より持っていたと思われる脱稿享保20年(1735年)。 自序記されているところでは、古道問題意識過去南都名勝記の類は多く上梓されたものの、寺社古跡にばかり注力し、民家四民(士農工商)居所としての町名注意を払っていないところにあり、そこで家々旧史記録国史縁起俗諺古老口伝などを尋ね本書上梓したという。 巻初に明確な凡例備え橋本町中心とした町名掲載順序から、他書より引く際の規則不明点不明と記す、私見は「按」の文字使いそれとわかるように示す、俚諺俗説については証拠引用し正す、など科学的手法持ちこんだ初めての南都地誌焦眉といえる引用する書目200越え論説正確さ他書追随を許さないものがあった。『京都坊目誌』(1915-1916年(大正4-5年)刊、68巻)の作者碓井小三郎も、1896年(明治29年)に奈良で坊目拙解を一覧し、感激して京都坊目誌の編著思い立ったという。 しかしながら奈良坊目拙解は刊行されなかったため、近世までほぼ知られることなく稿本写本のみで伝わり後発の『平城坊目考』(寛政7年(1795年)成立久世宵瑞著)に長らく知名度奪われていた。明治入っても、『平城坊目遺考』(1890年(明治23年)、金沢昇平著)に一部引用されたり、『大和人物志』で書名紹介されたりしたに過ぎなかった。1938-1939年(昭和13-14年)、雑誌大和志』に分割掲載されようとした廃刊により中断と、なかなか日の目を見る機会得られなかった。 1949年(昭和24年)の金井寅之助による「村井古道再発見と、『平城坊目考』との対比による坊目拙解の再評価などを機に徐々に知名度高め1963年(昭和38年)には奈良市市史編集室から読み下し文版が少数非売品として提供、1977年(昭和52年)には喜多野徳俊訳・注口語訳版が発行され広く一般に知られるようになった

※この「奈良坊目拙解」の解説は、「村井古道」の解説の一部です。
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