奈良坊目拙解
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古道の代表作、中本15巻14冊。享保15年(1730年)、古道50歳時に記した自序に「三十年にして草案ほぼ成る」と記されているため、構想は20歳代より持っていたと思われる。脱稿は享保20年(1735年)。 自序に記されているところでは、古道の問題意識は過去に南都の名勝記の類は多く上梓されたものの、寺社古跡にばかり注力し、民家四民(士農工商)居所としての町名に注意を払っていないところにあり、そこで家々の旧史記録、国史縁起、俗諺、古老の口伝などを尋ね、本書を上梓したという。 巻初に明確な凡例を備え、橋本町を中心とした町名の掲載順序から、他書より引く際の規則、不明点は不明と記す、私見は「按」の文字を使いそれとわかるように示す、俚諺や俗説については証拠を引用し正す、など科学的手法を持ちこんだ初めての南都地誌の焦眉といえる。引用する書目も200を越え、論説の正確さも他書の追随を許さないものがあった。『京都坊目誌』(1915-1916年(大正4-5年)刊、68巻)の作者碓井小三郎も、1896年(明治29年)に奈良で坊目拙解を一覧し、感激して京都坊目誌の編著を思い立ったという。 しかしながら奈良坊目拙解は刊行されなかったため、近世までほぼ知られることなく稿本写本のみで伝わり、後発の『平城坊目考』(寛政7年(1795年)成立、久世宵瑞著)に長らく知名度を奪われていた。明治に入っても、『平城坊目遺考』(1890年(明治23年)、金沢昇平著)に一部引用されたり、『大和人物志』で書名が紹介されたりしたに過ぎなかった。1938-1939年(昭和13-14年)、雑誌『大和志』に分割掲載されようとしたが廃刊により中断と、なかなか日の目を見る機会を得られなかった。 1949年(昭和24年)の金井寅之助による「村井」古道の再発見と、『平城坊目考』との対比による坊目拙解の再評価などを機に徐々に知名度を高め、1963年(昭和38年)には奈良市市史編集室から読み下し文版が少数非売品として提供、1977年(昭和52年)には喜多野徳俊訳・注の口語訳版が発行され、広く一般に知られるようになった。
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