景清伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 02:42 UTC 版)
西海に落ち延びていた平景清が、東大寺大仏殿供養の日に源頼朝を暗殺するため奈良を訪れ、景清辻子に住んでいた老母を訪ねてここに匿れ住んでいたとの伝説が、いくつかの地誌に記録されている。老母は持仏の地蔵尊を勝願院に祀っていたが、景清は自分の持つ弓の鉾をこの地蔵の錫杖の柄とした。これが今に伝わる景清地蔵だという。または一説に、景清地蔵の細く瞳のない両眼は、景清の盲目の相を写したとの記載もある。勝願院東北にあった弁財天小社に納められていた一円鏡も、この老母の納めたものだともいう。 実際には、建久6年(1195年)3月13日の大仏供養で頼朝が京にいた際、既に景清は捕らえられて鎌倉にいたため、奈良に居たはずはない。また、『景清地蔵』の項で説明されている通り、『景清地蔵』はその元となる『おたま地蔵』が、嘉禎2年(1236年)に亡くなった実尊の追善のために造られたことがわかっており、景清の時代とは時期が合わない。『奈良坊目拙解』などではこの伝説の虚実について、(1)大仏供養の日、大衆と警固の梶原景時との間で諍いが発生した事件があった (2)同じく大仏供養の日、平氏落人の盛国という者が、頼朝暗殺を画策して露呈し捕らえられた(3)景清の兄、上総五郎兵衛尉忠光が、鎌倉で御堂造営の人夫に紛れ、頼朝暗殺を狙い捕らえられた、といったようないくつかの事件が景清の行業と混同され、伝説が生じたのであろうと推察している。
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