所在に関する諸説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/11 09:44 UTC 版)
江戸期の『奈良坊目拙解』では、「福寺」は「服寺」であり、福寺池跡にその場所を比定している。「福寺」項で先述の、福寺池跡からの複弁蓮華文軒丸瓦の発見により、福寺が奈良期にまで遡る可能性が高まり、本説の可能性も高まった。 『日本霊異記』には、諾良(なら)左京に吉祥天女の像を祀る服部堂と呼ばれる寺院が記録されており、服寺を「はとりでら」と読むことでこの左京服部堂を服寺と見る説もある。服部堂の比定地も諸説あるが、『奈良朝寺院の研究』によると、『西大寺田園目録』内に「添上郡左京九条三坊四坪内二段 字辰市ノ南、八鳥」(坪付は現奈良市西九条町)との記載がある。このヤトリ或いはハトリは「服」を指すと考えれば、服部堂すなわち服寺は辰市にあったと比定される。 服部堂は奈良市西新屋町にかつてあった元興寺吉祥堂のことであるとする見方もある。
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