俊寛伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 16:15 UTC 版)
「鬼界ヶ島 (奈良市)」の記事における「俊寛伝説」の解説
薩摩国の鬼界ヶ島に流刑にされた俊寛が、従者有王丸の助力を得て密かに島を抜け出し奈良に至り、この『鬼界ヶ島』の地に潜伏したとの伝説が複数の文献に残されるが、もちろん事実ではない。『本薬師』薬師如来像の奥芝辻薬師堂への移転についても、薬師像とともに石造の俊寛僧都真像が移されたとの記録も残る。 この伝説について、『平城坊目考』などでは、鬼界ヶ島本薬師が興福寺勧修坊支配であったため、『勧修』の音が転置して『俊寛』と誤認されて伝説となったものであろうと推測しており、俊寛像についても実際には俊寛ではなく勧修坊の僧侶の像であるとしている。また別の説として『奈良坊目拙解』では、後世の元弘年中に文観僧正が薩摩国鬼界ヶ島に流罪され、後醍醐天皇の天下統一後京に戻り後に奈良に住んだが、この文観と俊寛が取り違えられたのであろうと推測している。
※この「俊寛伝説」の解説は、「鬼界ヶ島 (奈良市)」の解説の一部です。
「俊寛伝説」を含む「鬼界ヶ島 (奈良市)」の記事については、「鬼界ヶ島 (奈良市)」の概要を参照ください。
- 俊寛伝説のページへのリンク