鬼界ヶ島 (奈良市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/05 12:52 UTC 版)
鬼界ヶ島(きかいがしま)とは、奈良市高畑町付近にかつてあった地名・名勝。単に鬼界とも。近世より近代、明治までの地誌や名所案内に広く記録が残るが、現存せず所在した正確な場所もはっきりしない。
注釈
- ^ 『本薬師』の字名自体は古くなく、江戸時代の地誌では見当たらず、明治以降の資料[18]でのみ存在が確認される。が、『鬼界ヶ島』の存在も、明治期の絵図[7]や地誌[2]で確認できるため、必ずしも関係がないとは言い切れない。『奈良町風土記』では字本薬師の由来を「元新薬師寺境内で、寺の中心である金堂や講堂があったためであろう」と推測している[19]が、字本薬師が新薬師寺の旧寺地に含まれていたと広く知られるようになるのは発掘による軒丸瓦などの発見以降であるので[20]、この推測が成立するとは言い難い。
- ^ この際、薬師像だけでなく同作の十二神将像も鬼界ヶ島から勧修坊に運ばれたが、その後奥芝辻薬師堂へと移す際に、僧侶が運送賃の増加を厭って十二神将は勧修坊に留め置いたという[21][22]。その結果、十二神将は行方知らずとなり失われてしまった[21][22]。
- ^ この薬師像移送については文献にとどまらず絵図にも記録が残されており、各時代の絵図で『きかいが嶋』の脇に『しばつじやくしへひける』『奥芝辻へひける』などの但し書きが見てとれる[3][4][5][6][7]。
- ^ 薬師像の移送の時期については諸説あり、『奈良坊目拙解』の閼伽井町の条では寛永年間とするが、奥芝辻町(今の奥芝町)の条では万治年間とする[22]。さらに『平城坊目考』では万治寛文の頃としている[15]。
- ^ 奈良国立博物館の所蔵品データベースによると、現存薬師如来立像の像高は164.5cmである[24]。これに対し『本薬師』の記録に残る像高は5尺(151.5cm程度)であり[16]、ある程度の一致をみることができる。
出典
- ^ 平城坊目考, p. 91.
- ^ a b 大日本地名辭書, p. 201.
- ^ a b 宝永和州南都之図.
- ^ a b 安永和州南都之図.
- ^ a b 天保和州奈良之図.
- ^ a b 元治和州奈良之絵図.
- ^ a b c 明治和州奈良之絵図.
- ^ 平城坊目考, p. 89.
- ^ 坊目拙解, p. 213.
- ^ a b c 名所図会, p. 131.
- ^ 坊目拙解, p. 169.
- ^ a b 年中行事, p. 23.
- ^ a b 八重櫻, p. 353.
- ^ a b 奈良町風土記, p. 26.
- ^ a b 平城坊目考, p. 310.
- ^ a b c 平城坊目遺考 上, p. 11.
- ^ a b c d e 坊目拙解, p. 214.
- ^ 奈良町実測全図.
- ^ 奈良町風土記, p. 25.
- ^ 日本古代寺院造営の研究, p. 244.
- ^ a b c d e f g 平城坊目考, p. 311.
- ^ a b c d e 坊目拙解, p. 314.
- ^ 奈良町風土記, p. 113.
- ^ 奈良国立博物館所蔵品データベース.
- 1 鬼界ヶ島 (奈良市)とは
- 2 鬼界ヶ島 (奈良市)の概要
- 3 参考文献
- 4 関連項目
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