木造トラス橋の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 06:10 UTC 版)
1875年(明治8年)12月、アメリカ人技師のN・W・ホルト設計による日本国内初の洋式橋梁「木造トラス橋」が、208フィート(約62.4m)と106フィート(約31.8m)の大小2連形式で完成した。ホルトが開拓使に提出した報告書 "Report of the Toyohira river brigde of Sapporo Yesso" によると、当初の設計に基づく大橋のトラス長は165フィート(約49.5m)であり、6月の時点ではその大きさに合わせた木材の切り出しまで終わっていたのだが、工事の視察に訪れた黒田清隆開拓長官が大橋の支間長を広くするように要請した。ホルトは既に進行していた作業を無駄にしないように構想を練り、鉛直部材に錬鉄材を用いた木鉄混合の「ハウ・トラス」形式を導入するとともに、新規設計による木造補剛アーチを増設することで大橋の伸長に対応した。しかしこれほど手を尽くした橋も、1年半後の1877年(明治10年)5月に洪水で流されてしまった。 札幌農学校の2代目教頭であり土木技術者でもあったウィリアム・ホイーラーは、落橋の原因を考察した末に、土堤を築き川の本流と支流を1本に合わせれば大小2連橋にする必要はないとの考えにいたり、ホルトの設計に改良を加えた。1878年(明治11年)10月、木鉄混合バー・トラス構造の大橋が架けられた。いまだ原始林の広がる札幌に高度な技術の成果である橋梁が威容を現す光景は、1880年(明治13年)の『北門時事』に「豊平川に於ては、縹緲霓虹の如く宏壮無比の釣橋を見ては、札幌第一の大観である」と評された。 1888年(明治21年)には「木造ハウ・トラス」に架け替えられたが、それもまた流されるという繰り返しであった。
※この「木造トラス橋の時代」の解説は、「豊平橋」の解説の一部です。
「木造トラス橋の時代」を含む「豊平橋」の記事については、「豊平橋」の概要を参照ください。
- 木造トラス橋の時代のページへのリンク