木造3000形
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「東京都交通局3000形電車」の記事における「木造3000形」の解説
1923年(大正12年)から1924年(大正13年)にかけて日本車輌、田中車輛(現・近畿車輛)、藤永田造船所、汽車会社にて610両が製造された。木造の低床ボギー車だが、車体の堅牢化のために柱と屋根組には鉄骨が採用されている。屋根は二重屋根となっているが、丸屋根との折衷的なデザインで採光用の小窓などは設置されていない。 本車の特徴としては、デッキを廃して乗降口を客室と一体化した近代的な構造となったことがあげられる。これはモーターの小型化に伴い、車輪をそれまでの直径790ミリから660ミリと小径化したことで、客室床面をステップ1段で乗降できる程度に下げることができたためである。このため本車同様の設計を用いた車両は低床車、従来形の車両は高床車と呼ばれ区別されるようになった。朱色基調の塗色の高床車に対して3000形は車体塗装に緑色を使用していたため、「青電」の通称もあった。台車はD10型、主電動機は37.2kW、もしくは38kWのものを2個搭載し、東洋電機製造、三菱電機、芝浦製作所と国産品が全面的に採用された。また1653形に続き空気ブレーキを標準採用した。集電装置はトロリーポールで製造当初は架空複線式のため集電用と帰線用の2本ずつ前後に2組設置されていた。 当初100両(3001 - 3100)が発注され1923年4月より順次入籍したが、このうち13両は同年9月1日に発生した関東大震災により焼失した。震災直後の12月より車両不足に対処するため日本の路面電車車両としては異例の大量生産が行われ、翌1924年7月までに510両(3101 - 3610)が製造されたが、このグループでは新たに戸袋窓が設けられている。震災前は三田及び青山車庫のみに配備されていたが、震災後はほとんどの車庫に配備され復興真っ只中の東京市内のほぼ全線区で使用された。 このうち青山車庫に所属していた3134号は1929年3月に陸軍のトラックとの接触事故で大破し、翌1930年に半鋼製車として復旧した異端車である。載せ替えられた半鋼製車体は同年に増備された5000形に準じた車体幅2440mmの絞りのない幅広車体で、復旧後は新宿車庫に配備されて5000形と同様に11・12系統で使用された。 震災後から昭和初期にかけての東京市電を代表する車両となったが、事故や火災により1944年(昭和19年)末までに42両、太平洋戦争による戦災で372両を焼失した。このうち1943年(昭和18年)3月に発生した早稲田車庫の火災で焼損した14両は復旧の際に2000形に改造されている。また戦災焼失車の台車・台枠等は戦後製造された6000形等に流用された。 1948年(昭和23年)5月の改番で事故廃車となった1両を除く196両が3001 - 3196(3196号は前述の半鋼製復旧車3134号)に改番された。しかし翌年には鋼体化改造が始まり、最終的に1952年(昭和27年)までに半鋼製復旧車含む全車が鋼体化もしくは2000形に改造された。末期の3000形は鋼製3000形の続き番号となるように改番が重ねられたため、元の車番は不詳である。なお、2000形に改造された車両のうち2両の車体のみが秋田市電に譲渡されている。
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