経緯・概要とは? わかりやすく解説

経緯・概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 02:25 UTC 版)

半地下」の記事における「経緯・概要」の解説

1968年北朝鮮朝鮮人民軍ゲリラ部隊当時朴正煕韓国大統領暗殺計画し潜入した青瓦台襲撃未遂事件発生大統領官邸襲撃された。以降武装した北朝鮮工作員韓国侵入するテロ事件相次いだ。そのため、1970年建築基準法改定では新築低層住宅には国家非常事態のための防空壕として地下室設置することが義務づけられた。当初貸し出すことは禁止されていたが、1980年代ソウル中心に住宅不足危機になると貸与解禁された。 今日至っても、特に家賃急騰が続くソウルでは20代平均月収が約200ウォンで、月々家賃は約54ウォン収入のうち家賃占め割合高く貧困層にとって半地下物件重要な選択肢一つになっている日光届かず薄暗く、夏には蒸し暑く湿度が高いためにカビ発生しやすい。天井低く、頭をぶつけないように両脚思い切り広げるうように立たなければ頭をぶつけてしまうような物件もある。韓国国内では半地下有名だが、ポン・ジュノ監督による映画パラサイト 半地下の家族』によって、国外で認知度上昇した。 『パラサイト 半地下の家族』では半地下劣悪な生活環境描かれているが、近年では半地下でも、改修され綺麗広さもある物件がある。

※この「経緯・概要」の解説は、「半地下」の解説の一部です。
「経緯・概要」を含む「半地下」の記事については、「半地下」の概要を参照ください。


経緯・概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 02:33 UTC 版)

プリンセス (ミスコンテスト)」の記事における「経緯・概要」の解説

2007年当時関西にあまりミスコンがなかったことから、当時現役大学生らが「女子大生輝ける場の創造」をコンセプト前身となるプリンセス関西発足させた。 第1回目ファイナリストからは青山郁代ミュージカル女優)、山村紘未(モデル)、吉村優アナウンサー)、 津田麻莉奈アイドル)などを輩出第1回目ファイナリスト活躍したこととそれまで関西大学ミスコンがあまりなかったことから関西中心に話題となる。 2008年から AFA株式会社主催となり、グランプリ受賞した松尾亜衣筆頭受賞者テレビ新聞・雑誌イベント出演したり、映画企業とのタイアップもするようになった2008年から2009年関西唯一のメジャーレーベルレコード会社GIZA studio協賛しており、B'z稲葉浩志プロデュース担当して当時現役立命館大学大学生であった宇浦冴香テーマソング現在進行形」を歌い話題となる。また大ヒットとなった映画ハンサム★スーツ」ともタイアップして、ファイナリスト15名が参加した舞台挨拶様子翌日ワイドショー報道された。 2009年にプリンセスモデルズというモデル事業始まりコンテスト人材発掘するだけでなく、発掘した人材育てることも始めている。この年フィナーレ様子多くメディアで報道された。またミス慶応とも比較されて、これを機に関西でも今後アナウンサー輩出増えるのではという期待高まった2010年からは高校生社会人など、大学生以外の一般応募可能になった。 全国展開掲げており、2010年から東海地区プリンセス名古屋2011年には関東地区プリンセス東京スタートした2011年には運営会社である AFA株式会社株式会社プリカン に社名変更し、新たな開催地区としてプリンセス横浜プリンセス京都プリンセス神戸追加された。 2012年からは『プリンセス』と改称され全国グランプリ・準グランプリの中から頂点を選ぶP-1グランプリスタートした。また新たな開催地区としてプリンセス北海道プリンセス仙台プリンセス福岡プリンセス沖縄追加された。 2013年株式会社プリカン から 株式会社プリンセス事業運営譲渡された。

※この「経緯・概要」の解説は、「プリンセス (ミスコンテスト)」の解説の一部です。
「経緯・概要」を含む「プリンセス (ミスコンテスト)」の記事については、「プリンセス (ミスコンテスト)」の概要を参照ください。


経緯・概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 10:04 UTC 版)

第3回帝国議会」の記事における「経緯・概要」の解説

第2回帝国議会衆議院解散により1891年末に閉会され、1892年2月おこなわれた第2回衆議院議員総選挙後の5月6日第3回特別議会召集された。品川弥二郎内相主導した流血選挙干渉民党過半数切ったものの、吏党の側も多数占めることができなかった。選挙活動中に負傷し包帯松葉杖すがたとなった議員登院した。品川内相伊藤博文枢密院議長らの圧力もあって辞職していた。岡崎邦輔陸奥宗光従弟)を領袖とする中立派独立倶楽部野党色を強め陸奥はまた自由党はたらきかけて、かつての部下であった立憲自由党星亨衆議院議長となった陸奥としては、松方内閣倒し伊藤博文内閣成立させたい考えであった5月12日立憲自由党立憲改進党の両党は明治天皇対し第1次松方内閣退陣求める「選挙干渉ニ関スル上奏案」を衆議院提出したが、陸軍大臣高島鞆之助によって立憲自由党一部が切り崩され上奏案143146否決された。14日今度立憲改進党単独で「選挙干渉ニ関スル決議案」が提出され154111可決された。松方首相帝国議会に対して憲政史上初の停会命じて善後策講じ伊藤博文には衆議院解散打診した。 ここで解散封じられ松方は、非公式に民党との接触図り民党集会政社法や新聞紙条例出版条例改正しようとして政府はこれを拒まないことと引き換えに、前年10月濃尾地震救済問題に関して政府対し柔軟な姿勢で臨むよう求めた5月13日行政権による新聞発行停止廃止する新聞紙法案が衆院通過したが、白根専一内務次官がこれに大反発して閣議決定見送られた。5月末の震災復旧事後承認審議本格化すると、松方板垣退助らと交渉し副島種臣内相調査継続答弁行い継続審議とする方針打ち出されたが、白根がこれに反対中央交渉会政府が「温和派」の頭越し民党接近する状況に強い怒り示した温和派人士は、自分たちは超然主義沿って有形無形支援政府無償与え続けてきたのに裏切られたという思いいだいたのである6月8日副島内相辞任、この問題先送りするためにいったん松方内相兼ねたが、いつまでもそれを続けるわけにはいかず、結局河野敏鎌農商相が横滑りして内相兼務したが、立憲改進党副総理選挙干渉批判する河野選挙干渉中心となった白根では政治的立場違いすぎた。 第三議会では、民法商法施行延期法律案可決された。しかし、追加予算にあった軍艦建造費・製鋼設立費は否決された。政府案は衆議院両者削除したが、貴族院では軍艦建造費が復活され衆議院返送された。衆議院では復活修正違法決議し貴族院返送した。再返送再々返送繰り返されたため貴族院天皇判断仰ぎ天皇枢密院諮詢した。6月13日枢密院予算査定両院同等で、予算修正に関しては後議の議院先議議院同意を得るものとい判断示した結果両院協議会開かれ協議により軍艦建造費は全額削除となった第三議会1892年明治25年6月14日閉会した民党による倒閣免れたものの、松方内閣提出の主要予算潰滅状態にあり、閣内不統一きわまった6月16日松方正義後任伊藤博文推薦して首相職辞意表明した

※この「経緯・概要」の解説は、「第3回帝国議会」の解説の一部です。
「経緯・概要」を含む「第3回帝国議会」の記事については、「第3回帝国議会」の概要を参照ください。


経緯・概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 15:14 UTC 版)

反右派闘争」の記事における「経緯・概要」の解説

中国共産党中華人民共和国建国するにあたり、党外の各民主党派から支持受けており、国家副主席国務院閣僚全人代副委員長全国政治協商会議副主席などのポスト民主党派渡し少なくとも表面的に協調体制であった1956年4月25日毛沢東中国共産党中央政治局拡大会議で「十大関係を論ず」とした講話行いその中で百花斉放百家争鳴方針打ち出した当時中央宣伝部長だった陸定一も、「文学芸術科学研究には独立思考の自由があるべきだし、弁論の自由や創作批判自身意見発表し自身意見堅持保留する自由もあるべきだ」と知識分子に対して講話行った1957年5月1日人民日報党中央出した整風運動に関する指示」を掲載し、全党は官僚主義宗派主義主観主義反対する整風運動の展開を決定し、党外に自身考え意見述べるよう奨励し、党や政府意見述べ共産党の整風を助けるよう求めた。 これらの呼びかけ知識分子中心とした各界から党と政府対する不満や提案出されるようになったが、次第過激になり「共産党民主党派順番与党となるべき」「共産党天下仕切ることに反対する」などの論調出始めると、毛沢東5月15日に「事態変化しつつある」とする内部文書回し続けて6月8日人民日報に「これはなぜか」と題された社論を掲載させ、「少数右派分子共産党の整風を助け名目で、共産党労働者階級指導挑戦しはなはだしき至っては、公然と共産党に"下野しろ"とわめいている」と批判した。さらに6月14日には、再び人民日報文匯報光明日報名指し批判し光明日報中国語版)の章伯鈞(中国語版社長、儲安平中国語版編集長文匯報の浦熙修(中国語版副編集長(兼北京事務所主任)、民主同盟中央副主席の羅隆基中国語版)が批判された。 10月15日党中央は「右派分子決め基準通知出し1958年には55万人右派辺境への労働改造失職などの憂き目遭い、あるいは死亡した

※この「経緯・概要」の解説は、「反右派闘争」の解説の一部です。
「経緯・概要」を含む「反右派闘争」の記事については、「反右派闘争」の概要を参照ください。


経緯・概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 00:37 UTC 版)

燃えよドラゴンズ!」の記事における「経緯・概要」の解説

1974年CBCラジオ生ワイド番組ばつぐんジョッキー』に山本正之本曲デモテープ送り、同番組加藤吉治郎ディレクターテープ採用し発表された。 当時大学卒業後に音楽業界志していた山本極貧生活の中、ラジオ野球中継から同い年藤波行雄適時打耳に入ったところから奮起し銭湯での入浴中打者部分下宿にてそれ以外歌詞考案し2時間ほどで作詞仕上げた曲名映画燃えよドラゴン」から着想された。その後巨人V10阻止した20年ぶりのリーグ優勝記念し板東英二歌唱によりレコード化された。 当時、『ばつぐんジョッキー月曜日パーソナリティ元中投手板東英二で、シーズン終盤番組初め送られてきたデモテープをかけたところ問い合わせ殺到し、同じ生放送で同じ曲を2度流すのも異例だが、その時放送時間3時間のうちに5回もかけ、翌週には番組リクエスト殺到したという。 山本は「企画応援歌募集していて、選ばれれば賞金10万円が貰える」と言われ応募したが、賞金については先輩の嘘だった。同時に東海テレビデモテープ送付しており、そちらでも反響大きかったが、先にレコード化働きかけてきたのがCBC側だったという。 中日巨人激し優勝争いをしていることもあってこの曲のヒット確信した板東山本から版権買おうとしたが、「売れわけがない」というマネージャー発言断念したという経緯がある。当時レコード作るには最低2ヶ月かかるが、東宝レコード1週間プレスすることを確約し製作することになった結果的に中日巨人10連覇阻止し20年ぶりの優勝果たしたためこの曲も40万枚超える大ヒットとなった中日には、歴代球団歌として「ドラゴンズの歌」(1950年 - 1977年)、「勝利の叫び」(1978年 - 2014年)、「昇竜 -いざゆけ ドラゴンズ-」(2015年 - 現在)、また1997年ナゴヤドーム開場記念して作られ公式応援歌の「嵐の英雄」があるが、「燃えよドラゴンズ!」の知名度及び人気はそれらをはるかに凌ぐものがあり、2002年からは、中日の7回裏の攻撃前(ラッキーセブン)に「ナゴヤドーム合唱編」(水木一郎歌唱版)が流されている。ビジター球場でも交流戦ドアラ等のマスコット来場した時を中心に7回表攻撃前に流されることもあるが、相手チームを叩く内容2番3番カットされることが多い。 得点時や勝利時の試合終了後には、中日応援団により「燃えよドラゴンズ!」が歌われる2013年まで応援活動行っていた、全国中日ドラゴンズ私設応援団連合加盟する応援団活動停止と、それに伴い球団新設し中日ドラゴンズ応援団への移行に伴い全ての応援歌刷新されたが、「燃えよドラゴンズ!」だけは継承された。 なお、ビジターなど、他球場では「ナゴヤドーム」の部分に各球場名が入る。

※この「経緯・概要」の解説は、「燃えよドラゴンズ!」の解説の一部です。
「経緯・概要」を含む「燃えよドラゴンズ!」の記事については、「燃えよドラゴンズ!」の概要を参照ください。


経緯・概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 09:53 UTC 版)

はじめまして (テレビドラマ)」の記事における「経緯・概要」の解説

1974年11月17日に『東芝日曜劇場放送された「ムリすんなよ」が好評であったことから、それをベース連続ドラマ化されたとされている。放送開始時主演の江利は歌手として「酒場にて」がヒットであった。またTBS系連続ドラマ出演は、1970年の「ザ・ガードマン」第287話「チエミモーレツ課長殺せ!」にゲスト出演して以来5年ぶりであった

※この「経緯・概要」の解説は、「はじめまして (テレビドラマ)」の解説の一部です。
「経緯・概要」を含む「はじめまして (テレビドラマ)」の記事については、「はじめまして (テレビドラマ)」の概要を参照ください。


経緯・概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/21 09:16 UTC 版)

プリンセス東京」の記事における「経緯・概要」の解説

プリンセス東京版である。プリカン全国展開一環として2011年より開催された。。

※この「経緯・概要」の解説は、「プリンセス東京」の解説の一部です。
「経緯・概要」を含む「プリンセス東京」の記事については、「プリンセス東京」の概要を参照ください。


経緯・概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 10:04 UTC 版)

第4回帝国議会」の記事における「経緯・概要」の解説

第1次松方内閣首相松方正義は、第3回帝国議会閉会直後後継伊藤博文推薦して辞意表明した。 しかし伊藤簡単に引き受けようとはしなかった。彼は、第2回衆議院議員総選挙先立って明治天皇奏上し自分政党組織させてほしい、大成会基盤として速やかに天皇主権政党をつくり、自由民権運動流れを汲む民党勢力対抗する以外に内閣支援する方法はないと切言したが、周囲からは妨害され説得され政党率い彼の願い押さえ込まれた。その一方で衆院選挙では流血をともなう選挙干渉がなされ、事後解決すべき松方内閣閣内不統一などの不安定材料かかえて長続きしなかったので、彼は憤懣にたえない状態だったのである松方より後任推薦されはしたが、伊藤松方真意疑っていた。そこで6月29日三田松方邸で元老会議開かれ、そこで今後基本方針決定されることとなった伊藤は「黒幕勢揃」すなわち元勲総出なければこの難局切り抜けられないし、そうでなければ引き受けない主張した。「明治政府末路一戦」を訴え伊藤対し内心伊藤風下に立ちたくない山縣有朋も最終的に応じ井上馨黒田清隆大山巌とともに伊藤含めた5元勲新内閣に加わり衆議院影響力のある陸奥宗光後藤象二郎河野敏鎌入閣した組閣難航し、3週間もの迷走期間をともなったが、8月8日、ようやく第2次伊藤内閣始動した第4回帝国議会開会11月29日予定されていたが、その前々日11月27日伊藤首相自身乗った人力車小松宮妃の馬車接触する事故にあい、投げ出され伊藤顔面強打して重傷負った前歯犬歯折れ口の中を切り、脳しんとう後遺症負った伊藤執務不能となったしばらくの間井上内相首相臨時代理となり、伊藤回復まで黒田山縣と3人で議会対策にあたることとなった第4回帝国議会衆議院議長自由党星亨であった政府衆議院歳出8,375万円予算案提出した。星は政府出した予算案大なたをふるい、予算委員会政府案の884万円削減し新規軍艦建造費は全額削除された。 1893年入って関係閣僚会議開かれ削減応じ代わりに衆議院にも譲歩させるという、第1回帝国議会採用されたような妥協案に固まりかけていたが、山縣1つ譲歩すれば際限がなくなると反対した。政府は、議会甲鉄艦予算認めれば地租軽減に応じてもよいという考えだったが、議会狙い倒閣にあったので軍艦製造費復活見込みはなかった。そこで政府交渉あきらめ貴族院地租修正案否決させ、衆議院とは対決姿勢向き合うこととした。伊藤井上書面連絡とりあい衆議院との対決路線一致することを約し閣議での了承得た。 「明治政府智嚢知恵袋)」と称され井上毅は、ギリギリの状態であった伊藤内閣秘策授けた。それが、1893年2月10日出された「和協の詔勅和衷協同の詔勅)」である。正式名称は「在廷ノ臣僚及帝国議会ノ各員ニ告ク詔勅」であり、政府にとっては奥の手であった具体的には、軍艦建造費として宮廷費節約分と文武官の俸給の1割を出すので、議会政府協力せよとの天皇命令であった。この詔勅絶大な効果発揮して予算成立しこののち民党第一党自由党政府接近したまた、自由党主張中身もまた民力休養論的なものから「対外硬」的内容へと変化していった。

※この「経緯・概要」の解説は、「第4回帝国議会」の解説の一部です。
「経緯・概要」を含む「第4回帝国議会」の記事については、「第4回帝国議会」の概要を参照ください。


経緯・概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 02:18 UTC 版)

第1回帝国議会」の記事における「経緯・概要」の解説

1890年明治23年11月25日第1次山縣内閣の下で、第1回帝国議会召集された。午前10時開会し衆議院では、第1回総選挙日本全国257小選挙区から選ばれ300名の議員のうち290名が登院し、一日かけて議長中島信行が、副議長津田真道選出された。中江兆民は、自由民権運動流れを汲む反政府勢力を「民党」、政府寄り政党勢力を「吏党」と呼んだが、これは一躍時代流行語となった議会では、「民党」の側が171名の絶対多数占めていた。 これに対し貴族院では党派排除気風強かったが、やがて政策研究団体親睦団体主旨とする研究会などの会派生まれた12月6日山縣有朋内閣総理大臣施政方針演説主権線(国境とともに利益線(朝鮮)の防衛のための軍事力増強主張した(「主権線・利益演説」)。これに対し、特に質疑反論などは出なかった。黒田清隆山縣持論である「超然主義」についての質問もなかった。 山縣内閣軍事力増強のための予算案議会計上したが、これについては民党側が「政費節減民力休養」を主張したため、政府議会鋭く対立した民党グループ松方財政による多年農村疲弊を救うことの方が軍事費増強よりも先決だとして、政府提案予算案について、その1割を削減すべきと主張した。「民力休養論」は、各地凶作発生し商工業界も最初経済恐慌経験し都市には貧民問題生じている状況からみて充分に根拠のある主張であった政府は、特に後藤象二郎陸奥宗光の2閣僚中心に立憲自由党一部土佐派)を切り崩す工作進め修正予算案をつくらせたうえで、わずか2票差でこれを通し一部予算可決させた。政府としては、アジア最初議会として世界的に注目されているところから、最初議会解散はどうしても避けたかったのである第1回帝国議会難題とされたのが一院主格説を採るか両院主格説を採るかということであった議会がどの段階憲法67関連費目の廃減要求を行うかという点が検討課題とされ、政府なかでも議会なかでも意見分かれた1891年2月には政府見解は各院の議了ということ見解固まった貴族院概して政府好意的であり、両院議了後が政府に有利であるかのようにみえるが、井上毅によれば両院査定合意したのちに廃減要求出してきたとき(両院主格説の場合)、政府には全面同意か、もしくは全面不同意かの二者択一しか途がなくなり前者ならば政府の完全敗北、後者ならば予算不成立ということになってしまう。山縣首相は、これでは困るので一院議了後にその都度廃減要求を行う一院主格説を採用してほしいと見解示した。 省別議了時とする案、本会議段階とする案なども出されたがいずれも否決され結局衆議院において一院主格説が可決された。政府全面降伏予算不成立かという最悪事態避けることができたが、一方で天野動議67費目を廃減する際には本会議での逐項審議終えた時点政府同意を得るべしとの動議)の成立によって衆議院単独での発議が可能となった天野動議もまた土佐派工作によって出されたものであり、最初議会解散なしで終わらせたいという配慮から生じたものであった会期終了1891年明治24年3月7日

※この「経緯・概要」の解説は、「第1回帝国議会」の解説の一部です。
「経緯・概要」を含む「第1回帝国議会」の記事については、「第1回帝国議会」の概要を参照ください。


経緯・概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 03:33 UTC 版)

第2回帝国議会」の記事における「経緯・概要」の解説

1891年明治24年11月26日第1次松方内閣の下で、第2回帝国議会召集された。自由党領袖河野広中によれば第一議会第1回帝国議会)はたぶんに欧米人の目を意識した儀式的な、ないし藩閥政府民党との「顔見世興行」的な性格持っており、第二議会第2回帝国議会)こそ「真の第一議会」と称せられるべき性格を持たなければならなかった。 衆議院では、栃木3区選出田中正造議員立憲改進党所属)より足尾鉱毒問題について、憲法第27条鉱業条例第19条などによって、銅山採掘許可取消し被害救済対策、さらに、将来鉱害予防方策などについての質問なされた。これは、1880年代後葉より渡良瀬川およびその流域において魚類減少植物の枯死顕著であり、その原因栃木県上都賀郡足尾銅山鉱毒にあるのではないか懸念されていたことを踏まえて質問であった民党にあっては立憲自由党分裂ののち、ヨーロッパ留学から帰国した星亨中心となって党内調整し選挙民からも干渉受けない純然たる議員政党改組し、院外隠然たる勢力持っていた大井憲太郎左派中江兆民らの勢力排除して従来大衆政党要素一掃する一方で立憲改進党との提携強化した民党側は、第二議会では政府によるさまざまな切り崩しにも乱れことなく軍艦建造費はじめ陸軍兵器弾薬改良費、砲台建設費製鋼設立費、鉄道国有公債案など、政府提案軍事予算案がことごとく否決された。政府党派超えて希望の多い鉄建設私鉄国有化案件民党懐柔し、切り崩そうともした効果がなかった。 このような状況対し12月22日衆議院本会議において、海軍大臣樺山資紀が「薩長政府トカ政府トカ言ッテモ、今日国ノ此安寧ヲ保チ、四千万生霊ニ関係セズ、安全ヲ保ッタト云フコトハ、誰ノ功カデアル」(薩長政府けしからんというが、4000日本人ともかくも平和に生きていられるのは、その薩長政府おかげではないか)と発言いわゆる蛮勇演説」をおこなったことが原因議会紛糾した樺山発言藩閥政府側の本音であったとも思われるが、これを言って審議はもはや成立しがたいものとなり、事態はいっそう険悪になった。しびれを切らした伊藤博文は、今まで行きがかり置いて山口から内閣総理大臣松方正義激励した結局松方首相1891年明治24年12月25日をもって衆議院解散とすることを決定した予算削減同意することをよしとしない政府姿勢示されたこととなる。これは、日本憲政史上、最初解散権の行使となり、解散日1891年12月25日をもって会期終了した。 なお、これを受けて1892年2月15日には、第2回衆議院議員総選挙実施された。

※この「経緯・概要」の解説は、「第2回帝国議会」の解説の一部です。
「経緯・概要」を含む「第2回帝国議会」の記事については、「第2回帝国議会」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「経緯・概要」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「経緯・概要」の関連用語

経緯・概要のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



経緯・概要のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの半地下 (改訂履歴)、プリンセス (ミスコンテスト) (改訂履歴)、第3回帝国議会 (改訂履歴)、反右派闘争 (改訂履歴)、燃えよドラゴンズ! (改訂履歴)、はじめまして (テレビドラマ) (改訂履歴)、プリンセス東京 (改訂履歴)、第4回帝国議会 (改訂履歴)、第1回帝国議会 (改訂履歴)、第2回帝国議会 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS