経緯・具体内容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:47 UTC 版)
1954年3月1日に、ビキニ環礁での米国による第一回目の水爆実験(キャッスル作戦)に巻き込まれる形で日本の第五福竜丸が被曝したが、これを契機として原水爆実験を原因とする死の灰(放射性降下物)の影響というものが世界的に大きな問題として浮かび上がることとなった。 被爆国である日本においては放射線被曝の人体許容量に国民の関心が集まった。それに答える形で、原水爆の死の灰による放射線は米国で用いられている許容線量 よりも低い線量なので安全であるという主張が、実験実施国である米国側から も、またそれに追従する日本の科学者からも言われた。 急性の放射線障害といった確定的影響 (deterministic effects)であれば、ある程度大きな(閾線量を超える)線量被曝を受けなければその害は現れない。ところが、ガンの発生および後の世代に現れる遺伝的影響といった現代でいうところの確率的影響 (stochastic effects)については、当時(1950年代中頃)においても、閾値が存在せずかつ障害発生の確率がそれまでに受けた被曝線量の総和に比例している(すなわち、放射線被曝は微量でも有害)と考える説 が世界の専門学者らによって大体認められてきていた。 米国側などが主張した無害な量を意味した『許容量』の科学的根拠が失われていることを見抜いていた立教大学教授であった武谷は、放射線防護のための新しい考え方として、1957年に岩波新書『原水爆実験』において、『許容量』とは安全を保証する自然科学的な概念ではなく、放射線利用の利益・便益とそれに伴う被曝の有害さ・リスクを比較して決まる社会的な概念であって、”がまん量”とでも呼ぶべきものである という主旨の説を提唱した(武谷説)。 「被曝#放射線防護策の選定と実施」も参照
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