開発経過
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「F-15 S/MTD (航空機)」の記事における「開発経過」の解説
マクドネル・ダグラス社は1984年10月1日に1億1,780万ドルでアメリカ空軍の飛行空力研究所から機体の設計、改造、試験の契約を結んだ。期間は5年間とされ、マクドネル・ダグラス社が主契約社となり、エンジン排気ノズルをプラット・アンド・ホイットニー社、新型飛行操縦システムをゼネラル・エレクトリック社、フライ・バイ・ワイヤ(FBW)をナショナル・ウォーター・リフト社、降着装置をクリーブランドマチック社がそれぞれ担当し、副契約社として選ばれた。作業は1985年末までを第1フェイズとして、機体の設計とエンジン排気ノズルの開発を実施した。機体はアメリカ空軍所有の試作11号機(複座型1号機)TF-15B(71-0290)を借用し以下の試験技術を搭載した。 二次元のスラスト・ベクタリング/スラスト・リバーシング排気ノズル(2D TV/TR) 飛行操縦及びエンジン制御システムの統合(IFPC) 未舗装地運用可能な降着装置 機上着陸誘導表示装置 先進パイロット・航空機インターフェイス(PVI)システム 1986年より開発はフェイズ2に移行し機体の改修作業が行われた。若干の遅れが生じたものの各作業は滞りなく進み、1988年9月7日に初飛行を行った。改修された機体には「F-15 S/MTD」(Short take-off and landing/Maneuvering Technology Demonstrator:短距離離着陸/機動技術デモンストレーター)と名付けられた。 初飛行時は従来型の排気ノズルを装着しており、基本的な飛行特性の確認後の1989年初頭に二次元推力偏向ノズルを取り付け、同年5月10日に二次元推力偏向ノズルを取り付けての初飛行が行われた。その後の13か月間に、総飛行回数は100回の飛行試験を予定されていた。
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開発経過
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エイドスの子会社コア・デザイン(英語版)はビデオゲームトゥームレイダースの主人公であるララ・クロフトの開発を1993年に開始した。リードグラフィックアーティストのトビー・ガード(英語版)はキャラクターの最終的な外観に行きつくまでに、約5つのデザインを検討した。彼の当初の想定では、主人公は鞭とハットを身につけた男性であった。コア・デザインの共同設立者Jeremy Smithはデザインの特徴付けがインディアナ・ジョーンズの派生品として、さらにオリジナリティーを求めた 。ガードはデザインの観点が女性キャラクターである方がうまくいくと判断した 。また、歌手のネナ・チェリーとコミックブックのキャラクタータンク・ガールにインスパイアされた。 シリーズ初期日本語版のレイラ・クロフトという名前は、当時のプロデューサーが、ララという名前が日本人の感性的に変だと感じたため当時のアニメや曲などにちなんで「レイラ」に変更したものである。
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開発経過
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計画では上陸用舟艇から発進、ロケットモーターによって車輪を高速回転させ、無誘導・100キロメートル毎時以上で目標に突進させる予定であった。 だが実験の結果、砂浜での摩擦や凹凸により空転したり、急に予測不能な向きへ方向転換する、ロケットが脱落するなどの問題が多発して開発は難航、直進すら叶わず不成功に終わった。安定性を増すために本体を大型化、トルクを増すためにロケットモーターを増強・脱落防止のため補強するなど、幾多の改良を行いながら実験は繰り返されたが、根本的な構造上の問題や、当時の技術的限界もあって問題点を解決できず、開発は中止された。 標的に衝突させるのではなく、戦車などの車両が海から砂浜に上陸する際に、車輪や無限軌道が砂に嵌るのを防止する目的で、先に軌跡でカーペットを敷設させるために用いるという案も出されたが、前述の理由により実現されなかった。なお、後にチャーチル歩兵戦車を改造した工兵用作業車のバリエーションの一つとしてこの役割を担うチャーチル・カーペットレイヤーが登場している。
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開発経過
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2000年(平成12年) - 群馬県利根郡新治村(現みなかみ町)・新潟県南魚沼郡湯沢町などが「新三国トンネル開削促進期成同盟会」を結成、国や県にトンネル付け替えを要望。 2004年(平成16年) - 国土交通省が新三国トンネル調査、計画等を開始。 2013年(平成25年)8月 - 新三国トンネル開削に向けた準備工事着工。 2016年(平成28年)3月 - 国土交通省より準備工事の進捗報告。なお、この時点では開通時期は未定となっていた。 2017年(平成29年)8月 - トンネル掘削工事開始。 2019年(令和元年)8月8日 - トンネル貫通。 10月1日 - トンネル貫通式が行われる。 2022年(令和4年)3月19日 - 開通式典・セレモニーを経て16時に開通。
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開発経過
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本砲の研究は1937年(昭和12年)7月の陸軍技術本部改訂兵器研究方針により研究を開始、設計に着手したものの1939年(昭和14年)6月設計方針の変更により一旦白紙に戻された。再設計を行い1940年(昭和15年)3月陸軍造兵廠大阪工廠に対し試製発注された。試製砲は同年12月に竣工し、竣工試験を実施した上で試験に基づく修正を施した。翌1941年(昭和16年)3月には九七式中戦車の車台を改修した試製一式砲戦車に搭載し総合的な試験を実施し、その結果に基づき威力を増大した第2号砲を7月に発注した。第1号砲は改修を施して翌8月改修機能試験を実施、更に翌9月陸軍戦車学校に実用試験を委託した。第2号砲は翌1942年(昭和17年)2月に完成、竣工試験後三菱重工にて一式中戦車車台を改修した試製車両に搭載して試験を実施、ほぼ満足すべき結果を得た。同年6月、電気発火用電磁石が完成し、撃発装置を一部改修した本砲に取り付け、大津川射場において機能抗堪性試験を実施した。同年12月には第四陸軍技術研究所で完成した二式砲戦車に九九式七糎半戦車砲電気発火装置付を搭載し、千葉県一ノ宮演習場にて射撃試験を実施、千葉・茨城・栃木県下で運行試験を実施した。電気発火装置は機能、抗堪性共に良好であったため、本砲の撃発機は電気発火を主体、手動発火を補助とすることとした。 以上をもって本砲の仮制式制定を上申、1943年(昭和18年)7月21日、仮制式が制定された。
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「Tu-334 (航空機)」の記事における「開発経過」の解説
Tu-334の開発はソ連崩壊に伴うロシア経済の混乱のため、資金難であったために1990年代にゆっくりと進められ、プロトタイプが1995年に作られたがこれは少数のシステムしか搭載しておらず、実際に初飛行に成功したのは1999年2月8日のことであった。その年にMiGとの間で生産に関する契約を結び一部生産をMiGが請け負うこととなった。2003年には、ウクライナのアントノフもTu-334の製造に加わることとなり、キエフのキエフ航空機工場「アヴィアーント」でも生産が行われることとなった。 2003年12月30日耐空証明を得た。しかし、それ以来、予算の問題により開発が遅いままであった。2006年12月の時点での確定注文はアトラント・ソユーズ航空を含む7社で、ほかに24社が購入を計画していた。また、イラン航空産業機構(IAIO)は、Tu-214とともに2015年までにライセンス生産を実施するための交渉をしていた。2008年、ツポレフには100の航空会社が関心を示したと報告した。 2008年7月31日に、ツポレフのマネージングディレクターSergei Ilyushenkovは遅くとも2009年1月より生産が開始することを目標とすることを発表した。しかし、計画は進まなかった。 2009年、同クラスのAn-148やスホーイ・スーパージェット100の開発に注力するために、Tu-334計画は破棄された。 コックピット キャビン
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開発経過
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M2軽戦車は1935年末に、アメリカ陸軍の歩兵科用戦車として、イリノイ州のロックアイランド工廠にて開発された。試作車のT2E1軽戦車が制式化され、M2A1軽戦車となった。それまでに開発されたT1E4、T1E6、T2、各軽戦車は、イギリスのヴィッカース 6トン戦車の設計の影響を受けていた。よってそれらの改良発展型である本車も影響を受けていた。T2軽戦車までは、ヴィッカース 6トン戦車のようなリーフスプリング・サスペンション方式の複雑な足回りだが、T2E1軽戦車からは、より単純なVVSS(垂直渦巻スプリング・サスペンション)方式を採用していた。これは後のアメリカの軽戦車、中戦車に踏襲された。履帯はダブルピンで、サイドガイド形式となっていた。 各型は、副武装として車体前面右側にM1919A4 7.62 mm 機銃を1挺装備していた。車体と砲塔の装甲は溶接技術が未熟であったためにリベット留めであった。砲塔は人力旋回方式であった。 最初の生産型M2A1は、主武装としてM2 12.7 mm 機銃1門(砲塔前面左側)とM1919A4 7.62 mm 機銃1挺(同右側)を同軸で、砲塔上面後部左寄りに円形キューポラを備えた2人用(車長、機銃手)の単砲塔に搭載していたが、わずか10輌(19輌説あり)で生産終了となった。エンジンはコンチネンタル W-670-7 空冷星型7気筒ガソリン・エンジン(出力262hp)であった。 代わって、2つの銃塔を、左右並列配置(M2機銃1挺装備のキューポラ付きの左砲塔が車長兼機銃手、M1919A4 機銃1挺装備のキューポラ無しの右砲塔が機銃手)で搭載した、M2A2が生産に移された。このような双砲塔の軽戦車は、オリジナルのヴィッカース 6トン戦車E型 Type Aの他に、ソ連のT-26やポーランドの7TPなどが同時期に存在していた。左右並列配置された2基の銃塔を持つ外観から、当時有名だった巨乳の女優にちなんで「メイ・ウエスト」と兵士たちには呼ばれた。左銃塔には円形のキューポラが設けられた。M2A2は239輌(237輌説あり)が完成した。 その後、スペイン内戦の戦訓から、アメリカ陸軍はより強力な装甲と武装の必要性を認識し、1938年には、装甲強化と車体延長とサスペンションの改良をした、M2A3が開発された。エンジンはコンチネンタル W-670-9 空冷星型7気筒ガソリン・エンジン(出力262hp)に変更された。左銃塔のキューポラが六角形に改められている。M2A3は72輌(73輌説あり)が完成した。 1940年には、双砲塔をやめて2人用の大型砲塔に、主武装として53.5口径のM3 37 mm 対戦車砲を50口径に短砲身化したM5 37mm 戦車砲(基本的に対戦車砲のままであり、そのため砲身の下の駐退復座機が車外に露出していた)と同軸機銃のM1919A4 機銃1挺を装備した最終型、M2A4の採用に至った。M2A4では装甲もさらに強化されており、最大装甲25.4 mm(1インチ)に達している。車体左右のスポンソン前部に、M1919A4 機銃が1挺ずつ装備されるようになった。砲塔上面には車長用キューポラが設けられ、キューポラ後部に対空機銃架の装備も可能であった。M2A4は375輌(アメリカン・カー&ファウンドリー社で1940年5月から1941年3月にかけて365輌、ボールドウィン・ロコモーティヴ社で1942年4月に10輌)が完成した。 しかし、フランス戦での戦訓から、なお一段と強力な戦車が必要であると考えられ、1940年7月にはM2軽戦車をベースとした新型軽戦車の開発が始まっている。この新型軽戦車はM3軽戦車として完成し、1941年3月にM2軽戦車の生産は打ち切られた。
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開発経過
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1985年(昭和60年) - 日本造船振興財団が主体になり「超電導電磁推進船開発研究委員会」を設立。 電磁推進船の構成およびシステム調査。 超伝導電磁石、低温技術の調査。 回流水槽の設計製作。 1986年(昭和61年) 電磁推進船の推進効率研究。 超伝導電磁石の設計。 船上・地上用ヘリウム冷却装置の設計。 実験棟の建設。 電極材の研究。 1987年(昭和62年) 電磁推進船のモデルテスト。 超伝導電磁石の詳細設計と単体コイル製作。 長水槽の建設。 1988年(昭和63年) 電磁推進船の詳細設計。 コイル・クライオスタットの製作。 冷却装置製作。 試験航海海域の調査。 1989年(平成元年)[元号要検証] 電磁推進船の建造着手。艤装。 コイル他推進装置の組み立て調整。 三菱造船神戸内に陸上支援施設建設。 1990年(平成2年) 電磁推進船の完成。 命名式。 推進装置調整。 1991年(平成3年) ヤマト-1に電磁推進装置の搭載、調整。 1992年(平成4年) ヤマト-1神戸湾において海上試験航行。評価など行なう。
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開発経過
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1920年代中頃から、歩兵砲の主要任務として、機関銃では捕捉できない敵陣地の制圧に加えて対戦車防御が掲げられるようになったが、当時配備中の十一年式平射歩兵砲では対戦車性能が不十分であることが提起された。陸軍中央部は1928年(昭和3年)11月、十一年式平射歩兵砲の整備は現在の程度に留め、新たに平曲射両用砲を平時より常設師団全てに整備することを決定した。 後に九二式歩兵砲となる平曲射兼用、口径70mmの軽歩兵砲は1928年に陸軍技術本部にて研究を開始、1930年(昭和5年)3月、「試製軽歩兵砲」の第1号砲が竣工した。同年6月にかけて各種試験を実施、その結果を受けて改修された試製第2号歩兵砲が翌1931年(昭和6年)5月竣工した。同年9月から第2号砲の実用試験を実施した陸軍歩兵学校は、試製軽歩兵砲と試製歩兵随伴砲及び従来制式の平射・曲射両歩兵砲の比較報告を行っている。この結果、試製軽歩兵砲は平射歩兵砲と比較して重量は倍加しているものの運動性に大きな遜色なく、曲射歩兵砲と比較すると運動性に劣り形態も大であるので第一線中隊付近に使用するには一考を要するが、敵前中距離にある連大隊長の側近砲としては曲射歩兵砲に優ると判定された。歩兵随伴砲との比較では、射程・弾丸威力においては劣るものの歩兵砲として充分であり、運動性において優り、精度においても優る場合がある、但し対戦車砲として劣ることは免れないとしている。 以上のように、軽歩兵砲は歩兵大隊長の側近砲として適当であると認められたため、1932年(昭和7年)3月12日仮制式制定上申、同年7月6日「九二式歩兵砲」として仮制式制定された。
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開発経過
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第二次世界大戦前、ソ連を仮想敵として満州方面での戦闘を想定していた日本陸軍は、ソ連の国境陣地攻撃や、密林・湿地帯の突破を重要課題と考えた。そこで、1929年(昭和4年)に定めた研究方針に基づき、1930年(昭和5年)に、路上障害物の排除とトーチカの破壊を主目的とした戦闘工兵車の開発を始めた。研究担当は工兵機材担当の陸軍技術本部第二部であった。 1931年(昭和6年)6月に三菱重工業で試作車が完成した。主目的の2機能に加え、塹壕の掘削、化学兵器の撒布及び除去、火炎放射、地雷除去、煙幕の展開といった各種機能がこなせる万能工作機械として設計されていた。これは財政難などから多機能が期待されたためである。ただちに工兵学校などでの実用試験が始まり、1933年(昭和8年)には特別工兵演習に参加した。折り畳み式の架橋設備の追加などの改良を経て、1936年(昭和11年)に九六式装甲作業機として仮制式となった。この際、第一級秘密兵器の取り扱いとなっている。 搭載用通信機としては1935年(昭和10年)から新型の無線機が研究され、九六式四号戊無線機として制式化された。比較的に車内容積に余裕があったため、従来の日本の戦車用無線機よりは性能良好であった。そのため、後に九七式中戦車の車載無線機にも採用され、1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)まで80機生産されている。 なお、日本陸軍において戦車は歩兵科の所管であることに配慮し、本車の武装は自衛用にとどめられた。車体は八九式軽戦車の亜種というべきものであるが、歩兵科を刺激しないように新規開発の専用車体ということになっている。名称も作業機と称して戦車との違いを強調し、助数詞も「輌」ではなく「機」を用いている。足回りは八九式軽戦車と少し異なっている。 1937年(昭和12年)にはエンジンを原型車の八九式中戦車と同様に空冷ディーゼルエンジンに変更し、作業具も改良した乙型が開発された。その後も1944年(昭和19年)までに丙型から戊型の各改良型が開発された。当初は非常に多機能であったが実用性に乏しく、最終型の戊型ではトーチカ攻撃、架橋、火炎放射、地雷除去に絞り込まれていた。代わりに数種の単能工兵車両が開発されている。
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開発経過
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1941年(昭和16年)12月29日、キ44(のちの二式戦)の発展型として中島に対し、最高速度680 km/h以上、20mm機関砲2門・12.7mm機関砲2門装備、制空・防空・襲撃など、幅広い任務に使用可能な高性能万能戦闘機の開発指示がなされた。当初はキ44の2,000馬力級エンジンハ145搭載型であるキ44-III(計画のみという説と少数機試作されたとの説がある)をベースに翼面積を増やして着陸を容易にし、燃料搭載量を増して航続距離を伸ばし、強力なエンジンにより速度・上昇力の向上を狙ったものになる予定であった。 しかし、キ84は最初から広大な太平洋戦域で運用される事が決まっていたため、更なる航続距離の伸長が求められ、燃料搭載量の増加とともに翼面荷重を計画値の155 kg/m2に収めるために翼面積の拡大を余儀なくされ、2,700 kg程度と目されていた全備重量は3,000 kgを優に越える見通しとなった。それに対応して翼面積を増やすとまた重量が増加するという悪循環に陥り、特に主翼の設計は難航した。さらに、前線からの要求で防弾・防火装備、武装の強化なども必須となり、これも重量が増加する一因となった。 結局主翼面積は計画値の17.4 m2から最終的に21 m2となり、予定していた全備重量が実機の自重になってしまう程だったが、紆余曲折を経てようやくキ84の設計はまとまり、1943年(昭和18年)3月に試作1号機が完成、4月に初飛行した。陸軍側で初めてキ84を操縦した陸軍航空審査部飛行実験部戦闘隊(旧飛行実験部実験隊戦闘機班)キ84審査主任(テストパイロット)岩橋譲三少佐は、「これはいける」と笑いながら述べ、設計主務者小山以下の開発スタッフが感涙に咽んだエピソードがある。試験飛行は1〜3号機までは比較的順調に進み好成績を収めたが、量産型のハ45を搭載した4〜7号機ではエンジンとプロペラのトラブルに悩まされ、特にエンジンに関しては試験期間中最後まで解決しなかったと伝えられる。 問題を抱えながらも一刻も早い実用化と生産体制の整備を目的に、また審査部のテストパイロットである荒蒔義次少佐の進言もあり、増加試作機は10機以内という従来の方針を転換して審査と試作を併行して進めた結果、制式前に100機を超える大量の増加試作機が生産された。1944年(皇紀2604年)4月にキ84は四式戦闘機として制式採用され、順次、中島太田工場・宇都宮工場で量産が開始された。 中島では1942年からキ84より航続時間を延長し、大型排気タービンで高高度性能を向上させたキ87を開発していたが、トラブルの多発やキ84の開発を優先したことで計画は遅れ終戦に間に合わなかった。
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開発経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 21:29 UTC 版)
「XF9 (エンジン)」の記事における「開発経過」の解説
研究開発は複数の計画に分けて段階的に進められている。 「次世代エンジン主要構成要素の研究(2010-2015)」でエンジンコア部(高温化燃焼器、高温化高圧タービン、軽量圧縮機)の研究を行い、続いて「戦闘機エンジン要素の研究 (2013-2017)」ではエンジンコア部に加えてファンと低圧タービンの研究を行った。 XF9の開発はこれらの計画で得られた技術を統合する形で「戦闘機用エンジンシステムに関する研究(2015-2019)」として進められた。 プロトタイプエンジンであるXF9-1は2018年6月に防衛装備庁に納入され、性能確認試験が2020年7月まで実施された。 2019年4月10日に最大推力確認試験の様子が動画で公開された。
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