制式前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:51 UTC 版)
日中戦争において、大距離出撃は、航法、通信能力の面で、戦闘機隊単独では無理であったことから、戦闘機とほぼ同じ空中戦闘能力を持ち、航法、通信能力、航続力のある飛行機、いわば誘導戦闘機というようなものが必要になった。こうした戦訓から日本海軍は「十三試双発陸上戦闘機」という名前の新型機の開発が決まった。1938年11月、中島飛行機に対し、「十三試双発陸上戦闘機」計画要求書を提示した。これを受けた中島では九七式艦上攻撃機の開発主任であった中村勝治技師(後に病気のため大野和男技師と交代)を中心とした設計陣を組み、開発に当たった。 中島関係者の記憶によると、海軍からの要求性能は概ね以下のようなものだったという。 形 式:双発三座 最高速:280ノット(約519km/h) 上昇力:6,000mまで6分 航続力:正規1,300浬(約2,408km)、過荷重2,000浬(約3,704km) 武 装:機首固定20mm×1、7.7mm×2、後部遠隔操作式動力旋回7.7mm×4 その他:十二試艦戦(後の零式艦上戦闘機)と同等の運動性能を有すること。陸攻と同等の航法・通信能力を有すること。 最高速度の要求については、十二試艦戦より出力が2割以上大きい栄二一型を2基装備しているにも拘らず、十二試艦戦の要求性能270ノット(500km/h)よりわずかに速いにとどまっている。これは援護戦闘機に最も重要な長大な航続力に必要とされる大量の燃料に比べ発動機出力が小さいことから大面積の主翼が必要となり、必然的に高速戦闘機にはなり難いためと考えられる。ただし、翼端失速対策として空気抵抗の増加する主翼翼端の捻り下げではなく前縁スラットを装備したり、20mm機銃を命中率の高い機首装備とすることで十二試艦戦の2挺装備から1挺に削減したり、旋回機銃を既存の風防解放式より空気抵抗が増加しない遠隔操作式とする等、可能な限り速度の低下を防ぐための手段が講じられている。 十三試陸戦の審査に当たった海軍関係者は、運動性の要求を「固定銃による空戦が可能な程度」と記憶している。双発戦闘機でありながら運動性によって敵戦闘機に対抗せざるを得ないため、フラップを前縁スラットと連動する空戦フラップとしたり、トルク対応のために十三試陸戦専用に逆回転仕様の栄二二型を新規開発して搭載(共に試作機のみ)する等の対策が講じられている。 1941年3月26日、十三試陸戦の試作一号機が完成し、5月2日に初飛行した。しかし、テストの結果、速度や航続力はほぼ要求通りではあったものの、運動性能が劣るため敵戦闘機に対抗するには不足と判定されたこと、遠隔操作式7.7mm動力旋回機銃の信頼性が低いこと、また既に零戦が長距離援護戦闘機として活躍していたこともあって戦闘機としては不採用となった。テストパイロットだった小福田晧文によれば、この飛行機は千二百馬力の発動機を2個つけ、乗員はパイロット、ナビゲーター、通信兼射手の三名、武装は前方に7.7ミリ固定機銃2挺、後方に遠隔操作方式の7.7ミリ連装機銃4挺を装備していた。戦闘機隊のリーダー機として奥地遠距離への攻撃を行う目的で、誘導のほかに状況に応じて敵戦闘機と空戦を行うという構想だったが、機体が予想外に重くなり、実験してみると予想通りの性能は出なかったという。 九八式陸上偵察機以外に本格的な陸上偵察機を保有していなかった海軍は、本機が従来の九八式陸上偵察機に比べ高速かつ航続距離が長いこと、そして前方機銃と空戦機動に耐える機体強度を持ち、ある程度の自衛戦闘が可能な点に注目し、強行偵察にも使用可能な偵察機に転用することを計画した。そして、昭和17年(1942年)3月に受領した試作5号機から7号機までを偵察機に改造し、実用試験を行った。その結果、4月以降偵察機として50機生産されることとなり、7月6日に二式陸上偵察機(J1N1-C。その後J1N1-Rに改称)として制式採用されることになった。初期生産型(十三試陸戦試作機の改造型も含む)は遠隔操作式機銃がそのまま残されていたが、ほとんどの生産機は遠隔操作式機銃の廃止の代わりに後下方旋回機銃を1挺装備した。また、後期生産型では落下式増槽も装備できるようになった。 横須賀海軍航空隊のテストパイロットであった小福田晧文によれば、「十三試双発陸上戦闘機」は戦闘機「天雷」としても開発が進められたという。 1942年7月、J1N1-C試作機(十三試陸戦試作機に偵察用カメラを追加した機体。遠隔操作式7.7mm動力旋回機銃はそのまま)3機がラバウルに進出し、翌月から開始された米軍のガダルカナル進攻においても最初にラバウルからガダルカナルに航空偵察を行い、貴重な情報をもたらしている。その後各部隊に配備されるようになったが、米軍の戦力が増強されるにつれ強行偵察では被害が続出するようになり、より高速の二式艦上偵察機(D4Y1-C)や陸軍から借用した一〇〇式司令部偵察機の方が重用されるようになった。 1942年5月6月頃、第251海軍航空隊司令小園安名中佐は、撃墜が困難な大型爆撃機B-17に悩まされて、その対策が急務となっており、双発戦闘機として開発された二式陸上偵察機をB-17の迎撃に使用しようと考えていた。まずは、完成したばかりの新兵器三号爆弾を搭載して出撃させ、B-17の編隊に投下させたところ、1機を撃墜、1機を大破する戦果を挙げている。しかし、三号爆弾は試作兵器でストックはなく、また命中させるのは至難の業であるため、より確実な方法が求められた。 小園は機銃を機体下に斜めに装備すれば、敵銃座の狙いにくい上方からB-17を攻撃できると考え付いた。1938年に日本海軍において九六式陸上攻撃機の機体下部に九九式二〇ミリ機銃を装着し地上を掃射するという実験が行われており、その実験で機体下部に搭載した機銃による地上掃射の有効性が実証されていたが、251海軍航空隊の搭乗員らの意見も聞いた小園は、目標が地上ではなく飛行する航空機の場合は機銃を機体下部ではなく上部に斜めに装備すれば、死角となる下方から迫って平行に飛行しながら一方的に攻撃ができるので、敵の意表をつくことができて、より効果が高くなるという考えに至った。 1942年11月に小園は内地に帰り、海軍航空技術廠に自らが考案した斜銃を敵大型爆撃機への有力な対策であると主張したが、担当者は「実験する価値もない」と一笑に付した。小園はあきらめず軍令部にも直談判したが、航空参謀の源田実中佐も否定的であった。海軍航空技術廠の飛行実験部長杉本丑衛少将だけが「実験ぐらいは、やってみよう」と理解は示したものの計画は一向に進まなかった。そんなときに、小園は二式陸上偵察機の試作機「十三試双発陸上戦闘機」が3機ほど飛行可能な状態で残っていること知って、試作機の改造を申し出、航空本部も放置している試作機であればと斜銃搭載に改造を承認、突貫工事で3機の十三試双発陸上戦闘機の斜銃搭載型が完成した。 1943年3月、完成していた2機の十三試双発陸上戦闘機を豊橋基地に持ち込み、自ら乗り込んで射撃実験を行うこととしたが、肝心の操縦員として小園がもっとも信頼していた遠藤幸男大尉が搭乗した。零戦が曳航する大型標的(吹き流し)をB-17に見立てて射撃訓練を行ったが、照準器もない斜銃を遠藤はカン頼りで発射して、実射時間約20秒で13発を吹き流しに命中させるという良好な成績をおさめた。小園は空戦実験のために横須賀海軍航空隊から後輩の花本清登少佐を呼んで、遠藤が操縦する十三試双発陸上戦闘機と花本が操縦する零戦で模擬空中戦を行ったが、十三試双発陸上戦闘機は双発ながら機敏に動き宙返りも行うことができたので、旋回圏は零戦に及ばないが、外側を回りながら斜銃を指向することができ、空中格闘戦でも斜銃があれば零戦と対等に渡り合えることを実証した。しかし、この時点ではまだ二式陸上偵察機の戦闘機としての正式採用はなされなかったので、小園と遠藤らは、1943年5月に突貫で改造していた2機の斜銃装備十三試双発陸上戦闘機と、9機の通常装備の二式陸上偵察機の補充を受けてラバウルに戻っている。1943年5月20日に工藤重敏上飛曹が搭乗する十三試双発陸上戦闘機が斜銃でたちまち2機のB-17を撃墜、その後小野了中尉も撃墜を記録、その後も工藤らは戦果を重ねて、6月末にはB-17の撃墜数は9機にもなり、この戦果により、ようやく軍令部は斜銃の効果を認め、第二五一海軍航空隊の二式陸上偵察機の全機斜銃搭載型への改造命令を出し、その部品を空輸することとしている。昭和18年(1943年)8月23日に制式採用に伴い丙戦(夜間戦闘機)「月光」(J1N1-S)と名付けられた。
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