戦国・安土桃山時代
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室町時代後期頃になると、六代将軍足利義教により三河守護一色義貫が殺され、代わって細川氏が守護に就いたものの、他地に先駆け内戦状態となった。 岩津城を本拠とした国人領主松平氏第三代松平信光は、保久城主山下氏を滅ぼしたのち、井ノ口の砦を拠点として発生した額田郡一揆を幕府政所執事伊勢貞親被官として平定し力を伸ばした。応仁の乱では、三河への復権を狙う一色氏を、三河守護細川成之とともに破り、戦国時代に岡崎城や安祥城を獲得し、南部まで勢力を伸ばした。 その後三河守護が置かれない状態となり、信光の後は、当初鴨田に分立されていた四代松平親忠が、井田野で挙母城主中条氏らを破り、鴨田の館跡に大樹寺を建立するなどした。五代松平長親は、三河に侵攻してきた今川氏親家臣の北条早雲を井田野で破ったとされる。 1524年(大永4年)、松平宗家七代松平清康が、山中城の岡崎松平家を攻略し、安城岡崎を兼領する。そして明大寺の岡崎城から龍頭山の砦に拠点を移し、1531年(享禄4年)には龍頭山の砦を整備・拡張し、岡崎城(別名、竜城、竜ヶ城)とした。清康の死後、松平氏が今川氏の庇護下に入ると、市域は今川と織田の抗争の前線となり(小豆坂の戦い)、多くの城が作られた。 桶狭間の戦いで今川義元が戦死した後、第九代松平元康は、大樹寺で住職に諭されたのち、生誕の地岡崎城に戻って旧家臣団を再編成し、やがて今川氏から独立、徳川家康と改名する。以後織田信長の盟友として勢力を拡大した。1564年(永禄7年)には、針崎町の勝鬘寺等を拠点に起きた三河一向一揆を平定した。武田信玄の侵攻に備えるため、1570年(元亀元年)に家康の拠点が浜松城に移ったのちも、岡崎城は長男松平信康(徳川信康)が城主を務めるなどし、長篠の戦いでは、岡崎城から出発した家康らが、片寄の天恩寺を経て長篠城に向かった。また、本能寺の変に伴う伊賀越えの際には、畿内から逃れた家康が岡崎城に帰還した。 1590年(天正18年)、家康が関東移封により多くの三河武士とともに江戸に移ると、豊臣家臣・田中吉政が岡崎城に入った。吉政は家康に対する抑えとして城を拡張し、石垣や城壁などを用いた近世城郭にふさわしいものに整備したが、秀吉の死後家康に接近し、関ヶ原の戦いでは家康側についた。また、城下町の整備も積極的に行われ、岡崎の郊外を通っていた東海道が岡崎城下町の中心を通るように変更され、現在の岡崎城の原型が造られた。
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戦国・安土桃山時代
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三条西家は三栖下庄・丹波今林庄・越前田野村庄などを所領として持っていたが田野村庄以外は戦国大名や有力国人に横領され収入が得られなくなった。戦国時代の三条西実隆、三条西公条、三条西実枝は和漢に精通し、実隆・公条・実枝の3人は三条西三代と呼ばれる。三条西家による歌学の継承は、三条西実枝のあと、本来は三条西公国が継ぐべきであったが、実枝が老齢に達したおり未だ幼かったため、三条西実枝の高弟細川幽斎が中継ぎとして古今伝授を受け、三条西公国の成人をまって伝えた。しかし、三条西公国が早世してしまったため、幽斎は師実枝との生前の約束を誠実に果たすべく再び公国の子の三条西実条に伝えなおしている。実条は武将でもあった師幽斎が関ヶ原の戦いで居城田辺城を敵軍に包囲されており、後陽成天皇の勅書を携え丹後まで下向している。
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戦国・安土桃山時代
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安土桃山時代に実施された太閤検地により、一つの土地に対する重層的な支配・権利関係がほぼ全て解消された。一つの土地の耕作者がその土地の唯一の権利者となり、土地の生産力は米の見込生産量である石高で計られることとなった。年貢については、石高を村落全体で集計した村高(むらだか)に応じた額が、村の年貢量とされ、年貢納入は村落が一括納入の義務を負う村請(むらうけ)の形態が採用された。
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戦国・安土桃山時代
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障壁画隆盛の桃山文化に天下人と結びついた狩野派に対し、大和絵の名門であった土佐派は16世紀半ば以降、押され気味になる。土佐派はまた、天下人の支援を受けた狩野派の宮廷への進出に対抗することができず、足利義昭邸の障壁画を描いた土佐光茂は、その晩年、京都を去って堺に移り死去。その子の土佐光元は秀吉に従軍して戦死し、土佐派は宮廷絵所職の地位を失ってしまった。弟子の土佐光吉が流派を継ぐが、そのまま境を拠点とし、上洛要請に応じなかった。その子の土佐光則も堺で活動するが、晩年に子の光起と共に京に戻った。光則の門人の住吉如慶は、江戸幕府御用絵師の住吉派の祖となった。
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戦国・安土桃山時代
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戦国時代になると、佐竹氏第15代当主で「中興の祖」と呼ばれた義舜が現れ、佐竹山入家を討ち、佐竹氏の統一を成し遂げ久慈川以東の常陸北部の制圧に成功した。しかし、相変わらず江戸氏は不穏な動きを続け、更に山入家との戦いの間に独自性を強めた小場氏・宇留野氏・長倉氏などの久慈川以西の一族も叛旗を翻した(部垂の乱)。また関東の制覇を目指す北条氏の侵攻などもあって、常陸統一は非常に困難な状況にあった。 義舜の曾孫で佐竹氏第18代当主の義重は、「鬼義重」の異名をとる名将であった。義重の時代に佐竹氏は江戸氏や小田氏などを次々と破り、常陸の大半を支配下に置くことに成功し、佐竹氏を戦国大名として飛躍させた。 甲斐武田氏と同盟し(甲佐同盟)、北条氏とは天正12年(1584年)に沼尻(現在の栃木県栃木市)で対決した(沼尻の合戦)。また、奥州南部にも進出し、白河結城氏を下し、石川氏、岩城氏などを影響下に置き、三春城の田村氏と対抗する中で南奥州国人の盟主たる地位を確立しつつあった。このため、義重の正室の甥にあたる伊達政宗と対立し、義重は蘆名氏や二階堂氏、岩城氏らと同盟を結んで、奥州覇権を狙う政宗と天正13年(1585年)人取橋(現在の福島県本宮市)で対決した(人取橋の戦い)。佐竹方は3万の大軍を率い、伊達方の10倍近い兵力をもってこれを攻め、伊達方に多大な被害を与えたが、一夜にして撤退を余儀なくされ、結果として伊達方の奥州覇権を強める契機となる。 しかし義重は戦国時代を通じて領国を拡大し、子の義宣の時代には豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して、秀吉の太閤検地の結果、常陸54万5800石の大名として認められた(ただし、常陸国内でも土浦城、下館城一帯は結城氏の所領とされた)。 義宣は秀吉の権威を背景に常陸南部に割拠する大掾氏配下の国人たち(いわゆる南方三十三館、主として鹿行二郡の塚原氏・行方氏・卜部氏・麻生氏・鹿島氏など万石未満の土豪。小田原陣の頃は下総の千葉氏の傘下に転じている)を討伐するなど領主権力の強化を進めることとなる。そして、水戸城の江戸重通は小田原征伐に参陣しなかったために所領を没収され、佐竹氏は居城を太田城から水戸城に移した。佐竹家は常陸水戸54万5800石で豊臣政権下で第8位の大大名となり(一門・与力の岩城氏らを含めると80万石を超え、伊達氏や宇喜多氏を上回る)、徳川・上杉・毛利・前田・島津とともに「豊臣六大将」とも呼ばれた。
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戦国・安土桃山時代
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戦国時代に入ると、英主・北畠晴具が現れ、北畠家は南伊勢、志摩国、伊賀国の南部、大和国の南部、紀伊国の東部にまでに及ぶ一大勢力となった。他方、北伊勢の雄たる長野工藤氏とは激しく争ったものの、決着をつけることができなかった[要出典]。 晴具の子・具教の代には、長野工藤氏を従わせて北伊勢に進出し、志摩への支配も強めるなど、戦国大名として最盛期を迎えた。また、永禄5年(1562年)5月に長野稙藤と長野藤定が死去したため、長野氏の支配権を完全に握った[要出典]。 しかし、具教の子・具房の代になると、伊勢国は度々織田信長の侵攻を受けるようになり、北畠家の旗下であった神戸氏、長野工藤氏が次々織田家に服属して信長の弟・子を当主に迎え、織田家に乗っ取られていった。 永禄12年(1569年)8月、織田信長の侵攻を受け、大河内城を包囲・攻撃され、10月に将軍・足利義昭の仲介で和議を結んだ(大河内城の戦い)。その結果、信長の次男・織田信雄を北畠具房の養子とし、かつ先代・具教の娘・雪姫(千代御前)の婿に迎えるという織田家に有利な形で講和することとなった。信雄は1575年(天正3年)に北畠家の家督を相続する。この時、木造氏の当主は具教の実弟・木造具政であったが、織田家に内通している。 天正4年(1576年)11月、三瀬御所に隠居していた具教は、信長の命を受け信雄が放った刺客により館を急襲され、四男・徳松丸、五男・亀松丸と共に暗殺された。次男・長野具藤、三男・北畠親成は田丸御所にて、大河内教通、波瀬具祐、岩内光安、坂内具義と共に殺害され、坂内御所においては坂内具房、霧山御所においては城代・北畠政成、および波瀬具通が殺害された(三瀬の変)。北畠一門抹殺の理由としては、足利義昭の信長包囲網に組する武田信玄の西上作戦に際して、具教が船を出すと密約を交わしていたことなどがあげられる。 具房はその身柄を滝川一益に預けられ、安濃郡河内に3年間幽閉された後、天正8年(1580年)1月5日に京都で死去した。これら一連の信長の行動により北畠家は名実ともに織田家によって乗っ取られた。 天正10年(天正10年)6月、信長が本能寺の変で死去すると、備後に逃れていた具教の実弟・北畠具親が伊勢五箇篠山城に戻り再挙するが落城、後に蒲生氏のもとに客臣として迎えられた。変後の清洲会議にて、信雄は織田家の後継者になろうと画策し、織田姓に復したため、伊勢国司家としての北畠家は滅亡した。
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戦国・安土桃山時代
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佐竹氏の内乱以降、小野崎氏は佐竹氏一門衆にも列し、小貫氏も宿老として活躍している。佐竹氏全盛期の佐竹義重・義宣時代には和田昭為、一門筋に当たる人見藤道とともに佐竹家の三家老を勤めた小貫頼久を輩出する。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、主君佐竹義宣が東軍参加を渋ったことから、戦後処理で常陸国54万5000石から出羽国20万5000石に減封されるに伴い、頼久も主家に従い、秋田に転籍した。そのため、小貫氏は茨城県、秋田県に多い姓である。
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戦国・安土桃山時代
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「日本における女性の合戦参加の年表」の記事における「戦国・安土桃山時代」の解説
15世紀末:女首長サンアイイソバに率いられるドゥナン(与那国島)が琉球王国に従う宮古島の軍勢の侵攻を受ける。 天文10年(1541年):大三島にて大祝鶴姫が大内氏の軍勢を二度にわたって撃破したとされる。しかし、彼女の存在が記されたという『大祝家記』は実在が確認されておらず、伝説上の人物ではないかとの指摘がある(当該項目参照)。 天文12年(1543年): 大祝鶴姫、三たび大内軍を撃破するも、恋人の死に絶望し自殺したとされる。 永禄11年(1568年):飯尾連竜の未亡人で曳山城主のお田鶴の方、徳川家康に攻められ落城、討死。ただし、その末路については資料によって相違がある(当該項目参照)。 永禄6年前後:吉田重康が城を留守にしている間に安芸氏の軍勢が城を攻めてきたため、重康の妻が城内の女房・下女・はした、その他の男を呼び集め、下知をなして、兜を着せ、または手で持たせ、塀の上へ差し出し、また左右に槍薙刀を持たせ、前後に馬印を出し、大旗小旗を木の枝・塀・柱に結び付けて、大勢が籠っているように見せ、安芸の軍勢は留守と思っていたため、大勢いると誤認し、安芸へと撤退した(『土佐物語』巻第五「吉田伊賀介妻女の事」)。 永禄12年(1569年):北条氏邦家臣諏訪部定勝の妻妙喜、居城日尾城に武田勢が来襲した際、泥酔した夫が目覚めるまで籠城戦を指揮。 永禄12年(1569年)10月:大内輝弘の乱。毛利元就の重臣で周防高嶺城番の市川経好の妻である市川局が、夫の不在中、大内輝弘勢による攻撃に耐え城を守る。 元亀3年(1572年):武田信玄の西上作戦。松平家家臣で井伊家の当主直虎、武田氏の侵攻を受け井伊谷城を山県昌景に明け渡す。織田家の岩村城の女城主おつやの方、武田方の秋山虎繁の侵攻を受け降伏。 天正2年(1574年):三村元親家臣上野隆徳の妻三村鶴姫、常山城が毛利勢に攻められた際、落城寸前の城から女軍を率いて出撃するも、その後城に戻り自害。 天正8年(1580年): 三木合戦。鷹尾山城主別所吉親の妻、波が別所軍に加わり奮戦するも落城前に自害。 天正10年(1582年):織田信長による甲州征伐で織田信忠軍が高遠城を攻めた際(5万対3千)、「諏訪勝右衛門(頼辰)の女房が刀を抜き打ち、切って回り、比類なき働き前代未聞の次第なり」と『信長公記』に記述・評価される。 天正11年(1583年):由良成繁の妻妙印尼、息子、国繁、顕長を人質に取った北条氏に対抗し金山城に籠城。のちに城を明け渡し和睦。 天正12年(1584年)に、越中国の佐々成政に1万5千の兵で前田利家の家老・奥村永福の末森城を攻められるが、二の丸まで落ちたものの、永福は寡兵で利家の援軍到着まで耐えぬき、成政軍を撃退した(末森城の戦い)。なお、籠城戦の際には、永福の妻・加藤安は、薙刀をもって城内を巡回し、粥を振る舞って負傷者を介抱し、城兵を元気づけたといわれる。天正の昔加賀前田家の家老奥村が三百騎を以て能登末森城に立寄り、佐々成政三千の兵を支へし時、奥村が妻たすき掛にて薙刀をつき、兵糧を運び城兵を励まして遂に寄手を破りしは有名の物語なり。 天正12年(1584年)-天正14年(1586年):『大友文書』によると、「戸次伯耆守は大友宗麟の重臣なれど、矢傷にて脚がくさり衰えたり。されど娘(誾千代)ありて勇壮。城内の腰元女中、五十名ほど訓練し、戦初めには一斉射撃をなして敵の心胆を奪う」という記述がある。 天正13年(1585年):人取橋の戦い。二階堂盛義の未亡人で須賀川城主の阿南姫、伊達政宗に対抗する南奥諸大名連合軍として派兵。 天正14年(1586年):大友義鎮家臣で、鶴崎城の城主吉岡統増の母妙林尼、不在の息子に代わり島津勢に対する籠城戦を指揮。攻勢を防ぎ切り和睦、開城。 天正15年(1587年): 妙林尼、寺司浜の戦いにて島津軍を背後から奇襲し大勝。 天正16年(1588年):郡山合戦。阿南姫、伊達政宗に対抗する蘆名氏・相馬氏連合軍として派兵。 天正17年(1589年):阿南姫の守る須賀川城、摺上原の戦いによる蘆名氏の滅亡に伴う伊達氏の侵攻を受け10月に落城。11月、天正天草合戦の本渡城の戦いにて木山正親の妻お京の方が戦闘に参加。地元の伝承では、男装したお京の方が加藤清正に一騎打ちを挑み討たれたという。 天正18年(1590年):小田原征伐。3月、妙印尼、豊臣方に与し、松井田城攻めに加わり、この功績により牛久に領地を与えられる。6月、妙印尼の孫で、忍城城主成田氏長の娘である甲斐姫、北条方として忍城籠城戦に参加。北条方の城の中では最後まで持ちこたえ開城。成田氏は蒲生氏郷の預かりとなり、会津福井城に移動。11月ごろ、福井城で反乱を起こした浜田将監・十左衛門兄弟の反乱を甲斐姫が鎮圧。 慶長年中(1596年 - 1615年ごろ):津軽の藤代館の女主人、藤代御前が、津軽為信に攻め込まれ戦死したと伝わる。 慶長5年(1600年):関ヶ原の戦いに関連する一連の合戦が勃発。7月、田辺城の戦いにて城主細川幽斎の妻沼田麝香、夫と共に具足を付け奮戦。のちに開城。また、同じころ真田信之の妻小松姫が侍女らとともに武装して留守の沼田城の守備に当たる。8月、安濃津城の戦いにて富田信高の妻が夫の危機に騎馬武者として駆けつけ奮戦。和睦開城に持ち込む。10月、関ヶ原の戦い本戦後に立花宗茂に降伏を促すため柳川に進軍した加藤清正が、宗茂の妻誾千代の武勇を警戒し、彼女の住まう宮永を避けて迂回し進軍。伝承では、柳川の渡船口で鍋島水軍に向けて誾千代の鉄砲隊が発砲したという。
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戦国・安土桃山時代
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戦国時代、力を増した、守護大名間や幕臣同士の対立が、将軍の後継問題などにも結びつき、大規模な内乱となったのが応仁の乱でこれを契機とし、明応の政変から、室町幕府は全国的な支配権を失い畿内のみの地方政権化して、わずかな権威を保っていた。多くの守護は国内統治権を失い、勢力を回復した一部の守護や守護代・国人などから新たに台頭した勢力など多様な出自をもつ戦国大名などの地域権力が約150家出現し、勢力を拡大したものは一国以上の領域を支配する大名領国を形成した。これら戦国分国はすべて実力で形成され朝廷や幕府の委任などしたものではなく承認は形式にとどまった。武家権力は決定的な勢力となるが、その一方で成り上がった戦国大名は中央権門と接触を持ち、朝廷から官位官職を受けて、権威や大義名分を得た。また大内氏の直奏による大宰大弐の獲得に始まる戦国大名の勢力拡大の実利目的の官職任免もされるようになった。例えば、毛利氏が蘭奢待の切屑を天皇から下賜されるだけで狂喜するなど、コンプレックスの中で京風の公家文化も武家に浸透し天皇崇拝が強まった。こうして武家の台頭の中で天皇の権威は新たな形で復興した。 戦国大名家のなかで尾張国の織田信長は将軍足利義昭を擁して上洛したが、義昭と対立を深め、元亀4年(1573年)には将軍義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、信長は右大将に任官し、「天下人」として強力な中央集権の織田政権を築いた。天下統一の手前での信長の横死によって、後を継いで天下人となった豊臣秀吉は統一政策を完成し、公家である近衛前久の猶子として関白宣下を受け、豊臣政権を成立させた。秀吉は忠実な天皇の侍大将として信長より前の室町幕府武家政権としての成果と文書体系をも覆し天皇にひれ伏した。秀吉の死後に、関ヶ原の戦いで勝利し戦国大名を統括してその実力で徳川家康は次の天下人となった。そして、吾妻鏡を手本として足利氏と同族の清和源氏新田氏流を称し、征夷大将軍職に就き、江戸幕府を開いた。朝廷は、形式的に武家の棟梁だと是認し、家康が望んだ征夷大将軍職を与えた。なお、織田政権の前に三好長慶と堺公方による三好政権を武家政権として数えることもある。
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