山車
曳山(鉾形式)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/24 21:34 UTC 版)
鍬山 - くわやま - (平成17年に舁山から曳山に復元新調) 八幡山 - はちまんやま - 武内山 - たけうちやま - 三輪山 - みわやま - 高砂山 - たかさごやま - 難波山 - なんばやま - 羽衣山 - はごろもやま - (平成14年に復元新調) 翁山 - おきなやま - ※上記8基の山(或いは山鉾)は、伝承されている「囃子」がある。
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曳山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/09 16:23 UTC 版)
3基の曳山は放生津(新湊)曳山祭の曳山と同じように地車に鉾柱(心柱)を立て花傘を付けた花鉾山である。上山と下山の二層構造で上山中央の鉾柱(心柱)の上部にはひげこといわれる竹籠を付け、その周りに3色の和紙(またはナイロン)で出来た菊の花を5個付けた割竹を放射状に広げた花傘の鉾山で、鉾柱(心柱)の先端には標識(だし)といわれる鉾留が付いており、王様といわれる御神体を供えている。また前人形といわれるからくり人形が供えられている。下山には幔幕(まんまく)または御簾(みす)が掛けられている。夜には約200から300もの提灯を付けた提灯山となる。車輪は4輪の大八車(外車)様式で、板車または輻車(やぐるま〔スポーク式〕)である。 曳山3基に供えられた前人形は自慢のからくり人形であり、中でも西町の「唐猿童子(とうえんどうじ)」は人形師7代目玉屋庄兵衛(たまやしょうべえ)作の本からくり人形の傑作で、1979年(昭和54年)に新調され、小太鼓を叩きながら歩いたり走ったり、顔が一瞬で唐子や猿の顔に変化するもので、22本の絹糸を操作して作動させる。また中町のからくり人形「唐子懸垂廻転」も7代目玉屋庄兵衛作である。1980年(昭和55年)4月には東京の銀座松屋で行なわれた「からくり人形世界展」に出展、実演を行った。 夜に3基が一堂に会して競演する時間がクライマックスになっている。「曳山木遣り」などが各町内から披露されるのだが、この時、必ず北島三郎の禁断のデビュー作「ブンガチャ節」〔作詞:星野哲郎 、採譜:船村徹 、編曲:船村 徹〕が披露される。
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曳山(高砂山)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 17:29 UTC 版)
曳山は、八尾町(現 富山市)で現在も続く越中八尾曳山祭の氏子町である今町が、二代目の曳山を1862年(文久2年)に造り替えた際、初代の曳山を古物商を介し同年に譲り受けたもので、安永年間(1775年頃)に創建されたものといわれ、高さ・6.1m、長さ・約4.61m、一階部分2.36m、幅・屋根部分3m、一階部分1.9mの二層構造屋台形式の彫刻山(棟覆山)で屋根は入母屋造。前後の軒は唐破風である。屋根の四隅には瓔珞(ようらく)が提がっている。上層は高欄で囲み屋根を支える4本柱には紋が入った天幕が張られ、中には祭り(曳山)の名前の由来でもある御神体(人形)の尉(じょう)と姥(うば)が供えられる。今町の時代は天神様であったが譲り受けたあと変更された。後方の見越(けんけし)は供えられていない。下層には御簾が三方に掛けられており、天幕、御簾には梅鉢紋が入っている。かつてはここに「楽人」といわれる囃し方が入っていたが、現在は囃し方専用の屋台があるため中では演奏していない。曳くための梶棒(長柄)は前方だけに備わっている。車輪は直径60cm、幅15cm の4輪の地車(内車)様式で釘などの金具は使用していないなど、八尾曳山の江戸時代当時の姿を色濃く残しており貴重なものである。夜には曳山上部に提灯が付けられ提灯山となる。 曳山は1876年(明治9年)から1887年(明治20年)にかけて修理が行われており、修理費は頼母子講(たのもしこう)によって工面された。1976年(昭和51年)の復興時には、寄付を募り曳山の修復などを行った。
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曳山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 23:43 UTC 版)
曳山は「乾漆」という技法で製作されている。その製法は、まず粘土で型を取った後、その上から良質の和紙を200枚くらい張り重ねて厚みを作ってから中の粘土を取り外す。その和紙の上から漆を塗るが、下地を7、8回塗ってから、中塗り、上塗りを重ね、その上に金箔や銀箔を施して仕上げている。 14町の曳山に共通する基本的な構造は、上記のようにして製作された曳山の主要部分である獅子頭や兜などの巨大な工芸品を、車輪のついた、樫造りの台車の上に載せるものである。台車の前方には100mほどの長さになる2本の綱に数十人の曳子がついて曳山を前方に曳いていく。また、台車の後方には2本の梶棒(かじぼう)が突き出ており、この棒を操作することで曳山の進行方向を操作する(なお、大石町の鳳凰丸には台車の前方にも2本の梶棒がある)。 各曳山には製作順に番号が付されており、「○番曳山」あるいは「○番ヤマ」と呼ばれている。14町の曳山は、以下のとおり。 刀町の赤獅子(製作 1819年・文政2年) 中町の青獅子(1824年・文政7年) 材木町の亀と浦島太郎(1841年・天保12年)※浦島太郎ではなく宝珠が乗せられていた期間があった。 呉服町の九郎判官源義経の兜(1844年・天保15年) 魚屋町の鯛(1845年・弘化2年) 大石町の鳳凰丸(1846年・弘化3年) 新町の飛龍(1846年・弘化3年) 本町の金獅子(1847年・弘化4年) 木綿町(きわたまち)の武田信玄の兜(1864年・元治元年)元9番曳山(消滅): 紺屋町の黒獅子 平野町の上杉謙信の兜(1869年・明治2年) 米屋町の酒呑童子と源頼光の兜(1869年・明治2年) 京町の珠取獅子(1875年・明治8年) 水主町(かこまち)の鯱(1876年・明治9年) 江川町の七宝丸(1876年・明治9年) 唐津市の子供たちがこの曳山の順番を覚えるのに「10人のインディアン」の曲の替え歌を用いる。その歌詞は以下のとおり。「赤獅子青獅子浦島太郎、義経鯛山鳳凰丸(この歌では「ほうまる」と発音する)飛龍、金獅子武田上杉頼光、珠取鯱七宝丸」 曳山 刀町の赤獅子 中町の青獅子 材木町の亀と浦島太郎 呉服町の源義経の兜 魚屋町の鯛 大石町の鳳凰丸 新町の飛龍 本町の金獅子 木綿町の武田信玄の兜 平野町の上杉謙信の兜 米屋町の酒呑童子と源頼光の兜 京町の珠取獅子 水主町の鯱 江川町の七宝丸
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曳山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 06:52 UTC 版)
13基の曳山は高さ約8m、長さ約6-7m(長手間)、重さ約3.5tで、高岡御車山と同じように地車に鉾柱(心柱)を立て花傘を付けた花鉾山車である。上山と下山の二層構造で上山中央の鉾柱(心柱)の上部にはひげこといわれる竹籠を付け、その周りに赤・白・黄3色の和紙(またはナイロン)で出来た菊の花を5個付けた割竹を放射状に広げた花傘の鉾山で、鉾柱(心柱)の先端には標識(だし)といわれる鉾留が付いており、王様といわれる御神体を供えている。また前人形といわれるからくり人形が供えられている山もある。下山には幔幕(まんまく)が張られている山と戸帳の山がある。車輪は4輪の大八車(外車)様式で、輻車(やぐるま[スポーク式])または板車である。昼の花山に対して、夜には約200から300もの提灯を付けた提灯山となり、狭い街角を急曲がりする時の勇壮さと提灯の揺れる風情が見ものとなっている。 立町(たてまち)にある「川の駅新湊」1階の曳山展示室には、2基の曳山が常設展示されており、1基はこちらを山倉とする紺屋町(こんやまち)、もう1基は毎年入れ替えされている。また2階曳山ギャラリーには、曳山の歴史紹介やミニチュアの曳山模型が展示されている。
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曳山(ぎゅう山)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 15:19 UTC 版)
地元でぎゅう山といわれる6基の曳山は、高さ5.54m〜6.52m、長さ約4.5m〜5.2m(長柄間)、2層構造の入母屋作り軒唐破風屋根の屋台様式で高欄で囲まれた上層(神座)には御神像を供え一部の曳山にはからくり人形を配している。上層と下層の間には2段に分かれた彫刻などの装飾がされている。創成期の御神像やからくり人形は、人形師の木屋五郎右衛門(別名・木屋仙人)、城端焼の創始者で人形師・彫刻師でもある荒木和助(別名・唐津屋和助)、現在も受け継がれている城端塗(城端蒔絵)の塗師、小原治五右衛門などによって手掛けられたものである。 他所の曳山にはあまり見られない特徴の一つとして、狭い路地をすり抜けるように進むため、家屋等にぶつからない様に屋根の軒が可動式になっており紐で操作し幅を縮めることができる。殆んどの曳山は跳ね上げ式だが、西下町曳山の屋根だけは軒を上部へせり上げるという特殊な仕組みになっている。また屋根を支える柱の根元の穴にゆとりをもたせ移動中屋根が20cm〜30cm程揺れるようにできている。これも狭い路地を進むさい建物にぶつからないためと回転する時にバランスをとるための工夫で、神座に乗る紋付・袴姿の男衆4人が柱を持ち屋根の動きを制御する。現在は巡行路となる道路のほとんどが拡張されており、屋根を可動させる場所は大工町の路地だけとなり、逆に見所の一つとなっている。天井は金箔張りとなっており、東下町曳山のみが格天井で他は平天井である。 車輪は4輪の大八車(外車)様式の輻車(やぐるま〔スポーク式〕)または板車で、車輪にも漆や彫金などが施されている。もう一つの特徴として曳山を曳くと車輪からギューギューと軋り音がなるので「ぎゅう山」といわれるが、この音は車軸(心棒)と車軸受けの間に、鳴り板と呼ばれる油(現在は灯油)に浸した厚さ約3mmの檜の薄木を噛ませ、車軸にも油を塗り意図的に出しており毎年取り替えられる。また、180度回転するための装置が唐子山(からこやま)を除き設置されているが必ずしも使用されるものではない。 夜には提灯山になるが、よく見られる何百もの提灯で周りを囲むのではなく手に持つ弓張り提灯を曳山に挟みぶら下げる様式になっている。巡行路内で昼巡行では西下町と出丸町、提灯山になってからは新町での計3ヶ所で180度ターンがあり、大きな軋り音をたてながら一気に廻すところが見所でもある。また、城端曳山会館横の所望所では庵屋台・曳山の説明、庵唄の披露のほか、からくり人形と屋根可動のデモンストレーションが行われる。
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曳山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 00:57 UTC 版)
「土崎神明社祭の曳山行事」の記事における「曳山」の解説
(曳山の構造と外観については後述。) 「曳山」の本来の読みは「ひきやま」であるが、土崎では単に「やま」と読む。ただし、「曳山行事」・「曳山祭り」は、「やまぎょうじ」・「やままつり」とは読まず、「ひきやまぎょうじ」・「ひきやままつり」と読む。あるいは、「山車」(標準語では「だし」と読む)と書いて「やま」と呼ぶこともある。 曳山は土崎神明社の氏子の町内として奉賛会(ほうさんかい)に加盟する各町内ごとに組立てられ奉納される。平成期に入ってからは毎年20台前後の数が奉納されており、かつてより大幅に増えている(各年の奉納曳山の項を参照)。
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曳山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/16 14:44 UTC 版)
11基の曳山は高さ約5.9m〜6.5mで、高岡御車山と同じように地車に鉾柱(心柱)を立て花傘を付けた花山(花鉾山)車である。上山と下山の二層構造で鉾柱(心柱)の周りに赤・白・黄3色の造花で出来た菊の花を付けた割竹を放射状に広げた花傘の鉾山だか、他の富山県西部の花山車が鉾柱(心柱)が中央にあり、御神体が心棒後方に置かれるのに対し、石動の山車は鉾柱(心柱)が後方にあり祭神といわれる御神体がその前方に供えられる。鉾柱(心柱)の先端には標識(だし)といわれる鉾留が付いている。また今町の曳山には相座としてあやつり人形が供えられている。下山には幔幕(まんまく)が張られている。車輪は4輪の大八車(外車)様式で、直径は1.3〜1.4mである。
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曳山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 07:54 UTC 版)
「出町子供歌舞伎曳山祭」の記事における「曳山」の解説
曳山3基の構造は、ほぼ同じ造りの2層構造となっており、上層は白木や漆塗り(漆工)など各町特色のある御殿造りで前部が舞台になっている。他地区の歌舞伎曳山との大きな相違は、舞台前部の2本の柱が取り外せるようになっており、演じ手の邪魔にならずに演技が行える事があげられる。曳山上層後部と3基とも白木造りの下層は楽屋となっているが、下層部は現在使用されていない。屋根は切妻造り、中町以外は二重屋根で、現在のように道幅が広くなかったため、家の軒などにぶつからないよう3基とも折り畳み式の可動屋根になっているが、西町曳山は1999年(平成11年)の改修によって固定式に改められた。車輪は3輪または4輪の地車(内車)様式である。 第二次大戦後に、各町に曳山をそのまま保管できる山蔵ができるまでは、火災による全焼回避のため、祭礼が終わると解体し部材ごとに箱に入れられ、町内の幾人かの個人宅の蔵に厳重に保管されていた。なお、曳山には釘や鎹(かすがい)は一切使われていない。現在は、2009年(平成21年)に開館した砺波市出町子供歌舞伎曳山会館にて、3基すべてを常設展示している。
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曳山(南10町)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 17:28 UTC 版)
もともと10基あった曳山は1882年(明治15年)5月15日に起きた大火と、1938年(昭和13年)9月6日に起きた大火で多くの曳山が焼失、類焼し大きなダメージを受けた。明治の大火では焼失したすべての町が新たに曳山を建造し再興したが、昭和の大火では5町の曳山が焼失、南中町が1976年(昭和51年)に38年の時を経て曳山を新調し再興を果たすが、残りの4町は類焼をまぬがれた本座(主座)人形や前立・脇立人形などを、修復または新調する町はあるものの曳山そのものを再興することは出来ず、現在大火による焼失はのがれたが、老朽化により破損が酷く曳き回すことができなくなった下伊勢町と合わせ、5基が廃絶し5基が曳き回されている。 その現存する5基の曳山は高岡御車山と同じように地車に鉾柱(心柱)を立て花傘を付けた花鉾山車で、上山と下山の二層構造の曳山は上山中央の鉾柱の周りに色とりどりの花を付けた割竹を放射状に広げた花傘の鉾山だが、南中町と御座町は現在花笠を取り外し付けていない。鉾柱(心柱)の先端には標識(だし)といわれる鉾留が付いており、本座(主座)といわれる御神体を供えている。また前立人形または脇立人形といわれる人形が供えられている。下山には各町意匠を凝らした刺繍が施された赤い掛幕(胴幕)が張られている。車輪は4輪の大八車(外車)様式で、輻車(やぐるま[スポーク式])または板車である。13日の夜には御座町、南上町、南中町のみが上山上部を取り囲むように6から7段の提灯を付けた提灯山となり曳き回される。江戸時代には13日の夜に神輿に供奉し、昭和の大火以前は14日の夜に10基揃って提灯山として曳き回されていた。なお曳山囃子には、笛、三味線、太鼓を用いるが、担い手の減少から2015年(平成27年)現在、御座町だけが執り行っている。
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曳山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 17:23 UTC 版)
6基の曳山は高さ約6.8〜7.5m、長さ約2.5m(前後の梶棒間約5.5m)、幅約2.75m(車輪間)、重さ約4t、二層構造屋台形式の彫刻山(棟覆山)で屋根は八ツ棟造り。屋根の四隅には瓔珞(ようらく)が提がっている。上層の漆塗りに彫金が施された4本柱には各町の紋が入った天幕が張られ、中には京都の人形師や富山藩の大仏師などが手掛けた、御神体(人形)が供えられる。また神係と言われる神様のお世話係、曳山大工と言われる組み立ての責任者、柱係と言われる4本柱の管理者、そして子供達が乗り込む。前、左右に御簾が掛けられた下層は他の富山県内の曳山と比べると太く、曳山自体全体的に寸胴に見える。これは中に三味線、横笛、太鼓の囃し方が乗り込み曳山囃子を演奏するための空間を大きく取るためである。 曳山下層後部に飾られた大彫、上層(御神体)後方の見越(けんけし)、2枚ずつ4面に飾られた八枚彫、小脇彫などほぼすべての彫物には、細かい細工に金箔や彩色が施され、漆や彫金も多く用いられており大変煌びやかで絢爛豪華そのものである。車輪は4輪の大八車(外車)様式で西町は板車、残る5町は輻車(やぐるま〔スポーク式〕)で、車輪にも漆や彫金などが施されている。安永の曳山車騒動の影響もあり江戸時代までは地車(内車)だった。彫刻はいくつもの部材に分かれており、夜には彫刻をはずし各曳山に約400もの提灯を付けた提灯山となる。現在の絢爛豪華な曳山は慶応から大正時代に掛け、井波の彫刻、高岡の彫金、城端の漆工など、各地の優れた工芸技術をもつ名工によって手掛けられ完成されていった。なお曳山の組み立てには釘は一本も使わず麻縄や楮(こうぞ)の皮を使用して組み立てていく。 また、坂の町を曳き廻すため上層の4本柱が傾きによって歪まないように、斜度がきつい坂を進む場合、4本柱に柱係が助け縄を掛け、坂上の下方から引っ張ることによって保護している。 曳山囃子は1770年代より演奏されており、初期には京都の祇園囃子などが演奏されていたが、のちに浄瑠璃、義太夫、長唄、端唄などを取り入れ、町人たちが芸を磨き、各町が特色のある囃子を完成させていった。
※この「曳山」の解説は、「越中八尾曳山祭」の解説の一部です。
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曳山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/16 13:46 UTC 版)
曳山(山車)は高さ3〜4mの小型のもので、高岡の御車山を小型にした地車に鉾柱(心柱)を立て、鉾柱(心柱)の上部に造花で出来た花を付けた割竹を放射状に広げた花山車(花鉾山)で、鉾柱(心柱)の先端には標識(だし)といわれる鉾留があるものもある。車輪は4輪の大八車(外車)様式で、輻車(やぐるま〔スポーク式〕)または板車である。
※この「曳山」の解説は、「四方子供曳山祭り」の解説の一部です。
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曳山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/30 19:23 UTC 版)
4基の曳山は高さ約5.6m〜7m、幅約2mで、高岡御車山と同じように地車に鉾柱(心柱)を立て花傘を付けた花山車(花鉾山)である。上山と下山の二層構造で、高欄で囲まれた上山中央の鉾柱(心柱)の周りに、赤・白・黄3色の造花で出来た菊の花5個付けた割竹36本を放射状に広げた花傘の鉾山で、鉾柱(心柱)の先端には標識(だし)といわれる鉾留が付いており、王様といわれる御神体を供えている。下山には赤い横幕が張られている。車輪は4輪の大八車(外車)様式で、輻車(やぐるま〔スポーク式〕)または板車だが、枇杷首の曳山だけは大きな2輪の輻車で、富山県内の曳山では高岡御車山の二番町とここ枇杷首だけである。夜には提灯山になるが、花笠などを取り外して何百もの提灯で曳山上部を囲むのではなく、花山車の花笠の内側と高欄下部に丸型提灯と四隅に小田原提灯を提げる。 なお、現在曳かれていない蓮花寺曳山は解体され、蓮華寺、井口神社、一般の民家などに別けて保存されている。
※この「曳山」の解説は、「大門曳山まつり」の解説の一部です。
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