神幸祭
神幸祭(通称:どんかん祭り)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/30 07:18 UTC 版)
「榎社」の記事における「神幸祭(通称:どんかん祭り)」の解説
太宰府天満宮の神幸祭で道真の神輿が雅やかな行列とともにこの社に下り、御旅所で一夜を過ごす9月22日の夜、ふだん人気のない社は、年に一度の賑わいをみせる。御旅所の後ろに小さい祠があって、神輿はまずその前に行き宮司が奉幣する。この祠に祀られているのが、道真を日夜世話したという浄妙尼(もろ尼御前)である。
※この「神幸祭(通称:どんかん祭り)」の解説は、「榎社」の解説の一部です。
「神幸祭(通称:どんかん祭り)」を含む「榎社」の記事については、「榎社」の概要を参照ください。
神幸祭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/22 01:01 UTC 版)
神幸祭は摩気郷十一ヶ村(11社)の祭りで、近世には例祭に併せて8月晦日から9月朔日にかけて行われていた。明治16年(1883年)以降は10月14・15の両日となったが、更に平成15年(2003年)からは神幸祭を10月の第3土・日曜日に行っている。かつては宮本のほか、9集落11社の氏子が参加したが、現在黒田、横田、大村、口八田の4集落は参加していない。 前日 神幸祭前日に船阪と仁江に設けられた神事宿の庭先にお破怪(はけ)を設け、船阪では当神社宮司が、仁江では宮司当(前節参照)が訪れて祭典の準備を行う。 1日目 当日早朝、宍人から正副2名の使が当神社へ差遣され、酒や枝豆を献供する祭典(宍人献饌の儀)が行われた後、改めて午前10時から祭典が斎行され、午後2時に神輿が船阪の御旅所へ進発して神幸祭が始まる。神輿は途中で仁江の稚児行列に迎えられて蛭子神社へと向かい、拝殿に安置されて宮主や仁江の宮衆(前節参照)による祭祀を受けた後に再び御旅所へ向かう。すると今度は船阪の稚児行列が途中でこれを迎える形で合流し、夕刻御旅所へ到着、神輿が御旅所に設けられた仮殿へ安置されて、仁江と船阪から新穀を収めた俵の奉納を受ける。なお稚児については、仁江は女形、船阪は男形とされ、それぞれ女性あるいは男性の装束を着する定めとなっている。 昭和7年(1932年)頃までは横田の若宮神社から同様の神輿渡御があり、船阪の者はこれを迎えて御旅所まで随行、御旅所では摩氣、若宮両神社の神輿が並べられて同宿したという。 2日目 翌未明(午前2時頃)、竹井・仁江・船阪・宍人・大西・半田の宮衆を始めとする氏子が御旅所へ参集し、「練(ね)り」や角力の奉納が行われる。この時には宍人と大西から選ばれた沙汰人(さたにん)と呼ばれる者が宮司の指示を受けて神事を執り行う。初めに沙汰人が「お神酒を奉れ」と命じて神事が始まり、船阪から選ばれた典供者が榊を口に咥えて神前に神酒の満たされた瓶子2本を持参する。続いてそれを銚子に注いで神前に侍る宮司へ渡す。それを受けた宮司は別の瓶子に注ぎ直して献じ、銚子は典供者へ返す。次に沙汰人が「お神酒を下げよ」と命じると宮司は瓶子から盃へ神酒を注いでそれを神前に残し、残りの神酒を瓶子ごと典供者へ戻す。引き続き沙汰人は宮司へ「お神酒に参られ」と伝えて共に「船阪庁」という御旅所内の参集殿へ下がり、神酒と柿を切って作った肴で直会を行う。その後宮司と沙汰人が再び神前へ戻り、沙汰人が「お典供に立て」と命じると、典供者が大笥の神饌を2膳、小笥の神饌を11膳供え(大笥は当神社祭神用、小笥は摂社祭神用(摂社の祭神は各集落の氏神11社の祭神でもある)という)、練りへと移る。若宮神社の神輿が同宿していた当時は、典供者は二手に分かれて両神輿それぞれへ供える神饌を運び、若宮神社方は巫女がこれを受けて神輿へ献饌したという。なお、現在は略されているが以前は練りの前に沙汰人の「ではおろし」という合図で撤饌が行われていた。 練りはその様子から「泥鰌取り」とも呼ばれるが、沙汰人と竹井・半田の角力取りによって演じられる。演者は1人宛刀を手に採り腰に魚籠を吊して御旅所に設えられた土俵を1回りし、その間刀で地を突いて「おったー」等と言いながら泥鰌を掴んで魚籠に入れる仕草をする。その後宮主の呼び出しで角力が行われるが、先に実際の取り組みが、次いで「半角力」と呼ばれるものが行われる。取り組みは「出角力」と「待角力」に分かれ、待角力方の角力取りが先に土俵へ上がって後に上がる出角力方からの技を一方的に受け、出角力方が勝ち役を、待角力方が負け役を演じる形で7番が行われる(但し、勝敗はつかない事となっている)。半角力は1人で角力を取る所作をするもの(一人角力)で、最後は投げ飛ばされたように転がる。これは稲霊である目に見えない摩氣の神を対手とする事を表し、その神に投げ飛ばされる事で神慮を慰め、五穀の豊饒を祈るものという。半角力が済むと、竹井と今度は船阪による練りがあり、神事を終える。 角力は11社の氏子が参加する習いで、現在不参の4集落は竹井の者がその代役を務める形で古格を保っている。また練りに関しては、滑稽味を帯びたその様態から神との角力に伴うかつての負態(まけわざ)の名残とも思われるが、兵庫県の石上(いしがみ)神社に伝わる「なまずおさえ神事」とともに検討すべき伝承とされている。 神幸祭2日目の午後2時頃、氏子が俵や弓矢・的・床几・折櫃等を持参して参集する。先ず船阪の者が俵と折櫃を神輿に献じ、祝詞奏上の後に沙汰人を先頭に、仁江・船阪の一行が幣束・弓・的・俵・折櫃等を捧げ、宍人と大西の当番が鋤・馬鍬を持ち、2頭の張子の牛がその後に続いて1列になって船阪庁の周りを3周するお千度が行われる。お千度が終わると仁江と船阪の稚児が神輿の前で幣束を振り(奉幣)、次いで木馬に騎乗、的持ちが掲げる的を矢で射る流鏑馬(やぶさめ)が行われる。流鏑馬が終わると神輿の還幸となる。 還幸は御旅所を後にした神輿を、竹井・仁江以外の者が篠山街道まで見送り、仁江の一行は仁江の公民館付近まで同行する。夕刻に神輿が摩氣神社に帰着すると、最後はこれを担いで激しく上下に揺すりながら拝殿の周りを1周し、神幸祭を終える。なお、昭和37年(1962年)までは神輿を担いでの巡幸であったが、担ぎ手の減少により現在は台車に載せてこれを牽く形となっている。
※この「神幸祭」の解説は、「摩氣神社」の解説の一部です。
「神幸祭」を含む「摩氣神社」の記事については、「摩氣神社」の概要を参照ください。
神幸祭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 15:04 UTC 版)
5月15日に近い土曜日に行われる神社の行事。朝8時に神社を出発。一の宮・大己貴命(だいこく様)、二の宮・少名彦命(えびす様)、三の宮・平将門の鳳輦や宮神輿が平安装束をまとった人々に付き添われ粛々と行進し、巫女(巫女装束)と乙女(壺装束)役の若い女性4名ずつが花を添える。13時頃に両国旧御仮屋(東日本橋駅付近)で休憩し神事を行う。16時頃に三越本店に到着、ここから御輿、山車、武者行列などの付け祭りが追加される。艶麗で古風な行列とパソコン、デジタルカメラ、薄型テレビ等が並ぶ町並みの対比は見事である。19時頃に神社に戻ります。
※この「神幸祭」の解説は、「神田祭」の解説の一部です。
「神幸祭」を含む「神田祭」の記事については、「神田祭」の概要を参照ください。
神幸祭(4年に一度)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/08 14:19 UTC 版)
「駒込天祖神社」の記事における「神幸祭(4年に一度)」の解説
1922年(大正11年)に製作された本社神輿は、台座三尺八寸の千貫神輿とも言われる大神輿(本所・大倉竹次郎製作)。2000年(平成12年)には氏子会の熱意によって修復され(本行徳・十六代浅子周慶)、44年ぶりに氏子区域内を渡御した。以来4年に一度神幸祭が行われている。本社神輿は氏子13町会の全ての地域で引き渡されながら渡御が行われる。
※この「神幸祭(4年に一度)」の解説は、「駒込天祖神社」の解説の一部です。
「神幸祭(4年に一度)」を含む「駒込天祖神社」の記事については、「駒込天祖神社」の概要を参照ください。
神幸祭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 19:02 UTC 版)
5月5日の神幸祭当日には、午前中に今宮神社本社で拝殿降が行われ、昼過ぎに神輿が本社を出御する。車太鼓、剣鉾、旗、花車、獅子、御車、提灯、先神輿(あぐい)、中神輿(鷹峯)、大宮神輿、宮司などの順に列をなすが、この順序は近世後期以降にほとんど変更がないと考えられている。鷹峯神輿以外の2基は今宮神社東側の氏子区域を巡り、鷹峯神輿は千本通りを北上して神社西側の氏子区域を巡る。千本今宮からは3基が同じ通りを歩み、千本通や北大路通などの大通りを通って上京区に入る。途中の北大路旧大宮交差点と千本今出川交差点では台車に乗せていた神輿を人力で担ぎ上げて回転させる。1基を担ぎ上げるのには約50人の力が必要とされており、3町の担ぎ手が協力して行う。 いったんは御旅所に近づくがさらに南下し、盧山寺通を西進して千本通を越える。氏子範囲の西端とされる七本松通を南下し、北野天満宮の東300mまで接近する。今出川通や千本通、寺之内通を通って上京区の北西部を巡った後、夕方に上京区若宮横町にある御旅所に入御する。翌日の5月6日には御旅所で湯立祭が斎行される。 3基の神輿 番号 名称 町名 1 先神輿 (あぐい/安居院) 2 中神輿 鷹峯 3 大宮神輿 大宮
※この「神幸祭」の解説は、「今宮祭」の解説の一部です。
「神幸祭」を含む「今宮祭」の記事については、「今宮祭」の概要を参照ください。
神幸祭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/12 02:31 UTC 版)
聖神社最大の神事であり、鳥取市中の祭礼で最も規模の大きい行事が、隔年(西暦偶数年)で開かれる聖神社の神幸祭である。この神幸祭のことを指して聖(ひじり)さん、聖大祭と地元では言われている。神社の神輿や、氏子町内が保有している屋台(一般的に山車・山鉾と言われているもの)が鳥取市街を巡幸する行事であり、鳥取の初夏の風物詩となっている。 屋台は巡幸中、囃子と合わせて「エーラヤッチャ、コーラヤッチャ、マエダヨ・マエダヨ」と掛け声をしながら行進し、氏子町内を中心とする市街の要所で停車し踊り・囃子を披露する。また、市中の商店などからご祝儀(地元では花と呼ばれる)をいただき、屋台を通して披露する。 氏子町内の熱意もさることながら、県外からこの大祭のために帰省する者や、氏子町内の者でなくても一度参加したことをきっかけに以後継続的に参加する者も多い。鳥取市中で最大の神事であると同時に、鳥取城下の町衆の文化を今に伝える数少ない伝統行事でもあることから、氏子町内のそれぞれが屋台を支え敬ってきた事を誇りに240年に渡る心意気を今日に伝承している。 平成15年(2003)3月28日、「聖神社の神幸行列」として鳥取県指定無形民俗文化財に指定された。
※この「神幸祭」の解説は、「聖神社 (鳥取市)」の解説の一部です。
「神幸祭」を含む「聖神社 (鳥取市)」の記事については、「聖神社 (鳥取市)」の概要を参照ください。
神幸祭と同じ種類の言葉
- 神幸祭のページへのリンク