部垂の乱とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 部垂の乱の意味・解説 

部垂の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/10 23:29 UTC 版)

部垂城
内乱の中心地となった部垂城の所在地点。

部垂の乱(へたれのらん)、または部垂十二年の乱(へたれじゅうにねんのらん)は、現在の茨城県常陸大宮市北町・下町付近にあたる常陸国那珂郡部垂(へたれ)の地を中心に、戦国時代1528年享禄元年)あるいは1529年(享禄2年)[注釈 1]に勃発した佐竹氏一族の内乱佐竹義篤の弟・宇留野義元部垂城を攻撃したことに始まり、12年後の1540年天文9年)に義篤が義元を敗死させて終結した。

内乱の勃発

佐竹義篤は、佐竹義舜の子として永正4年(1507年[注釈 2]に生まれ、永正14年(1517年)に義舜の死により11歳で佐竹宗家の家督を継承した[1]

宇留野義元は、義舜の子(義篤の同母弟)として永正7年(1510年)に生まれたが、佐竹氏の庶流にあたる宇留野義久の養子となり宇留野氏を継いだ[1]

内乱の中心地となった部垂城は、現在の常陸大宮市北町・下町に位置し、久慈川右岸の沖積平野に面して東西方向に伸びる河岸段丘縁辺部に構築された4つのからなる平山城である[2][3]常陸平氏の嫡流・大掾氏の祖といわれる大掾資幹(馬場資幹)の後裔である河崎頼幹(平頼幹)により、応永10年(1403年)に創築されたと伝えられ、長禄年間(1457年から1460年)に佐竹氏宿老小貫氏(小貫頼定)が入り、小貫俊通の代まで3代続いたとされる[2]

義元は、享禄元年(1528年)5月ごろから部垂城への攻撃を開始し[4][5]、翌・享禄2年(1529年)10月には小貫氏内部に内応者を作って城内に侵攻、小貫俊通を討って城を強奪し部垂義元(佐竹義元)を称した。義元の行動は佐竹宗家の家督継承権の主張と見なされ、兄・義篤との間に敵対関係が生じた[2]。これに乗じて、宇留野氏だけでなく、佐竹一族に属していた久慈川西岸地域の国衆(小場氏・長倉氏高久氏ら)が同調・蜂起し、さらに白川氏岩城氏ら、周辺の領主たちも介入する事態へと発展した[1]

義元のこれらの行動の背景や要因については様々な見解があるが[6][4][7][8][5]、宇留野氏の拠点・宇留野城の北方に近接する小貫氏領との境界争いのほか[9]、常陸国内で勢力を強大化する佐竹宗家(義篤)に対して、久慈川西岸部の諸氏(小場氏・長倉氏・高久氏ら)の反感が高まり、これに押されるかたちで義元が政権簒奪を狙ったとする見解が有力視されている[7][1]

なお、内乱の開始年代については、佐竹氏の家譜年代記等の史料に基づき享禄2年(1529年)10月とされることが一般的であったが、1990年代以降の研究では[4][8][5]、部垂城攻撃は享禄元年(1528年)5月頃からすでに始まっていたと考えられるようになり、従来説より1年以上前を開始時期とする見解がある[1]

内乱の経過

享禄2年(1529年)10月の義元による部垂城占拠の際、義篤は江戸氏小田氏の衝突など、別の在地紛争に対応中で、義元の反乱に即応できずにいた[1]

天文3年(1534年)から天文5年(1536年)にかけて、義元の反乱に関連する武力衝突が本格化する。天文3年(1534年)には、同年2月の鹿子原の戦いなど、江戸氏と佐竹側国衆(小田氏ら)との交戦が発生する。そのような中で江戸氏が岩城氏を味方につけ、高久氏や小瀬氏、小野崎氏らも同調し参戦した。天文4年(1535年)12月に義篤が岩城氏を撃退したことで、翌・天文5年(1536年)には小康状態となった[1]

しかし、天文7年(1538年)に義元が岩瀬・白川・那須の3氏を介入させようとしたことから再び軍事衝突に発展し、同年3月に義篤と小瀬氏による戦いが発生。その後も天文8年(1539年)3月18日の前小屋城の戦いや、同年3月22日の部垂城攻囲戦などが続いた。

この後、義篤との間で和議が成立し現状維持となったが、内乱勃発から12年目の天文9年(1540年)、義元が部垂城大手にかかる橋の架替え普請工事)を家臣に命じた際、その完了状況が良くないとして、普請を担当した家臣の大賀外記を衆目の前で罵倒した。これを不満とした大賀は出奔して義篤の元に走り、城の普請は佐竹本家への謀反の準備であると讒言した[2]。これにより義篤は和議を反故にして同年3月14日(1540年4月30日)に部垂城を奇襲、不意を突かれた義元は自刃した。この際、城に居合わせていた小場義実も戦死し、義元の子・竹寿丸は父と共に自刃(『佐竹家譜』)、または逃亡先で殺害(地元伝承)されたとされる。その後、4月3日の野口の戦い(常陸大宮市野口)で長倉義忠が戦死し、内乱は終結した[1]

内乱の影響

佐竹義篤が乱を制したことにより、義元亡き後の部垂の地は佐竹宗家の本領となり、久慈川・那珂川に挟まれた那珂地域へ佐竹宗家の権力が本格的に進出することとなった。また佐竹一族衆の宗家に対する反抗がなくなり、宗家の支配域は常陸全域におよび、奥州南部(福島県南部)の白川氏領を侵攻したことで南奥地域にもおよぶようになった。義篤亡き後の天文16年(1547年)には江戸忠通が反乱を起こすが、義篤の子・佐竹義昭が天文20年(1551年)に平定し、以後、宗家を中心とする佐竹氏が北関東の戦国大名として強大化していくこととなった[1]

脚注

注釈

  1. ^ 内乱の開始時期については1529年享禄2年)とされる事が多いが、後述のように1528年享禄元年)とする見解もある[1]
  2. ^ 本項導入部は一般的な記述方法に則って年代を西暦和暦)順に記載したが、これ以降は旧暦の日付を伴う箇所があるため、和暦(西暦)の順で記載する。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j 佐々木 & 千葉 2021, pp. 97–104.
  2. ^ a b c d 平井聖 1979, pp. 69–70.
  3. ^ 須貝 2023, p. 143.
  4. ^ a b c 市村 1994.
  5. ^ a b c 高橋 2020.
  6. ^ 江原 1977.
  7. ^ a b 佐々木 2013.
  8. ^ a b 泉田 2019.
  9. ^ 安達 2013, p. 38.

参考文献

  • 安達, 和人「佐竹支族宇留野氏の系譜について」『常総の歴史』第47号、崙書房出版、2013年、32-46頁、 ISSN 0918080X 
  • 佐々木, 倫朗 著「十六世紀前半の北関東の戦乱と佐竹氏」、江田郁夫、簗瀬大輔 編『北関東の戦国時代』高志書院、2013年3月。 ISBN 9784862151209 
  • 泉田, 邦彦 著「佐竹氏と江戸氏・小野崎氏」、高橋 修 編『佐竹一族の中世』高志書院、2017年1月。 ISBN 9784862151667 
  • 山縣, 創明 著「部垂の乱と佐竹氏の自立」、高橋 修 編『佐竹一族の中世』高志書院、2017年1月。 ISBN 9784862151667 
  • 泉田, 邦彦「佐竹天文の乱と国衆」『地方史研究』第69号、地方史研究協議会、2019年4月、26-45頁、 ISSN 05777542 
  • 高橋, 裕文『中世佐竹氏の研究』青史出版、2020年6月。 ISBN 9784921145699 
  • 佐々木, 倫朗、千葉, 篤志 著「3.「部垂の乱」と佐竹氏権力の確立へ」、日本史史料研究会 編『戦国佐竹氏研究の最前線』山川出版社、2021年3月16日、97-104頁。 ISBN 9784634151819 

関連項目

外部リンク

  • 常陸大宮市ふるさと文化で人と地域を元気にする事業実行委員会. “部垂の乱”. 常陸大宮市歴史民俗資料館 大宮館「常陸大宮市のたからもの」. 2025年9月10日閲覧。

座標: 北緯36度33分06.5秒 東経140度24分55.3秒 / 北緯36.551806度 東経140.415361度 / 36.551806; 140.415361




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  部垂の乱のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「部垂の乱」の関連用語

部垂の乱のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



部垂の乱のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの部垂の乱 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS