3-4歳(1997-98年)
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「エアジハード」の記事における「3-4歳(1997-98年)」の解説
1997年12月7日、朝日杯3歳ステークス当日に行われた中山競馬場の新馬戦(芝1200メートル)に武豊が騎乗してデビュー。3番手から抜け出し、後方に3馬身半差をつけて初勝利を挙げる。その後は、脚の炎症が治まらずに連戦できず、年をまたいだ1998年2月1日、カトレア賞(500万円以下、ダート1200メートル)で復帰。クラシックを目標にしつつも、脚の負担の少ないダートに参戦、後方待機から直線で外から抜け出し、1馬身半差をつけて入線、連勝とする。再び間隔を空けて3月22日、皐月賞のトライアル競走であるスプリングステークス(GII)に2番人気で出走。5枠8番ゲートに収まったが、暴れてしまい鼻を負傷、さらに出遅れてスタートとなった。スローペースの最後方から追い込むも、先行馬には届かず4着。3着までに与えられる優先出走権を獲得できず、発走調教再審査の処分が下された。 この敗戦や距離適性をマイルから2000メートルと考えていた伊藤は、吉原にクラシック出走の断念を提案し、受け入れられた。続く目標をNHKマイルカップ出走に切り替え、騎手の橋本広喜が騎乗して矯正、発走調教再審査を合格した。5月17日のNHKマイルカップに橋本とともに10番人気で出走。スタートを決めたが、直線伸びず8着。ただ勝利したエルコンドルパサーなど上位7頭は、いずれも外国産馬であり、内国産馬としては最先着を果たした。その後は休養、社台ファームで夏休みとなった。10月18日、東京競馬場の900万円以下(芝1600メートル)で復帰し、1馬身半差をつけて3勝目。11月14日、奥多摩ステークス(1600万円以下、芝1400メートル)はクビ差で4勝目を挙げる。 脚部不安の心配が見られなかったことから、4勝目から2週間後の11月28日、スプリンターズステークスの前哨戦である富士ステークス(GIII)に参戦する。15頭が出走する中、前年の安田記念3着の5歳馬スピードワールドが3倍台の1番人気、セントウルステークス3着の6歳馬シンボリフェザードが4倍台、イギリスから遠征の外国調教馬でモーリス・ド・ゲスト賞(G1)3着のムシェアが5倍台と続き、エアジハードは6.2倍の4番人気に推されていた。3枠5番からスタートを決めて先行し、好位内側で最終コーナーを通過、直線で抜け出した。大外から6番人気プレストシンボリが迫り、内外並んでの競り合いとなったが、エアジハードがクビ差振り切って先着。重賞初勝利を挙げた。 橋本は「相手に合わせるズルい面があって、今回はその相手が強かっただけに半信半疑で臨みましたが、今まで以上に頑張ってくれました。(中略)本当に接戦に強い。まだ4歳ですし、これからどれだけ強くなっていくのか楽しみです。」。伊藤は「完成するのは先になると思いますが、来年はタイキシャトルの後釜を狙える馬。そう思っているんですよ。」と発言。タイキシャトルは、この前年に5戦4勝。フランスのマイルG1競走のジャック・ル・マロワ賞を勝利したほか、日本国内では安田記念とマイルチャンピオンシップを勝利。マイルチャンピオンシップは連覇を達成したうえ、その年の国内春秋のマイルGIを独占して引退していた。富士ステークスの後のエアジハードは、スプリンターズステークスには出走せずに休養。来年春の目標を安田記念とした。
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3-4歳(1984-85年)
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「スダホーク」の記事における「3-4歳(1984-85年)」の解説
1984年11月3日、東京競馬場の新馬戦(芝1800メートル)に田村正光が騎乗してデビューし、3着に敗れた。続く2戦目でクビ差を制して初勝利を挙げ、3戦目の葉牡丹賞(400万円以下)では逃げ切り2連勝とした。1985年は2連敗の後、3月3日の弥生賞(GIII)に5番人気の評価で出走した。第3コーナーで2番手につけ、最終コーナーで先頭に立ち独走。1番人気のサクラサニーオーに4馬身差で重賞勝利を果たした。須田にとっても所有馬初の重賞勝利であった。続いて皐月賞に出走し、後方待機から抜け出すことができず6着に敗れた。 5月26日、東京優駿(日本ダービー)に出走し、田原成貴に乗り替わった。皐月賞を制したミホシンザンが骨折のために回避し、代わって皐月賞出走できなかったシリウスシンボリが1番人気に推され、続く2番人気であった。スタートから後方待機し、第3コーナーで進路を内に取り、最終コーナーで先頭に並びかけた。しかし、大外からシリウスシンボリにかわされ、ついていけなかった。シリウスシンボリに3馬身差遅れ、追い込んだスクラムダイナにハナ差だけ先着する2着となった。田原はこう振り返っている。 直線で先頭に立って"いける"と思ったが、それも一瞬でシリウス(シンボリ)に交わされた〔ママ〕。相手が強かった。敗れたが悔いはありません。 — 田原成貴 秋は、神戸新聞杯、京都新聞杯とどちらも5着に敗れた後、11月10日の菊花賞に出走、スダホークは2番人気に推された。東京優駿に出走できず、1番人気に推されたミホシンザンをマークしながら最終コーナーに達したが、ミホシンザンについていくことができなかった。1馬身4分の1差離されて、サクラサニーオーよりクビ差だけ先着した2着であった。田原は「(前略)勝ち馬とは瞬発力の差が出てしまった」と分析している。続く有馬記念では、シンボリルドルフ、ミホシンザン、ニシノライデンに次ぐ4着に入った。
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3-4歳(1955-1956年)
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「ハクチカラ」の記事における「3-4歳(1955-1956年)」の解説
10月1日、中山競馬場の新馬戦でデビュー。八木沢勝美を背に、2着に4馬身差を付けて初戦勝利を挙げた。以後も中山開催で連勝を続け、5戦5勝で関東の3歳王者戦・朝日杯3歳ステークスを迎える。当日は圧倒的な1番人気に支持され、スタートが切られると激しい先行争い制し先頭でレースを進めた。しかし最後の直線から並び掛けたキタノオーとの競り合いに敗れ、3/4馬身差の2着。初の敗戦を喫してシーズンを終えた。以後、キタノオーとは長くライバル関係となる。 休養の後、翌年3月末にオープン競走で2着となった後、4歳クラシック初戦・皐月賞を迎えた。当年は例年開催の中山競馬場が改装中のため、東京競馬場で開催された。当日は前哨戦のスプリングステークスを制していたキタノオーが1番人気、ハクチカラは2番人気となったが、レースでは全く見せ場のないまま、7番人気の穴馬ヘキラクの12着と大敗を喫した。競走後、担当厩務員がハクチカラの慢性的な下痢を改善しようと、尾形の許可なく整腸剤を投与していたことが判明、担当はベテランの中沢徳次に交代された。以後ダービーに向けて態勢立て直しが図られ、中沢は1日3時間睡眠でハクチカラの看護に当たった。1ヶ月後、騎手が保田隆芳に替わったオープン競走で勝利。6月3日に日本ダービーを迎えた。 当日は降雨で重馬場となったなか、キタノオー、ヘキラクに次ぐ3番人気であった。レースは外枠に入ったヘキラクとキタノオーがスタート直後に内側に斜行し、煽りを受けたエンメイ、トサタケヒロの2頭が落馬という展開で始まった。好スタートを切っていたハクチカラはこの影響を受けることなく先団5番手を進むと、最後の直線でキタノオーを一気に交わして先頭に立ち、そのまま独走。同馬に3馬身差を付けて優勝した。騎乗した保田はデビュー20年目でダービージョッキーとなった。ハクチカラは第2コーナーで左前脚の蹄鉄を落としていたといい、尾形は「それでよく走り通したものだと感心した」と述懐している。なお、スタートの斜行で落馬した2頭のうち、エンメイは競走能力を喪失し、騎乗していた阿部正太郎も重傷を負ったことから、この競走をきっかけとして騎手や調教師も交えた事故調査委員会が組織され、競馬施行規定の改正、人馬の救護体制強化パトロールタワー(監視塔)の設置といった改革が行われた。競走中の斜行禁止、充分な間隔がない中での内側からの追い抜き禁止といった騎手の御法についての規制もこのとき定められている。 夏の休養を経て、9月に復帰。緒戦のオープン戦を制した後、セントライト記念では勝ったキタノオーから1馬身余の4着。その後、クラシック最終戦の菊花賞に備えて京都競馬場に入り、オープン戦を勝って菊花賞に臨んだ。当日は圧倒的1番人気のキタノオーに次ぐ2番人気に支持されたが、後方待機策から最後の直線で鋭く伸びたキタノオーに対し、ハクチカラは中団から伸びを欠いて5着に終わった。 菊花賞の後は関東に戻り、カブトヤマ記念、ハンデキャップ競走を連勝。年末には当年創設されたファン投票によるオールスター競走・中山グランプリに出走。出走12頭中の8頭が八大競走優勝馬という顔触れで、当日は5番人気であった。レースは1番人気のメイヂヒカリが2着キタノオーに3馬身半差を付けて圧勝。ハクチカラは中団からミッドファーム、ヒデホマレと馬体を接して入線し、両馬からハナ、ハナ差の5着でシーズンを終えた。
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3-4歳(1976-1977年)
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「ラッキールーラ」の記事における「3-4歳(1976-1977年)」の解説
1976年6月の札幌競馬場でデビューを予定していたが、身体が大きいことから先送りとなった。8月15日、函館競馬場の新馬戦でデビュー、伊藤正徳が騎乗し3着、続く2戦目の新馬戦も2着に敗れた。10月の中山競馬場の未勝利戦で初勝利、続く白菊賞はカネミノブに敗れて2着となったが、さざんか賞で2勝目、ひいらぎ賞はプレストウコウに敗れて2着となった。 4歳となった1977年、1月の京成杯2着、2月の東京4歳ステークス4着とどちらもヒシスピードに敗れた。3月の弥生賞では初めて拍車を装着して出走、5番人気に支持された。逃げの手に出て、カネミノブやプレストウコウを退けて優勝。弥生賞レコードでの重賞初制覇となった。皐月賞は、4番人気で出走。逃げて先頭で直線に進入したが、ハードバージが内からかわされ、それから2馬身半差をつけられた2着に敗れた。伊藤は「ゴールまであと600メートル地点では勝てると思ったが、外からくる馬にばかり気を遣っていたら(福永)洋一の馬に内を衝かれた。じわじわくる馬には強いが、一気にこられてなす術がありませんでした。(カッコ内補足加筆者)」と回顧している。続く東京優駿に向けて、トライアル競走のNHK杯に1番人気で出走し、先行したもののプレストウコウとそのほか2頭に交わされ4着に敗れた。 5月29日、東京優駿(日本ダービー)に出走。28頭立て7枠24番という外枠からの発走となり、単勝9番人気の支持であった。発走直後に先頭に立ったが、大外枠のワールドサバンナにハナを奪われ2番手で進んだ。最終コーナーにかけてワールドサバンナとの差を縮め、直線では内から位置を上げたカネミノブと並び、先頭争いとなった。やがてカネミノブを下したが、外から1番人気のハードバージが迫り、ラッキールーラに並びかけたところで決勝線を通過した。直後にハードバージの伊藤雄二調教師が勝利を確信していたが、写真判定の結果、ラッキールーラのアタマ差先着が認められた。 尾形は、14年ぶりの東京優駿制覇であり、フレーモア(1934年)トクマサ(1936年)クリフジ(1943年)クリノハナ(1952年)ハクチカラ(1956年)ハクショウ(1961年)メイズイ(1963年)に続いて8勝目。また伊藤は父伊藤正四郎がトクマサ(1936年)で制しており、親子制覇となった。その後は、夏休みを東京競馬場の厩舎で過ごした。 秋は10月、中山競馬場のオープン競走で始動。逃げ切り勝ちし、その3日後に関西に遠征した。菊花賞の前哨戦とした京都新聞杯は、単枠指定制度の対象となり1番人気で出走。逃げに出たが、プレストウコウにかわされ1馬身半差の2着。目標の菊花賞は追い切りの内容がよかったことも手伝って1番人気で出走した。ハイペースの2番手につけたこともあり、直線では全く伸びず15着に敗れた。伊藤は「僕の騎乗ミスだったのかな」と振り返る一方、尾形は「(伊藤)正徳に責任はない。結果論かもしれんが、長距離向きではなかった。2400メートルまでの馬だったんですな」としている。 12月に入って、左前脚に深管骨瘤を発症。長期の戦線離脱となり、福島県いわき市のJRA競走馬総合研究所常盤支所にある「馬の温泉」や北海道早来町の吉田牧場で快復を図った。
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3-4歳(1984-85年)
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「クシロキング」の記事における「3-4歳(1984-85年)」の解説
1984年9月1日、函館競馬場の新馬戦(芝1200メートル)で安田富男とともにデビューしたが、4着敗退。12月、4戦目の未勝利戦(芝2000メートル)で好位追走から後方に3馬身半差をつけて初勝利となった。2週間後のひいらぎ賞(OP)では2着に敗れたが、1985年1月6日の若竹賞を4馬身差で制して2勝目となった。 3月24日、重賞初挑戦となるスプリングステークス(GII)は7着。皐月賞(GI)は13着に敗れた。続いて、NHK杯(GII)を叩き台に東京優駿(日本ダービー)(GI)に参戦する予定であった。しかし、5月2日の調教後に右第一指骨剥離骨折が判明し、全治3か月の診断から、NHK杯、東京優駿ともに回避した。療養から明けた10月26日、東京競馬場の赤富士賞(900万円以下)で復帰し2着。12月1日の900万円以下を逃げ切り2馬身差の3勝目を挙げ、12月15日の冬至特別(900万円以下)で4馬身差をつけて連勝とした。
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3-4歳(1985-1986年)
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「ダイナアクトレス」の記事における「3-4歳(1985-1986年)」の解説
1985年、母と同じ矢野進厩舎に入り、8月11日、函館でデビュー。初戦を5馬身差で圧勝すると、続くすずらん賞、函館3歳ステークスをそれぞれ6、5馬身差で制する。函館3歳ステークスの競走後、深管不安により3戦のみでシーズンを終えたが、圧倒的なスピードに、翌4歳シーズンには牡馬相手となる皐月賞、東京優駿(日本ダービー)への出走も検討された。 迎えた1986年春、前年の最優秀3歳牝馬メジロラモーヌに勝利することを念頭に、陣営は牝馬クラシック路線を選択。桜花賞への前哨戦として、すみれ賞で復帰した。しかし発走前に枠入りを執拗に嫌がり、さらに枠内で後ろ脚を蹴り上げてゲート側面の台に乗り上げ、パニック状態となる。馬体検査の結果、異常なしとされてレースに臨んだが、最下位と大敗した。競走後には枠入り不良を理由に、日本中央競馬会 (JRA) より1ヶ月間の出走停止と調教再審査を言い渡され、桜花賞へ出走する機会を失った。 続く優駿牝馬(オークス)での巻き返しを期して、美浦トレーニングセンターを離れ、オークス開催場の東京競馬場での調整が図られた。しかし馬が環境変化に順応できず、ストレスの掛かるゲート練習が続いたために体調を崩す。メジロラモーヌとの初対戦となったサンスポ賞4歳牝馬特別(オークストライアル)では、同馬から1馬身半差の2着、続く優駿牝馬(オークス)でも同じく3着に敗れ、クラシック制覇は成らなかった。 休養を経ての秋初戦ローズステークスでメジロラモーヌとの3度目の対決になるはずだったが、競走前の最終調教で股関節を痛めて出走を取り消し、そのまま4歳シーズンを終えた。その後メジロラモーヌは史上初の牝馬三冠を達成。当年を限りに競走生活から退いている。
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3-4歳(1987-88年)
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「ヤエノムテキ」の記事における「3-4歳(1987-88年)」の解説
3歳夏前に荻野厩舎に入厩し、夏の函館競馬場開催でデビューする予定であったが、後肢の成長が十分でなかったことから延期。栗東に戻り、立て直したためにデビューは4歳の2月となった。阪神競馬場ダート1700メートルの新馬戦に、西浦勝一騎手鞍上で出走。3番手から直線で前2頭をかわすと、後方に7馬身離す独走状態で初勝利を挙げた。再びダート、中京競馬場1700メートルの沈丁花賞(400万円以下)では、2秒差、12馬身差という大差で連勝した。連闘で初めての芝コース、重馬場の毎日杯(GIII)に挑戦した。オグリキャップがペガサスステークス(GIII)に続いて重賞連勝を果たし、その3馬身半ほど遅れた4着に敗れた。 出走に必要な賞金の上乗せには失敗したものの、その後皐月賞(GI)に登録。400万円以下を勝利したに過ぎないヤエノムテキは、出走馬決定順で16位タイであった。同じ16位には同じ賞金の6頭がおり、フルゲート18頭に対して3頭超過していた。そこで、16位の6頭から出走できる3頭を選ぶ確率2分の1の抽選が実施され、ヤエノムテキは当選、出走が叶った。単勝オッズ25.2倍の9番人気の支持、有利とされる1番枠からの発走だった。第2コーナーでメイブレーブ、マイネルフリッセによる斜行で1番人気のモガミナインが不利を受ける中、その影響を受ける事無くサクラチヨノオーをマークしながら好位の4番手で進み、直線で鋭く脚を伸ばして2着のディクターランドに4分の3馬身差をつけて優勝した。芝でのレース初勝利がGI及びクラシックであり、デビューから3戦で皐月賞を制したのは、トウショウボーイ以来12年ぶりのことだった。 9番人気で皐月賞を制したために評価が急上昇、東京優駿(日本ダービー)に向けて次第に取材のメディアも増え、荻野の後頭部が円形脱毛症になるほどのプレッシャーを感じていた。人気は、皐月賞を回避したJRA賞最優秀3歳牡馬のサッカーボーイに譲り、2番人気。最初のコーナーを6番手、中団から徐々に外へ持ち出して最後の直線に入った。しかし、内から抜け出したサクラチヨノオーやメジロアルダン、コクサイトリプルなどを捕らえることができず、勝利したサクラチヨノオーに約3馬身離された4着、荻野は敗因を距離に求めていた。 放牧に出ずに7月、1800メートルの中日スポーツ賞4歳ステークス(GIII)に進み、勝ったサッカーボーイに半馬身差の2着。2か月の休養を経て、9月の函館競馬場、UHB杯(OP、芝1800メートル)で復帰し、金鯱賞(GIII)を制したパッシングパワー、NHK杯(GII)を制したトウショウサミットなど初対戦となる古馬勢に対して勝利した。 菊花賞の前哨戦である京都新聞杯(GII)も制して菊花賞(GI)に挑んだ。ダービー馬サクラチヨノオーは屈腱炎で戦線離脱、サッカーボーイは短距離路線に、オグリキャップは古馬相手に挑戦。これまで敗れた相手の参戦がなく、皐月賞馬かつ前哨戦で勝利するなど順調であったことから1番人気に推された。6番手につけて、直線コースで追い込みを図ったが失速、10着に敗れた。距離適性を改めて確認するために、有馬記念ではなく当時2500メートルで行われていた鳴尾記念(GII)を選択し、ハナ差の接戦を制して重賞3勝目を挙げた。
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3-4歳(2000-01年)
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「ダンツフレーム」の記事における「3-4歳(2000-01年)」の解説
2000年6月10日、函館競馬場の新馬戦(ダート1000メートル)に藤田伸二とともに、1番人気でデビュー。先に抜け出した1頭に4馬身差を離されて2着となった。それから7月1日、同条件である2戦目の新馬戦では差し切りを果たし、初勝利。続いて9月16日、ききょうステークス(OP)では武豊に乗り替わり、初の芝競走となったが、単勝オッズ1.4倍の1番人気に推されて出走。後方待機から最終コーナーで抜け出し、後方に3馬身半差をつけて2連勝とした。さらに9月30日の野路菊ステークス(OP)では、河内洋に乗り替わり単勝オッズ1.2倍で出走。半馬身差をつけて3連勝とし、放牧に出された。 4歳となった2001年は、2月11日のきさらぎ賞(GIII)で始動、3番人気で出走した。直線で抜け出したが、若駒ステークス(OP)など2戦2勝の1番人気、アグネスゴールドに半馬身かわされて2着。その後は、皐月賞のトライアル競走ではなく、2月24日のアーリントンカップ(GIII)を選択。単勝オッズ1.2倍の支持を集めた。後方で待機し、最終コーナーを7番手で通過して追い上げを開始。逃げるキタサンチャンネルにゴール直前で並びかけたころで入線。ハナ差先着しており、重賞初勝利を果たした。 続いて、皐月賞(GI)に出走、藤田に再び乗り替わった。3戦3勝アグネスタキオンが1.3倍、4戦3勝ジャングルポケットが3.7倍となり2頭が一桁オッズとなる中、ダンツフレームはそれらに次ぐ3番人気、オッズ16.8倍という支持であった。発走直後から中団につけていたが、最初のコーナーから進路を塞がれたり、接触したりする不利をもらいながら追走。直線では、好位のアグネスタキオンが先に抜け出し、ダンツフレームはその背後から追い上げた。アグネスタキオンには1馬身半を及ばなかったが、外から追い上げたジャングルポケットとの競り合いを制し、半馬身差の2着を確保した。 そして、5月27日の東京優駿(日本ダービー)(GI)に河内洋に乗り替わり、出走した。河内が皐月賞優勝に導いたアグネスタキオンは、屈腱炎のために戦線を離脱。当日の人気では、皐月賞2着のダンツフレームが単純に繰り上がることなく、単勝オッズ6.1倍の3番人気に留まった。人気で上回った2頭は、同3着のジャングルポケット、NHKマイルカップ優勝から臨むクロフネであり、それぞれオッズは2.3倍、3.0倍を示した。中団で待機し、直線では外に持ち出して追い上げた。河内が仕掛けようとした際、同じく中団を進み、先に抜け出そうとしたジャングルポケットに進路を塞がれる不利も受けた。それから再び盛り返したものの、ジャングルポケットに並ぶことはできず、1馬身半差の2着となった。 夏休みを経て、秋は神戸新聞杯(GII)から始動し、4着。続く菊花賞(GI)は、ジャングルポケットに次ぐ2番人気の支持で5着。古馬との初顔合わせとなったマイルチャンピオンシップ(GI)も5着。止まらない連敗から立て直しを図るために、山内は目標を定めずに放牧を実施、年内全休とした。
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3-4歳(1982-83年)
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「ドウカンヤシマ」の記事における「3-4歳(1982-83年)」の解説
1982年9月4日、函館競馬場の新馬戦(芝1000メートル)に1番人気の支持でデビュー。直線で抜け出し、後方に7馬身差をつけて初勝利となった。条件戦も制して連勝とし、府中3歳ステークスでは1番人気に推されながら4着と初めて敗戦した。 11月7日、京成杯3歳ステークスでは重賞優勝馬を抑えて1番人気に支持された。ハイペースの展開の中、好位に位置。直線で抜け出そうとするも、好位または後方から追い上げてきた3頭と横並びとなった。特に、内から伸びたデアリングパワーとは馬体を併せて決勝線を通過した。写真判定の結果、ドウカンヤシマの先着が認められ重賞初勝利となった。騎乗した郷原洋行は「あの位置なら、直線もっと伸びなきゃいけない。勝ったけど納得しないよ」と回顧している。それから朝日杯3歳ステークスに臨み、11着に敗れた。 1983年、2月13日の共同通信杯4歳ステークスで始動するも、13着敗退。その後は、クラシック路線を歩む予定であったが、スプリングステークスの発馬機で暴れて鼻出血を発症し、競走除外。出走停止処分を受け、皐月賞、東京優駿(日本ダービー)への出走は叶わなかった。 出走停止明け3連敗の後、8月21日の函館記念に大塚栄三郎が騎乗し、負担重量51キログラムで出走。皐月賞優勝のハワイアンイメージ、桜花賞優勝のブロケード、リーゼングロスら相手に逃げ、一時2番手に6馬身差をつけるなど独走した。直線に入っても先頭を保ち、追い上げてくる後方勢に2馬身半差をつけて先頭で入線、重賞2勝目を挙げた。13頭立て11番人気の支持を受けており、単勝式2060円、枠番連勝5770円の高配当を記録した。秋は、セントライト記念、京都新聞杯と連続3着を記録し、菊花賞ではクラシック出走を果たしたが、悪い癖が出ていつもの力を発揮できず、17着に敗れた。年末には、オープン競走に出走するも10着に敗退した。
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3-4歳(1990年-1991年)
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「トウカイテイオー」の記事における「3-4歳(1990年-1991年)」の解説
12月1日、中京競馬場の新馬戦でデビュー。松元がダービーを見据えて東京競馬場と同じ左回りを経験させようと中京コースが選ばれ、騎手は松元厩舎の馬に多く騎乗し、デビュー前の調教にも本馬に乗って自ら騎乗を志願した安田隆行が務めた。当日は調教での動きの良さが評価されて単勝1番人気に支持されると、不良馬場、また先行した馬が有利とされている小回りのコースでありながら後方でレースを進め、徐々に前方へ進出して最後の直線で内から鋭く抜け出し、安田が手綱を抑える余裕を見せて4馬身差をつけて勝利した。安田はレース後に興奮気味に「手ごたえに余裕があり、楽勝でした」とコメントした。次走のシクラメンステークスは3番人気となったものの、後方追走から残り800mの標識付近で前走同様前方へ進出、4コーナーで逃げた1番人気のイイデサターンをかわして先頭に立つと、後続に2馬身の差をつけてそのまま押し切り、デビュー2連勝を記録した。 シクラメンステークス後、松元は東京優駿までのローテーションについて、無理に強敵を相手にして消耗するトライアル競走には出走させず、芝2000mのレースにトウカイテイオーを出走させることを決定した。1991年1月の若駒ステークスでは単勝オッズ1.3倍と圧倒的な1番人気に支持され、中団追走から向こう正面で一気に前方との差を詰めて3コーナーで先頭に並びかけると、後を追ってきたナイスネイチャ、イイデサターンを突き放し、タイムを同距離の前走から2秒4縮めて3連勝を果たした。安田は若駒ステークスについて、「東に行っても間違いなく通用する。大きいところに出ても勝負できると、はっきり自信がつきました」と振り返っている。これでテイオーはクラシックへの有力候補として、またシンボリルドルフ初年度産駒の逸材として注目を集めるようになった。 若駒ステークス後、松元の「厳寒期に無理をさせたくない」という意向から2か月の間隔が置かれ、3月の東上緒戦・若葉ステークスに出走した。2週前の弥生賞のレース後に勝利したイブキマイカグラ鞍上の南井克巳が「関西にはもう一頭強い馬がいる」とトウカイテイオーを評したコメントが関東のファンにも知られていたことで、当日は生涯最高となる66.28パーセントの単勝支持を受け、単勝オッズは1.2倍を記録した。スタート直後はスローな流れに引っ掛かってしまい安田の手を焼かせたものの、4コーナー手前で先頭を伺って直線に入ると抜け出し、2着のアサキチに2馬身差で勝利を収めた。デビューから4連勝、全戦で一度も鞭を使われない完勝という内容で、牡馬クラシック初戦の皐月賞を迎えることとなった。 皐月賞当日の4月14日は、重賞未勝利馬ながら前年の2歳GI・阪神3歳ステークス優勝馬のイブキマイカグラとともに単枠指定を受ける。単勝オッズは前哨戦の弥生賞を制していた同馬を抑え、2.1倍で1番人気に支持された。イブキマイカグラが5枠11番に入ったことに対し、トウカイテイオーは大外の18番枠に入ったため戦前は不利という見方をされたが、雨の影響で荒れていた内馬場を通らずに済むのでかえって有利ではないかという見方もあり、陣営は「押し込められる危険のある1番枠よりはましだ」と考え、安田も「揉まれない枠だからかえっていいんじゃないだろうか」と考えていた。スタートが切られるとトウカイテイオーは先行策をとり、馬場の外目を通って前半の道中は7・8番手につけ、第3コーナーで大外を回って前方へ進出し、最後の直線で早め先頭に立つと2着のシャコーグレイド(16番人気)に1馬身差をつけて優勝。ゴールでは鞍上の安田が手綱を抑える余裕を見せてクラシック初戦を制した。 競走後の記念撮影において、安田はシンボリルドルフ主戦騎手の岡部幸雄に倣い、馬上で「まず一冠獲得」を意味する人差し指を掲げ、「三冠獲り」を宣言した。 クラシック第2戦となる東京優駿の1週間前になると、スポーツ新聞の競馬欄はトウカイテイオーが東京優駿を勝つことが既成事実のように報じ、前日の土曜日に馬券の前売りが始まると、単勝・複勝共にトウカイテイオーが入った8枠(20番)絡みの連勝馬券が飛ぶように売れ、単勝は2倍を切った。迎えた東京優駿当日の5月26日、最終的な単勝オッズは皐月賞を上回る1.6倍と圧倒的な支持を集めた。レースはスタート直後にスムーズに6番手につけ、直線で大外から抜け出す。最後は後続を突き放し、2着レオダーバンに3馬身差の快勝。史上15頭目となる二冠馬となり、父シンボリルドルフと同様、無敗のまま二冠を達成した。 競走後には祝福の「ヤスダコール」が起こり、安田は記念撮影で皐月賞に続いて馬上で二本指を掲げた。安田は「ダービーに関しては(シンボリルドルフより)テイオーの方が強い勝ち方だったのでは」と語り、自身の騎乗についても「自分でも満点の騎乗だったと思います」と回想している。レオダーバンに騎乗した岡部幸雄は「(安田が)3、4回ミスしてくれても敵わなかった」と述べた。シンボリルドルフの調教師・野平祐二は、「レースぶりはルドルフより余裕があった」と称えた。また東京優駿で8枠の馬が1着となった史上初の事例となった。 競走後には親子二代の無敗のクラシック三冠達成への期待が大きく高まった。しかしテイオーは、表彰式を終えて競馬場内の出張馬房に戻る時点で歩様に異常を来しており、診療所でレントゲン撮影が行われた。レントゲンの結果、左後脚の骨折が判明。3日後には公式に「左第3足根骨骨折・全治6か月」と発表され、年内の休養と最後の一冠・菊花賞の断念を余儀なくされた。トウカイテイオー骨折のニュースはNHKが一般のニュースと同じ扱いで大きく伝えた。安田は「天国から地獄に突き落とされた気分でした」と振り返ったが、松元は「ダービーの前でなくてよかった、そう前向きに考えるようにしました」と振り返っている。 翌年1月に発表されたJRA賞では、無敗の二冠が高く評価され、176名の記者投票のうち134票を獲得して年度代表馬に選出され、さらに最優秀4歳牡馬、5頭のGI優勝馬を抑えて最優秀父内国産馬にも選出された。また中央競馬フリーハンデでは、古馬のメジロマックイーンを上回る65キログラム (143 lb)を与えられ、当年の最高評価となった。
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3-4歳(1952-1953年)
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「ハクリヨウ」の記事における「3-4歳(1952-1953年)」の解説
1952年11月8日、東京競馬場の新馬戦でデビュー。保田隆芳を鞍上に臨んだが、同郷のトキツの3着に敗れた。競走後には大型馬ゆえに持病としていた裂蹄が慢性化し、休養に入る。翌年3月に復帰後、5万下条件戦(未勝利戦)で初勝利を挙げる。続く条件戦3着を挿み、次走で二本柳俊夫を鞍上に迎える。ここから2戦を連勝し、4月26日にクラシック初戦・皐月賞に臨んだ。 当日は前哨戦スプリングステークスを制していた牝馬チエリオが1番人気、本馬はそれに次ぐ2番人気に支持された。レースでは先行策から最後の直線半ばでトキツを交わして先頭に立ったが、直後に同郷ボストニアン(7番人気)に差されて1馬身差の2着に終わった。続くNHK杯では1番人気に支持されたが、ボストニアンに3馬身半突き放されて再度の2着。迎えた東京優駿(日本ダービー) ではボストニアンと人気が逆転、2番人気となる。レースでも同馬に後れを取り、さらに8番人気のダイサンホウシュウも交わせず3着に終わった。 競走後、秋に備えて休養に入ったボストニアンに対し、ハクリョウは盛夏を迎えるまで走り続け、翌週連闘で臨んだオープン戦を8馬身差で圧勝。7月5日に出走した中山4歳ステークスでは、2000m2分6秒1のコースレコードを記録した。その後2ヶ月の休養を取り、復帰戦のカブトヤマ記念を5馬身差で勝利。続いてクラシック最後の一冠・菊花賞に向けて関西に移動し、前哨戦にオープン戦に出走した。ここでボストニアンと秋の初対戦となったが、1馬身半差で敗れて同馬に4連敗を喫する。 11月23日に迎えた菊花賞は、戦前から「ボストニアン三冠確実」と喧伝され、秋から再びハクリョウの主戦に戻った保田隆芳も「馬(ハクリョウ)は強いが年回りが悪いよ」と、半ばの諦めを口にしていた。当日も同馬が圧倒的な1番人気に支持されたが、レースではコース2周目の第3コーナーからハクリョウが先頭に立ち、後続を突き放す。そのままゴールまで押し切り、ボストニアンに3馬身差を付けて優勝。5度目の対戦で初めて同馬を下すと同時に、史上2頭目のクラシック三冠を阻止した。
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3-4歳(1988-89年)
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「オサイチジョージ」の記事における「3-4歳(1988-89年)」の解説
3歳となった1988年9月11日、阪神競馬場の新馬戦(芝1200メートル)でデビュー。アイドルマリーに5馬身後れを取る2着となった。続く9月25日、2戦目の新馬戦も2着。連闘して10月2日、3戦目の新馬戦では、後方に10馬身差をつけて初勝利を挙げた。その後は、もろく、回復力に乏しい爪のせいで出走することができず、翌1989年春まで放牧となった。 4歳は、4月22日のあずさ賞(400万円以下)で始動し2勝目、5月14日の葵ステークス(OP)も制して3連勝とした。続く6月4日には関東に遠征し、ニュージーランドトロフィー4歳ステークス(GII)で重賞初挑戦。東京優駿(日本ダービー)には出走せず、土門は「長い距離に慣れさせるのは秋から。でも、勝って帰らなきゃ意味ない」と考えた上で参戦し、単勝オッズ3.6倍の1番人気に推された。スタートから好位の内側に位置。直線では前方が塞がれ、進路を馬場の外側に求めてから追い上げたが、スムーズに抜け出した7番人気アクアビットに半馬身以上及ばず3着。騎乗した丸山勝秀は「ボクの大失敗だったんです。うまく乗っていれば勝てたレースなんです」と回顧している。 それから7月2日、中日スポーツ賞4歳ステークス(GIII)に出走。東京優駿で1番人気5着となったロングシンホニーが単枠指定制度の対象となり、単勝オッズ2.1倍の1番人気の支持。4.5倍のマルセイグレートを挟み、オサイチジョージは、4.8倍の3番人気であった。スタートから先行して4番手、同じく先行したマルセイグレートの後方外側を追走。ロングシンホニーは、オサイチジョージの背後に位置した。第3コーナーからマルセイグレートが逃げ馬をかわして抜け出し、直線ではオサイチジョージとロングシンホニーがそれを追う形となった。ロングシンホニーは伸びあぐねる一方、オサイチジョージは末脚を見せて差を詰め、決勝線手前でマルセイグレートを差し切り入線、クビ差をつけて重賞初勝利を果たした。 夏は厩舎で過ごし、9月24日の神戸新聞杯(GII)で復帰。単枠指定となり、単勝オッズ1.9倍の1番人気で出走した。出走14頭の12番枠から発馬して先行し、3番手に位置。最終コーナーから直線に抜け出して先頭に立ち、さらなる脚で以て、後続との差を広げた。バンブービギンとムービースターが追って来たものの、それらに3馬身以上の差をつけて入線。重賞連勝とした。土門は、秋の大目標を3000メートルの菊花賞にするか、1600メートルのマイルチャンピオンシップにするかを決めかねていたが、この勝利をきっかけに菊花賞に狙いを定めた。 続いて10月15日、菊花賞のトライアル競走である京都新聞杯(GII)に出走。東京優駿優勝馬のウィナーズサークルとともに単枠指定となり、単勝オッズ1.8倍の1番人気、ウィナーズサークルが4.8倍の2番人気であった。発馬後控えて、中団を追走し、直線では、馬群に突っ込んで内から追い上げた。馬群を捌き、進路を確保した残り100メートルからは、先頭のリアルバースデー目指して特に伸び、リアルバースデーにはクビ差先着。しかし、終始オサイチジョージの背後をとってマークし、直線では大外に持ち出した5番人気、バンブービギンの追い込みには敵わず、バンブービギンに1馬身4分の1差の2着。菊花賞の優先出走権を獲得した。 それから11月5日、菊花賞(GI)に出走。3.8倍の1番人気にバンブービギン、4.1倍の2番人気にウィナーズサークル、オサイチジョージは5.7倍の3番人気という評価であった。デビュー以来騎乗し続けた丸山が騎乗停止中だったため、西浦勝一に乗り替わっての参戦した。スタートから先行し、3番手に位置。第3コーナーから最終コーナーにかけて追い上げ、先行馬を外から捕らえにかかったが、失速。外から伸びて抜け出したバンブービギンに、7馬身以上離された12着に敗退した。
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3-4歳(2008-2009年)
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「アドマイヤコマンド」の記事における「3-4歳(2008-2009年)」の解説
体質の弱さなどからデビューが遅れ、3月16日に阪神競馬場で行われた3歳新馬戦がデビュー戦となり、レースでは2着馬に7馬身差をつけて圧勝して初勝利を挙げた。2戦目は中1週で格上挑戦となる毎日杯に出走することになった。デビュー2戦目での重賞初挑戦ながら1番人気に支持されたが、レースではディープスカイに敗れて2着だったものの収得賞金を加算しオープン馬となった。次は皐月賞にレース2週間前に行う予備出走登録していたが、レース出走を回避し、東京優駿トライアルの青葉賞へ出走し、2番人気でレースを制してデビュー3戦目で重賞初勝利を挙げ、東京優駿への優先出走権を獲得した。そして迎えた大一番の東京優駿では4番人気に支持されたが、レースでは最後の直線で伸び切れず7着という結果に終わり、レース後はリフレッシュ放牧に出された。帰厩後は9月初旬から坂路で調整を進められ、秋は神戸新聞杯を経て菊花賞に出走するプランが調教師サイドから発表されていたが、9月18日に左前浅屈腱炎を発症したことが明らかになり長期療養を強いられることになった。
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3-4歳(1972-73年)
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「カミノテシオ」の記事における「3-4歳(1972-73年)」の解説
1972年9月3日、中山競馬場の新馬戦(芝1000メートル)に岡部幸雄が騎乗し、単勝3番人気でデビュー。後方から追い上げて、2馬身半差をつけて初勝利を挙げた。続いて条件戦と京成杯3歳ステークス敗退の後、11月5日、東京競馬場の条件戦を1馬身4分の1差で2勝目を挙げた。その後、朝日杯3歳ステークスへ出走するはずだったが、調教での怪我により回避した。しかし、長期の離脱には至らず、年末のオープン競走にも出走した。 1973年、4歳となり、1月14日の京成杯に1番人気で出走。後方待機を選択し、最後の直線では5番手ほどに位置から抜け出していたニューサントに外から並びかけた。2頭並んで入線したが、カミノテシオが写真判定によりハナ差先着していることが認められた。騎乗した加賀武見は「直線競り合いになった時、勝てると思いました。並んだら絶対に負けないのがムーティエ産駒のよさです。(中略)馬ごみ〔ママ〕にもまれて強いし、追えば確実に伸びてくるあたりは実に頼もしい。」と評している。 続いて3月4日の弥生賞に出走。大井で無敗の6連勝を達成した後、中央競馬に移籍したハイセイコーに注目が集まり1番人気となり、一方のカミノテシオは3番人気であった。後方待機から、好位のハイセイコー目指して追い上げたが、並ぶことなく4着に敗れた。競走中に右前脚をぶつけて球節を傷つけていたため、仕上がることがないまま皐月賞に出走し7着敗退。騎乗した加賀は、終始馬群の中に位置したことを敗因としていた。 5月3日、東京競馬場マイルのオープン競走で、中団から5馬身の差をつけて4勝目を挙げた。この勝利に高橋は「東京コースの2400メートルなら、この馬の良さが十分に発揮できると思う」と話していた。5月27日の東京優駿(日本ダービー)に出走を予定し、日曜日の発走を前に1枠3番の枠順が与えられた。横尾一彦によれば、木曜日の調教では「絶好の動き」を見せており「ストップ・ザ・ハイセイコーの筆頭」と評されていたという。しかし、土曜日の軽めの調教で最後の仕上げをした後に歩様がおかしくなり、右前脚球節炎の診断を受けて東京優駿は出走取消。それから、治癒まで長引き1年以上の長期休養となった。
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3-4歳(2011-2012年)
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「ミトラ (競走馬)」の記事における「3-4歳(2011-2012年)」の解説
その後、2012年3月までダート戦を使われた。ダート7戦目となる4歳以上1000万下までダート1200m戦で3勝を挙げた後に、 デビュー戦以来となる芝レースであるフリーウェイステークスをレコード勝ちし、芝を主戦場に変える。次走のテレビユー福島賞、長岡ステークスでは敗れたものの、紅葉ステークスではデビュー以来となるスミヨンを鞍上に1着。オープン馬となった。だが、昇級初戦のオーロカップは3/4馬身差及ばず2着となった。
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3-4歳(1989-90年)
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「メジロライアン」の記事における「3-4歳(1989-90年)」の解説
1989年7月9日、函館競馬場の新馬戦(芝1200メートル)に柏崎正次が騎乗してデビュー。道中で真っ直ぐ走らせることに苦労して、勝ち切れず2着。2戦目の新馬戦は、6着に敗れた。その後は、骨膜炎を発症したために休養し、2か月間出走しない間に馬体が著しく良化していった。10月29日、京都競馬場の未勝利戦で復帰。鞍上には奥平の甥にあたり、当時デビュー4年目の見習騎手だった横山典弘に乗り替わって出走し、斜行して3着、以降横山が主戦騎手となっている。続いて11月18日、東京競馬場の未勝利戦(芝1600メートル)では初めて後方待機策をとると、直線だけを使って先行馬をすべて差し切り、4戦目で初勝利を挙げた。それから12月3日の葉牡丹賞(400万円以下)は安田富男が騎乗して5着だったが、12月23日、昇級2戦目のひいらぎ賞(400万円以下)にて横山が騎乗し、再び後方待機から直線で差し切り2勝目。4歳となった1990年を、1月20日のジュニアカップ(OP)では、デビュー以来3連勝中でクラシック候補の一角と目されていたプリミエールを差し切って3勝目。この勝利を機に、陣営はクラシックへの手応えを得るようになったという。 続いて3月4日、皐月賞のトライアル競走である弥生賞(GII)に出走、前日まで雨が降り続いたため不良馬場での開催となった。相手には朝日杯3歳ステークスを勝利し前年のJRA賞最優秀3歳牡馬を受賞したアイネスフウジンのこの年2戦目であり、単勝オッズ1.9倍の1番人気、単枠指定制度の対象となった。対してメジロライアンは、5.7倍の2番人気に推された。スタートからアイネスフウジンが先行して逃げる中、メジロライアンは後方に位置。直線では、アイネスフウジンが馬場の悪い内側を嫌って外にも出す一方で、内を突いて追い上げ、馬群から抜け出すと、アイネスフウジンを残り200メートル地点で内からかわして先頭となった。それから、外からツルマルミマタオーの追撃を半馬身かわして入線、重賞初勝利。皐月賞の優先出走権を獲得した。横山は、入線する直前にガッツポーズ。「ゴールの瞬間、この先が全部見えた気がしましたね。皐月賞も、ダービーも」と発言。後に横山は、この時クラシックを意識したかとの問いに対し、「全部勝てると思ったよ(笑)」と改めて回顧している。
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3-4歳(1982-1983年)
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「シャダイソフィア」の記事における「3-4歳(1982-1983年)」の解説
同年8月7日、函館競馬場の新馬戦(芝1200メートル)でデビュー。猿橋を鞍上に、2着に10馬身差をつけ、従来のレコードを0.5秒短縮する1分10秒3というタイムで初勝利を挙げた。続く函館3歳ステークスは、雨が降りやや荒れた馬場状態だったが、単勝オッズ1.2倍の高い支持に応え快勝した。当時すでに渡辺は本馬の目標を桜花賞に据えており、消耗を防ぐために一旦休養に出された。2カ月半後に出走した関西の3歳王者戦・阪神3歳ステークスでは、ニホンピロウイナーなど牡馬の強豪に交じって3番人気に推された。レースでは、直線で一旦は先頭に立ったものの失速し、6着に終わった。しかし、この頃から渡辺は公に「目標は桜花賞」と明言し、シャダイソフィアは翌春に備えて再度休養に入った。 翌1983年3月、復帰戦として4歳牝馬特別(桜花賞トライアル)に出走。調整途上であったが、前哨戦を使われてきた他馬に伍して、ダスゲニーの3着とまずまずの走りを見せた。この結果に、猿橋と渡辺は「本番は必ず勝てる」と、さらに自信を深めたと語っている。 4月10日の桜花賞は、降雨のため不良馬場で行われた。当日の人気は、同じく社台グループ出身馬のダイナカールと、重賞2連勝中のダスゲニーに次ぐ3番人気に推された。メジロハイネの発走枠内での駐立と、この影響による発走遅延に苛立ったダイナカールが枠入りを拒んで13分遅れの発走となったが、シャダイソフィアは落ち着いた状態でスタートを迎えた。レースは終始好位につける展開となり、直線入り口で先頭に立つと、追走するミホクイーン、ダイナカールを抑え勝利した。猿橋、渡辺はいずれもこれが初めての八大競走制覇(猿橋は唯一の勝利)であった。吉田善哉は社台の2頭の好走を喜び、レース後の口取り式は、ダイナカールも加えて行われた。 この後は牝馬クラシック二冠の目標となる優駿牝馬(オークス)に向かうと見られていたが、牡馬相手となる東京優駿(日本ダービー)への出走が発表された。戦前から戦後期のしばらくは牝馬の出走もしばしばあり、優勝も2例存在したが、1983年からの過去20年には出走例はふたつで、また成績も芳しくなかった。この発表を受けて、マスコミからは暴挙であるとする声もあがった。 桜花賞馬不在となったオークスはダイナカールが優勝し、馬主の社台レースホースは初の八大競走勝利を挙げた。この翌週に日本ダービーを迎えたが、シャダイソフィアは当日は14番人気と低評価で、結果も勝ったミスターシービーから3秒離された17着と大敗、社台と渡辺には改めて批判が集まった。シャダイソフィアをダービーへ出走させたことについて、吉田善哉の長男・照哉は、以下のような発言を行っている。 「あのころのウチには、大きな焦りがあったんだよね。何十年もリーディング・ブリーダーの座を保ち続けてはいるものの、どういうわけだかダービーだけには縁がなかったんだ。いままで20回挑戦してるけど、ことごとく討ち死にしてきたから、ボクらにしてみれば、恥という気持ちすらあったよ。(中略)83年はダービーで好勝負できるような男馬がいなかったから、クラシックを取った女馬に賭けてみよう、という気になったんだよね。いま思えば、ソフィアのためには決していいことじゃなかったんだけど……。渡辺先生にも無理なお願いをして、本当に申し訳なかったと思ってる」 — 瀬戸慎一郎『悲劇のサラブレッド』より 渡辺によれば、吉田善哉はシャダイソフィアとダイナカールのどちらをダービーに振り分けるかを迷っていたといい、最終的には同じグループの一口馬主クラブが所有するダイナカールに一冠を取らせたいと思ったのだろうと語っている。なお、社台ファームは1986年にダイナガリバーでダービー制覇を果たしている。 その後は秋シーズンに備えて休養に入り、9月に4歳牝馬限定戦のサファイヤステークスで復帰。ここは1番人気に応え、グローバルダイナ以下を抑えて勝利し、続くオパールステークスをニホンピロウイナーの2着として牝馬三冠最終戦・エリザベス女王杯に臨んだ。東京優駿の結果から2400メートルの距離が不安視され、当日は5番人気だったが、ロンググレイスに半馬身差の2着と好走した。続く阪神牝馬特別は古馬の前に4着と敗れ、4歳シーズンを終えた。
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3-4歳 (1989年-1990年)
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「レッツゴーターキン」の記事における「3-4歳 (1989年-1990年)」の解説
1989年12月に競走馬としてデビュー。未勝利を脱出するのに4戦を要したが距離を伸ばす毎に好走していき、やがて500万下条件を抜け出すと初重賞挑戦となった中日スポーツ賞4歳ステークスでは単勝11番人気ながら2着に入り、波乱を演出する。その後は嵐山ステークスを始め好走する競走もあったが勝ち切れない競走が続く。
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3 - 4歳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 07:36 UTC 版)
デビュー前から能力の高さを買われていたサクラチトセオーは3歳の10月、東京の新馬戦でデビューした。この新馬戦で快勝すると、続くひいらぎ賞(500万下)では1位入線馬の降着によって勝利し、クラシック候補に名を連ねた。 ところが、4歳になるとサクラチトセオーは右腰の状態が悪くなり、なかなかレースを使えなくなった。それでも、ダービートライアルのNHK杯で3着に入り、何とか日本ダービーに出走することができた。しかし、ダービーでは先行したものの、キャリア4戦という経験の浅さを露呈したことと体調が今一つだったこともあり11着と大敗を喫した。ダービー後、サクラチトセオーは休養に入ったが、腰の状態が思わしくないこともあり、秋は1度も出走できなかった。
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3 - 4歳(1972-1973年)
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「ナスノチグサ」の記事における「3 - 4歳(1972-1973年)」の解説
1972年7月23日、東京競馬場の新馬戦(芝1100メートル)に嶋田功が騎乗し、後方に5馬身差をつけて初勝利。続く福島競馬場のオープン競走も5馬身差で2連勝とした。3戦目の福島3歳ステークスこそマミーブルーに敗れたが、東京競馬場のオープン競走で3勝目。以降、オープン競走にてレコードタイムで走破し2着、府中3歳ステークスで4勝目となった。初めて輸送を経験し、臨んだ中山競馬場の3歳牝馬ステークスでは、ニットウチドリに3馬身差をつけて5勝目となった。 4歳となった1973年、2月のクイーンカップで始動し、1番人気で出走するも、7着敗退。この結果を受けて稲葉は、ナスノチグサの気性や性格が、関西遠征には耐えられないとして桜花賞回避を表明、代わりに優駿牝馬(オークス)を目標とした。以降も関東での出走を続け、フラワーカップ3着、東京4歳牝馬特別はレデースポートにクビ差の2着で前哨戦を消化した。 5月20日の優駿牝馬(オークス)は、レデースポートに次ぐ2番人気で出走。馬場の内側の中団で待機し、直線でも内から追い上げた。外のレデースポート、内で逃げ粘るニットウチドリをかわして先頭となり、後方に3馬身半差をつけて先頭で入線。姉ナスノカオリが10着に敗れた舞台で雪辱を果たした。嶋田は前年に続いて優駿牝馬を勝利し、この1年間に騎手生命が危ぶまれるほどの落馬負傷を経た連覇であった。嶋田は「(ナスノ)カオリは道中泥をかぶったりすると行く気をなくしちゃうところがあるが、(ナスノ)チグサの方は逆に闘争心を出すんです。内に入れて我慢させ、直線で力の勝負に出たのがよかったのでしょう。(後略、カッコ内加筆者)」と振り返っている。その後は古馬相手の安田記念に進み3着となった。 夏休みを経て、秋は増沢末夫に乗り替わり、京都牝馬特別で復帰。2戦目のビクトリアカップでは、好位につけて伸びたが、優駿牝馬で下したニットウチドリに2馬身半及ばず2着となった。
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3 - 4歳(1977 - 78年)
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「シービークロス」の記事における「3 - 4歳(1977 - 78年)」の解説
11月6日、東京競馬場の新馬戦で吉永正人を鞍上にデビュー。1番人気に支持されたが、中位から直線で伸びきれず4着となる。続く2戦目で吉永は後方待機策をとり、直線で鋭く伸びたが2着。以後シービークロスは追い込み一辺倒となり、2週連続の出走となった3戦目で先行馬を差し切り初勝利を挙げる。年末には条件戦のひいらぎ賞を制し、翌年のクラシック三冠戦線に向けた有力馬にも挙げられた。 翌1978年は緒戦からオープン競走2戦をともに5着と敗れる。三冠初戦の皐月賞(4月16日)は、ある程度の先行策でなければ勝ち目はないといわれる中山コースで道中最後方から行き、勝ったファンタストから0.7秒差の5着で二冠目の東京優駿(日本ダービー)への優先出走権を得た。日本ダービー(5月28日)でも最後方を進み、最後の直線では追い込んで見せ場を作ったものの、サクラショウリから約4馬身差の7着と敗れた。その後、俗に「残念ダービー」ともいわれる日本短波賞で4着となり、休養に入った。担当厩務員の青木一男によれば、当時のシービークロスはまだ子供の身体つきであったという。 秋は京王杯オータムハンデキャップ3着を経て、三冠最終戦の菊花賞トライアルであるセントライト記念でも3着となり同競走への優先出走権を得る。しかし西下直前に熱発して菊花賞を断念、自己条件戦に回り、3勝目を挙げた。続くダービー卿チャレンジトロフィーではモデルスポートにクビ差及ばず2着。年末にはグランプリ競走である有馬記念に出走したが、10着と敗れシーズンを終えた。
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3 - 4歳(1972 - 73年)
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「タケホープ」の記事における「3 - 4歳(1972 - 73年)」の解説
1972年、3歳となり東京競馬場の稲葉幸夫厩舎に入厩。馬インフルエンザ拡大の影響で夏開催となった東京競馬場にて、7月15日の新馬戦(芝1100メートル)に嶋田功が騎乗してデビューした。姉のタケフブキが優駿牝馬を制した直後だったことから人気を集め、単勝1番人気での出走となり、逃げ馬を捕らえて1馬身差の勝利を挙げた。その後、年末までに6戦に出走したが、いずれも勝利を挙げるには至らなかった。 1973年、4歳となり初戦の若竹賞(200万円以下)で2勝目を挙げた。その後、皐月賞出走を目指して東京4歳ステークス、弥生賞と出走するも、どちらも勝利には至らず。皐月賞を回避して休養に入った。4月15日に行われた皐月賞では、ハイセイコーが制し、9戦9勝とした。 4月28日、東京競馬場で行われた4歳中距離特別(芝2000メートル)に出走。陣営は東京優駿を目指していたが、結果次第では東京優駿への出走が危ぶまれる状況であった。レースでは直線で追い上げ逃げたサクラチェスをハナ差差し切って勝利、この結果から東京優駿出走が決定した。騎乗した嶋田は東京優駿に向けて「ハイセイコーが四ツ脚なら、こっちだって四ツ脚だよ」と発言。周囲やマスコミには皮肉としか受け取られなかったが、稲葉は東京優駿について、それなりの勝算を持っていたという。その後、嶋田は東京優駿1週間前の優駿牝馬でナスノチグサで勝利し、優駿牝馬連覇を果たしていた。その直後には「ナスノチグサよりも(東京優駿の)タケホープの方が自信あるくらいだよ」と宣言、直前には稲葉もタケホープの馬主近藤たけに入着を約束するほどの自信を見せていた。 5月27日、東京優駿(日本ダービー)に出走。皐月賞後、NHK杯を優勝して10連勝としたハイセイコーが単勝支持率66.6パーセントを占め、当時の東京優駿史上最高支持率を更新した一方、タケホープはその50分の1の支持率に留まる9番人気であった。ハイセイコーが2枠5番からの発走で有利とされる内側から、またタケホープは不利とされる外側、7枠21番からの発走となった。 序盤からボージェストやホワイトフォンテンなど先頭が頻繁に変わり、ハイペースとなった。ハイセイコーは中団馬群の内側、タケホープはそれより後方に位置した。ハイセイコーは進路を求めて外側に転進、第3コーナー付近で早くも先頭直後まで進出していた。一方タケホープは、大外に移り最終コーナーを迎えた。後方有利のペースのせいで伸びあぐねるハイセイコーを、残り200メートルでイチフジイサミがかわし、それを合図にタケホープも加速、イチフジイサミをかわし1馬身4分の3差をつけ、先頭で入線し優勝した。直後に嶋田は観客席の方向に右手を上げて、声援に応えようとしていたが、人気を集めたハイセイコー敗退に観客の反応はタケホープ一様では決してなかった。走破タイムは2分27秒8は、東京優駿レコードタイムを更新。2着のイチフジイサミ、それからさらに3馬身半遅れた3着はハイセイコーとなり、枠番連勝「5 - 7(イチフジイサミ - タケホープ)」は9560円と東京優駿史上最高配当を更新した。稲葉と嶋田のコンビでは、前週の優駿牝馬をナスノチグサで制していたため、2週連続でクラシック競走優勝を果たした。嶋田は、人気のハイセイコーの返し馬を「猫のようにおとなしい」と認識し、この時点でハイセイコーの敗退を断定していたという。また勝因についてこう振り返っている。 21番枠も不利とは思いませんでした。1,2コーナーはみんな行きたがるので思い切って下げて内を進む。3コーナーから外に持ち出すというオークス同様の作戦を立てたが、思い通りに競馬ができました。 — 嶋田功 東京競馬場の厩舎で夏休みとなり、クラシック三冠の三冠目である菊花賞に向けて、9月24日に関西に渡った。秋初戦は10月21日の京都新聞杯で始動し、ハイセイコーと再び顔を合わせたが、8着に敗退。一方のハイセイコーは2着となった。 11月11日の菊花賞に参戦。京都新聞杯直後の10月24日に嶋田が調教中に落馬して右足を骨折したため、武邦彦に乗り替わった。ハイセイコーが1番人気に支持される中、タケホープは、前走の敗戦と乗り替わりにより人気を落とし6番人気という評価であった。スタートからサチモシローが先手を主張し、前半の1000メートルを65.2秒で通過する「超スローペース」(横尾一彦)の逃げを見せた。出走15頭中、ハイセイコーは3番手、対してタケホープは6番手につけていた。最終周回の第3コーナーでは、ハイセイコーが早めに動いてコーナー過ぎの下り坂で先頭に立ち、直線コースでは馬場の最も内側を選択した。対してタケホープも、早めに進出して好位まで位置を上げて直線に差し掛かり、馬場の中央からハイセイコーを追った。やがて内外2頭は並び立ち、同時に決勝線を通過した。写真判定の結果、外のタケホープがハナ差先着していることが認められ、東京優駿、菊花賞優勝の二冠馬となった。3着にはイチフジイサミが入り、上位3頭は東京優駿と全く同じ3頭であった。武はこう振り返っている。 レコードでダービー勝ちした馬なのに不思議と人気がなかったね。ゴール前ハイセイコーが差し返しに来たのは驚いたが、3コーナーからハイセイコー1頭を目標に進めたので楽な競馬でした。 — 武邦彦 年末にはこの年の優駿賞年度代表馬及び最優秀4歳牡馬に選出され、稲葉は東京競馬記者クラブ賞を受賞した。
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3~4歳
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3歳になったトモスベビーは、川崎の三潟隆五郎厩舎へと入厩しデビューを迎える。11月17日の大井での3歳特別戦を快勝し目標である全日本アラブ争覇へと臨んだが、こちらではギンパイをハナ差で差し損ね2着だった。4歳になってからも春の特別では3着など勝ちきれないところが目立ったが、5月27日のアラブチャレンジャーで重賞初勝利。そのまま6月8日の大井・ワード賞でも古馬の一流どころを一蹴した。 下半期の目標のひとつだった秋の特別では関西からこのレースを目指して転入してきていたタカトシの逃げ切りを許し2着に終わったが、12月5日のホウセント記念では61キロの斤量をものともせずに快勝。さらにこの年から設けられた大晦日のアラブチャンピオンに出走すると、タカトシらを下してこの年重賞4勝目を挙げている。
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3・4歳(2007・2008年)
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「ゼニヤッタ」の記事における「3・4歳(2007・2008年)」の解説
2007年11月22日、ハリウッドパーク競馬場のメイドン(新馬・未勝利馬戦)で初戦を迎え2着に3馬身差を付けて初勝利を挙げる。続くアローワンス(一般戦)ではハリウッドパークのオールウェザートラックレコードを更新し2連勝。古馬になって出走したエルエンシノステークス (G2) では最後方から直線だけで追い込み、重賞初勝利を挙げた。 その後は出走を予定していた2つの重賞競走を回避し、2008年4月にアップルブロッサムハンデキャップでG1競走に初出走。初のダートでの競走に加え、前年のエクリプス賞最優秀古牝馬・ジンジャーパンチとの対戦となった。しかしここも後方からの追い込みで2着に4馬身半の差を付け快勝、G1初制覇を飾った。その後もミレイディハンデキャップ (G2) 、ヴァニティーインビテーショナルハンデキャップ (G1) 、クレメント・L・ハーシュハンデキャップ (G2) と連勝。クレメント・L・ハーシュハンデキャップの優勝タイム・1分41秒48は、デルマー競馬場のオールウェザー8.5ハロンのコースレコードであった。この次走のレディーズシークレットステークス (G1) では前年のブリーダーズカップ・ディスタフ2着馬・重賞3連勝中のヒステリカレディーに3馬身半差を付け、無敗の8連勝を達成。本命馬としてアメリカの最強牝馬決定戦ブリーダーズカップ・レディースクラシックに向かった。 当日はチリからゴドルフィンにトレードされたUAEの二冠牝馬ココアビーチ、コーチングクラブアメリカンオークスなどG1競走3勝の実績を持つミュージックノート、前走スピンスターステークスを約8馬身差でレコード勝ちしたキャリアッジトレイルなどが顔を揃え当シーズン2つのG1を制している前年度優勝馬・ジンジャーパンチが6番人気という豪華メンバーが集まった。その中でもゼニヤッタは前売りオッズで1.3倍という圧倒的な1番人気に推された。レースではスタートで後手を踏み、道中は最後方の位置取りとなる。しかし第3コーナー手前から位置を押し上げるとそのまま大外を回って先行勢を一気に差し切り、2着ココアビーチに1馬身半差を付けて優勝。1988年のパーソナルエンスン以来、史上2頭目となる無敗でのレディースクラシック制覇を果たし7戦全勝で2008年シーズンを終えた。
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