設計と建造
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設計及び建造は海軍には秘匿され、日本陸軍が独自に行った。国内の造船所のスケジュールは全て海軍に押さえられていたため、やむなく民間のボイラー工場などに船体の製造を依頼する事としたが、建造する工場も発注する陸軍も潜水艦の建造は全く経験がなかったことから、設計は困難を極めた。第一次世界大戦でドイツが開発した輸送潜水艦の図面を参考とし、更には民間でサンゴ採取用として使用され、伊号第六十三潜水艦や長門型戦艦陸奥爆沈(昭和18年6月8日)の事故調査でも活動した「西村式潜水艇」の開発者である西村一松の全面的な技術協力も受け、1943年1月に陸軍第七技術研究所(七研)にて、僅か二ヶ月の内に基本設計図が完成する。機関は、据付式の石油掘削用動力として使われており、軽油や灯油などガソリン以外の燃料が使用可能な200馬力のヘッセルマンエンジンを2基直列し、400馬力として搭載した。耐圧隔壁の資材は戦車用16mm装甲板を1943年度陸軍割り当て分から転用し、同年度中に起工予定の20隻分を確保した。 建造は日立製作所の機関車製造工場(現:日立製作所笠戸事業所)、日本製鋼所の火砲工場(現:日鋼広島製作所)、安藤鉄工所(東京 )及び朝鮮機械製作所(仁川)のボイラー製造工場で、主機の製造は相模陸軍造兵廠、神戸製鋼所、大阪金属工業(ダイキン工業)で行われた。船体建造が4社に跨った為に、実際には1型には4種類のバリエーションが存在する事となった。設計図完成から九ヶ月後の1943年10月、ゆ 1級の試作一号艇が日立製作所笠戸工場にて竣工、同年12月30日、山口県柳井湾にて海軍関係者も招待して潜航試験が行われたが、当初はトリムの調整に失敗し、艦首が沈むと艦尾が浮く、艦尾が沈むと艦首が浮くなどして全く潜水できなかった。そこで試行錯誤を繰り返し、やがて艦体はなんとか水面下に完全に没した。停止した姿勢のままで沈下していった様子を見て「落ちた(沈没した)」と見学していた海軍が騒然となる横で、陸軍一同は「潜水成功」と@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}満面の笑みで万歳三唱する[要出典]という対照的な構図であった。本艇が参考とし、実際に訓練資材としての運用もされた西村式潜水艇も、その場で停止した状態から潜航する方式で、航走から潜航に移る海軍潜水艦の潜航方式と全く異なる事も陸海関係者の反応の違いの一因でもあった。沈没したと思った海軍将校が「演習中止」と言うのを、開発に携わった陸軍佐官が「(沈没とは)違うんだ」と言ってなだめた一幕もあったという。 一号艇の公開実験により潜航・浮上を伴う任務遂行は一応は可能であると判断され、その後民間4社にて原設計から様々な改良を加えながら量産開始、38隻が1型として建造された。電気溶接工法により個別に製造した複数の区画をリベット止めで結合するブロック工法を採用していた為に生産性が高く、短期間の内にある程度の数を実戦投入する事に貢献した。主電動機なども導入された機関部ではあったが、基礎的な航行能力が低かったため、任地までの遠洋航海の折には複数のまるゆに1隻の母船(戦時標準船を始めとする徴用貨物船が充てられた)が随伴する編成が採られ、任地到着後の短距離の輸送任務の折にも昼間は海底に沈座してやり過ごし、夜間だけ浮上して航行することとされ、必ずしも急速潜航能力は求めないものとされたが、実際の運用に当たっては哨戒機に発見された折の先制攻撃を緊急回避する必要がある事と、沈座できる海底が無い遠洋では原設計のままでは事実上潜航しての運用が不可能であった為、乗組員の錬成や船体の改修により、1-2分程度とある程度の時間は要するものの、一応は航行からの急速潜航を可能として戦線に投入された。特に日鋼が製造を担当したゆ 1001級では、海軍潜水艦の急潜時間に比肩する45秒にて急速潜航が完了するよう、ネガティブタンクを新設したり、原設計で主機への負荷増大の一因となっていた四翅プロペラを三翅に交換するなど、原設計からの大幅な設計変更が行われている。
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設計と建造
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「バラクータ (外輪スループ)」の記事における「設計と建造」の解説
バラクータは2等外輪スループとして設計され、1847年4月25日にペンブローク・ドックに発注された。10インチ旋回砲を2門、32ポンド砲を4門搭載した。Miller, Ravenhill & Salkeld社製の2気筒直接作動蒸気機関の価格は£18,228で、300馬力(公称馬力)または881馬力(指示馬力)の出力があった。 1856年に武装の変更が行われた。10インチ砲の内1門は68ポンド砲に交換され、また32ポンド砲もより強力なタイプに換装された。1862年には68ポンド砲は110ポンドアームストロング砲に交換された。 1849年5月にキールの据付が行われ、1851年3月31日に進水した。総建造費は£50,042で同型艦は無し、またイギリス海軍の最後の外輪スループとなった。帆走形式はバーク形であった。
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「ウォーリア (装甲艦)」の記事における「設計と建造」の解説
ラ・グロワール設計の極秘情報は1858年5月にイギリス海軍本部にもたらされた。クリミア戦争中の英仏間に存在した緊密な協力関係は一瞬にして消滅した。ラ・グロワールとその姉妹艦の詳細情報はすべてフランスの最高機密として扱われていた。新しく成立したイギリスのダービー政権は当初、フランスの新しい建艦計画を深刻な脅威と受けとめようとしなかったが、1858年8月になって、その結果としてフランスが蒸気推進艦に関してはイギリスと肩を並べ、装甲艦に関してはイギリスをすっかり凌駕することが明らかになった。 海軍監督官のサー・ボールドウィン・ウェイクウォーカー提督や、海軍省の議会次官ヘンリー・コリーの強い要請を受け、海軍本部委員会は1858年11月22日、ラ・グロワールとほぼ同等の木造装甲艦の設計要求を発した。 しかし、ウェイクウォーカーとその主任設計者のアイザック・ワッツには、資材として木材が適切であるとはどうしても考えられなかった。当時の木造船建造能力は既に最大サイズに達しており、また、最大の物の一部はすでに老朽化の徴候を示していた。そして、森林破壊による木材供給能力の低いイギリスの国土に関する深刻な問題と、現場からの速やかな建造が求められていることを考え合わせると(木造船より鉄製の船の方がはるかに早く建造でき、船体サイズも未知数であった)、もはや鉄製船殻の採用以外に選択の余地はなかった。また、重量を食う装甲板の採用によって複数の砲甲板を持つ構造は重心面においてトップヘビーを招くため実現不可能となり、結果としてラ・グロワールと同じく一層式の砲甲板に片舷17門の単装砲を15フィート間隔で並べることとなったため、砲列甲板の長さは長大なものとなった。所定の艦首部と艦尾部を加えると船体の長さは約380フィート(116 m)を必要とし、それは従来のいかなる軍艦よりも100フィート(30 m)も長かった。しかし、戦列艦時代のズングリとした艦形に比べ、新型装甲艦は縦に長いスマートな艦形となったために速力の向上に繋がった。 W・ブラウンリーは1985年の著書でウォーリアを「最初の近代戦艦」と呼び、また1987年の「サイエンティフィック・アメリカン」誌に、その革新的な特徴について述べている。 海軍本部の設計は1858年12月末に承認されたが、鉄製船殻に関する経験がないため、海軍本部委員会は国内の最も先進的な複数の鉄船造船会社に設計を依頼した。それらの設計は1859年4月に提出されたが、アイザック・ワッツはそのいずれも何らかの点で、自分自身の設計の基準に達していないと考えた。その結果、海軍本部の設計による新しい鉄製フリゲート建造の入札が行われ、ロンドンのテムズ鉄工造船所が契約を獲得した。契約では進水を契約の11ヵ月後と取り決めていたが、それはあまりにも楽観的な日程だった。 ウォーリアの進水は1860年12月29日に行われたが、その年の冬は50年に一度という記録的な寒波に見舞われており、ウォーリアの船体は滑走台に凍りついてしまったため、6隻の曳船によって川に引き出された。竣工は1861年の10月24日で、費用は357,291ポンド(2006年の2千3百万ポンドに相当)であった。ウォーリアは1858年11月に建造が決定されてからちょうど35ヵ月後に就役した。
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「イギリス国鉄4形2-6-4T蒸気機関車」の記事における「設計と建造」の解説
イギリス国鉄の標準蒸気機関車シリーズの製造を決定した際、LMSスタニアーおよびLMS 2-6-4T蒸気機関車 (フェアバーン)に一部修正を加えた一連のタンク機関車が注文した。したがって、本形式の系譜は、1927年のLMS 2-6-4T蒸気機関車 (ファウラー)にまでさかのぼり、LMS / BRクラス4 2-6-4T機関車を通じて追跡でき、1933年にファウラーがLMSに導入した2-6-4タンク機関車設計の最終開発とも言えた。 設計作業はブライトンで行われ、RAリドルが監修した。フェアバーンの設計に対する主要な変更には、エンベロープを縮小してL1 ローディングゲージに収めるために、タンクとキャブはフェアバーンの設計より車両限界に合わせて内側に傾斜していた。最大の機械的変化は、断面積を減らすためのシリンダーサイズの縮小と、それに対応するボイラー圧力の増加である。他の目に見える変化には、シリンダーの前のメッキの再導入が含まれている。タンクの通気口はドライバーの視界を制限することがわかり、80059からさらに前方に移動した。当初は溝付き連結棒で構築されていたが、これらは他の形式で問題を引き起こし、80079から、平断面の連結棒に置き換えられた。本形式の基本的な寸法と機能には、4-6-0ホイール配置(連結ホイール– 5フィート(ft)8インチ(in)、リーディングボギー– 3ft)、225 lbf / in2でプレスされたARB5ボイラー、2つの外側シリンダー(直径18、ストローク28)はWalschaertsのバルブギア装置で作動し、総重量は86.65トン、25,515 lbf(BR 4MT)の牽引力があった。) イギリス国鉄4形4-6-0蒸気機関車は、本形式の大型版であり、ボイラーも同一規格のものが使われた。 本形式の155両のうち130両がブライトン工場で、15両(80000–80009、80054–80058)がダービー工場で、10両が(80106–80115)ドンカスター工場で、1951年から1956年にかけて製造された。 1957年に製造予定だった15両は差し迫ったディーゼル化によりキャンセルされ、最後の5両も製造が進んだ段階になかった場合はキャンセルされることになっていた。
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「グラーフ・ツェッペリン級航空母艦」の記事における「設計と建造」の解説
1933年以後、ドイツ海軍は航空母艦建造の可能性を調査し始めた。ヴィルヘルム・ハーデラーはベルリン工科大学で艦艇造船教授の助手を9年間務めており、1934年4月、彼は航空母艦の設計準備を計画するよう任命された。ハーデラーの最初の設計は艦載機を50機搭載できる22,000tの艦で、35ノットで航走した。英独海軍協定が1935年6月18日に結ばれ、ドイツは総排水量38,500tまでの航空母艦を建造できることになったとはいえ、ドイツの軍備はどのような軍艦のカテゴリーであれ、イギリスの総トン数の35%に制限された。その後、ドイツ海軍は35%の制限範囲内で2隻の船が建造できるよう、ハーデラーの設計を19,560tに縮小することを決定した。 設計スタッフ達は、新しい空母は水上の戦闘部隊に対して自らを防衛できる必要があると決めており、これには重巡洋艦なみの装甲防御が必要だった。駆逐艦から艦を防衛するためには、16門の15cm砲からなる砲座があれば十分であると判断された。1935年、アドルフ・ヒトラーはドイツが自国海軍の強化のために航空母艦を建造するであろうことを公表した。ドイツ空軍士官1名、海軍士官1名、さらに1名の造船技術者が、飛行甲板の設備の青写真を取得するため1935年の秋に日本を訪問し、さらに航空母艦赤城を視察した。ドイツはまた、イギリスの空母フューリアスの調査を試みたが成功しなかった。 グラーフ・ツェッペリンの竜骨は1936年12月28日に造船台に置かれた。この造船台には最近まで戦艦グナイゼナウが据えられていた。艦の建造はキールに所在するドイチェヴェルケの造船所が行った。2年後、海軍元帥エーリヒ・レーダーはZ計画と呼ばれる野心的な艦船建造計画を公表した。この計画では、北海においてイギリス海軍に挑戦できる地点までドイツ海軍を増強するものとしていた。Z計画の下、海軍は1945年までに妥当な兵力の一部として4隻の空母を保有するものとされた。この計画では、グラーフ・ツェッペリン級艦船のペアが最初の2隻となっていた。1939年3月1日、ヒトラーはこの建造計画を承認した。1938年、第2の航空母艦が暫定的な名称である「B」として発注され、キールにあるゲルマニアヴェルフトの造船所に置かれた。グラーフ・ツェッペリンは1938年12月8日に進水した。 艦の名称は硬式飛行船を実用化したフェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵に由来する。
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「ヘラルド・オブ・フリーエンタープライズ」の記事における「設計と建造」の解説
1970年代後半、タウンセンド・トールセンはドーバー - カレー間の航行用に新たな同一船3隻の設計および建造を委託された。船はスピリット級 (Spirit-class cruise ship) で製造され、それぞれ「スピリット・オブ・フリーエンタープライズ」「プライド・オブ・フリーエンタープライズ」そして本船が「ヘラルド・オブ・フリーエンタープライズ」と命名された。「フリーエンタープライズ」の名称は、民生部門RORO船フェリーの先駆けとなる1962年に導入されたタウンセンド社のカーフェリーに由来している。ヘラルド・オブ・フリーエンタープライズは1980年5月29日に就航を開始した。 このルートでの他社フェリー事業者との競争力を維持するため、タウンセンド・トールセンは高速の積み降ろしと迅速な加速ができるように設計された船を必要としていた。この船は上から下にAからHの番号が付いた8層甲板で構成され、以下の内容となっていた。 Aデッキ:乗組員の宿泊施設および無線通信室 Bデッキ:乗客エリア、乗組員の宿泊施設、調理室 Cデッキ:乗客エリア、調理室 Dデッキ:Eデッキ内にある吊下げ型車両デッキ Eデッキ:上層車両デッキ Fデッキ:中二階 Gデッキ:メイン車両デッキ Hデッキ:エンジン室、店舗、乗客の宿泊施設 Gデッキへの車両積み込みは、船首および船尾の水密ドアを通って行なわれた。車両収容部は前方に配置され、船のバウバイザーは跳ね上げ式ではなく観音開きの扉だったため、船首扉の視認が(操舵室からは)困難だった。EデッキとFデッキへの車両積載では、船首の水密ドアと船尾の開放ゲートを通った。ドーバーとカレーで使われている二重甲板の浮桟橋を使うことで、車両はEデッキとGデッキに同時積み降ろしが可能だった。 この船はドイツのブレーマーハーフェンにあるSchichau Unterweser社によって建造された。推進力は8,000 bhp 12気筒スルザー製中速ディーゼルエンジン3基で回される、可変ピッチのプロペラによるものだった。車両デッキの船首扉は英国グラスゴーのカーゴスピード社によって建造された。
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設計と建造
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「シェナンドー (飛行船)」の記事における「設計と建造」の解説
「シェナンドー」は当初FA-1(艦隊飛行船(Fleet Airship)1号)という符号を与えられていたが、後にZR-1と改められた。全長は207 m、重量は36トンだった。航続距離は8,000 km、最高速度は 60 ノット(111 km/h)に達した。シェナンドーは1922年から翌年に掛けて、1921年にレイクハースト海軍航空基地に建設された本船を収容できる唯一の格納庫(ハンガーNo.1)で組み立てられた(部品はフィラデルフィアの海軍航空工廠で前もって製作された)。レイクハースト海軍航空基地は既に何度か海軍の軟式飛行船の基地として使われていたが、シェナンドーは海軍の艦隊に加わる初の硬式飛行船であった。 シェナンドーの設計は第一次世界大戦で爆撃に用いられたツェッペリンL-49(LZ 96)飛行船に基づいていた。しかしL-49は軽量化が図られた高高度型であり、高度を稼ぐために他の特性を犠牲にしていたため、設計としては不適切であるとされ、構造の改善を含むより新しいツェッペリン飛行船の設計が一部に取り入れられた。骨格は、ジュラルミンとして知られた新しいアルミニウムと銅の合金で構築され、桁は海軍航空工廠で加工された。もともとのL-49の設計図に加えられた変更が後のシェナンドーの事故に影響しているかどうかは議論の対象となっている。外皮は高品質の木綿の布で縫製され、ジュラルミンのフレームに取り付けられた後、アルミニウムドープの塗装が施された。 気嚢は当時最もガスを通さないとされていた材料のひとつであるゴールドビーターズ・スキンで作られた。金箔を打ち延ばすときに金を挟み込むことから名づけられたこの材料は、牛の大腸の外膜から作られるものである。外膜は洗われて脂肪と汚物をこすり落とされ、気嚢の綿布の強化用として接着されるために、水とグリセリンの溶液に漬けられる。水・グリセリン溶液から手でしぼり出された外膜は、気嚢の材料であるゴム引き綿布に接着され、最終的にニスのコーティングが施される。機体内には20の気嚢があり、通常の気圧で容量の約85パーセントのガスが充填された。それぞれの気嚢にはスプリング式の安全弁と、司令室から操作される手動弁が備えられていた。 シェナンドーは水素の代わりにヘリウムを使う最初の硬式飛行船であり、以前のものに比べて突出した安全性を有していた。当時ヘリウムの供給はわずかであり、シェナンドーはその210万立方フィート(約6万立方メートル)の容積を満たすために、世界の蓄えのほとんどを使用した。海軍が運用した次の硬式飛行船であるUSSロサンゼルス(ZR-3)は当初、必要なヘリウムが供給されるまでの間、シェナンドーのヘリウムで充填された。 シェナンドーの動力はパッカード・モーターカー・カンパニー製の300馬力の8気筒ガソリンエンジンに依っていた。シェナンドーの最初の枠材は1922年6月24日に立てられ、完成し、離昇が行われたのは1923年8月20日のことだった。ヘリウムの価格はその当時1,000立方フィートあたり55ドルであり、ガソリンエンジンで消費される燃料の重さと釣り合わせるために単純に空気に排出するにはあまりに高価であると考えられた。そこで、エンジン排気から水蒸気を回収するためのコンデンサーを設置することで、釣り合いの取れる浮力を維持することになっていた。 シェナンドーは1923年10月10日、エドウィン・デンビー海軍長官夫人によって命名され、同日、艦長のフランク・R・マクラリー中佐に引き渡された。
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設計と建造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 03:53 UTC 版)
当初はイギリスで設計が行われる予定だったが、提案された要求が高すぎたため、イギリス海軍本部は20ノット(37km/h)以上の浮上速力を持つ高速潜水艦の建造は技術的に不可能であると発表した。そのため2隻の潜水艦はオランダのロイヤル・スヘルデ海軍造船所(英語版)とロッテルダムのロッテルダム・ドライドック造船所(英語版)造船所で建造された。 設計はポーランド海軍のチームと協力して行われ、旋回式魚雷発射管などオランダの潜水艦O-16の特徴が盛り込まれた。外殻は完全に溶接され、すべての制御は油圧操作となっていた。ポーランドの要求でバルト海の遠浅の内海と、外海の両方で多様な任務を実行できるように設計された。2隻は第二次世界大戦の勃発時点で最も近代的な潜水艦の一つであり、速力は19.5ノット(36km/h)を記録した。また、その設計はオランダ海軍向けのO19級潜水艦に流用された。 1938年にもう2隻のオジェウ級潜水艦がフランスに発注され、1939年に建造が始まったが、第二次世界大戦の勃発のために完成しなかった。
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