樺太 自然

樺太

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/23 08:40 UTC 版)

自然

冷温帯気候に属する。北端のオハでは植物の生長期間が97日と極端に短い。全島面積の75%は森林であり、かつては北はエゾマツ、南にはトドマツ中心の原生林が広っていた。南樺太を日本が領有した際には、パルプの原料として大規模伐採を行ったほか、病虫害(カラフトマツカレハ)の発生、山火事により森林資源は減少。ソ連が実効支配した後もパルプ工場は稼働し、森林の伐採は続いたことから、森林の減少は続いたとみられる[13]

歴史

中国、朝鮮の古書(山海経海東諸国記)には、いずれも「日本の北(又は領域)は黒龍江口に起こる。」と記載。また、飛鳥時代斉明天皇のころ行われた蝦夷征討・粛慎討伐の際、阿倍比羅夫が交戦した幣賄弁島は樺太との説[14] もある。樺太は南北に長いため、アイヌの居住地である南樺太と、ニヴフの居住地である北樺太で分けて記述する。

南樺太の歴史

古代以前は南部に進出した続縄文人や、日本書紀上の粛慎(みしわせ)に比定されるオホーツク文化人などが存在し、鎌倉時代以降はアイヌ民族や和人が進出、北東部(幌内川[要曖昧さ回避]の流域)には、アイヌ民族が「オロッコ」と呼んだウィルタ民族や、「ニクブン」と呼んだ東岸のニヴフ民族(ニヴヒとも。)などの北方少数民族もいた。以下は、南樺太中心の出来事。

古代から中世

近世

以下に幕府が把握した北蝦夷地(樺太)のアイヌ人の人口と、明治政府が把握した樺太人員の本籍人口をまとめる。
北蝦夷地(樺太)人員の変遷
西暦(元号) 人口
1804年(文化元年) 2,100
1822年(文政5年) 2,571
1839年(天保10年) 2,606
1854年(安政元年) 2,669
1873年(明治6年)1月1日 2,358
1875年(明治8年)1月1日 2,374
  • 1808年(文化5年) - 江戸幕府が、最上徳内松田伝十郎、間宮林蔵を相次いで派遣。
  • 1809年(文化6年)
    • 同年、西蝦夷地から分立し名称が北蝦夷地となる。松田伝十郎が樺太アイヌ住民の債務問題解決に貢献[30] した。また、山丹貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。以降、山丹交易は幕府直営となり、山丹人が江戸幕府に対し朝貢するようになる。
    • 栖原角兵衛(信義)伊達林右衛門と共同で北蝦夷地(樺太)場所を請け負う[31]。幕命により樺太・久春古丹(大泊郡大泊町楠渓)と宗谷の間に500 石以上の帆船2艘を就航させ、松前と陸奥三厩の間にも定期航路を開設。南樺太で漁場48箇所を経営[32] し、島内に7ヶ所の通行屋(即ち旅宿所)を設け交通の便を計る。
  • 1821年文政4年) - 幕府、全蝦夷地を松前藩に返還する。
  • 1846年弘化3年) - 松浦武四郎が草履取・運平と名乗り、はじめて渡樺。北蝦夷地勤務を下命された藩医・西川春庵に随行(『鈴木重尚 松浦武四郎 唐太日記』)。

幕末から明治初期

  • 1853年嘉永6年)
    • 同年秋、ネヴェリスコイ海軍大佐は久春古丹にムラヴィヨフ哨所()を築き、国旗を掲揚し一方的に樺太全島の領有を宣言。哨所を築いた場所に日本人の倉庫があったのでこの建物を接収した。
    • ロシア使節プチャーチン、国境交渉と通商を求め長崎に来航。日本全権筒井肥前守川路聖謨と交渉したが決裂。北緯50度線分割案も検討されたが、日本の行政(オムシャ宗門人別改帳も参照)が及ぶ地域(西岸は北緯50°より少し北のホロコタン(幌渓、露名:ピレオ。樺太西岸におけるアイヌ居住地北限。)以南、東岸は北緯48.5°のフヌプ(元泊郡元泊村班伸)以南)は日本領、それより北もロシアの支配が及ばない無主地として国境交渉。当時、南樺太の住民は大部分が南部の日本人(アイヌ及び和人)、北東部(幌内川流域)のウィルタやニヴフのみ。[33]
  • 1854年(嘉永7年)
    • 千島列島、全樺太島やカムチャッカ半島までも明記した「改正蝦夷全図」なる(加陽・豊島 毅作)
    • 5月18日 - クリミア戦争の影響を受け、ロシア船4隻が来航しわずか8か月ほどで駐留のロシア兵を撤収してクシュンコタン(久春古丹)を去った。
  • 1854年安政元年)
    • 6月12日、目付堀利照・勘定吟味役村垣範正らが北蝦夷地クシュンコタンに渡海、西は来知志湖近くのライチシカまで、東はオハコタン(栄浜郡白縫村箱田)まで調査。このとき普請役間宮鉄次郎は東海岸タライカ(敷香郡敷香町多来加)まで、支配勘定・上川侍次郎西海岸の北緯50度のすぐ北のホロコタン(幌渓、露名ピリポ)まで、松前藩士今井八九郎はニヴフ居住地・北樺太ナッコ(ラッカ)まで調査。
    • 日露和親条約により、日露国境を樺太島上で定めず是までの仕来りによること(国境は未確定のまま棚上げ先送り)を決定した[34]
  • 安政年間(1854 年~1860年)から明治初期にかけて、安房勝山藩小浜藩黒羽藩烏山藩笠間藩加納藩の各藩もタライカ湾の静香川(敷香郡敷香町)近辺に警固の拠点を構えた。東岸でフヌプより北に居住するアイヌ(タライカ人)は60名で、多来加湾岸は東岸におけるアイヌ居住地北限であるが、特に多来加湖周辺ではニヴフやウィルタと混住していた。
  • 1855年(安政2年) - 樺太を含む蝦夷地は再び公議御料(幕府直轄領)となり、秋田藩が白主と久春古丹に陣屋を築き警固を行った。また、この年以降番人を足軽に取立て武装化し冬季も警固した。
  • 1856年(安政3年)
  • 1857年(安政4年)
    • 越後出身の蝦夷地御用方・松川弁之助が東岸・東冨藍(トンナイ)領のオチョポカ(富内郡富内村落帆)に漁場(ぎょば)を開拓する。
    • 越後国蒲原郡井栗村の大工職の平次郎の妻よつ、樺太で身内が亡くなり輪在領ワアレ(栄浜郡白縫村輪荒)まで一人で旅した[36]
    • 佐藤広右エ門、東海岸のマアヌイと西海岸の久春内に取締所と番屋(漁舎)、東海岸の東冨藍領オチョポッカや栄浜領の魯礼にも会所(運上屋)を建て漁場の経営に当った。
    • 7月 - ロタノスケ率いるロシア軍がナヨロ(泊居郡名寄村)に上陸しクシニンナイに移動、クスナイスキー哨所を建設したが日本の警護が固く8月1日撤退。
    • 安政3年4年(1856・57)頃、幕府の施設でクシュンコタンに大砲4基が設置された台場1カ所が存在。陸上交通について、西岸は「通行屋」5カ所、「小休所」3カ所、ナヤス(名好郡名好村)以北のみに「露宿」あり。亜庭湾岸は「通行屋」8カ所と、「小休所」3カ所。東岸は「通行屋」5カ所と、「小休所」5カ所。
  • 1858年(安政5年)
    • 幕府は大野藩土井利忠に北蝦夷地警固と開拓を命じた(大野藩準領ウショロ(鵜城)場所)。ウショロ場所には、名好郡やホロコタン(幌渓、露名:ピレオ)も含まれた。同年、クシュンナイ周辺が箱館奉行石狩役所の直捌場所となった(石狩御直場所)。
    • 10代目・山田文右衛門(清富)が差配人並に任じられ、栄浜領のシュシュウシナイ(栄浜郡栄浜村栄浜)など東海岸に数か所の漁場を開いた。
    • 米屋喜代作(慶応二年以降の佐野孫右衛門)等も東冨藍領イヌヌシナイ(栄浜郡栄浜村犬主)やマクンコタン(元泊郡帆寄村馬群潭)に漁場を開いた。
    • マーヌイ(栄浜郡白縫村真縫)にマヌエ哨所を建設。少数のロシア兵が定住し、はじめて日露両国人の部分的な雑居状態が生じる。
  • 1859年(安政6年)7月26日 - ムラヴィヨフは、自ら軍艦7隻を率いて品川に来航。樺太全土は露領と威嚇、主張したが、虎ノ門天徳寺における江戸幕府とムラヴィヨフの会談の席上、幕府は外国事務掛遠藤胤統酒井忠毘を通してこれを完全に退けた。
  • 1860年万延元年)
    • 樺太南部の警固は仙台・会津・秋田・庄内の4藩となる。
    • 佐藤広右衛門、中知床岬北東海岸に漁場7カ所を開く(皆別領)。
  • 1862年文久2年)
    • 安房勝山藩、藩士渡辺隆之助を派遣、東岸のシスカ(敷香郡敷香町)に漁場を開設。
    • 勤番所、クシュンコタン、シラヌシ、西トンナイ(真岡郡真岡町)、ワーレ(栄浜郡白縫村輪荒)、クシュンナイの5ケ所となる。
  • 1863年(文久3年) - 樺太南部の警固は仙台・秋田・庄内の3藩となる。
  • 1865年慶応元年) - ロシア軍艦が久春内に来航し、大砲二門を揚陸し強引に哨所を築く。
  • 1866年(慶応2年)
  • 1867年(慶応3年)
    • 幕府使節団とロシア側で、1月2日から2月7日まで8回の交渉が行われるも正式合意に至らず、2月25日に樺太島仮規則調印。樺太全島を日露雑居地[38] とされた。以降、ロシアは軍隊を増派して、北緯48度以南や日本の本拠地である樺太南端・亜庭湾岸までの軍事的制圧に着手。
    • 5月 - 使節団が日本へ帰国。
    • 6月 - 栖原角兵衛(寧幹)は樺太漁業出稼を命ぜられる。同年12月樺太東海岸漁業出稼を命ぜられ、栖原家が経営した漁場は58か所に及んだ。
  • 1868年慶応4年)
    • 4月12日 - 箱館裁判所(間4月24日に箱館府と改称)の管轄となった。
    • 6月末 - 岡本監輔、箱館府の行政官としてクシュンコタン(大泊郡大泊町楠渓)に着任し公議所を置くとともに、島内8ヶ所に出張所を設置し官員を派遣。
    • 同年、神仏分離令が出される。
  • 1869年明治2年) - 開拓使直轄領となり、北蝦夷地を樺太と改称。この年からロシアは囚人を送込み始める。
  • 1870年(明治3年)2月13日 - 樺太開拓使が開拓使から分離して、久春古丹に開設される。
  • 1871年(明治4年)8月7日 - 樺太開拓使を閉鎖し、開拓使に再度統合する。
  • 1872年(明治5年)
  • 1873年(明治6年) - ロシア兵が破壊活動や消火活動妨害を行った函泊(大泊郡大泊町山下)出火事件を受け、羅卒を増員。
  • 1875年(明治8年)

全島のロシア領期

南部の日本領期

  • 1905年(明治38年)9月5日 - 日露戦争勝利後のポーツマス条約締結により、北緯50度以南の樺太島(南樺太)が日本に帰属。行政機関として樺太民政署が設置される。
  • 1907年(明治40年)4月1日
    • 樺太庁官制(明治40年3月15日勅令第33号)により、樺太民政署を発展的解消して樺太庁発足。
    • 樺太ニ施行スヘキ法令ニ關スル法律(明治40年法律第25号)施行[39][40]。内地の法律が勅令により施行され、台湾・朝鮮と異なり、樺太(南樺太)では委任立法の制度は認められずなかった。そのため、特定の事項については勅令で特別の定めをすることができることとし、樺太の実情に適合しない不都合を緩和する方策が採られた[41]。また、司法ニ関スル法律ヲ樺太ニ施行スルノ件(明治40年勅令第94号)により、裁判所構成法、民法、商法が樺太に施行され内地と同一の制度になっていた。
北緯50度の国境標識と、警備にあたる日本の国境警察隊員。1913年(大正2年)から1939年(昭和14年)まで南樺太に日本軍部隊は常駐せず、国境警察隊だけが警備を担当していた。
日本統治時代の樺太(南樺太)の人口変遷を以下にまとめる。
日本統治時代の樺太(南樺太)の人口変遷
調査年月日 人口 出典
1908年(明治41年)12月31日 26,393 樺太庁統計書
1913年(大正2年)12月31日 44,356 樺太庁統計書
1918年(大正7年)12月31日 79,795 樺太庁統計書
1920年(大正9年)10月1日 105,899 国勢調査
1925年(大正14年)10月1日 203,754 国勢調査
1930年(昭和5年)10月1日 295,196 国勢調査
1935年(昭和10年)10月1日 331,943 国勢調査
1940年(昭和15年)10月1日 414,891 国勢調査
1944年(昭和19年)2月22日 391,825 人口調査
ただし、極寒の樺太では夏と冬では人口が違い、冬には避寒のため北海道や以南に戻る者が多く人口が減り、翌夏にはまた増える。例としては明治44年では夏の人口は57000人だが冬には36725人に減っている[42]
  • 1908年(明治41年)3月31日 - 内務省告示にて、地名を日本語式漢字表記に変更[43]
  • 1909年(明治42年)樺太庁令で、「部落総代規定」を制定。主要83部落(集落)に町村長に相当する総代を置き、行政事務をおこなうこととした。
  • 1911年(明治44年) - 三井合名会社が樺太国有林の伐採権を得る。
  • 1913年(大正2年) - 樺太守備隊廃止。以降、国境警察隊が国境警備を担当。
  • 1915年(大正4年)6月26日 - 勅令第101号樺太ノ郡町村編制ニ関スル件により、17郡4町58村が設置される。
  • 1918年(大正7年) - 共通法(大正7年法律第39号)(大正7年4月17日施行)1条2項で、樺太を内地に含むと規定[44] された。これは前述のように、すでに民法が樺太について、適用されていたため、内地扱いとしたものである。
  • 1920年(大正9年)
    • 5月1日、大正9年勅令第124号(樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件)[45] 公布。それまで樺太に、内地の法律を適用する際に、個別に規定していた地方的又は種族法的な性質を有する特例を統合して規定した。なおこの勅令は、大正15年12月25日勅令第357号による改正で題名が、樺太施行法律特例となった。
  • 1922年(大正11年)
    • 4月1日 - 「樺太ノ地方制度ニ関スル法律」(大正10年4月8日法律第47号)と、その細則「樺太町村制」(大正11年1月23日勅令第8号)が施行。
    • 「部落総代規定」廃止。
  • 1923年(大正12年)
樺太の残留ロシア人集落
1930年(昭和5年)頃
  • 1924年(大正13年) 8月1日 - 徴兵制度が樺太に施行(徴兵令ヲ樺太ニ施行スルノ件(大正13年5月19日勅令第125号))。
  • 1925年(大正14年) - 樺太行啓
  • 1929年(昭和4年)
  • 1937年(昭和12年)7月1日 - 樺太市制により、豊原町が市制施行する。
  • 1938年(昭和13年)1月3日 - 女優岡田嘉子脚本家杉本良吉とともに樺太国境を越境し北樺太に亡命。スパイ容疑でソ連当局に逮捕され、杉本は銃殺された(大粛清)。
  • 1939年(昭和14年)
    • 特別な理由なく樺太国境に近づくこと等を禁じた国境取締法を制定。
    • 5月23日 - 上敷香に樺太混成旅団が新設された。

内地時代

1930年代(内地編入前)の豊原市中心部(真岡通り)の風景。
  • 1942年(昭和17年)11月1日 - 拓務省の廃止と大東亜省の設置に伴い樺太庁が内務省へ移管される。
  • 1943年(昭和18年)
    • 4月1日 - 治四十年法律第二十五号廃止法律(昭和18年3月27日法律第85号)により、樺太ニ施行スヘキ法令ニ関スル件が廃止

され、樺太は完全に内地へ編入された。ただし、廃止法律の附則で、それまでの勅令による特例はなお効力を有するとされたため、樺太施行法律特例(大正9年勅令第124号)は廃止されずそのまま有効とされた。北海道とともに北海地方[注釈 5] に含まれた。

戦後の樺太

北樺太の歴史

古代以前は日本書紀上の粛慎(みしわせ)とされるオホーツク文化人などが存在し、鎌倉時代以降は、ニヴフ民族(ニヴヒとも。アイヌ民族は西岸を「スメレンクル」、東岸を「ニクブン」と呼んだ)、アイヌ民族が「オロッコ」と呼んだ東部(ロモウ川の流域)のウィルタ民族、などの北方少数民族もいた。以下は北樺太中心の出来事。

古代から中世

  • 640年(舒明天皇12年) - 「流鬼国」(オホーツク文化人?)が入貢
  • 762年天平宝字6年)12月1日 - 陸奥国陸前国)の国府多賀城に修造された多賀城碑に「去靺鞨(まっかつ)国界三千(1,600km)」と記される。ちなみに、多賀城碑からの直線距離は、間宮海峡最狭部(黒龍水道)で約1,530km、それより北の黒龍江河口付近で約1,600kmである。
  • 1264年文永元年) - 冊封体制下にあった吉里迷(ギレミ、吉烈滅)が、「骨嵬(クイ)や亦里于(イリウ)が毎年のように侵入してくる」と訴えたため、蒙古帝国(1271年から)が3000人の軍勢を樺太に派兵し、南に住む住民の「骨嵬」を攻撃。このころ、蝦夷社会が不安定化し、安東五郎が討伐軍を率い津軽海峡を渡海したが討死したという記録(日蓮遺文『種種御振舞御書』)があり、対蒙古戦闘説もある。
  • 1284年弘安7年)- 1286年(弘安9年) - 元、聶古帯(ニクタイ)を征東招討司に任じ、大規模な骨嵬征伐が20年ぶりに実行される。1285年(弘安8年)は兵一万人、1286年には兵一万人と船1,000艘を派遣(『元史』)。派兵の規模の目安として、関連項目の元寇も参照されたい。
  • 1295年永仁3年) - 日持が南樺太から北上し、オッチシ(落石、ニヴフ名はイドイー)から、日蓮宗の布教活動のため大陸渡航したとされる。
  • 1297年(永仁5年)7月 - 王不廉古(ユプレンク)に率いられた骨嵬(樺太アイヌ)が間宮海峡の対岸・大陸の黒龍江を遡上して払里河というところで元と交戦(『元文類』)。この戦いについては諸説あり、榎森進は無理があると指摘する[49] 一方、海保嶺夫は、水軍をはじめ対抗可能な軍事力を擁する蝦夷沙汰職・蝦夷代官安藤氏が、蝦夷(樺太アイヌ)を動員して組織的に元と戦ったという説を唱えた[50]
  • 1308年徳治3年/延慶元年) - 吉里迷を仲介として、骨嵬が毛皮の貢納を条件提示し元朝への和議・帰順を申し入れ事実上の和睦が成立、交易するようになった。以降、40年以上に及んだ骨嵬と元朝の戦いは終了。このとき、安東氏は停戦派と戦闘継続派が対立、のちの安藤氏の乱に繋がったとする説もある。
  • 1368年(南朝:正平23年、北朝:応安元年) - 元が中国大陸の支配権を失い北走、大陸・満洲方面を巡って新興のを交えての戦乱と混乱が続き、間宮海峡を挟んで対峙する樺太への干渉は霧消する。
  • 室町時代以降、安藤水軍は関東御免船として日本海北部を中心にかなり広範囲に活動。大陸との交易もおこなった。
  • 1411年(応永18年) - は進出した大陸の黒龍江(アムール川)下流域、外満洲ティル羈縻政策を司る奴児干都司設置。周辺諸民族と外交関係を結ぶ際、樺太北部3箇所の先住民首長にも名目的に羈縻衛所指揮官の称号を付与[51]。これを介し南樺太以南に住むタライカ人(アイヌ民族)とも交易する。
    • 1410年(応永17年) - 北樺太東岸ロモウ川流域の先住民(ウィルタ)首長が明に朝貢、兀列河(ウリエホー)衛の指揮官の称号を授与される。
    • 1412年(応永19年) - 北樺太西岸リャングルの先住民(ニヴフ)首長が明に朝貢、嚢哈児(ナンハル)衛の指揮官の称号を授与される。
    • 1428年(応永35年/正長元年)までに、樺太東岸中部幌内川流域の先住民(ウィルタ)首長が明に朝貢、波羅河(ポロホー)衛の指揮官の称号を授与される。
  • 1435年(永享7年) - 奴児干都司が廃止され、樺太北部3衛の先住民は明への朝貢交易から解放される。ただし、ロモウ川流域と幌内川流域は、15世紀後半まで大陸と交易をおこなった。

近世

幕末から明治初期

  • 1853年嘉永6年)
    • ロシアが、北樺太北端クエグト岬に露国旗を掲げ、領有を宣言。同年秋、ネヴェリスコイ海軍大佐は一方的に樺太全島の領有を宣言。
    • ロシア使節プチャーチン、国境交渉と通商を求め長崎に来航。日本全権筒井肥前守川路聖謨と交渉したが決裂。北緯50度線分割案も検討されたが、日本の行政(オムシャ宗門人別改帳も参照)が及ぶ地域(西岸は北緯50°より少し北のホロコタン(幌渓、露名:ピレオ。樺太西岸におけるアイヌ居住地北限。)以南、東岸は北緯48.5°のフヌプ(元泊郡元泊村班伸)以南)は日本領、それより北もロシアの支配が及ばない無主地として国境交渉。当時、北樺太の住民はアイヌによって西岸はスメレンクル、東岸はニクブンと呼ばれたニヴフのほか、東岸の幌内川とロモウ川の流域に住むウィルタ、西岸最南部・ホロコタンに少数の日本人(アイヌ及び和人)のみ。間宮海峡対岸の外満洲でさえ清国領であり、ロシア領ではなかった[33]
  • 1854年安政元年)
    • 6月、支配勘定・上川侍次郎西海岸の北緯50度のすぐ北のホロコタン(幌渓、露名ピリポ)まで、松前藩士今井八九郎はニヴフ居住地・北樺太ナッコ(ラッカ)まで調査。
    • 日露和親条約により、日露国境を樺太島上で定めず是までの仕来りによること(国境は未確定のまま棚上げ先送り)を決定した[57]
  • 1854年(嘉永7年)
  • 1856年(安政3年)
    • 同年、海軍大尉N.M.チハチョーフがニヴフ居住地・北樺太西海岸の土衣にドウーエ哨所を建設。
  • 1858年(安政5年)
    • 当時、樺太に居住するロシア人はニヴフ居住地の北樺太西岸・オッチシ(落石、露名:アレクサンドロフ・サハリンスキー)に12名のみである。
  • 1865年慶応元年) - 岡本監輔が、樺太最北端ガオト岬(北緯55度)に至り、「大日本領」と記した標柱を建てる。
  • 1867年(慶応3年) - 幕府使節団とロシア側で、1月2日から2月7日まで8回の交渉が行われるも正式合意に至らず、2月25日に樺太島仮規則調印。樺太全島を日露雑居地[38] とされた。

ロシア領期

1880年代の樺太へのロシアの流刑者。

帰属の歴史

領土開発1875年から1945年:
1875年:樺太・千島交換条約
1905年:ポーツマス条約
1945年:第二次世界大戦の終わり
ロシアにおける樺太の位置
宗谷岬から樺太を望む。この写真ではぼんやりしているが、天候によってははっきり見えることもある[60]

幕末以来、日本とロシアの間で領有者が度々変遷した。

ソビエト連邦崩壊後、それを継承したロシア連邦がいまなお南樺太全体を実効支配している。


注釈

  1. ^ 小樽航路のみ休止中[9]
  2. ^ 樺太の石炭産業の起源については、「十九世紀中旬、ロマノフ朝東シベリア総督が、樺太に送り込んだ囚人の一部を炭坑夫として労働させ、ごく小規模な炭鉱経営を開始したと考えられている(出典:太陽出版『絵で見る樺太の歴史』78ページ)
  3. ^ ウィマムとは藩主や役人にお目見えすること。
  4. ^ 同時期の欧州オランダには、榎本武揚澤太郎左衛門赤松則良西周[要曖昧さ回避]ら幕府の留学生団がいたが、竣功した開陽丸と共に同年10月25日にオランダを発っている。
  5. ^ 樺太も含めた場合、北海地方という。
  6. ^ 但し、日本外務省は、樺太は日露和親条約で日露混住の地と決められたと説明している(出典:外務省国内広報課発行『われらの北方領土2006年版』6ページ)
  7. ^ 但し、『北方領土問題資料集』南方同胞援護会発行(1966年6月)4ページでは「カラフト島は是迄の通り両国の所領」とされたと記載。

出典

  1. ^ 「樺太―カラフト」を知る ニッポン 領土問題の原点 侵奪―回復ー放棄―不法占拠―そして? (別冊正論25)12頁
  2. ^ 西鶴定嘉説
  3. ^ 中川裕; 北原次郎太; 永山ゆかり; バヤリタ; ブリガ; 児倉徳和; 久保智之; 西田文信 他 『ニューエクスプレス・スペシャル 日本語の隣人たちⅡ』白水社、2012年。ISBN 9784560086162 
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