第二次世界大戦 経過(アジア・太平洋・オセアニア・北アメリカ・東アフリカ)

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第二次世界大戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/27 13:06 UTC 版)

経過(アジア・太平洋・オセアニア・北アメリカ・東アフリカ)

1941年

大英帝国植民地への攻撃

日本軍と戦うイギリス軍インド師団(1941年12月8日)

1941年12月8日午前1時35分(日本標準時)/12月8日午前0時35分(マレー標準時)に行われた日本陸軍イギリス陸軍との戦い(マレー作戦)により、太平洋における戦闘が開始され、アジア太平洋戦線が第二次世界大戦へ発展した。なお前述の通り、イギリスとオランダに対しては宣戦布告は行われなかった。

12月7日夜半、日本陸軍の馬来部隊主隊および護衛隊本隊はコタバル沖80~100海里付近に達し、イギリス海軍艦隊の反撃に備えながら上陸作戦支援の態勢を整えた[380]。当初予期されたイギリス領マレーの上陸地点でのイギリス航空部隊の反撃はなく、イギリス海軍艦隊も認めない状況を鑑み、8日午前0時35分に小沢治三郎中将は予定通りの上陸を決意した。「予定どおり甲案により上陸決行、コタバルも同時上陸」の意図を山下奉文中将に伝えて同意を得て分進地点に到着すると、各部隊は予定上陸地点(コタバル方面、シンゴラ・パタニ方面、ナコン方面、バンドン・チュンポン方面、プラチャップ方面)に向かって解列分進した[381]

佗美浩少将率いる第18師団佗美支隊が、淡路山丸、綾戸山丸、佐倉丸の3隻と護衛艦隊(軽巡川内旗艦の第3水雷戦隊)に分乗し、8日午前1時35分にタイ国境に近いイギリス領マラヤ北端のコタバルへ上陸作戦を開始した。しかし、マレー上陸作戦で最も困難な任務を負ったコタバル上陸部隊の佗美支隊は、日本軍の上陸に備えていたイギリス陸軍の水際陣地に苦戦した。日没までにコタバル飛行場を占領する目標は達せられなかったが、800名以上の死傷者を出す激戦ののち、8日夜半占領に成功。9日午前にはコタバル市街に突入し、防戦一方のイギリス陸軍を急追して南進を続けた。また、陸軍の第三飛行集団は8日、9日、タナメラ、クワラベスト飛行場を攻撃し、両基地の占領に成功した。さらに、多くのイギリス軍の航空機の鹵獲に成功、コタバル周辺のイギリス航空部隊を一掃し、マレー半島をシンガポールに向けて南下した[382]

日本軍機迎撃のために出撃する戦うイギリス軍機

イギリス陸軍はかねてから国際情勢、特に日本との関係悪化を受けて、東南アジアにおける一大拠点であるマレー半島およびシンガポール方面の兵力増強を進めており、開戦時の兵力はイギリス兵19,600人、イギリス領インド帝国兵37,000人、オーストラリア軍15,200人、その他16,800人の合計88,600人に達していた。兵力数は日本陸軍の開戦時兵力の2倍であったが、イギリス軍やオーストラリア軍は訓練未了の部隊も多く戦力的には劣っていた。さらに軍の中核となるべきイギリス陸軍第18師団は、いまだイギリスより地中海を避けて喜望峰インド洋を通りドイツ海軍の潜水艦攻撃を避け時間をかけて、マレー半島に輸送途上であった。

イギリス空軍マレー半島司令部は、開戦前に本国へ幾度も増強の要請をしたが、本国ではドイツ空軍のイギリス本土猛攻に対する防衛(バトル・オブ・ブリテン)に手一杯であり、遠いマレー半島の空軍増強の要請に対応できなかった上、上記の陸軍と同じくドイツ海軍の潜水艦攻撃を避けて運搬したため、時間が大幅にかかった。その結果、開戦当時のマレー半島のイギリス空軍の中心は、ブルースター・F2Aバッファローブリストル ブレニムなどの、当時としても二線級機とならざるを得なかった。

さらにイギリス空軍は日本軍の技術に対する研究が不十分であり、「ロールス・ロイスダットサンの戦争だ」と、人種的な偏見により日本軍の航空部隊を見くびっていた。その結果、日本軍の零式艦上戦闘機一式陸上攻撃機九六式陸上攻撃機などの新鋭機に、よく訓練された飛行士による攻撃に総崩れとなった。

また同日に日本陸軍は、イギリス領のシンガポールと並ぶ極東植民地の要である香港への攻撃を開始したほか、中華民国の上海のイギリスやアメリカ租界を瞬く間に占領した。日本に占領されたものの、残ったイギリスやアメリカ、オランダやオーストリア、デンマークやフランスなど連合国の職員と評議員は、その職から解任されたにもかかわらず、1943年に日本陸軍に抑留されるまで職の管理存続に動いていた。

真珠湾攻撃

「翔鶴」からハワイに向け発艦する九七式艦上攻撃機(1941年12月7日/ハワイ時間)

日本軍のイギリス領マレー半島上陸開始の約1時間半後(12月8日午前3時過ぎ(日本標準時)/12月7日午前8時過ぎ(太平洋ハワイ標準時)、日本海軍6隻の航空母艦とその搭載機、小型潜水艇などにより、ハワイオアフ島(当時のアメリカ自治領で、アメリカが1898年に武力で統合)にあった、真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に、攻撃(真珠湾攻撃)が行われた[352]。日本海軍は山本五十六大将指揮の下、当時世界最大の空母機動部隊を保有していた。

前日12月6日(ハワイ時間)の夜には「日本軍の2個船団をカンボジア沖で発見した」というイギリス軍からもたらされた情報が、アメリカ海軍のハズバンド・キンメル大将とウォルター・ショート中将にも届いた。キンメルは太平洋艦隊幕僚と真珠湾にある艦船をどうするかについて協議したが、「空母を全て出港させてしまったため、艦隊を空母の援護なしで外洋に出すのは危険」という意見で一致したのと、「週末に多くの艦船を出港させるとハワイ市民に不安を抱かせる」と判断し、真珠湾にいる艦隊をそのまま在港させることとした[352]。また同日、パープル暗号により、東京からワシントンの日本大使館に『帝国政府ノ対米通牒覚書』が送信された。パープル暗号はすでにアメリカ側に解読されており、その電信を傍受したアメリカ陸軍諜報部は、その日の夕方に米大統領ルーズベルトに翻訳文を提出したが、それを読み終わるとルーズベルトは「これは戦争を意味している」と叫んだ[352]。しかし引き続きアメリカ側は軍に対して何の防御も取らなかった。

7日の午前7時10分に日本軍の小型潜水艇がオアフ島に近づいたことで、たまたまアメリカ海軍の駆逐艦「ワード」から攻撃を受けたが(ワード号事件)、ハワイ周辺海域では日本の漁船などへの誤射がしばしばあったことからその重要性は認識されなかった[352]。また、その直後にはアメリカ軍の哨戒機が湾口1マイル沖で潜水艦を発見し爆雷攻撃を行ったとの報告もなされたが、その報告を聞いた海軍参謀らは駆逐艦「ワード」からの報告も含めて長々と議論するばかりで結論を出すことができず、陸軍に連絡することすらしなかったため、陸軍は警戒態勢の強化を図ることができなかった。さらに、これが大規模な日本海軍の攻撃開始とは気づかなかった真珠湾のアメリカ海軍の将兵のほとんどが、日米間の緊張した状況を知らされず、ほとんどが演習だと信じ込んでいた。

炎上するアメリカ海軍太平洋艦隊のウェストバージニア(1941年12月8日/日本時間)

日本海軍の最初の魚雷は、8日午前3時過ぎ(日本標準時)/12月7日午前8時過ぎ(ハワイ標準時)に「ウエストバージニア」に命中し、8時過ぎ、加賀飛行隊の九七式艦上攻撃機が投下した800kg爆弾がアリゾナの四番砲塔側面に命中した[383]。以降は日本海軍機は一方的な攻撃を展開し、9時前には第2次攻撃も開始し、オアフ島真珠湾上の「アリゾナ」や「オクラホマ」など戦艦4隻沈没、戦艦「ペンシルバニア」1隻大破、戦艦1隻中破、軽巡洋艦2隻大破、駆逐艦3隻大破、ボーイングB-17やカーチスP-40など陸海軍航空機328機破壊、航空基地施設多数破壊をはじめ2400人以上の死者を出し、これに対し日本軍はわずか29機の未帰還機と特殊潜水艇5隻の未帰還の被害で終えた[352]

その結果、オアフ島に本拠地を置くアメリカ海軍太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を一時的に完全に喪失するなど、アメリカ海軍艦隊に大打撃を与えて、側面から南方作戦を援護するという[384]作戦目的を達成した[385]。なお激しい戦闘の最中に、ホノルル港に停泊していたオランダ海軍の「ヤーヘルスフォンテイン」が日本軍機に向けて搭載している対空砲の射撃を行った。なおこの時点ではオランダやその植民地政府は、日本に対して宣戦布告はしていなかった(オランダが日本に宣戦布告したのは12月10日)[386]

アメリカ海軍太平洋艦隊をほぼ壊滅させたものの、とどめを刺す第3次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備を徹底的に破壊しなかったこと、攻撃当時アメリカ海軍空母が出港中で、空母と艦載機を同時に破壊できなかったことが、後の戦況に影響を及ぼすことになる[352]。なお、当時日本軍は短期間で勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめ連合軍と停戦に持ち込むことを画策。そのため、軍事的負担が大きくしかも戦略的意味が薄い、という理由でハワイ諸島への上陸は考えていなかった。しかし、大統領のルーズベルト以下当時のアメリカ政府首脳は、日本軍のハワイ諸島上陸を危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退とハワイ諸島のアメリカ利権の廃棄を想定し、早くも日本軍の上陸を見通して、「HAWAII」の印の入った、ハワイのみで流通する特別なドル紙幣が使われることとなった。さらに、7日昼にはサンフランシスコなどアメリカ西海岸に非常事態宣言が出された上、さらにルーズベルトは日本海軍空母部隊によるアメリカ本土西海岸への空襲の後に、アメリカ本土西海岸から中西部への侵攻の可能性が高い、と分析していた。

また、日本政府が日米交渉の一方で戦争準備を進めていたこと、さらに日本国大使館員による宣戦布告の遅延があったことは、その後アメリカ政府による「卑劣なだまし討ち」というプロパガンダとして、長年後世に渡って使用されることとなった。ただし、先に日本が開戦したイギリスに対しては宣戦布告が行われなかった上、1939年9月のドイツとソ連のポーランド侵攻の際も完全に宣戦布告が行われなかったなど、当時は宣戦布告が行われないのが一般的な流れであり、このように喧伝されることはなかった。

さらにアメリカは、レンドリース法でイギリスやオーストラリア、中華民国に武器を与えていることに加え、米比戦争シベリア出兵、第二次世界大戦以後もアメリカはベトナム戦争イラク戦争などで宣戦布告なく戦争を行っている[注釈 15]

アメリカは真珠湾攻撃を理由に対日宣戦布告を行い、連合軍の一員として正式に第二次世界大戦に参戦した。また、すでに日本と日中戦争支那事変)で戦争状態の中華民国は12月9日、日独伊に対し正式に宣戦布告(詳細は「日中戦争」の項を参照)。なお、満洲国中華民国南京国民政府[注釈 16]も、日本と歩調を合わせて連合国に対し宣戦布告した。しかしアメリカは瞬く間にグアムやフィリピン、さらにアメリカ固有の領土のアッツ島を日本軍の手により失い、その上に本土西海岸も数度の爆撃や砲撃を受けるなど敗走を続けることになる。さらにその後日本海軍は、真珠湾攻撃のアメリカ側の軍艦の損傷と修理の状況を、スパイであるベルバレー・ディッキンソンを通じて中立国のアルゼンチンにいる海軍情報部に送らせた。

マレー沖海戦

「プリンス・オブ・ウェールズ」から乗員を移乗する駆逐艦「エクスプレス」(1941年12月10日)

12月8日夜半にイギリス空軍司令部がコタバル飛行場から撤退したこともあり、イギリス海軍は哨戒と艦隊上空警戒を約束できなかった。にもかかわらず、イギリス海軍東洋艦隊トーマス・フィリップス中将は、シンガポールの空軍司令部に戦闘機の艦隊支援に対する要望を書簡にして送付し、シンガポールにいる当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍東洋艦隊の、戦艦2隻(プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルス)、駆逐艦4隻(エレクトラ、エクスプレス、テネドス、オーストラリア籍のヴァンパイア)を率いて出撃した。9日中に日本軍に発見されない場合は、10日早朝に日本軍の船団を攻撃することを決心して北上を続けた[387]

しかし12月10日に日本海軍により発見され、マレー沖で日本海軍双発爆撃機隊(九六式陸上攻撃機一式陸上攻撃機)の攻撃が開始され、当時最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを一挙に撃沈した(マレー沖海戦)。この攻撃でプリンス・オブ・ウェールズは魚雷7本、爆弾2発。レパルスは魚雷13本、爆弾1発を食らった。日本陸軍側はわずか3機を失い、それに対してイギリス海軍側は2隻併せて将兵840名が死亡した[352]。これは史上初の航空機の攻撃のみによる行動中の戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦術に大きな影響を与えた。

なお、当時のイギリス首相のチャーチルは後に「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。また議会に対して「イギリス海軍始って以来の悲しむべき事件がおこった」と報告した[388]。なお、日本軍航空隊は救助作業を行うイギリスの駆逐艦を攻撃せず、救助作業を妨害しなかった。さらに戦闘の数日後、第二次攻撃隊長だった壱岐春記海軍大尉は、部下中隊を率いてアナンバス諸島電信所爆撃へ向かう[389]。途中、両艦の沈没した海域を通過し、機上から沈没現場の海面に花束を投下して日英両軍の戦死者に対し敬意を表した[390][391]

この海戦の結果、インド洋に進出していたイギリス東洋艦隊の大部分が日本軍の航空攻撃を警戒し、マレー方面進出を断念したためマレー作戦は順調に進行した。コタバルへ上陸した日本陸軍は、極東におけるイギリス軍の最大の拠点であるシンガポールを目指し半島を南下、突然の日本陸軍の急襲に、後ろ盾になるはずの東洋艦隊を失ったイギリス軍は敗走を続けた[392]

日本軍の進撃

フィリピンのオラニ飛行場を占領した日本軍

日本軍はアメリカの植民地であったフィリピンにも侵攻した。12月8日に真珠湾が攻撃されると、アメリカ極東陸軍司令官ダグラス・マッカーサー大将にもその報告がされたが、部下からの台湾の日本軍飛行場への爆撃や、航空機の避難などの進言に対してマッカーサーが決断を下せない間に、日本軍がフィリピン最大の飛行場クラークフィールド飛行場を爆撃し、新兵器の大型爆撃機B-17を含む航空戦力が壊滅してしまった[393]。マッカーサーはドワイト・アイゼンハワー大佐らと、独立予定のフィリピン軍の育成をしており、アメリカ軍装備のフィリピン・スカウト英語版と、アメリカ陸軍フィリピン部英語版を統合したアメリカ極東陸軍15万人の兵力で、上陸する日本軍を迎え撃つこととなったが、上陸してきた本間雅晴中将率いる第14軍4万人に歯が立たず、貯蔵していた大量の食糧や物資を残したまま、首都マニラを放棄してバターン半島コレヒドール島に籠城した[394]。しかし、マッカーサーを追い詰めた日本軍は、籠城したアメリカ軍兵力を過小評価しており、主力の第48師団蘭印作戦に転出させたため、圧倒的に兵力に勝るアメリカ軍を攻めあぐねることとなった[395]

太平洋のアメリカ領のグアム島にも日本軍は侵攻。なおグアムにおける戦闘はわずか1日で終結し、死傷者の合計は日本側が戦死者1名・負傷者6名、アメリカ側が戦死者36もしくは50名、負傷者80名を数えていた。捕虜となったアメリカ兵は、アメリカ人と地元住民合わせて650名であった。

12月11日、日本の対連合国への宣戦を受け、日本の同盟国ドイツ、イタリアもアメリカへ宣戦布告。これにより、戦争は名実ともに世界大戦としての広がりを持つものとなった。

日本軍に降伏する香港のイギリス人(12月28日)

これに先立ち12月8日に、イギリス領土の東アジアの要である香港へ攻撃を開始した日本陸軍は、ストーンカッター海軍基地などがある中心の九龍半島の攻略を開始した。啓徳空港もこの際に攻撃され、イギリス空海軍機や、サンフランシスコから到着したばかりのパンアメリカン航空シコルスキー S-42をはじめとする民間機など14機が日本陸軍に破壊された[396]。これによりイギリス軍が使用できる全航空機を失ってしまう。なお日本軍は攻略に数週間を見込んでいたが、準備不足のイギリス軍は城門貯水池の防衛線を簡単に突破され13日には九龍半島から撤退した。

さらに12日に日本陸軍が攻撃を開始した香港島では、中心地の中環を中心にイギリス陸海軍は頑強に抵抗し、日本陸軍にも多くの死者を出したものの、兵站に大切なレサボア(貯水池)を占拠されて25日に全面降伏し、日本陸軍は香港一帯を占領した[352]。降伏の交渉は日本軍が司令部を置いていた九龍半島の「ペニンシュラホテル」の3階で行われた。

日本陸軍は700人を超える戦死者を出したが、対するイギリス軍も1,700人を超える死者を出し、捕虜となったイギリス軍は11,000名。内訳はイギリス人が5,000名、英領インド人が4,000名、カナダ人が2,000名であった。日本陸軍はわずか18日間で香港攻略を完了した(香港の戦い)。

日本軍は、香港に隣接するポルトガル植民地マカオには、中立国植民地を理由に侵攻せず、結局終戦まで進攻は行わなかった[注釈 17]。しかし12月17日[397]ポルトガル領ティモールは日本軍による利用を警戒したオランダ軍とオーストラリア軍に保障占領の名目で占領された。ポルトガルのアントニオ・サラザール首相は、イギリスに対し抗議し、12月19日にポルトガルの議会でイギリスへの糾弾演説を行った。

12月17日には、伊7潜水艦とその積載偵察機がオアフ島を偵察し、アメリカ海軍が昼夜を問わず真珠湾の基地を修繕していることを確認。もう一度オアフ島の真珠湾をたたくことを検討する(K作戦を参照)。12月23日には、井上成美海軍中将指揮の下で同じくアメリカ軍の基地があるウェーク島も、2隻の駆逐艦を失うなど苦戦したが日本軍が占領した。

日本軍のアメリカ本土攻撃

アメリカ西海岸沿岸で通商破壊戦を行った日本海軍の伊15

このような状況下で、日本海軍は真珠湾攻撃の援護を行っていた巡潜乙型潜水艦計9隻(伊9伊10伊15伊17伊19伊21伊23伊25伊26[398]。10隻との記録もある)を、太平洋のアメリカとカナダ、メキシコなどの西海岸沿岸に展開し、12月20日頃より連合国、特にアメリカやカナダに通商破壊戦を展開し、中でも商船やタンカーなどを沿岸の住人が見れるほどの距離で砲撃、撃沈し、西海岸の住人を恐怖のどん底においた[399]

さらには、太平洋のアメリカ西沿岸地域に展開していた日本海軍の潜水艦10隻が、カリフォルニア州のサンディエゴ、モントレー、ユーレカ、オレゴン州のアストリアなどの複数の都市の海軍基地などの軍事施設を一斉に攻撃するという作戦計画があった。しかし、「クリスマス前後に砲撃を行い民間人に死者を出した場合、アメリカ国民を過度に刺激するので止めるように」との指令が出たため中止になった。なお、この日本海軍本部の砲撃中止指令に至る理由は諸説ある[399]

1942年

シンガポール陥落

マレー半島を進む日本軍(1942年1月)

東南アジア唯一の独立国だったタイ王国は、当初は中立を宣言していたが12月21日、日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となったことで、1月8日にイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに宣戦布告した。また日本が進出したフランス領インドシナでは、従前のヴィシー政権による植民地統治が日本によって認められ、軍事面では日仏の共同警備の体制が続いた。情報交換や掃海作業などでは両軍で協力が行われている[400]

1月に日本は、母国がドイツとの戦いに敗れ失ったオランダの亡命および植民地政府とも開戦し、ボルネオ島カリマンタン[注釈 18]ジャワ島スマトラ島[注釈 19]などにおいて、日本1国でイギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドなど連合軍に対する戦いで勝利を収めた。

南米においては、ブラジルが、アメリカの大統領フランクリン・ルーズベルトからの圧力を受けて、1942年1月に連合国として参戦することを決定した。ただし、戦場から遠いことを理由に太平洋戦線には参戦せず、ヨーロッパ戦線に参戦した。また、ドイツやイタリアと友好関係にあったアルゼンチンは中立を保った。一方、佐世保鎮守府が管掌する旅順旅順要港部は、1月15日をもって廃止された。

シンガポールにて降伏交渉を行う山下中将とパーシヴァル中将(1942年2月)

日本軍は9日にイギリス領マレー半島のセランゴールを占領、11日午前12時にクアラルンプールの外港の背後にあるクランを占領し、クアラルンプールから海上への退路を遮断した[401]。イギリス軍はクアラルンプール付近で抵抗を企図していたが、日本の迅速な進撃により組織的抵抗の余裕を失い、1月10日に飛行場、停車場を自ら爆破し、11日にはほぼその撤退を完了していた[402]

ジョホール州に迫った日本軍は同地を陥落させ、イギリスの東南アジアにおける最大の拠点シンガポールに迫った。2月4日朝に軍砲兵隊は射撃準備を終え以後逐次射撃を開始し、シンガポールへの攻撃は軍砲兵の攻撃準備射撃で始まった[403]。8日に日本軍は軍主力のジョホール・バルの渡河を開始、第18師団長牟田口廉也中将が戦闘で負傷するほどの激戦となったが、渡河に成功しシンガポール市街に向かって進撃を開始した。進撃路の途中には要衝ブキッ・ティマ高地があった。ブキッ・ティマ高地はシンガポールの水源であると共に、シンガポール市街を守る防衛線の核で、その周辺の高地も含めてイギリス軍は強固な陣地を構築しており、その攻略は必須であった。日本軍は紀元節までのブキッ・ティマ高地攻略を目指して強攻を続け[404]、大きな損害を被りながらも[405]、最後は日本軍得意の夜襲で、ブキッ・ティマ高地に占領した[406]。 要衝ブキッ・ティマ高地を失ったイギリス軍はシンガポール市街に立て籠り、2月13日にはシンガポール郊外のケッペル港で戦闘が開始された[407]。イギリス軍は15インチ(380㎜)要塞砲英語版などの要塞砲を日本軍に浴びせて激しく抵抗したが、司令官のアーサー・パーシバル中将は、チャーチルからの「シンガポールを絶対に死守せよ」との命令[408]に反して降伏を決意し、第25軍はイギリス軍の降伏を受け入れたため、シンガポールは日本軍の手に墜ちた[409]

マレー半島の戦いも含め大英帝国は死傷者20,000人に加えて、イギリス兵35,000人、オーストラリア兵15,000人、インド兵67,000人、現地義勇兵14,000人の合計131,000人以上が捕虜となるなど甚大な損害を被った[410]。パーシバルに死守を命じていたチャーチルはこの敗戦に衝撃を受けて『大英帝国史上最悪の災害と最大の降伏』と後々まで悔やむこととなった[411]。イギリスの隣国であるアイルランドでは長年にわたる支配への恨みから反英感情が強く、特に独立運動を弾圧してきたパーシヴァルが降伏したことで元アイルランド共和軍(IRA)幹部らが、ダブリン駐在の別府節弥日本国領事を囲んで祝賀会を開いたという[412]。日本の損害は、戦死1,713名、戦傷3,378名[413]に上った。陥落後シンガポールを日本は「昭南」と改名し、陸海軍基地を構え以降終戦まで日本軍の占領下に置いた。

南方資源地帯の確保

大日本帝国の最大勢力範囲図(1942年8月時点)

日本海軍は、2月に行われたジャワ沖海戦オランダ海軍とアメリカ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を撃破する。この海戦後も日本軍の進撃は止まらなかった。2月8日にマカッサル[414]、2月10日-11日にバンジャルマシンに上陸しこれを攻略した[415]。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。このような中でオランダ軍は同月、1940年5月の独蘭開戦後にスマトラ島で捕え、イギリス領インド帝国に輸送しようとした際にドイツ人収容者数百人を死亡するという「ファン・イムホフ号事件」が発生している。

ダーウィン港内で炎上するオーストラリア海軍艦船 (1942年2月)

2月19日には、4隻の日本航空母艦(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)はオーストラリア北西のチモール海の洋上から計188機を発進させ、オーストラリアへの空襲を行った。これらの188機の日本海軍艦載機は、オーストラリア北部のポート・ダーウィンに甚大な被害を与え9隻の船舶が沈没した。同日午後に54機の陸上攻撃機によって実施された空襲は、街と王立オーストラリア空軍 (RAAF) のダーウィン基地にさらなる被害を与え、20機の軍用機が破壊された。オーストラリアに日本軍は上陸しなかったものの、オーストラリア北部への日本軍の空襲や機銃掃射などの攻撃は翌1943年まで継続され、1月22日にはヴェッセル諸島近海でオーストラリア海軍掃海艇「パトリシア・キャム」を撃沈したほか、ダーウィンの燃料タンクを空襲で破壊するなどの戦果を上げている。また、日本軍の爆撃によりオーストラリア民間人735人が死亡している[416][18]

2月20日[417]に、日本軍は、イギリス軍が占領下に置いていたティモール島全島を占領した。ディリの守備にあたっていた連合軍約1300名の大部分は山中に逃亡し、ポルトガル軍は日本軍に対して抵抗しなかった[418]。以降、ポルトガル領ティモールも事実上は日本軍の統治下になった。

「ロサンゼルスの戦い」を報じるロサンゼルスタイムズ紙(1942年2月)

2月24日に、日本海軍伊号第十七潜水艦が、アメリカ西海岸カリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊エルウッドの製油所を砲撃し、製油所の施設を破壊した。これで日米戦においては、先に日本がアメリカの本土を攻撃することとなり、日本軍の攻撃におびえたアメリカ全土を恐怖に陥らせることになった。日本は他にもカナダとメキシコまでの10隻にわたる潜水艦で、広範囲で潜水艦による通商破壊戦を繰り広げた。アメリカ政府および軍は本土への日本軍の攻撃はおろか西海岸への上陸を危惧し、西海岸で防空壕の準備を進めたほか、学徒疎開などの準備を急ピッチで進めたが、日本軍側にはその意図はなかった。

さらに翌日未明には、ロサンゼルス近郊においてアメリカ陸軍が、日本軍の航空機の襲来を誤認し多数の対空射撃を行い6人の民間人が死亡するという事件(「ロサンゼルスの戦い」)が発生した。この事件に関してアメリカ海軍は「日本軍の航空機が進入した事実は無かった」と発表したが、一般市民は「日本軍の真珠湾攻撃は怠慢なアメリカ海軍の失態」であるとし、過剰なほどの陸軍の対応を支持するほどであった。

しかし、これらアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍上陸に対するアメリカ政府の恐怖心と無知による人種差別的感情が、カリフォルニア州やワシントン州、オレゴン州とアリゾナ州、そして準州のハワイから一部の日系アメリカ人と日本人移民約120,000人が強制的に完全な立ち退きを命ぜられた、日系人の強制収容の本格化に繋がったともいわれる。しかし、FBI長官のエドガー・フーバーは、日系人の強制収容には「スパイと思しき者たちは、真珠湾攻撃の直後にFBIが既に拘束している」として反対している。

また、まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領。10日ほどの戦闘の後、在オランダの東インド植民地軍は全面降伏し、オランダ人の一部はオーストラリアなどの近隣の連合国に逃亡し、残りは日本軍に捕えられた。これ以後、東インド全域は日本の軍政下に置かれ「オランダによる350年の東インド支配」が実質終了した。3月のバタビア沖海戦でも日本海軍は圧勝した。日本陸軍も3月8日、イギリス植民地ビルマ(現:ミャンマー)首都ラングーン(現:ヤンゴン)を占領。連合国は日本軍に連戦連敗し、アジア地域のイギリス、アメリカ、オランダの連合軍艦隊は完全に壊滅した。

前年の12月17日にオアフ島の真珠湾を偵察した日本海軍は、1月5日にも伊19より搭載機によるオアフ島の偵察を行った。これによりアメリカ軍灯火管制もせずに急ピッチで真珠湾攻撃の損害の復旧をしていることを知った[419]。これを受けて大本営]軍部(軍令部)は、真珠湾の復旧活動を妨害すると同時に、当時各地で負け続けであった上に、本土さえ攻撃されているアメリカ軍の士気に更なる損害を加えるため、一三試大型飛行艇(二式大艇)による空襲計画が立ちあげる[419]

1月17日、連合艦隊参謀長宇垣纏少将は、第六艦隊(司令長官清水光美中将)と第四艦隊(司令長官井上成美中将)に、一三試大艇による作戦研究および計画立案を行うよう伝えた[419]。本作戦は「K作戦」と命名され、補給任務につく潜水艦3隻(伊15、伊19、伊26)は水偵格納筒を改造して、航空燃料補給装置を装備した。 その後2機の二式大艇が横須賀基地からマーシャル諸島ウオッゼ島を出発し、途中フレンチフリゲート礁で潜水艦から燃料補給を受け、3月4日に再度真珠湾のアメリカ海軍基地の爆撃を行ないこれに成功した。

さらに日本海軍航空母艦の翔鶴瑞鶴を中心とした機動艦隊はインド洋に進出し、海軍空母搭載機がイギリス領セイロン[注釈 20]コロンボトリンコマリーを空襲、さらに4月5日から9日にかけてイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。

イギリス艦隊は、第五航空戦隊などの日本海軍機動部隊に全く反撃ができず、当時植民地だったアフリカ東岸ケニアキリンディニ港まで撤退した。さらにイギリス艦隊は日本海軍が勢いを増して追いかけてくることを懸念し、マダガスカル島まで撤収を余儀なくされるが、日本海軍はイギリス艦隊をさらに追い詰めた。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三十潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツ[注釈 21]へと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。

コレヒドール島にて日本軍に降伏するアメリカ軍(1942年5月)

フィリピンでは司令官のマッカーサー以下10万人の将兵が、バターン半島とアメリカ軍によって要塞化されていたコレヒドール島に追い詰められていたが、備蓄食料を早々に食いつくし飢餓に苦しめられていた[420]。飢えとの戦いに苦しめられているマッカーサーを「2か月にわたって日本陸軍を相手に『善戦』している」とアメリカ本国では「英雄」として派手に宣伝して祭り上げていたが、マッカーサー本人は自ら捕虜になりかねない状態に追い込まれて、アメリカ本国に何度も増援派遣を懇願していたが、アメリカにその余裕はなく無視され続けた[421]。しかし、アメリカ陸軍参謀総長まで務めたマッカーサーが捕虜になる影響の大きさを懸念したルーズベルトによって、マッカーサーはオーストラリアへ脱出して、日本軍への反撃の指揮を執るよう命じられ、3月11日に家族や幕僚と共にPTボートコレヒドール島を脱出、その後ミンダナオ島経由でオーストラリアへ逃亡した。これは大統領の命令とはいえ、マッカーサーの軍歴に泥を塗るものとなった。マッカーサーが逃亡した後も、バターン半島とコレヒドール島は約2か月間持ち堪えたのち、増援を得た日本軍の総攻撃の前に5月6日に降伏した[422]

バターンで日本軍に降伏したアメリカ軍将兵は76,000名にもなり、『戦史上でアメリカ軍が被った最悪の敗北』と言われたが[423]、降伏を受け入れた日本軍は、当初からバターンに籠ったアメリカ軍の兵士数を把握できておらず、予想外の捕虜に対し食糧も運搬手段も準備できていなかった。また、降伏した将兵は飢餓と病気で消耗しきっていたが、司令官の本間雅晴中将はそういう事情を十分知らされていない中で、バターン半島最南部からマニラ北方のサンフェルナンドまで90kmを徒歩で移動するという捕虜輸送計画を承認した。衰弱していた捕虜たちは、マラリア、疲労、飢餓と日本兵の暴行や処刑で7,000名〜10,000名が死ぬこととなり、後にアメリカで『Bataan Death March(バターン死の行進)』と称されて、日本への敵愾心を煽ることとなった[424]。敵前逃亡して面目を失っていたマッカーサーは「近代の戦争で、名誉ある軍職をこれほど汚した国はかつてない。正義というものをこれほど野蛮にふみにじった者に対して、適当な機会に裁きを求めることは、今後の私の聖なる義務だと私は心得ている」という声明を発表し、この後汚名返上とバターンの敵討ちのため、連合国南西太平洋軍英語版(SWPA)司令官として、オーストラリアからの連合軍の反攻を指揮していくこととなった[425]

日本本土初空襲と珊瑚海海戦

空母ホーネット飛行甲板上のB-25(1942年4月)

敗戦続きのうえ、アメリカ本土までが攻撃され、ルーズベルトは国民戦意の低下を懸念しており、日本本土を攻撃して戦意を煽ることを考えていた。ルースベルトの強い意志もあってアメリカ統合参謀本部は、「航続距離の長い陸軍航空軍の爆撃機を空母から発艦させ、日本本土を爆撃する」という作戦を決定し[426]、改造した「B-25」で東京を爆撃して、そのまま中国の飛行場に着陸するという計画を立てた[427]。アメリカ海軍のなかには、戦術的な効果が殆ど望めない作戦で貴重な空母を必要以上の危険に晒すことに反対意見も根強かったが、ルーズベルトに忖度した軍上層部の強い意志で作戦は決行された[428]

1942年4月18日、東京から700マイルの地点まで接近した空母ホーネットから、予定より7時間早い08:15にジミー・ドーリットル中佐率いる16機のB-25が発艦した[426]。日本軍は勝利続きで完全に油断しており、アメリカ海軍機動部隊に日本本土近海への接近を許しただけでなく、来襲したB-25をまともに迎撃することすらできなかった。B-25は東京のほか、横浜、横須賀、名古屋を空襲し、中国方面に離脱したが、16機全機が不時着などで失われた。日本がこの空襲で受けた被害は限定的であったが、この影響は大きなものとなり、ルーズベルトの狙い通りアメリカ国民の士気は大いに高まったが[429]、一方で日本軍は本土防空体制の強化に迫られたことと、連合艦隊司令長官山本五十六大将は、既に決まっていたミッドウェー島攻略作戦のMI作戦決行に意を強くしている[430]

炎上するアメリカ海軍空母レキシントン(1942年5月)

5月7日、8日の珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍の空母機動部隊が、歴史上初めて航空母艦の艦載機同士のみの戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は大型空母レキシントンを失ったが、日本軍も小型空母祥鳳を失い、大型空母翔鶴も損傷した。この結果、日本軍はニューギニア南部、ポートモレスビーへの海路からの攻略作戦を中止。陸路からのポートモレスビー攻略作戦を目指すが、オーウェンスタンレー山脈越えの作戦は困難を極め失敗する。

日本軍は第二段作戦として、アメリカとオーストラリア間のシーレーンを遮断し、オーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。5月31日には、オーストラリアのシドニー港に停泊していた連合国艦隊に向けて、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われた。伊24搭載艇は港内に在泊していたアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを発見し魚雷を2発発射した。2発とも外れたと見えたが、岸壁に係留されていたオーストラリア海軍の宿泊艦クッタブルの艦底を通過して岸壁に当たって爆発した。これによりクッタブルは沈没し19名が戦死した。また、その隣に係留されていたオランダ海軍の潜水艦K IXも爆発の衝撃で損傷した。なおこの時に難を逃れたアメリカ海軍のシカゴは、1943年に日本軍に撃沈されている。また、日本海軍はこの頃ペナンを基地とした潜水艦隊にてインド洋のアフリカ東海岸沿岸からオーストラリア西海岸にて通商破壊戦を行い、数十隻の撃沈、撃破に成功している。

マダガスカルに向けた出港準備をする日本海軍の伊10(1942年5月)

イギリス軍は、敵対する親独フランス・ヴィシー政権の植民地である南アフリカ沿岸のマダガスカル島を、日本海軍の基地になる危険性があったため、南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。これに対抗するべくドイツ海軍からの依頼を受け、日本軍の潜水艦は伊30が1942年4月22日に、伊10と甲標的を搭載した伊16、伊18、伊20が1942年4月30日にペナンを出撃し[431]、南アフリカのダーバン港の他、北方のモンバサ港、ダルエスサラーム港、そしてディエゴ・スアレス港への攻撃を検討した。

その結果、5月30日から6月4日にかけて、搭載した特殊潜航艇()がディエゴスアレス港を攻撃し、攻撃によりイギリス海軍の戦艦ラミリーズに魚雷1本、油槽船ブリティッシュ・ロイヤルティ(British Loyalty, 6,993トン)に魚雷1本が命中し、ブリティッシュ・ロイヤルティは撃沈された[注釈 22][432]。さらに、南アフリカ沿岸のマダガスカル島に上陸した特殊潜航艇の艇長秋枝三郎大尉(海兵66期)と艇付の竹本正巳一等兵曹の2名が、6月4日にイギリス軍と陸戦を行い、両名はイギリス軍による降伏勧告を拒否し、15人のイギリス軍部隊を相手に軍刀拳銃で戦いを挑みイギリス軍兵士を死傷させるなどの戦果を上げている。

日本海軍によるマダガスカル方面への攻撃は、戦艦1隻大破、大型輸送船1隻撃沈。地上戦でイギリス軍兵士1名の死者と5人に重軽傷を負わせるなど一定の戦果を上げたが、先に実施されたセイロン沖海戦における勝利によりイギリス海軍をインド洋東部から放逐し東南アフリカ沿岸まで追いやるなど、この時点における最大の目的を達成していた日本海軍にとって、マダガスカル方面は主戦場から遠く離れており、また友邦のドイツ軍もいなかったことから、日本海軍はこれ以上の目立った作戦行動は行われなかった、

日本軍のアメリカ領土占領

ダッチハーバーへの攻撃を報じるアメリカの新聞(1942年6月)

日本海軍は、同年6月3日から行われたアメリカのアラスカ準州アリューシャン列島西部要地の攻略または破壊を目的として行われたAL作戦で、アラスカベーリング海における漁業や通商の拠点となる重要な港であるダッチハーバーのアメリカ軍基地への空母龍驤」「隼鷹」を主力とする航空隊による空襲を行い、大きな被害を出すことに成功した。

また6月6日には、アラスカ準州のアッツ島に北海支隊1,200人が上陸したが、同島にアメリカ軍の守備隊は存在せず特段反撃を受けることもなく占領に成功する(日本軍によるアッツ島の占領)。これは第二次世界大戦においてアメリカ本土に日本軍を含む枢軸国軍が上陸、占領した初めてのことで、続いて7日にキスカ島に第三特別陸戦隊550名、設営隊750名が上陸し、同島も守備隊は存在せず占領に成功する。日本軍にとってキスカ島、アッツ島上陸は戦略的には重要ではなく、実際に占領後も少ない守備隊しか置かなかった。アメリカ合衆国本土が外国軍隊により占領されたのは1812年米英戦争以来初めてのことであった。

ミッドウェー海戦

ミッドウェー海戦で回避行動中の空母蒼龍(1942年6月)

1942年6月、日本軍は太平洋中央のアメリカ軍の拠点ミッドウェー島に侵攻し、迎撃に出てくるアメリカ機動部隊を撃滅せんとするMI作戦を計画、これまで太平洋を席巻していた第一航空艦隊を主力とする機動部隊、空母4、戦艦4、重巡洋艦10、軽巡洋艦34に加え、後詰めとして戦艦大和など戦艦7、空母1、軽巡洋艦3、駆逐艦21といった連合艦隊の総力を結集して、輸送艦16隻に分乗した一木支隊3,000人と海軍陸戦隊2,800人と共にミッドウエー島に向けて出撃した[433]。しかし、アメリカ海軍情報局パープル暗号暗号解読して、作戦計画を事前に入手しており、万全の体制で日本軍を待ち構えていた。まずはミッドウエー島の飛行場許容量いっぱいとなる、PBYカタリナ飛行艇30機、B-17爆撃機17機を配置して索敵能力を強化、26機の戦闘機(ブルースター F2A)、34機の索敵爆撃機(TBDSB2U)、6機のB-26に新兵器のTBFアベンジャーも6機配備されて攻撃力も強化していた[434]

ニミッツは太平洋上可動艦艇をかき集めて、空母3、重巡洋艦7、軽巡洋艦1、駆逐艦14をレイモンド・スプルーアンス少将に託し、日本軍機動部隊を迎え撃った。空母のうち1隻は先の珊瑚海海戦で損傷したヨークタウンであり、日本軍はその損傷の程度からしばらくは戦線復帰困難と判断していたが、真珠湾のドックでわずか3日で修理を完了し合流しており[435]、艦船の数は日本軍が圧倒的に勝っていたとはいえ、艦載機数ではほぼ互角、陸上機を合わせた航空戦力ではアメリカ軍の方が上回ることとなった[436]。6月4日には日本海軍機動部隊は早くもミッドウエー島のPBYカタリナ飛行艇に発見され、6月5日未明に日本海軍の空母から出撃した艦載機がミッドウエー島飛行場を攻撃し大損害を与えたものの、その後のミッドウエー島飛行場からの反撃で、日本海軍機動部隊は損害こそなかったが、アメリカ海軍機動部隊とミッドウエー飛行場両方を相手にする必要に迫られた[437]

日本海軍機動部隊の動向は、ミッドウエー島の航空隊によって捕捉され続けており、スプルーアンスは、日本空母がミッドウエー攻撃隊を収容している時間帯を狙って3隻の空母からほぼ全艦載機を出撃させた[438]。日本海軍も重巡洋艦利根零式水上偵察機がようやくアメリカ海軍機動部隊を発見し「敵らしきもの10隻みゆ」と報告してきたが、とき既に遅く、アメリカ軍艦載機の編隊が日本海軍機動部隊上空に現れて、たちまち主力空母赤城加賀蒼龍の3隻が炎に包まれた[439]。わずかに生き残った飛龍第二航空戦隊司令官山口多聞少将の指揮で反撃し、ヨークタウンを大破させたが(後、潜水艦伊一六八」により撃沈)、飛竜もアメリカ軍艦載機の攻撃で沈没し山口も戦死した。連合艦隊司令長官山本五十六大将は空母部隊の壊滅によりミッドウエー島攻略をあきらめざるを得ず、艦隊に撤退を命じた[437]

6月4日-6日にかけてのミッドウェー海戦で、日本海軍機動部隊は偵察の失敗や判断ミスが重なり、主力正規空母4隻(赤城加賀蒼龍、飛竜)を一挙に失い、加えて300機以上の艦載機と多くの熟練パイロットも失った。一方でアメリカ海軍機動部隊は正規空母1隻(ヨークタウン)を損失するにとどまった。日本海軍としては、実に1598年慶長の役における露梁海戦以来の敗戦となったが、これまで日本軍の快進撃を支えてきた精強な空母部隊を一挙に失ったことで、意のままに攻勢を取ることができるといった優位性を失うこととなった[440]。この戦いは太平洋戦域における戦局の転回点となり、エル・アラメインの戦いスターリングラードの戦いインパール作戦と共に第二次世界大戦の主な転換点の戦いとも評されている[441]が、太平洋戦線で連合国君の敗北は続いた。

日本軍のカナダ攻撃

フォート・スティーブンスの被害を調べるアメリカ兵(1942年6月)

アリューシャンとミッドウエーで、日本、アメリカ両軍が戦った後の6月20日には、北太平洋で通商破壊作戦中の乙型潜水艦の「伊号第二十六潜水艦」が、第二次世界大戦で初めてカナダ本土を攻撃した。バンクーバー島西方5浬地点で浮上し、レーダー基地へ向け主砲弾17発を発射したが、荒天と視界不良により命中せず、ほとんどがエステバンポイントの灯台周辺に着弾した。砲撃後伊26は現場を離れ、5隻のカナダ船とカナダ空軍のスーパーマリン ストランレアが伊26の迎撃にむかったが、伊26を見つけられなかった。

翌21日には「伊号第二十五潜水艦」がオレゴン州アストリア市のフォート・スティーブンス陸軍基地へ行った砲撃では、突然の攻撃を受けたフォート・スティーブンスはパニックに陥り、「伊二十五」に対して何の反撃も行えなかった(フォート・スティーブンス砲撃)。当初は、アストリア市街も攻撃目標に含んでいたものの、コロンビア川の河口を入った所にあるアストリア市街へ砲撃は届かなかった。その後、訓練飛行中だった航空機が伊25を発見し、まもなく通報を受けたA-29ハドソン攻撃機が出撃している。ハドソン攻撃機は伊25へ爆撃を行ったが、巧みに攻撃をかわす伊25に損傷を与えることはできなかった[442]

この攻撃も大きな被害を与えることはなかったものの、アメリカ本土にあるアメリカ軍基地への攻撃としては米英戦争以来のもので、日本軍の破竹の攻撃がついにアメリカとカナダ本土の軍の施設まで及ぶことになった。

同盟国との連携

駐日ドイツ大使館付警察武官として東京に赴任したヨーゼフ・マイジンガー親衛隊大佐は、6月にヒムラー内務大臣の命を帯びて上海に赴いた。マイジンガー大佐は日本に対し、上海におけるユダヤ難民の「処理」を迫り、以下の3案を提示した。「黄浦江にある廃船にユダヤ人を詰め込み、東シナ海に流した上、撃沈する」、「ユダヤ人を岩塩鉱で強制労働に従事させる」、「長江河口に収容所を建設し、ユダヤ人を収容して生体実験の材料とする」。しかし日本政府は、悪質な上に人道にもとるドイツ側の提案を完全に拒絶した[443]

しかし、ドイツ政府からの再三の圧力を受けた日本政府により、上海のユダヤ人は特定の地区に居住することを強いられ、そこから出ることを禁じられた。亡命ユダヤ人は財産を処分するために日本政府の許可を必要とし、他の者もゲットーに移住する許可を必要とした。それまでゲットーには有刺鉄線も外壁も無かったが、これ以降は外出禁止令が敢行され、地域は警邏された上食料は配給制になり、区域からの出入りにはパスが必要になったが、いずれにしても日本政府により大戦中を通じて上海の亡命ユダヤ人の命は守られた。

横田基地内でサヴォイア・マルケッティ SM.75 GA RTの前に立つ日伊の軍関係者(1942年7月)

イタリアとの連携については、1941年にイタリア紅海艦隊の残存艦の「エリトレア」と「ラム2」が、スエズ運河が閉鎖されたために来日し、やむなく神戸港に停泊していたが、11日にイタリアもアメリカに宣戦布告したために、この2隻も天津に拠点を置くイタリア極東艦隊の一部に任命され、これらイタリア極東艦隊は日本からの燃料や食料などの供給を受けて、日本や満洲国の船団護衛の補給作業や、天津と日本、東南アジアとの間の輸送を担当し大活躍した。

1942年には、イタリア軍の大型輸送機の「サヴォイア・マルケッティ SM.75 GA RT」により、イタリアと日本、もしくは日本の占領地域との飛行を行うことを計画した。6月29日グイドーニア・モンテチェーリオからイタリアと離陸後戦争状態にあったソビエト連邦を避けて、ドイツ占領下のウクライナザポリージャアラル海北岸、バイカル湖の縁、タルバガタイ山脈を通過しゴビ砂漠上空、モンゴル上空を経由し、6月30日に日本占領下の内モンゴル包頭に到着した。しかしその際に燃料不足などにより、ソビエト連邦上空を通過してしまい銃撃を受けてしまう。その後東京の横田基地へ向かい7月3日から7月16日まで滞在し、7月18日包頭を離陸してウクライナのオデッサを経由してグイドーニア・モンテチェーリオまで機体を飛行させ、7月20日にこの任務を完遂した。

しかし、日本にとって中立国の(イタリアにとっての対戦国)ソビエト連邦上空を飛ぶという外交上の理由によって、滞在するアントニオ・モスカテッリ中佐以下の存在を全く外部に知らせないなど、日本では歓迎とは言えない待遇であった。また、事前に日本側が要請していた、辻政信陸軍中佐を帰路に同行させないというおまけもついた。しかも、案件の不同意にも関わらずイタリアは8月2日にこの出来事を公表し、2国間の関係は冷え冷えとしたものになり、イタリアは再びこの長距離飛行を行おうとはしなかった[444]

なお、開戦後両陣営において、開戦により交戦国や断交国に残された外交官や民間人(企業の駐在員や宗教関係者、研究者留学生とそれらに帯同した家族などの一時在住者)の帰国方法が問題になった。その後1942年5月に両陣営の間で残留外交官と残留民間人の交換に関する協定が結ばれ、日本(とその占領地と植民地、ならびに満洲国やタイなどその同盟国)とアメリカ(とブラジルやカナダなどその近隣の同盟国)の間についてはこの年の6月と1943年9月の2回、日本とイギリス(とその植民地、ならびにオーストラリアやニュージーランドなどのイギリス連邦諸国)との間については1942年8月の1回、合計3回の交換船が運航されることになった。

また開戦以降、ドイツ側は生ゴムスズモリブデンボーキサイト等の軍用車両・航空機生産に必要な原材料を入手するために、ドイツ海軍の海上封鎖突破船を大西洋とインド洋経由で、昭南やジャワなど日本の占領する東南アジア方面から日本まで送ったが、主に大西洋を拠点に活動するイギリス海軍南アフリカ連邦軍の妨害に遭うことが多くなり、作戦に支障をきたすことが多くなった。

しかしドイツ側は潜水艦で酸素魚雷や潜水艦用無気泡発射管、水上飛行艇や潜水艦用自動懸弔装置、後日には空母の設計図などの最新の軍事技術と、モリブデンやスズなどを日本から、日本側からもウルツブルク・レーダー技術や暗号機、後日にはジェットエンジンロケットエンジン等の最新の軍事技術と、ウランなどをドイツから入手したいという思惑があり、両国の利害が一致し、ここに日本とドイツの間を潜水艦で連絡するという計画が実行に移されることとなった[445]

遣独潜水艦作戦の1回目として、日本海軍の伊号第三十潜水艦8月6日に占領下フランスのロリアンに入港した[446]。2回目は駐独大使館付海軍武官横井忠雄海軍少将が便乗帰国するほか、帰り道にヒトラーから寄贈されたUボートを回航するなど、その後1944年まで5回にわたり行われた。

ガダルカナル島の戦い

南太平洋海戦で撃沈されたホーネット(1942年10月)

8月7日、アメリカ海軍及びオーストラリア海軍は最初の連合国軍による反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に上陸、完成間近で防衛が手薄であった日本軍の飛行場を占領した。これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍とアメリカ軍、オーストラリア軍との間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦を繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。日本海軍は上陸してきたアメリカ軍の輸送艦隊を撃滅するため、巡洋艦隊を出撃させたが、アメリカ海軍とオーストラリア海軍の連合軍艦隊との間で夜間戦闘となり(第一次ソロモン海戦)、重巡4隻を撃沈して勝利する[447]。しかし、日本海軍は輸送艦の攻撃に失敗し、ガダルカナルに上陸したアメリカ第1海兵師団は、占拠した飛行場を整備してヘンダーソン飛行場とし、その周囲に堅陣を設けてしまった。奪還を焦る日本軍は戦力の逐次投入という失敗を犯すことになる。8月21日には一木支隊のわずか900人が16,000人の第1海兵師団を攻撃して全滅[448]、9月13日にも6,000人で総攻撃したが、重砲を運び込めなかった日本軍は一方的に海兵隊から砲撃を浴びせられて大損害を被って撃退された[449]

日本軍はガダルカナル島に兵力を増強するため、日本海軍の艦船と航空機を多数投入、一方でアメリカ軍を主力とする連合軍もそれを迎え撃ち、制空権と制海権を巡って激戦が繰り広げられていた。ヘンダーソン飛行場の攻撃とアメリカ軍機動部隊撃滅を策し、8月23日から始まった第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤を失って敗北[450]、ヘンダーソン飛行場とアメリカ海軍機動部隊は健在で、日本軍の増強はなかなか進まなかった。しかしその状況を覆したのが、日本海軍の潜水艦であり、8月に空母サラトガを大破させて戦線離脱させ、9月には伊号第十九潜水艦が空母ワスプと駆逐艦オブライエンを撃沈、戦艦ノース・カロライナも大破させて、アメリカ海軍の戦力を大きく削減することに成功した[451]

日本軍は10月を期して再度の総攻撃を行ってガダルカナル島を奪還を策し、第2師団(師団長・丸山政男中将)をガダルカナル島に派遣することとした[452]。日本海軍はあらゆる艦船をかき集めて、ガダルカナル島に物資の輸送を試み、それをアメリカ海軍が迎え撃った。10月11日にはサボ島沖海戦で、日本海軍は重巡洋艦古鷹を撃沈されるなどの敗北を喫しながらも、戦艦金剛榛名を主力とした第二次挺身攻撃隊がヘンダーソン基地艦砲射撃を成功させて、ヘンダーソン飛行場の稼働機をわずか2~3機とする大損害を与えるなどの戦果もあって、日本軍は10月15日までに第2師団22,000人をガダルカナル島に上陸させていた[453]

第2師団による総攻撃は10月20日と決まり、日本海軍もその支援のためミッドウエー海戦以来の戦力となる空母4隻を派遣した[454]。一方でアメリカ海軍も太平洋上で残存していたホーネットエンタープライズで日本海軍機動部隊を迎え撃った。10月24日に第2師団は総攻撃を開始したが、アメリカ軍の守りは堅く、ヘンダーソン飛行場までの進撃は容易ではないことを思い知らされた。26日にはアメリカ海軍のPBY飛行艇が先に日本海軍機動部隊を発見、軽空母瑞鳳がエンタープライズ艦載機の攻撃で被弾したが、その後は戦力に勝る日本海軍の反撃で、アメリカ海軍の空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを大破、駆逐艦ポーターを撃沈した[455]。この南太平洋海戦では、日本海軍は戦術的勝利を収めたものの、その頃、第2師団の総攻撃は行き詰っており、同日に作戦中止が下令された[456]

日本軍の艦砲射撃や爆撃による無数の弾痕に囲まれるガダルカナル島ヘンダーソン飛行場

なおも、大本営はガダルカナル島の奪還に拘り、ガダルカナル島へ増援や物資を運び込んだ。アメリカ海軍や航空機からの妨害を避けるために、夜間に高速の駆逐艦や潜水艦によって細々と物資輸送が続けられていたが、これは鼠輸送などとも呼ばれた。しかし、鼠輸送では輸送量に限りがあることから、再度、戦艦隊によってヘンダーソン飛行場を艦砲射撃で破壊し、その間に輸送艦でガダルカナル島に重装備の増援を送り込むことを計画した。日本海軍の意図を看破したアメリカ海軍は、ガダルカナル島海域にいる艦船を集結させて日本海軍を迎え撃った。11月13日から2夜に渡って繰り広げられた第三次ソロモン海戦は、開戦からこれまでで最も激しい艦船対艦船の戦いとなり、アメリカ軍とオーストラリア軍は2隻の巡洋艦と7隻もの駆逐艦を失ったが、日本海軍は戦艦2隻と輸送船11隻を失うなど、両軍ともに大きな痛手を負った。これで日本海軍は主力艦をガダルカナル島に投入する冒険を冒さなくなってしまった[457]

その後も、ガダルカナル島への鼠輸送は続けられ、11月30日には田中頼三少将率いる駆逐艦隊が、アメリカ海軍の巡洋艦隊と接触、ルンガ沖夜戦と呼称された戦いで、田中は圧倒的に戦力が勝るアメリカ軍に敢闘し、重巡洋艦ノーザンプトンを撃沈、ほか3隻を大破させるなど快勝して有終の美を飾ったが[458]、その後は、ヘンダーソン飛行場からの航空攻撃の激化やPTボートの跳梁もあって、鼠輸送も失敗が続いた。激戦によって大量の両軍の艦船が沈んだサボ島フロリダ諸島の南方、ガダルカナル島の北方に存在する海域はアイアンボトム・サウンド鉄底海峡)と称されるようになった。やがて、補給が届かなくなったガダルカナル島の日本軍将兵は飢えや病気で次々と倒れ、いつしか「飢島」と呼ばれることとなり、ガダルカナル島での勝敗は決した[46]

ガダルカナルで激戦が続いていた9月9日と29日には、日本海軍の伊十五型潜水艦「伊二十五」の潜水艦搭載偵察機零式小型水上偵察機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空襲、火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。死傷者こそなかったものの、この2度の空襲は、現在に至るまで外国軍機によるアメリカ合衆国本土への唯一の空襲となっている。日本軍によりアッツ島の本土上陸に続く、相次ぐ敗北に意気消沈する国民に精神的ダメージを与えないためにアメリカ政府は、ラジオや新聞などのマスコミに徹底的な緘口令(情報操作)を敷き、日本軍の本土爆撃があった事実を国民に対しひた隠しにする。実際アメリカ政府は、このことを連合軍の攻勢が強くなる1944年頃まで隠し通した。さらに帰路では通商破壊戦を行い、潜水艦や商船を3隻撃沈している。

1943年

ビルマ戦線

第一アキャブ作戦でインド領内に進攻した日本軍とインド国民軍(1943年5月)

1942年初頭にはビルマから一旦は駆逐されたイギリス軍であったが、インド軍最高司令官英語版アーチボルド・ウェーヴェル (初代ウェーヴェル伯爵)元帥はビルマ奪還を切望しており、首都ラングーンを奪還するための作戦計画として、ベンガル湾から水陸両用作戦で湾岸のデルタ地帯を進撃し、そのまま最短距離ラングーンに突入することを考えて、その前進拠点として、港湾施設があり、尚且つ広大な飛行場もあるアキャブ(現在のシットウェー)を攻略することとした[459]

作戦はインド東部軍英語版隷下のイギリス第15軍団英語版が投入されたが、インド東部軍司令官ノエル・アーウィン英語版中将が傲慢な人物で、イギリス第15軍団司令官ウィリアム・スリム中将とアーウィンとは全く馬が合わず、軍の指揮権を実質的にアーウィンが取り上げた状況になるなど、作戦指揮権で問題を内包した状態での作戦強行となった[460]。また、作戦には軍団の2個師団が投入される予定であったが、そのうちの1個師団は訓練度と装備の不足で投入が見送られ、結局1個師団と1個旅団が作戦に投入されることとなった。1942年末にイギリス軍は国境を越えてビルマに侵入したが、舟艇の数が不足しており、クリークが入り組んでいる地形で行軍速度は上がらなかった[461]

一方で日本軍も太平洋の戦況が風雲急を告げるなかで、ビルマに増援を送る余裕はなく、アキャブには1個連隊しか置いていなかった[462]。日本軍はわずかな戦力をアキャブ前面のラテドン英語版、ドンベイク(donbaik)に置いてイギリス軍を迎え撃ち、両軍は1943年1月に激突した(第一次アキャブ作戦[463]。戦力的に圧倒的に勝っていたイギリス軍であったが、日本軍はラテドンとドンベイクに強固な陣地を構築しており、イギリス軍は日本軍の防衛線を突破できなかった。特にドンベイクが激戦地となり、バレンタイン歩兵戦車を伴い[464]数倍の戦力で強攻するイギリス軍を日本軍は何度も撃退した。イギリス軍がアキャブ前面陣地を攻めあぐねている間、日本軍は増援の第55師団をイギリス軍の背後に回り込ませて、包囲殲滅を狙った[465][466]。背後から攻撃されたイギリス軍はたちまち崩壊し、攻撃主力のイギリス第6歩兵旅団英語版の旅団司令部も攻撃されて、ロナルド・キャベンディッシュ准将以下司令部の将官や参謀が全員捕虜となるといった有様であったが、後方からの激しい砲兵支援もあって、どうにか全滅だけは避けられた。イギリス軍は死傷者5,000人以上という大損害を被り、再度ビルマから叩き出され、この惨敗に懲りたイギリス軍は、これから1年以上、ビルマでの積極的な作戦展開を控えて、戦力充実を優先させることとなった[467]

1942年にラース・ビハーリー・ボースを指導者とするインド独立連盟英語版が昭南で設立された。連盟の指揮下にはイギリス領マラヤや昭南、香港などで捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていたインド国民軍が指揮下に入ったが、インド独立宣言の早期実現を主張する国民軍司令官モハン・シン英語版と、時期尚早であると考えていた日本軍、そして日本軍の意向を受けたビハーリー・ボースとの軋轢が強まっていた[468]。前年11月20日にモハン・シンは解任され、ビハーリー・ボースの体調も悪化したことで、日本軍はインド国民軍指導の後継者を求めるようになった。

国内外に知られた独立運動家であり、ドイツにいたスバス・チャンドラ・ボースはまさにうってつけの人物であり、またビハーリー・ボースと共に行動していたインド独立連盟幹部のA.M.ナイルもボースを後継者として招へいすることを進言した。しかし陸路、海路、空路ともに戦争状態にあり、イギリスの植民地下にあるインド人が移動するには困難が多かったため、日独両政府はボースの移送のための協議を行った。

インド洋上の伊号第二九潜水艦乗員とスバス・チャンドラ・ボース(1943年4月)

その結果、日本とドイツを結ぶ空路よりは潜水艦での移動の方が安全であると結論が出て、2月8日に、チャンドラ・ボースと側近アディド・ハサン英語版の乗り込んだドイツ海軍Uボート U180フランス大西洋岸のブレストを出航した。その後大西洋を南下し、イギリス軍の海軍基地のある南アフリカの喜望峰を大きく迂回し、4月26日にマダガスカル島東南沖[469]でU180と日本海軍伊号第二九潜水艦が会合し、翌4月27日に日本潜水艦に乗り込んだ[470]5月6日に伊号第二九潜水艦は、スマトラ島北端に位置する海軍特別根拠地隊指揮下のウェー島(サバン島)サバン港に到着した。現地で1週間ほど休養を取った後に日本軍の航空機に乗り換え、5月16日に東京の羽田飛行場に到着した[470]

3月に「ラジオ・トウキョウ放送」で、連合国軍向けプロパガンダ放送「ゼロ・アワー」が開始された。音楽と語りを中心に、アメリカ人捕虜が連合国軍兵士に向けて呼びかけるというスタイルを基本とした。英語を話す女性アナウンサーは複数存在したが、いずれも本名が放送されることはなく愛称もつけられていなかった[471]。放送を聴いていたアメリカ軍兵士たちは声の主に「東京ローズ」の愛称を付け[471]、その後太平洋前線のアメリカ軍兵士らに評判となった。同様の放送「日の丸アワー」も同年12月より行われた。

海軍甲事件とアッツ島玉砕

日本軍の魚雷を受け沈みゆくアメリカ海軍の「シカゴ」(1943年1月)

ガダルカナル島の戦いの勝敗も決した1943年(昭和18年)1月、カサブランカ会談が開催されて、太平洋正面での反攻のため、大西洋戦域と太平洋戦域の戦力の配分割合が改められた[472]。南太平洋海戦の結果、一時的に太平洋上で可動空母が0になるという窮地に陥ったアメリカ海軍であったが、サラトガとエンタープライズが修理を終えて復帰し、また、大量発注していたエセックス級航空母艦の1番艦エセックスも就役し、艦隊への合流も間近と本格的な反攻の準備も整いつつあった。一方で日本軍は、年明け早々にガダルカナル島からの撤退が決定、ガダルカナル島撤収作戦であるケ号作戦が開始された。日本海軍と空母隼鷹、瑞鳳の2隻の空母や基地航空隊によって支援された駆逐艦隊がガダルカナル島に突入して、陸軍兵士を撤退させるという作戦であり[473]、次から次へと新鋭艦をつぎ込みガダルカナル島封鎖を強化していたアメリカ海軍と衝突したが、1月29日には、レンネル島沖海戦重巡洋艦シカゴを撃沈、駆逐艦ラ・ヴァレットを撃破して[474]、アメリカ軍艦隊の牽制に成功した[475]

そして、1月31日にショートランド泊地から日本海軍の20隻の駆逐艦がガダルカナル島に向けて出発、護衛の零式艦上戦闘機30機の活躍と、基地航空隊の艦上爆撃機が、アメリカ軍駆逐艦ド・ヘイブンを撃沈するなどの露払いを行い、駆逐艦隊は多少の損傷艦を出しただけでガダルカナル島にたどりつき、飢餓と疫病に苦しむ日本軍将兵を収容した。その後も2月4日と7日にも同じように日本海軍の駆逐艦隊が、アメリカ海軍の厳重な警戒網を突破してガダルカナル島から日本軍将兵を救出、3回に及んだガダルカナル島への突入で、実に13,000人もの日本軍将兵を救出し[476]、その鮮やかな撤退は、アメリカ軍の戦史家の大家サミュエル・モリソンから「世界海戦の歴史において、これほど見事な撤退作戦はなかった」と称賛されたが、所詮は負けて退却した以外の何ものでもなかった。日本軍はミッドウエー海戦に続く手痛い敗戦となったが、膨大な人員に加えて、兵器や物資を失っており、その痛手は遥かに大きいものとなった。しかし、大本営はこの撤退を「転進」と発表し、敗北を国民にひた隠しにした[477]

ラバウルで友軍機の出撃を見送る山本五十六、この後の前線への移動中に戦死(1943年4月)

ガダルカナル島を失い、ニューギニア島でも連合軍の攻勢が強まっている戦況を危惧した連合艦隊司令長官山本五十六大将は、基地航空隊に加えて、空母の航空隊も陸上にあげて、日本海軍の航空戦力を結集し、ポートモレスビー、オロ湾、ミルン湾に対して空襲を行う「い号作戦」を計画、自ら最前線に乗り込んで直接指揮することとした。しかし、山本が集めた航空戦力は、基地航空隊190機と空母航空隊160機の350機に過ぎず、連合軍の航空戦力はおろか、日本海軍の開戦時の航空戦力にも見劣りするものであり、戦闘開始前から日本海軍内に沈痛な空気が漂っていたという[478]

作戦は4月6日に開始、連日日本海軍航空隊の大編隊が連合軍基地を攻撃し多大な戦果を報告してきたが、損害も決して少なくはなかった。最後の出撃となった4月14日には、山本自らラバウルから出撃する友軍機の出撃を見送った。120機もの航空機が出撃する間、山本は立ったままの姿勢を崩すことなく、ひたすらに軍帽を振り続けた[479]。い号作戦で日本海軍は50~60機の航空機を失いながら、アメリカ海軍の駆逐艦アーロン・ワードやオーストラリア海軍のコルベット艦、油槽船やオランダ商船ヴァン・ヘームスケルクなど4隻を沈めるなどの戦果に留まり、戦局を挽回するまでには至らなかった。

い号作戦終了後の4月18日、山本は戦意高揚のために最前線を視察することとしたが、この情報をアメリカ海軍情報局パープル暗号暗号解読して事前に掴んでいた。アメリカ軍は山本の暗殺を計画し、山本を殺害後の戦局に対する影響等も検討したが、日本軍の士気低下と真珠湾の復讐を目的とする「ヴェンジェンス(vengeance)」と称した山本暗殺作戦が実施された。作戦を決めたのはアメリカ海軍であったが、航続距離が長い陸軍のロッキード P-38戦闘機18機が、山本らの乗る一式陸上攻撃機ブーゲンビル島上空で待ち伏せし、護衛の零式艦上戦闘機を制して、山本の乗機を撃墜し、山本は戦死した[480](詳細は「海軍甲事件」を参照)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を5月21日まで伏せていたが、山本の死を戦意高揚とアメリカに対して敵愾心を煽るために利用することとし、元帥を没後追賜すると[481]国葬を実施[482]、マスコミ報道も山本戦死一色となり、「元帥死すとも山本魂は死せず、元帥に続け」「元帥の仇は増産で(討て)」などの標語をもとに、国防献金や兵器献納などの動きが国を挙げて行われた[483]

アッツ島でバンザイ突撃を敢行して全滅した日本軍守備隊(1943年5月)

ガダルカナル島で日本軍を打ち破り、戦況に余裕が生じたアメリカ軍は本格的な反攻の準備を開始した。その目標となったのが、今次大戦で唯一アメリカが敵軍に奪われていた領土となる北太平洋アリューシャン列島であり、ルーズベルトも国民世論から奪還に意欲を見せていた[484]。準備は1942年から進められていたが、ガダルカナル島の激戦により、北太平洋から戦力が南太平洋に転用されると、一旦は棚上げとなったが、ガダルカナル島の戦いの勝敗が決すると、北太平洋で大規模な軍事作戦が可能となり、1943年春にはアリューシャン列島奪還に向けて準備が加速した[485]

アメリカ軍の当初の攻略目標は、日本軍最大の拠点キスカ島であり、アメリカ軍はアリューシャン列島のアダック島アムチトカ島の進出し、飛行場を建築するなど着実に準備を進めていたが、アメリカ海軍からキスカ島は日本軍の防備が固く、攻略は困難であるため、キスカ島と比較すれば配置されている戦力も少ないアッツ島に攻略目標を変更するように進言があって、アメリカ陸軍も了承した[486]。そしてアリューシャン列島の厳しい冬が明けた1943年5月12日、真珠湾攻撃での損傷から戦線復帰した戦艦を含むアメリカ海軍に支援を受けた、アメリカ陸軍第7歩兵師団12,500人がアッツ島に上陸してきた。迎え撃つ日本軍守備隊は山崎保代大佐率いる2,650人であったが、その中には飛行場設営作業に従事していた軍属や、逓信省所属の郵便局員も含まれており[487]、地上兵力だけでも6倍以上、アメリカ軍の後方支援部隊を含めた30,000人の兵力と比較すると10数倍の戦力差があった[488]

圧倒的な戦力差でも山崎の指揮の元に日本軍守備隊は敢闘し、上陸してきたアメリカ軍に大損害を与えたが、大本営は南太平洋の戦局が厳しい中で、北太平洋に増援を送る余裕はなく早々にアッツ島放棄を決定した[489]。日本軍守備隊は孤立無援のなか、援軍を期待しながら戦い続けたものの、圧倒的な戦力差で進撃してくるアメリカ軍に追い詰められ、山崎は戦闘が開始されてから2週間以上が経過した5月29日に、生存者に最後の突撃を命じた。こうして5月30日未明に開戦以来初めてとなる、組織的なバンザイ突撃が敢行され[490]、日本軍守備隊は29人の捕虜を除いて全滅した[491]

結果的に、アッツ島の日本軍守備隊は2回の小規模な航空支援以外は、増援も物資補給もなく、見捨てられるような形で全滅したが、大本営はこの敗戦を守備隊の「玉砕」と美談化して大々的に国民に報じ、戦意高揚に利用し[492]、作家、歌人、詩人ら文化人もその国策に利用された。この後も、太平洋上で日本軍守備隊の「玉砕」が続くこととなるが、現実を直視しない戦意高揚目的の大本営発表と報道が続いていくこととなる。短期間のうちに行われたアッツ島玉砕と先の山本の戦死の大本営発表は、「山本元帥に続け、アッツの仇だ」などとマスコミに喧伝されるなど[493]、今次大戦における軍による情報統制とその利用の典型的な実例となったが、国民は敵愾心に煽られてそのことに気が付かず、同様な軍による情報統制と利用が終戦まで続いていくこととなった[494]。一方でアメリカ軍もアッツ島で、死傷者1,800人[495]、戦傷者2,132人[496]という甚大な損害を被ったが、この損害は、島嶼上陸作戦において後の硫黄島の戦いに匹敵する損害率となり、この後の水陸両用作戦の教訓となった[497][498]

ラバウル無力化

アメリカ軍に空襲されるラバウル飛行場

ガダルカナル島を攻略した連合軍はさらに南太平洋方面での攻勢を強化した。太平洋戦域の連合軍は、マッカーサー率いるアメリカ陸軍が主力の連合国南西太平洋軍英語版(SWPA)と、チェスター・ニミッツ提督率いるアメリカ海軍、アメリカ海兵隊主力の連合国太平洋軍英語版(POA)の2つに分権されていたが、マッカーサーは1943年3月のビスマルク海海戦勝利ののち、ニューギニアの戦いを有利に進めており、両方面軍は南太平洋の日本軍最大の拠点ラバウルを攻略するため、連携していくこととなった[499]

マッカーサー指揮下のリッチモンド・K・ターナー中将率いる水陸両用部隊は、ニミッツ指揮下のウィリアム・ハルゼー中将の空母部隊の支援を受け、ラッセル諸島を確保、1943年6月30日には日本軍の小部隊が配置されていたレンドバ島に侵攻し、レンドバ島の戦い英語版の末に攻略に成功した。さらに、ラバウルを攻撃する飛行場の候補地ムンダを確保するため、7月4日深夜に、ターナー配下の6,000人のアメリカ陸軍、アメリカ海兵隊混成部隊がニュージョージア島に上陸し、ニュージョージア島の戦いが始まった[500]。日本軍は反撃と、近隣のコロンバンガラ島への増援部隊の輸送のために艦隊を派遣、アメリカ海軍やニュージーランド海軍艦艇からなる艦隊と交戦し(コロンバンガラ島沖海戦)、軽巡洋艦神通を失いながらも、アメリカ、ニュージーランドの連合艦隊を壊滅させて、輸送作戦にも成功するなど快勝した。ムンダの戦い英語版でも、34,000人にまで膨れ上がったアメリカ軍相手に、その1/10の日本軍守備隊が善戦し20日間も海岸付近にくぎ付けにし、指揮官のジョン・へスター英語版少将が苦戦のあまりノイローゼとなり更迭されたほどであった。ガダルカナル島以降、南太平洋での地上戦では惨敗が続いた日本陸軍が、ここでアメリカ軍5,000人を死傷させるなど一矢を報いたが[501]、8月5日には日本軍は撤退し、ムンダに良好な飛行場を確保したアメリカ軍はラバウルへの空爆を強化した[500]

日本海軍は侵攻するアメリカ艦隊に果敢に戦いを挑み、10月にベララベラ島沖で行われた第二次ベララベラ海戦ではアメリカ海軍の駆逐艦1隻撃沈、同2隻を大破するなど局地的な勝利はあったが、アメリカ軍の進撃に対抗できず、コロンバンガラ島とベララベラ島を放棄して撤退せざるを得なかった(セ号作戦)。勢いに乗るマッカーサーはニュージョージア島を含む3方面からラバウルを目指しており、9月5日にナザブ空挺作戦英語版で空挺部隊が飛行場英語版を確保、航続距離の短い戦闘機のラバウル攻撃が可能となり、ウォルター・クルーガー少将のアメリカ陸軍もキリウィナ島ウッドラーク島英語版を確保して、ここにも飛行場が建設された[502]

11月にはブーゲンビル島にアメリカ陸軍、アメリカ海兵隊、ニュージーランド軍の連合軍34,000人が上陸、ラバウルの目と鼻の先に迫った。日本海軍も持てる総力を結集して迎撃し、実に第6次に渡ってブーゲンビル島沖航空戦が戦われ、アメリカ軍輸送艦隊撃滅のために出撃した日本艦隊とアメリカ艦隊との間でブーゲンビル島沖海戦も戦われたが、日本軍は大損害を被って撃退され、ブーゲンビル島の戦いにより、島の主要部は連合軍に奪われた[503]。ラバウルの喉元まで迫っていたアメリカ軍はついに、12月15日にはニューブリテン島の西部のマーカス岬(アラウェ)に上陸(アラウェの戦い英語版)、日本軍が水際撃滅を図るため、マーカス岬に進撃すると12月26日にはアメリカ第1海兵師団が、日本軍の背後となるグロスター岬に上陸し(グロスター岬の戦い)、日本軍を分断した。第8方面軍司令官今村均中将はかねてから構築していたラバウル要塞に立て籠って、アメリカ軍を迎え撃とうとしたが、マッカーサーはラバウルを孤立化させ無力化できればよく、無用な出血を防ぐためラバウルを封鎖すると進撃を停止した。一方今村も無用な玉砕は避け、10万人の将兵に現地自活を命じ、もはや戦略的には何の価値もなくなったラバウルは終戦まで占領されることはなかった[49]

今村はラバウル10万人、周囲の諸島に4万人の合計14万人の兵員が10年生きられる分の食糧を備蓄させ、旋盤や工具を持ち込んで兵器まで自作し、連合軍の攻撃を待ち構えていたが、大規模な戦闘はついになかった。連合軍は孤立させたラバウルの残存兵力を全く把握しておらず、終戦後に3,000人のオーストラリア軍が武装解除に来たが、あまりの多勢に無勢さに恐れをなして、陣地に籠ってしまったので、今村は日本兵に自ら捕虜収容所を構築させ、その構築した収容所に自ら入ることを命じた。さらには収容される自分たちを監視するオーストラリア軍の監視塔まで作ってあげるといったサービスぶりであった[504]

連合軍反攻

太平洋戦域での連合軍反攻図、ニューギニアからフィリピに進んでいるのがダグラス・マッカーサー指揮のSWPA、太平洋中央を進んでいるのがチェスター・ニミッツ指揮のPOA
タラワ島に上陸したアメリカ海兵隊(1943年11月)

南太平洋の戦局が決すると、1943年5月に第3回ワシントン会談で決定された、太平洋を2方面から進撃するという作戦計画が実施されることとなった[505]。これは、マッカーサーが、大戦初期に敗北を喫して敵前逃亡という屈辱を味わわされたフィリピンの奪還に強く拘り、その進路として、ニューギニアからフィリピンという比較的大きい陸地を経由していくという主張をしていたのに対し[506]。アメリカ海軍は従来からの対日戦ドクトリンである「オレンジ計画」に準じ、中部太平洋を太平洋の島嶼沿いに西進し日本本土に接近するという作戦を主張して譲らず、マッカーサーと海軍が対立していたので、アメリカ統合参謀本部はやむなくマッカーサーとアメリカ海軍両方の意見を採用して、2方面から太平洋を西進していくと決まったものであった[507]

1943年8月21日から8月24日の間には、カナダケベックアメリカ合衆国イギリスカナダフランスの四箇国が会談し、この会談により中部太平洋への侵攻作戦の具体案が決定した。ニミッツ指揮下の海兵隊が中部太平洋を進み、まずはギルバート諸島を攻略、次いで西方に転じて、クェゼリンエニウェトクグアムサイパンペリリューへと前進し、マッカーサーはビスマルク諸島とニューギニアを攻略して、両軍はフィリピン台湾で一本になると決められた。このような連合国の会議では、これまではイギリス首相のチャーチルがドイツが降伏するまではヨーロッパ戦線を優先すべきと主張し、ヨーロッパ戦線と太平洋戦線の戦力比に格差をつけられていたが、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長アーネスト・キング合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長は「日本軍を過小評価している」と強く主張、太平洋方面の連合軍戦力倍増を認めさせ、雄大な2正面作戦が決定した[508]。この決定により統合参謀本部は1943年7月20日、連合国太平洋軍司令官ニミッツに対し、11月15日頃にギルバート諸島タラワアパママ及びナウルを攻略し、翌1944年1月頃にマーシャル諸島を攻略するように下令した。しかし、ニミッツはナウルよりはマキンの方が地形的にも作戦が容易と上申し、統合参謀本部もニミッツの上申を受け入れて、目標をナウルからマキンへと変更した[509]

ギルバート諸島の攻略作戦は「ガルヴァニック作戦」と名付けられ、タラワとマキンを同時に攻略する計画であったが、主目標はタラワで、第2海兵師団が攻略することとなっていた。両島には飛行場を整備して今後の中部太平洋侵攻作戦の支援基地とする計画であった。11月20日にタラワとマキンに同時にアメリカ海兵隊とアメリカ陸軍が上陸したが、両島ともにアメリカ軍は予想外の大苦戦を強いられた。タラワの戦いでは柴崎恵次少将の指揮によって全島が要塞化されており、海岸は日本軍守備隊の反撃によってアメリカ海兵隊の血で赤く染まり、のちに「恐怖のタラワ」と呼ばれるほどの大損害を被った[510]マキンの戦いでも、実質23倍のアメリカ陸軍部隊に[511]、わずか軍人353人(ほか軍属340人うち朝鮮出身200人)の日本軍守備隊[512]が敢闘し、アメリカ陸軍部隊が足止めを食らっている間に支援艦隊旗艦の護衛空母リスカム・ベイ伊175の雷撃で撃沈、艦隊司令官ヘンリー・M・ムリニクス少将と艦長のアーヴィング・ウィルツィー英語版大佐を含む701名の乗組員と共に海中に没した[513]。地上でも指揮官の第165歩兵連隊長ガーディナー・コンロイ大佐が日本軍の狙撃で戦死しており、攻撃側の陸海軍指揮官がいずれも戦死するといった異例事態となった[514]

辛くも両島を攻略したアメリカ軍は、先のアッツ島での苦戦も含めて参考にし、水陸両用作戦の改良を進めて、1944年からのマーシャル諸島への侵攻作戦ではその教訓を活かすこととなった[515]

大東亜会議

大東亜会議に参加した各国首脳。左からバー・モウ張景恵、汪兆銘、東條英機、ナラーティップポンプラパンホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース(1943年11月)

外相重光葵の提案を元に、11月に日本の首相東條英機は、満洲国、タイ王国、フィリピン、ビルマ自由インド仮政府中華民国南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、イギリスやアメリカ、オランダなどの白人国家の宗主国を放逐した日本の協力を受けて独立したアジア各国、そして日本の占領下で独立準備中の各国政府首脳を召集、連合国の「大西洋憲章」に対抗して「大東亜共同宣言」を採択し、大東亜共栄圏の結束を誇示する。

1944年

インパール作戦

ビルマのジャングルをパトロールするイギリス軍インド兵

ビルマ方面では日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていた。イギリス軍は前年の第一次アキャブ作戦の惨敗を分析して、大量の輸送機を活用した新戦術を編み出し、アメリカからのレンドリースによって着々と準備を整えたが、一方で日本軍はこの勝利に慢心して、イギリス軍を侮るようになったうえ、大量の物資を鹵獲したことによって「チャーチル給与」などと称し、作戦計画で安易に敵からの鹵獲品をあてにするようになってしまった[516]。イギリス軍は新戦術の成果を試す意味もあって、東アフリカ戦線ゲリラ戦で活躍したオード・ウィンゲートに特殊部隊チンディットを与えて、北ビルマで空輸を糧として日本軍の後方を攪乱させて一定の成果を得た。これにより今まで安全地域と思われていた北ビルマに緊張が走り、日本軍はその防衛強化を迫られることとなった[517]第15軍の司令官牟田口廉也中将は、防衛に徹するよりはむしろ積極的な攻勢でインド領内の重要拠点インパールを攻略し、イギリス軍の機先を制して北ビルマの安全を確保するといった攻撃防御的な作戦を考えた。さらにインド領内深くまで侵攻し、インド独立運動家スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍とも連携して、イギリスのインド支配を動揺させて、連合軍から脱落させるという壮大な構想も抱いた[518]。この構想は、太平洋正面の戦況悪化に悩む東条英機陸相(首相兼任)にも期待され、緬甸方面軍司令官河辺正三大将にも支持された[519]

しかし、北ビルマとインド国境には険しいアラカン山脈があり、これを超えての大規模な進攻作戦は主に補給兵站の面で困難なものと思われた。牟田口の作戦計画はその困難に対して十分な対策を講じていない強引なものであったが、インド進攻に期待している軍中央の方針もあって[520]、次第に反対意見が封じられていき、補給や兵站の問題の解決策がないままで牟田口の強引な作戦計画が決定された[521]。そんな中でイギリス軍の反攻も開始されており、チンディットによる日本軍背後への空挺降下作戦や、アキャブへの再侵攻に対して緬甸方面軍は対応に迫られた。アキャブへの再侵攻に対しては、前年の第一次アキャブ作戦の際と同様に、日本軍は侵攻してきたイギリス軍を包囲して殲滅しようとしたが、イギリス軍が編み出していた新戦術「アドミン・ボックス(管理箱)」と呼ばれた密集陣を前に敗北を喫した(第二次アキャブ作戦[522]。この戦術は、日本軍の包囲によってイギリス軍部隊が孤立しても、豊富な輸送機で補給物資を空輸し続けて防御を固めて、攻撃してくる日本軍を消耗させるというものであった。この戦いでこれまでイギリス軍に対しては常勝であった日本軍が初めて敗北を喫し、ビルマでの戦局逆転のきっかけともなった[523]

1944年3月8日に開始されたインパール作戦は、作戦当初は隷下の3個師団の奮闘もあり、チンドウィン川を奇襲渡河成功、ほぼ人力で軍需物資を輸送しながら途中の軍事拠点を攻略し、4月6日には第31師団(烈)が要衝コヒマを占領、インパールの孤立化に成功し、ビルマ戦線の最重要補給拠点ディマプルを脅かした[524]。日本軍の進撃速度はイギリス軍の予想を遥かに上回るもので、ディマプルはほぼ無防備であり、牟田口はディマプルの攻略とインドアッサム州への進撃を命じた。しかしこの命令は当初の作戦計画を逸脱するもので、軍の規律を重視する河辺から取り消された[525]。戦後のイギリス軍による分析では、ディマプルが攻略されればビルマ方面の連合軍の補給が困難になるばかりではなく、大量の戦略物資を奪取でき、補給問題を解決できるといった日本軍にとっての唯一のチャンスであり、日本軍は組織の硬直性と消極性で最大のチャンスを逃してしまったと批判されている[526]

日本軍の攻勢はここまでで、イギリス軍は大量の輸送機をもって孤立したインパールに大量の物資を送り続け、インパールとその周辺の防備は強化される一方で第15軍の進撃は完全に停滞してしまった。牟田口の「3週間以内にインパールを攻略する」という方針もあって[527]、第15軍は食料を3週間分しか携行していなかったうえ、厳しいアラカン山脈に阻まれて前線に殆ど補給品を届けることができず、第15軍では飢餓が始まっていた。やがて5月に入って雨季が始まると、飢餓に加えて感染症が蔓延して、大量の傷病者を抱えて戦闘力が著しく低下した[528]。牟田口や河辺は4月末には作戦の失敗を認識していたが、作戦中止を決断することができず、その間第15軍兵士に餓死者病死者が増え続けた。決断できない軍司令部に業を煮やした第31師団(烈)長佐藤幸徳中将が、日本陸軍始まって以来初めての師団長による独断撤退を開始した。牟田口と河辺は反抗的な佐藤に加えて、指揮力不足を名目に他の2人の師団長も更迭し、これも日本陸軍始まって以来の作戦途中の全師団長更迭という珍事となった[529]。さすがにここで牟田口も作戦失敗を認識し、大本営の決裁を受けて7月12日に緬甸方面軍から作戦中止命令が出された。その後の撤退も凄惨を極め、多くの兵士が飢餓や病気で命を落とし、第15軍が撤退した道は「白骨街道」と呼ばれることとなり、作戦全体の死者は約30,000人にもなった[530]

インパール作戦の失敗によってビルマ戦線の戦局は完全に逆転した。イギリス軍の追撃に加えて、アメリカ軍とアメリカ軍式装備の中国軍も拉孟・騰越の戦いで日本軍守備隊を撃破するとビルマ領内に侵攻し、ビルマ戦線は崩壊の一途を辿っていく。日本軍はイラワジ会戦でもイギリス軍に敗北を喫すると、翌1945年(昭和20年)3月には、アウン・サン将軍率いるビルマ国民軍が連合軍側へと離反し、日本はビルマを失陥することとなった。なお、当作戦を始め、ビルマで命を落とした日本軍将兵の数は16万人におよび、中国大陸、フィリピンに次ぐ3番目に戦死者が多かった戦場となっている[10]。一方で連合軍全体での人的損害(戦病を除く)も207,203人以上という甚大なものとなった。しかし、もっとも大きな損害を被ったのは戦場となったビルマ国民であり、その犠牲者は最大で1,000,000人に達したとの推計もある[531]

大陸打通作戦

洛陽を進軍する日本軍の機甲部隊(1944年5月)

3月30日には北樺太に関する条約の締結により日本の樺太オハ油田の権利がソ連に譲渡され、燃料廠は燃料源の一つを失った。さらに第101燃料廠によるニューギニア島西部のクラモノ油田開発は北樺太石油南進隊の技術者たちがビアク島の戦いに巻き込まれて多くが死亡し撤退を余儀なくされた[注釈 23]

しかし日本軍は5月頃、アメリカ軍やイギリス軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で、日本側の投入総兵力50万人、800台の戦車と7万の騎馬を動員した作戦距離2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦を開始し、ここに日本陸軍の建軍以来最大の攻勢である「大陸打通作戦」が開始された。

作戦自体は、京漢鉄道の黄河鉄橋の修復を1943年末に開始し、関東軍の備蓄資材などを利用して1944年3月末までに開通させるなど、周到な準備が行われていた。対する河南の中華民国軍は糧食を住民からの徴発による現地調達に頼っていたため、現地住民の支持を得ることができなかった。これが中華民国軍の敗北の大きな一因になったといわれる[532]蔣鼎文によるとほとんど一揆のような状態だったという。

仏領インドシナのサイゴン市内を移動する日本陸軍

日本陸軍の攻撃を受けて、4月にアメリカ軍は最新鋭爆撃機である出来たばかりのボーイングB-29の基地を成都まで後退させている。また長沙、その後1944年11月には桂林、柳州の中華民国軍とアメリカ軍の共同飛行場も占領したが、すでにもぬけの殻であり連合国軍は撤退していた。日本軍は、中華民国軍とアメリカ軍を12月まで相手に、計画通りに連合国軍の航空基地の占領に成功し勝利を収め、結果として日本軍の最大の陣地の中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となった。連合国軍は航空基地をさらに内陸部に撤退せざるを余儀なくされた。

ルーズベルトは中華民国の蔣介石を開戦以来一貫して強く信頼しかつ支持していた。カイロ会談の際に、蔣介石を日本との単独講和で連合国から脱落しないよう、対日戦争で激励し期待をかけたが、大陸打通作戦作戦により蔣介石の戦線が総崩れになったことでその考え方を改めたという。実際、これ以降蔣介石が連合国の重要会議(「ヤルタ会談」と「ポツダム会談」)に招かれることはなくなった。

5月17日に、イギリス海軍とアメリカ海軍の合同機動部隊は、ジャワ島スラバヤの日本軍基地へ航空攻撃を開始し(「トランサム作戦」)、日本軍の航空機や艦船、陸上施設に打撃を与えることに成功した。これは極東でのイギリス海軍航空隊による最初の大規模な反撃で、以降アメリカ軍だけでなく、イギリス軍やオーストラリア軍も日本に対して反撃に転じることになる。また6月にポルトガルのアントニオ・サラザール首相は、日本に対しティモール島からの日本軍撤退を正式に要請した。しかし日本軍は即座に撤退は行わず、日本軍が撤退したのは日本の敗戦後であった。

絶対国防圏

戦死した山本五十六元帥の遺骨を日本内地に届けた戦艦武蔵上での記念撮影、最前列中央が昭和天皇、右に松平恒雄宮内大臣、嶋田繁太郎海軍大臣、古賀峯一新連合艦隊司令長官

南太平洋やニューギニアでの敗北を受けて、大本営は広がり切った戦線を集約しようという方針の検討を始めた。陸海軍による調整の末、1943年9月30日の閣議及び御前会議で決定された「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」において「帝国戦争遂行上太平洋印度洋方面ニ於テ絶対確保スヘキ要域ヲ千島小笠原内南洋(中西部)及西部「ニューギニア」「スンダ」「ビルマ」ヲ含ム圏域トス」とする「絶対国防圏」が決定されたが、一旦は思い切って戦線を集約して防御態勢を再構築しようとする陸軍と、艦隊決戦を望む海軍との意見の相違もあり、絶対国防圏とは名ばかりで、防衛体制構築はなかなか進まなかった[533]。防衛体制構築が進まない日本軍に対してアメリカ軍の侵攻は急であり、1944年2月にマーシャルに侵攻しこれを占領、さらに1944年2月17日のトラック島空襲で日本海軍の重要拠点トラック島は壊滅した。ここに至って、大本営はようやく絶対国防圏の中核となるマリアナ諸島の防衛強化に乗り出した[534]

戦死した山本の後任の連合艦隊司令長官古賀峯一大将は、マリアナ諸島〜西カロリン〜西部ニューギニアを結ぶ三角地帯に邀撃帯を設けて、侵攻してきたアメリカ軍艦隊を、機動部隊と基地航空隊で叩くとする新Z号作戦を策定したが、海軍乙事件で作戦前に殉職してしまった。古賀殉職後も、軍令部が中心となって作戦検討が進められ、5月3日には「連合艦隊ノ当面準拠スベキ作戦方針」によって「あ号作戦」が決定された[535][536]。連合艦隊はあ号作戦のため、第一機動艦隊(空母9隻、搭載機数約440機)を新設すると共に基地航空隊の第一航空艦隊を中部太平洋に配置した[537]。機動部隊の艦載機と航空基地からの陸上機によって、アメリカ軍の侵攻艦隊を挟撃して撃滅しようという作戦計画であり、マリアナ諸島に配置された第1航空艦隊の定数は1,750機と表面上は大戦力であったが、実際に配備されたのはその半数の750機で、うち可動機は500機程度にすぎず[538]、さらにアメリカ軍による再三の空襲により次第に損耗し、5月15日時点でのマリアナの航空戦力は275機にまで減っていた[539]

陸軍も、1944年2月25日に第31軍(司令官:小畑英良中将、参謀長:井桁敬治少将)を編成して、マリアナ諸島、パラオ小笠原諸島の防衛を担当させ[540]、西部ニューギニアに派遣予定であった第14師団サイパン島に送って防備を固めることとし、3月20日に第31軍の戦闘序列に加えた[541]。しかし、3月30日にアメリカ軍機動部隊によるパラオ大空襲があり、パラオが基地機能を失うような大打撃を被ると、大本営はマリアナより先にパラオに侵攻してくる可能性が高いと判断、わずか10日前にサイパン進出を命じた第14師団を急遽パラオに送ることとし、その代わりに後詰として4月7日になって第43師団(師団長:斎藤義次中将)を日本本土よりマリアナに送ることとした[542]。しかし、この決定の時点では第43師団は未だ動員すらされておらず、準備や訓練で出発まで1ヶ月以上を要することとなり、この遅れがのちのサイパンの防衛準備に重大な影響をもたらすことになる[543]。大本営の多くの参謀が「マリアナへの侵攻は1944年末」と見ていたことから、陣地構築の計画は後ろ倒しとされており[544]、大本営は、第43師団の各部隊が、サイパン島に順次到着した5月になってからようやく「水際撃滅戦のため、諸隊は遅くとも到着後1ヶ月以内に野戦陣地を完成、3ヶ月以内に堅固なる陣地を完成すべし」という命令を出している[545]。従って、大本営が目論んでいたサイパンの要塞化は最速でも1944年9月以降ということになり、実際にアメリカ軍が侵攻してきた6月には“野戦陣地”程度しか完成していなかった[546]

ギルバート諸島、マーシャル諸島を攻略したアメリカ軍は次にマリアナ諸島の攻略を計画していた。しかし、フィリピンの早期奪還を目指すマッカーサーは、マリアナ攻略の断念を主張していた[547] 。一方で、合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長キングは、アメリカ海軍の従来からのドクトリンである中部太平洋進撃を強く主張、マリアナを拠点に新鋭戦略爆撃機B-29による日本本土空襲を行うべきと主張していたアメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・ハップ・アーノルド将軍と連携した。既に中国本土から日本本土を空襲するマッターホルン計画が検討されていたが、中国からではB-29の航続距離をもってしても九州を爆撃するのが精いっぱいであり、東京を含む日本本土の主要地区を爆撃圏内に収めることができるマリアナをアーノルドは喉から手が出る程に欲していた[548]。マッカーサーは自分の腹心である極東空軍(Far East Air Force, FEAF)司令官ジョージ・ケニー英語版少将を使って、アーノルドの動きを妨害したが、キングとアーノルドは、マッカーサーに理解を示していた陸軍参謀総長マーシャルに、マリアナの戦略的価値を説き続けついには納得させた[549]。そして、1944年3月にアメリカ統合参謀本部ワシントンで太平洋における戦略会議を開催し、空襲によって無力化されたトラックを迂回して、マリアナ侵攻のフォレージャー作戦(掠奪者作戦)を1944年6月に前倒しすることが決定された[550]

サイパンの戦いとマリアナ沖海戦

マリアナ沖海戦にて、攻撃を受ける日本の空母の瑞鶴および2隻の駆逐艦(1944年6月)

6月9日、レイモンド・スプルーアンス大将率いる、合計535隻の艦船が127,000人の将兵を乗せ、マジュロ環礁を出撃しサイパンに向かった[551]。6月11日、上陸に先立って日本軍の航空戦力を叩くべく、スプルーアンスの本隊より先行していた第58任務部隊が、マリアナの日本軍基地を延べ1,100機の艦載機で空襲した[552]。完全に奇襲となったうえ、日本軍航空戦力の多くが渾作戦に派遣されており、邀撃戦は分散且つ少数機で行われ、この日だけで日本軍は100機の航空機を撃墜撃破されたのにも関わらず、アメリカ軍の損失はわずか11機であった[553]。翌12日にもアメリカ軍の艦載機による空襲があり、これで日本軍航空戦力は壊滅し、アメリカ軍艦隊を地上の基地航空隊と機動部隊で挟撃しようという「あ号作戦」の計画は実現困難となってしまった[554]。13日にはW・A・リー中将率いる第58任務部隊第7機動群の高速戦艦隊がサイパン島に対する艦砲射撃を開始し、連合艦隊はこの13日をもって「マリアナに来攻中の米機動部隊は米主力艦隊でしかも攻略企図をもっていると思われるので、連合艦隊は主力をもって決戦配備に移ることに決した」と渾作戦を中止し「あ号作戦決戦用意」を発令した[555]豊田副武連合艦隊司令長官は全軍に対し『皇国ノ興廃此ノ一戦二在リ、各員一層奮励努力セヨ』と宣し、士気を鼓舞し、アメリカ海軍機動部隊殲滅のため、第一機動艦隊がフィリピンのギマラスよりマリアナに向けて出撃した[556]

6月15日に激しい艦砲射撃の後、アメリカ海兵隊2個師団が上陸を開始した。陣地構築不十分で日本軍は艦砲射撃で甚大な損害を被ってはいたものの、それでも残った戦力は激烈な反撃を開始し、サイパンの砂浜はたちまち海兵隊員の死傷者で埋め尽くされた[557]。予想外の苦戦に上陸部隊指揮官ホーランド・スミス海兵中将は、日本軍の兵力が想定より多かったことを認識し[558]、同行していた従軍記者の間に「これは本当の危機らしいぞ」という緊張が走った[559]。それでも、アメリカ軍は損害度外視で増援を次々と上陸させて、どうにか計画の半分程度の広さの橋頭堡を確保した。上陸初日のアメリカ軍死傷者は2,000名以上となり、上陸したアメリカ軍の10%にも達しているが[560]、これは、のちの硫黄島の戦いにおける上陸初日の死傷率8%を上回るものとなった[561]。指揮官の死傷も相次ぎ、第2海兵師団の10人の大隊長のうち、この日だけで5人の大隊長が死傷したが、ある大隊では続けて3人の大隊長を失っている[562]。日本軍の防衛計画によれば、上陸初日の体制が整っていないアメリカ軍に対して戦車部隊を含めた反撃を行う予定であったが、連携不足で小規模な反撃に留まり、アメリカ軍に撃退された。総反撃は翌16日の夜となり、日本軍は30輌の戦車を主力としてアメリカ軍を水際撃滅すべく夜間突撃したが、既にアメリカ軍は昨日の痛手から立ち直っており、日本軍は大損害を被って撃退されてしまった[563]

6月19日には第一機動艦隊が第58任務部隊と激突(マリアナ沖海戦)、第一機動艦隊は空母9隻という、日本海軍史上最大規模の艦隊であり、さらに偵察の成功で先に第58任務部隊を発見、指揮官の小沢治三郎中将は、日本軍艦載機の利点であった航続距離の長さを利用したアウトレンジ戦法[564]で遠距離からの攻撃を命じたが、アメリカ軍はこれまでの日本海軍との激戦により、飛躍的に技術と戦術を向上させており、レーダーで日本軍攻撃隊を発見すると、新鋭戦闘機F6Fヘルキャット多数を出撃させ待ち構えた。やがて日本軍攻撃隊が接近すると、圧倒的多数のF6Fヘルキャットが襲い掛かって次々と撃墜し、その有様は「マリアナの七面鳥撃ち(Great Marianas Turkey Shoot)」などと揶揄された。先に敵を発見するという幸運を全く活かすことができなかった第一機動艦隊は、アメリカ海軍の反撃で旗艦大鳳以下空母3隻を失うという惨敗を喫し、撤退を余儀なくされた(マリアナ沖海戦[565]。あ号作戦が全くの失敗に終わった日本軍にサイパン島を救援する力は残されておらず、6月24日には東條がサイパン奪回の断念を上奏したが、昭和天皇は納得せずに翌25日に自ら再度元帥会議を開催し再検討させた。しかし、ここでも結論は変わらず[566]、これによりサイパンは実質的に放棄が決定された[567]

総反撃の失敗で大損害を被った後の日本軍守備隊は、増援を信じて持久戦術に移行し、島中央のタポチョ山ではアメリカ軍に大量の出血を強いたが、6月25日にはサイパン最大の市街地ガラパンへの侵入を許してしまった。ガラパンでも日本軍守備隊は激しく抵抗し、太平洋戦争開戦以来最大の市街戦となったが、7月4日には、かつては「南洋の東京」などとも呼ばれて栄華を誇ったガラパンは[568]、90cmから120cm程度の高さの瓦礫の山と化してアメリカ軍の手に落ちた[569]。日本本国に見捨てられたサイパン守備隊は組織的な抵抗力を喪失しており、7月6日に中部太平洋方面艦隊司令長官南雲忠一中将と第43師団長斎藤が、生存している全将兵に対して訓示と総攻撃の命令を行い[570]、その後自決した[571]。そして、生き残っていた陸海軍将兵に民間人を加えた3,000人が最後のバンザイ突撃を敢行して玉砕した[572]。この戦いで日本軍は戦死者25,000人に加え、負傷兵など5,000人が捕虜になることを拒み自決した[573]。アメリカ軍の死傷者も16,879人にのぼり[574][575]、損耗率はアメリカ軍が恐怖と呼んだタラワの戦いと同じ20%を超える高い確率となり、指揮官のスプルーアンスは今後の戦いはサイパン戦で立証された通り、長期間に及び、またそして多大な犠牲を強いられるようになると確信した[576]

サイパンは日本の委任統治領であり、主に沖縄県から移民が移住し、1943年8月の時点での日本人の人口は29,348人となっていた[577]。しかし、マリアナ諸島防衛が真剣に検討されるようになると、1944年(昭和19年)2月には兵員増強や物資補給の輸送船の帰りの便を利用して、婦女子・老人の日本への帰国が計画された。しかし、3月の帰国船「亜米利加丸」がアメリカの潜水艦に撃沈され、500名の民間人ほぼ全員が死亡するなどの事件があったため、疎開は進まず[578]、アメリカ軍上陸時点で約20,000人の日本人移民が戦闘に巻き込まれることとなった[579]。日本軍守備隊に組織的な住民保護策はなく、住民は戦闘に巻き込まれて次々と倒れ、さらにバンザイ突撃で日本軍守備隊が玉砕すると、島端まで追い詰められた日本人住民は、バンザイクリフスーサイドクリフから海に飛び込んだり、集団で手榴弾で爆死したりと集団自決を遂げた[580][581]。日本人住民の犠牲者の正確な数は不明であるが、10,000人に達したと推計されている[582]。その後、マリアナ諸島のグアム島テニアン島もアメリカ軍に攻略され、B-29による首都東京への空襲が現実化した。

東條英機失脚

サイパンにアメリカ軍が侵攻した6月には、中華民国の成都より九州官営八幡製鐵所を主目的としてアメリカ軍の新型爆撃機であるボーイングB-29による日本初空襲が実施された。この空襲の主な目的であった八幡製鐵所の爆撃による被害は軽微で生産に影響はなかった。その上6機が撃墜されている。しかしこのB-29による日本本土初空襲が両国に与えた衝撃は実際の爆撃の効果以上に大きかった。日本側はその出撃を事前に察知できず、支那派遣軍は陸軍中央に対して面目を失うこととなった。一方、アメリカでは本格的な日本本土初空襲成功の知らせは、素晴らしいニュースとして大々的に報じられ、ニュースが読み上げられてる間は国会の議事は停止されたほどであった。しかしその後の中華民国からの爆撃は九州を標的とした小規模なものとなり、本格的な本土空襲は11月にサイパン島とテニアンの基地が出来るのを待つこととなる。

サイパンの戦いの敗北で、今まで押さえつけられていた反東條の動きが活発化した。東條の腹心であった陸軍次官冨永恭次中将と陸軍省軍務局長佐藤賢了中将は、反東條の重臣岡田啓介近衛文麿らに「東條を倒せば敗戦につながり、そうすれば敗戦の責任はあげてあなたがたにある」などと恫喝し倒閣工作を止めるよう釘を刺したが、この動きは全くの逆効果であり、重臣らの反東條の感情を煽ることになってしまった[583]。東條は内閣改造で乗り切ろうとしたが、東條の腹心であったはずの無任所相岸信介が「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産できず、軍需次官としての責任を全うできないから講和すべし」と造反し暗礁にのりあげる。富永と佐藤は東條に、「国賊どもを逮捕しろ」と重臣たちや岸の逮捕を進言し、クーデターの案まで飛び出したが、もはや東條らに復活の目がないのは明らかであり、東條は7月18日に辞意を表明して東條内閣は総辞職した[584]。東條は、せめて陸軍大臣としての留任を画策し、次期陸軍大臣と目されていた梅津美治郎を参謀総長に据える人事を行ったが、その梅津に東條が自分の陸軍大臣留任を申し出たところ、「そうすれば部外から陸軍が破壊される」と強硬に反対されることとなった。それでも東條はなおも陸軍大臣留任を訴えていたが、海軍大臣米内光政が決定したという情報を聞くと、東條は全てを諦めて予備役行きとなった[585]

ヨーロッパでは連合国軍がフランスに再上陸を果たし、その後シャルル・ド・ゴール率いる自由フランスと連合国軍がフランスの大半を奪還したことで、同年8月25日にヴィシー政権が事実上消滅した。これに対して日本政府は「フランス領インドシナ政府はすでに本国に政府が存在しない」という見解を採り、新たな正統政府に対応を一任する考えを明らかにした[586]。これを受けて9月14日の最高戦争指導会議では「フランス領インドシナ政府が日本に対して離反・反抗する場合には、武力処理を行う」ことを定めた「情勢の変化に応ずる対仏印措置に関する件」が決定されたが、これは原則として現状を維持するものであった[587]

サイパンのイズリー飛行場で日本軍機の空襲により地上撃破されたボーイングB-29の残骸

8月にはアメリカ軍は占領したテニアン島とサイパン島の日本軍の基地の改修を解消し、大型爆撃機の発着可能な滑走路の建設を開始した。これにより、日本の東北地方北部と北海道を除く、ほぼ全土がアメリカ空軍の最新鋭爆撃機であるボーイングB-29の航続距離内に入り、本土空襲の脅威を受けるようになる。実際に11月24日から、サイパン島の基地から飛び立ったボーイングB-29が初めて首都圏を爆撃、東京の中島飛行機武蔵野製作所を爆撃した。しかし日本軍もサイパン島から撤退したもののサイパン島のアメリカ軍基地への奇襲攻撃を続け、大きな被害を出し続け、アメリカ軍は基地増設に4か月かかってしまう。その分本土空襲が本格化するのも1945年初頭になってしまう。また、この頃には既に戦争終結と戦後処理に向けた連合国の会合「ダンバートン・オークス会議」がアメリカ・ワシントンDCで行われていた。

日本軍持久戦術への転換

ペリリュー島上陸作戦で戦死したアメリカ海兵隊員(1944年9月)

日本軍はこれまで、1943年中のタラワの戦いやマキンの戦い、1944年2月に行われたクェゼリンの戦いエニウェトクの戦いなどで、上陸してくるアメリカ軍に対して水際撃滅作戦をとり、圧倒的なアメリカ軍の前に短期間で守備隊が玉砕していた[510]。その流れを変えたのが、1944年5月27日から始まったビアク島の戦いであった。ラバウルを無力化し勢いにのるマッカーサーは、ニューギニア作戦の集大成と、ニミッツによるサイパンの戦い支援の航空基地確保のため、ニューギニア西部のビアク島攻略を決めた[588]。ビアク島には日本軍が設営した飛行場があり、マリアナ攻略の航空支援基地として重要な位置にあったので[589]、ビアク守備隊支隊長の歩兵第222連隊長葛目直幸大佐は[590]、アメリカ軍を長期間足止めして、飛行場利用を妨害すべく、海岸を見下ろす台地に堅固な陣地を構築し、上陸してきたアメリカ軍を十分に引き寄せてから集中砲火を浴びせて大損害を被らせた[591]。その後も葛目は、徹底した遅滞戦術でアメリカ軍の進撃を阻止し続けたが[588]、ビアク島の攻略が遅遅として進まないことで、ニミッツに対して恥をかくと考えたマッカーサーは、上陸した第41歩兵師団英語版師団長ホレース・フラー英語版少将をクルーガーを通じて急かしたが、無理な進撃で大損害を被ることを恐れたフラーは引き続き慎重に進撃していった[592]。苦戦を続けるフラーに激怒したマッカーサーは、6月14日にフラーを上陸部隊司令官と第41歩兵師団師団長から更迭した[593]。しかし、師団長を挿げ替えても戦況が大きく好転することはなく、ビアク島の飛行場が稼働し始めたのは6月22日になり、サイパンの戦いにもマリアナ沖海戦にも間に合わなかった。ビアク島攻略後にマッカーサーはフラーの名誉を回復させるため功労勲章英語版を授与したが、ビアク島の戦いはマッカーサーにとっても、フラーにとっても敗戦に近いような後味の悪い戦いとなった[594]

1944年9月15日にはパラオ諸島のペリリュー島にアメリカ軍が侵攻し、ペリリューの戦いが開始された。アメリカ軍はこの後にフィリピンレイテ島への侵攻を計画しており、その前進基地としてペリリュー島の確保を目指したものであったが[595]、ペリリュー島守備隊指揮官中川州男大佐は、これまでのアメリカ軍の島嶼上陸作戦を緻密に研究しており、ペリリュー島にあった多数の洞穴を利用し陣地を構築、全島を要塞化して待ち構えていた[596]。中川率いる日本軍守備隊は、上陸してきたウィリアム・リュパータス少将率いるアメリカ第1海兵師団に、まずは海岸で痛撃して大損害を与え、海岸陣地が危うくなると、即座に戦線を後退させ[597]、飛行場付近の戦闘でも大損害を与えた。アメリカ第1海兵師団は、ガダルカナルの戦い以降、各地で勝利を重ねてきた歴戦師団であったが、予想外の苦戦で、歴戦のベテラン海兵隊員たち多数が死傷した[598]。中川は島中央の洞穴団地で最後までアメリカ第1海兵師団に出血を強い、大損害を被ったアメリカ第1海兵師団は第81歩兵師団(山猫部隊 Wildcat英語版と交代して撤退を余儀なくされた[599]。リュパータスが4日でペリリュー島を攻略すると豪語したのにも関わらず、中川は11月24日まで守り抜き「サクラサクラサクラ」の最期の打電を行って自決、11月27日になってようやく全島がアメリカ軍の手に落ち[600]、目的のレイテ島作戦の支援には全く間に合わなかった。日本軍守備隊は指揮官の中川以下約10,000人が戦死したが[601]、アメリカ軍も同数の死傷者を出しただけでなく、2,500人の戦闘神経症患者が発生しており[602]、人的損失では日本軍を上回った。この中川の戦術がのちの硫黄島の戦いや、沖縄戦の参考にされ、アメリカ軍に大量の出血を強いることになっていく[603]

レイテ決戦

部下を従えてレイテ島に上陸するマッカーサー(1944年10月)

太平洋方面ではマッカーサー率いるアメリカ陸軍が主力の連合国南西太平洋軍英語版(SWPA)と、チェスター・ニミッツ提督率いるアメリカ海軍、アメリカ海兵隊主力の連合国太平洋軍英語版(POA)が二方面から日本本土に迫っていたが[604]、マリアナをニミッツが攻略したことにより、日本軍が大兵力を構えるフィリピン攻略の戦略的な優先度が低下し、フィリピンは迂回して海と空から封鎖するだけで十分という主張が連合軍内で有力となった[605]。大戦初期の敗北の汚名を返上し、フィリピン人への「I shall return」の約束を果たすことに只ならぬ拘りを見せるマッカーサーは、ハワイで開催された大統領ルーズベルトを招いての会議で、ルーズベルトやニミッツを説き伏せてフィリピン奪還を決めてしまった[606]

マッカーサーは政治力を発揮して、大兵力を構える日本軍に対抗してそれを遥かに上回る大兵力を準備した。その中には、ヨーロッパ戦線への増援に予定されていた戦力も多く含まれており[224]、結果的に増援が減って戦力の補充が不十分であったヨーロッパ戦線の連合軍の隙をついて[225]、ドイツ軍最後の反攻となるバルジの戦いが発生することとなった。マッカーサーはフィリピン攻略の足掛かりを日本軍の戦力が少ないレイテ島と決定し、その事前準備として、アメリカ海軍の機動部隊が徹底的に沖縄からフィリピンに至るまでの日本軍拠点を叩いた[607]。沖縄の十・十空襲で大損害を被った日本軍は、台湾沖に来襲したアメリカ軍機動部隊に対して台湾やフィリピンの航空戦力を集中して反撃を行い、空母11隻を含む30隻を撃沈したなどと大勝利を報じこの海戦を「台湾沖航空戦」と呼称したが、実際は巡洋艦2隻を撃破したに過ぎず、逆に400機の航空機を失った[608]

やがてマッカーサーは700隻の艦艇に分乗した174,000名の兵員を率いてレイテ島近海に現れた[224]。台湾沖航空戦の過大戦果報告は日本海軍の一部では認識されていたが大本営では共有されず、大損害を被った連合軍相手にレイテ島で決戦を挑むという捷一号作戦を発令し、日本海軍は開戦からの唯一生き残っていた空母・瑞鶴を旗艦とした艦隊を、小沢治三郎中将が率いてアメリカ軍機動部隊をひきつける囮に使い(小沢艦隊)、その間に栗田健男中将が戦艦大和武蔵を主力とする戦艦部隊を率いて(栗田艦隊)、レイテ島上陸部隊を乗せた輸送船隊の殲滅を期した。日本陸軍も第4航空軍(司令官富永恭次中将)が航空支援を行うといった[609]、日本陸海軍挙げての一大作戦となった[610]

日本海軍は残存した艦隊のほぼ全ての戦力をレイテ島に向けて投入し、それを迎え撃つアメリカ海軍との間で史上最大規模の海戦を繰り広げた[611]。これはフィリピン沖約50万㎡の海域で、空母や戦艦といった主要艦艇から、潜水艦や魚雷艇から航空機に至るまで、あらゆる海軍戦力がつぎ込まれた太平洋戦線の集大成のような戦いとなった[611]。小沢艦隊は囮作戦に成功し、壊滅状態になりながらもウィリアム・ハルゼー・ジュニア提督率いるアメリカ軍機動部隊を北方に釣り上げて、レイテ島付近を手薄にしたが、艦隊間の連携の不足や判断ミスによりこのチャンスを活かすことができず[612]西村祥治中将の旧式戦艦隊はトーマス・C・キンケイド中将の水上艦隊に撃滅され、絶え間ない空襲で武蔵を失うなど大損害を被りながらもレイテ湾直前まで達した栗田艦隊は、サマール島沖でクリフトン・スプレイグ少将の護衛空母艦隊と交戦し[613]、少なくない損害を被ると、レイテ湾突入を諦めて引き返し、作戦は失敗に終わった。このレイテ沖海戦で日本海軍は実に空母4隻、戦艦3隻、重巡6隻を含む33隻の艦艇を失い組織的な戦闘力を喪失してしまった。それに対してアメリカ海軍は空母3隻を含む8隻の損失であった[614]

沈みつつある戦艦武蔵、駆逐艦磯風から撮影(1944年10月)

この戦いにおいて初めて、基地航空隊司令官大西瀧治郎中将によって神風特別攻撃隊が組織され、アメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈、他数隻に深刻な損害を与える大戦果を挙げた[615]。特攻はその後に万朶隊が出撃して、陸軍航空隊も加わった。フィリピン戦において、日本陸海軍は特攻機650機を出撃させたが[616]、連合軍艦船22隻を撃沈、110隻を撃破した。これは日本軍の通常攻撃を含めた航空部隊による全戦果のなかで、沈没艦で67%、撃破艦では81%を占めていたが[617]、特攻機650機はフィリピンにおける全損失機数約4,000機の14%に過ぎず、相対的に少ない戦力の消耗で、きわめて大きな成果をあげたことは明白であったとアメリカ軍から評価された[618]。フィリピンでの特攻による大損害の報告を聞いたルーズベルトは1945年1月にチャーチルと会った際に、特攻がアメリカ海軍に多大な人的損失と艦艇への損害をもたらせていることで非常に憂慮していることを伝え、戦争の早期終結は困難になるだろうとの見解を示した。特定の戦術に対してアメリカ合衆国大統領がここまでの懸念を抱いたとことは極めて異例で、それだけ特攻がアメリカに与えた影響は大きかった[619]。ルーズベルトから特攻への懸念を示されたチャーチルも、自分の名代として太平洋戦線に派遣していたハーバード・ラムズデン英語版中将が、フィリピン戦の観戦中に特攻により戦死しており、第二次世界大戦におけるイギリス陸軍最高位且つ厚い信頼を寄せていた軍人の戦死に衝撃を受けていた[620]。この特攻の大損害に懲りた連合軍は特攻対策を加速させるが、日本軍も特攻戦術を向上させ、硫黄島や沖縄でより規模を拡大した特攻機対連合軍艦隊の激戦が繰り広げられることになる[621]

陸軍特別攻撃隊一誠隊の隊員に鉢巻を手渡す第4航空軍司令官富永恭次中将、一誠隊は護衛空母「オマニー・ベイ」を撃沈

栗田艦隊のUターンで命拾いしたマッカーサーであったが、レイテ島の戦いは困難を極めた。日本陸軍の富永恭次中将率いる第4航空軍が連合艦隊の突入に呼応して、日本陸軍としては太平洋戦争最大規模の積極的な航空作戦を行っていたが[622]。アメリカ軍はレイテ島上陸直後に占領したタクロバン飛行場の整備に手間取っており、そこに富永は攻撃を集中した[609]。爆装した戦闘機による飛行場への夜襲で、一度で「P-38」が27機も地上で撃破されたり、100人以上のパイロットが死傷したり、毎夜のように弾薬集積所や燃料タンクが爆発するなど、飛行場機能に大打撃を与えた他[623]、揚陸したばかりの約4,000トンの燃料・弾薬を爆砕して、上陸したアメリカ軍の補給線を脅かし[624]、日本艦隊撃破の立役者のキンケイドが「敵航空兵力は驚くほど早く立ち直っており、上陸拠点に対する航空攻撃は事実上歯止めがきかず、陸軍の命運を握る補給線を締め上げる危険がある」と考えて、マッカーサーに、この後に予定されていたルソン島上陸作戦を、「戦史上めったに類を見ない大惨事を招きかねません」と作戦中止を求めたほどであった[625]

更に富永はクロバン飛行場近隣にあるマッカーサーの司令部兼居宅やウォルター・クルーガー中将の司令部も執拗に攻撃し、連合軍司令部を一挙に爆砕する好機に恵まれ、実際に司令部至近の建物ではアメリカ軍従軍記者2名と、フィリピン人の使用人12名が爆撃で死亡し、司令部の建物も爆弾や機銃掃射で穴だらけになるなど、あと一歩のところまで迫っていたが[626]、結局その好機を活かすことはできなかった[627]。マッカーサーは後にこのときの苦境を「連合軍の拠点がこれほど激しく、継続的に、効果的な日本軍の空襲にさらされたことはかつてなかった」と振り返っている[628]

その後、日本軍は多号作戦により、レイテ島に第26師団第1師団などの増援を送り込み、連合軍に決戦を挑んだ。富永は積極的に輸送艦隊を護衛し、作戦初期の輸送作戦成功に貢献した。マッカーサーは当初の分析よりも遥かに多い日本軍の戦力に苦戦を強いられることとなり、ルソン島への上陸計画を延期して予備兵力をレイテに投入せざるを得なくなったが[629]、第4航空軍も積極的な航空作戦による消耗に戦力補充が追い付かず、戦力が増強される一方の連合軍に対抗できなくなると、制空権を奪われた日本軍は多号作戦の輸送艦が次々と撃沈され、レイテ島は孤立していった。そして、マッカーサーはレイテ島を一気に攻略すべく、多号作戦の日本軍の揚陸港になっていたオルモック湾への上陸作戦を命じた。オルモック湾内のデポジト付近の海岸に上陸したアメリカ陸軍第77歩兵師団はオルモック市街に向けて前進を開始した。背後に上陸され虚を突かれた形となった日本軍であったが、体勢を立て直すと激しく抵抗し、第77歩兵師団は上陸後の25日間で死傷者2,226名を出すなど苦戦を強いられたが、この上陸作戦でレイテ島の戦いの大勢は決した[630]。レイテ島に取り残された日本兵の多くは飢えや病気で倒れ、約70,000人の投入戦力のうち生存できたのはわずか5,000人で、14人に1人しか生還できなかった[631]

ネバダ州ニクソンで発見された風船爆弾

アメリカやイギリスでの10,000メートル上空を飛ぶ大型戦略爆撃機の開発と、それを打ち落とすことのできる高度攻撃機の開発に遅れていた日本は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、気球に爆弾をつけてアメリカ本土まで飛ばすいわゆる風船爆弾を開発。11月3日からアメリカ本土へ向けて約9,000個を飛来させた。予想しなかった形の攻撃はアメリカ政府に大きな衝撃を与えたものの、しかし与えた被害はオレゴン州市民6名の死亡と、ネバダ州やカリフォルニア州の数か所に山火事を起こす程度であった。ただし風船爆弾による心理的効果は大きく、アメリカ陸軍は風船爆弾が生物兵器を搭載することを危惧し[632](特にペスト菌が積まれていた場合の国内の恐慌を考慮していた[633])、着地した不発弾を調査するにあたり、担当者は防毒マスクと防護服を着用した。また、少人数の日本兵が風船に乗ってアメリカ本土に潜入するという懸念を終戦まで払拭することはできなかった。アメリカ政府は厳重な報道管制を敷き、風船爆弾による被害を隠蔽した[632]

1945年

フィリピン失陥

マニラに進撃するアメリカ軍(1945年2月)

1月にアメリカ軍はルソン島に上陸した(ルソン島の戦い)。2月から3月にかけてフィリピン最大の都市であるマニラを奪回する戦いが日本軍との間で行われた(マニラの戦い[634]

マニラの戦いでは市民をも巻き込んだ市街戦となり、多くのマニラ市民が戦闘に巻き込まれた。さらに、アメリカ軍によって武装されたフィリピンゲリラが、日本軍に対する破壊活動を行っていたが、ゲリラは一般市民と同じような服装をしており、日本軍には一般市民とゲリラの区別が困難で、多数の一般市民がゲリラと一緒に虐殺された[635]。また、また日本軍とアメリカ軍との戦闘に巻き込まれた同盟国のドイツ人神父など数十人、中立国人のスペイン人200人以上、スイス人10名が死亡し、旧市街のドイツやスペイン資産や駐マニラ領事館も被害を受けたが[636]、その中には、死を目前にして理性を失った日本兵による、虐殺や性暴力の被害者も多数含まれていた。このマニラの悲劇は「マニラ大虐殺」と呼ばれ、日本軍による戦争犯罪として、フィリピンにおける日本陸軍の最高司令官山下奉文大将が戦犯として軍事裁判で裁かれて死刑となったが[637]、マニラにおける犠牲者10万人のうちで、半数以上がアメリカ軍の砲爆撃の犠牲者であったという指摘もある[638]。 日本は南方の要所であるフィリピンの大半を失い、台湾とフィリピンの間のバシー海峡を連合国に抑えられたため、日本の占領下や影響下にあったマレー半島やボルネオ島、インドシナなどの南方から日本本土への資源および食糧輸送の安全確保はより困難となった。実際日本本土では、この頃より急激に食料の流通が厳しくなっていく。

フィリピンの戦いの最中の2月4日から始まったソ連のリゾート地のヤルタで行われた「ヤルタ会議」は、主に対独戦についてスターリンとチャーチル、ルーズベルトの3か国の連合国首脳により東欧諸国の戦後処理が取り決められた。併せて、アメリカとソ連の間で「ヤルタ秘密協定」を締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連対日参戦、および千島列島樺太朝鮮半島台湾などの日本領土の処遇も決定した。協定内容は次の通り[639]

ソ連、アメリカ、イギリスの三大国指導者はドイツが降伏し、かつ欧州戦争が終結した後2か月または3か月を経てソ連がつぎの条件により連合国に味方して対日戦争に参加すべきことを協定した。
  1. 外蒙古(蒙古人民共和国)の現状は維持されること。
  2. 1904年の日本国の背信的攻撃により侵害されたロシアの旧権利はつぎの通りに回復されること。
    • 樺太の南部及びこれに隣接する一切の島嶼はソ連に返還されること。
    • 大連商港におけるソ連の優先的利益を擁護し同港を国際化すること。またソ連の海軍基地として、旅順口租借権を回復すること。
    • 東清鉄道及び大連に出口を供与する南満洲鉄道はソ中合弁会社の設立によって共同で運営されること。ただしソ連の優先的利益は保障され、また中華民国は満洲における完全なる主権を保有するものとする。
  3. 千島列島はソ連に引き渡されること。

前記の外蒙古ならびに港湾及び鉄道に関する協定は蔣介石総帥の同意を要するものとする。アメリカ大統領はスターリン元帥からの通知があれば右同意を得るための措置を執るものとする。三大国の首班はソ連の右要求が日本国の敗北した後において確実に満足させられるものであることを協定した。

ソ連は中華民国を日本国の羈絆きはんから解放する目的をもって軍隊によりこれに援助を与えるためソ中同盟条約を中華民国国民政府と締結する用意があることを表明する。

しかし、日本の政府と軍はヤルタで連合国が首脳会議をすることは知っていたが、中立条約を結んでいるソ連がここで裏切るとは誰も思わなかった[640]

明号作戦で日本軍に降伏するフランス軍(1945年3月)

フランス領インドシナにおいては、日本陸軍は1940年以来ヴィシー政権との協定の下に駐屯し続けていたが、前年の連合軍のフランス解放によるヴィシー政権崩壊と日本の間の協定の無効宣言が行われたことを受け、駐屯していた日本軍は3月9日、「明号作戦」を発動して戦闘を開始。連合国軍の支援を受けられなかったフランス植民地政府および駐留フランス軍はすぐさま降伏し、日本はバオ・ダイを皇帝に3月11日にインドシナを独立させた。

硫黄島の戦いと東京大空襲

東京大空襲後の牛込市ヶ谷附近(3月11日)

前年末から、アメリカ陸軍航空隊のボーイングB-29爆撃機による小規模な日本本土空襲が行われていたが、この年に入り本格化していた。またそれまでは軍需工場を狙った高々度精密爆撃が中心であったが、カーチス・ルメイ少将が爆撃隊の司令官に就任すると、低高度による夜間無差別爆撃焼夷弾攻撃が行われるようになった。3月10日未明、これまで一度も本格的な空襲を受けなかった台東区新宿区江戸川区など、東京の市街地を狙った東京大空襲によって、一夜にして10万人もの市民を虐殺し、文化的な物も失われた。約100万人が家を失った。

硫黄島の戦闘の様子(1945年3月)

アメリカ軍は日本本土空襲の拠点であったマリアナ諸島があまりにも遠く、戦闘機の護衛が不可能なことや、故障や損傷したB-29の不時着自基地が必要なことから、マリアナと東京の中間にある硫黄島に飛行場を設営するため攻略を決定した[641]。日本軍も硫黄島の重要性は認識しており、硫黄島守備隊の戦力増強を図ると共に、司令官には知米派の栗林忠道中将を任じた[642]。栗林は前年のペリリューの戦いの戦訓も参考にして、自ら陣頭に立って硫黄島に地下要塞を構築した。そして安易なバンザイ突撃を厳禁、「我等ハ敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ」「我等ハ最後ノ一人トナルモ「ゲリラ」ニ依ツテ敵ヲ悩マサン」という栗林自ら作成した『敢闘ノ誓』を硫黄島守備隊全員に配布し、要塞化した硫黄島で徹底した持久戦を将兵に命じた[643]

硫黄島の要塞化はアメリカ軍も航空偵察で認識しており、激しい空襲により工事の妨害をしながらも[644]チェスター・ニミッツ元帥や第5艦隊司令レイモンド・スプルーアンス中将が、損害を減らすために毒ガスの使用の許可を求めたほどであった[645]。結局毒ガス使用は許可されず、スプルーアンスは作戦の先行きに不安を感じながらも作戦を進めざるを得なかった[646]。アメリカ軍は入念な爆撃と艦砲射撃を加えたのちに硫黄島に上陸してきたが、要塞に籠っていた日本軍は殆ど損害を受けておらず、逆に上陸してきたアメリカ海兵隊に猛攻を浴びせ大損害を与えた。作戦初日にアメリカ軍は2,400人が死傷したが[647]、これはノルマンディ上陸作戦最大の激戦区であったオマハビーチで被った損害を、人数でも死傷率でも上回るものであった[648]。日本軍は硫黄島を空から支援するため、神風特別攻撃隊「第2御盾隊」を出撃させた。32機と少数であったが、護衛空母ビスマーク・シーを撃沈、正規空母サラトガに5発の命中弾を与えて大破させた他、キーオカック(防潜網輸送船) 英語版など数隻を損傷させる戦果を挙げた。特攻によるアメリカ軍の被害は硫黄島からも目視でき、守備隊を勇気づけている[649]

その後も摺鉢山や元山飛行場を巡っての激戦などで、日本軍はアメリカ軍に大量の出血を強いて、あまりの甚大な損害にアメリカ国内の世論が沸騰し、苦戦を続けるアメリカ海軍や海兵隊に批判が殺到した[650]。当初5日で攻略予定であったアメリカ軍を1か月以上も足止めした栗林は、3月26日に残存兵約400人とともにアメリカ軍に夜襲を敢行して戦死した。日本軍は21,000人の守備隊のうち20,000人が戦死したが、アメリカ軍は28,000人が死傷し人的損失はアメリカ軍が上回った[651][652]。甚大な損害を被ったこの戦いについて、アメリカ側の軍事的な評価は厳しいものとなり、政治学者五百籏頭真は戦後にアメリカの公文書を調査していた際に、硫黄島の戦いとこの後の沖縄戦については、アメリカの方が敗者意識を持っている事に驚いている[653]

甚大な損害を被りながらも攻略した硫黄島の戦略的価値は非常に高く、まだ日本アメリカ両軍が戦闘中であった1945年3月4日に最初のB-29が硫黄島に緊急着陸すると、その後も終戦までに延べ2,251機のB-29が硫黄島に緊急着陸し、約25,000人の搭乗員を救うことになった。また、P-51Dを主力とする第7戦闘機集団が硫黄島に進出し、B-29の護衛についたり、日本軍飛行場を襲撃したりしたため、日本軍戦闘機によるB-29の迎撃は大きな制約を受けることとなった[654]。一方で日本軍は、マリアナ諸島への攻撃の前進基地だけでなく、日本本土空襲への防空監視拠点をも失うこととなって、いよいよ戦局の悪化に歯止めがかからなくなっていった[66]

沖縄戦

慶良間諸島に上陸中のアメリカ軍(3月26日)

3月26日に沖縄の慶良間諸島にアメリカ軍が上陸し、さらにアメリカ軍とイギリス軍を中心とした連合軍は4月1日に沖縄本島に上陸して沖縄戦が勃発、凄惨な地上戦となる。沖縄支援のため出撃した世界最強の戦艦・大和も、アメリカ軍400機以上の集中攻撃を受け、4月7日に撃沈。残るはわずかな戦艦と十数隻の空母、巡洋艦のみとなり、さらに空母艦載機の燃料や搭乗員にも事欠く状況となったため、空母や戦艦などの主要船艇を本土決戦のために保管する。ここに日本海軍連合艦隊は事実上その外洋戦闘能力を喪失した。

アメリカ海軍の戦艦ミズーリに突入直前の零式艦上戦闘機(石野節雄二飛曹搭乗)(1945年4月)
特攻機の命中で艦載機が炎上するイギリス海軍空母「フォーミダブル」(1945年4月)

大和の海上特攻作戦と並行して日本軍は大規模航空特攻作戦となる菊水作戦を開始、連合軍はフィリピンでの特攻による大損害に懲りて様々な特攻対策を講じていたが、連日押し寄せる大量の特攻機に対して損害を被り続けた。作戦初日の4月6日には、駆逐艦コルホーンと僚艦の駆逐艦ブッシュが40機の特攻機に集中攻撃を受けて、駆逐艦隊司令官と艦長と共に2隻ともたちまち沈没[655]、また、重砲の大口径砲弾7,600トンを満載した弾薬輸送艦2隻も撃沈され、 上陸部隊が一時的に大口径重砲の弾薬不足に陥った[656]。5月11日には戦後に遺書「所感」が書籍「きけ わだつみのこえ」で有名となった上原良司少尉を含む約100機の特攻機が出撃、正規空母バンカー・ヒル に再起不能の損害を与えるなど多数の艦を大破させ、アメリカ兵877名という特攻によって1日で被った最多の人的損害を与えた[657]

アメリカ海軍は特攻からの損害を少しでも軽減するため、海軍作戦部長アーネスト・キングがルメイに対して「陸軍航空隊が海軍を支援しなければ、海軍は沖縄から撤退する。陸軍は自分らで防御と補給をすることになる」と脅迫し[658]、ルメイは渋々B-29を戦術爆撃任務に回すこととしている[659]。海軍に泣きつかれたルメイは、4月上旬から約1か月半の間、延べ2,000機のB-29を特攻の発進基地となっていた九州の飛行場の攻撃に投入し、その間日本内地の大都市は空襲の被害が軽減されることとなった[660]。大都市への空襲を取りやめてまで行った特攻機対策であったが、日本軍が巧みに特攻機を隠匿したため、B-29は飛行場施設を破壊しただけで、特攻機に大きな損害を与えることができず、特攻によるアメリカ海軍の損害はさらに拡大していった。B-29の働きに失望した第5艦隊司令レイモンド・スプルーアンス中将は「彼ら(陸軍航空軍)は砂糖工場や鉄道の駅や機材をおおいに壊してくれた」と皮肉を言い、5月中旬にはルメイへの支援要請を取り下げて、B-29は大都市や産業への戦略爆撃任務に復帰している[661]

アメリカ海軍は沖縄戦で艦船沈没36隻、損傷368隻、艦上での戦死者は4,907名、負傷者4,824名という、甚大な損害を被ったが[662]、その大部分は1,895機も投入された航空特攻による損害で[663]、アメリカ海軍史上単一の作戦で受けた損害としては最悪のものとなっている[69]。アメリカ軍も公式報告書で「十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された。終戦時でさえ、日本本土に接近する侵攻部隊に対し、日本空軍が特攻攻撃によって重大な損害を与える能力を有していた事は明白である。」と総括している[69]。航空特攻は終戦まで続けられて、陸海軍で2,550機が出撃し[664]、3,948人が戦死したが[665]、連合軍の艦船55隻を撃沈、25隻を廃艦に追い込み、320隻以上を損傷させ[666][667][668][657]、戦死者8,064人負傷者10,708人の合計18,772人という甚大な人的損害を与えた[669]。戦後に進駐してきた米国戦略爆撃調査団は特攻を徹底的に調査して「日本人によって開発された唯一の最も効果的な航空兵器は特攻機で、戦争末期の数ヶ月間に、日本陸軍と日本海軍の航空隊が連合軍艦船にたいして広範囲に使用した」と評価した[670]

沖縄への連合国軍の上陸を許すなど、戦況悪化の責任をとり4月7日に辞職した小磯國昭の後継に、近衛文麿岡田啓介らは鈴木貫太郎を首相に推したが[671]、先にサイパンを失った責任を取り首相を辞任した東條は、「陸軍が本土防衛の主体である」との理由で元帥陸軍大将畑俊六を推薦し[672]、「陸軍以外の者が総理になれば、陸軍がそっぽを向く恐れがある」と高圧的な態度で言った[673]。これに対して岡田が「陛下のご命令で組閣をする者にそっぽを向くとは何たることか。陸軍がそんなことでは戦いがうまくいくはずがないではないか」と東條をたしなめ[674]、東條は反論できずに黙ってしまった[671]。こうして鈴木を後継首班にすることが決定された[675]

鈴木の就任後、アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトが亡くなり訃報を知ると、同盟通信社の短波放送により深い哀悼の意をアメリカに送った。同じ頃、ドイツのアドルフ・ヒトラーも敗北寸前だったが、ラジオ放送でルーズベルトを口汚く罵っていた[676]。アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンが鈴木のこの放送に深く感動し、イギリスBBCで「ドイツ国民の皆さん、東洋の国日本には、なお騎士道精神があり、人間の死への深い敬意と品位が確固として存する。鈴木首相の高らかな精神に比べ、あなたたちドイツ人は恥ずかしくないですか」と声明を発表するなど、鈴木の談話は戦時下の世界に感銘を与えた[677]

負傷兵を後送するアメリカ軍看護兵(1945年5月)
特攻機が2機命中して甚大な損害を被ったアメリカ軍空母バンカー・ヒル (1945年5月)

沖縄本島上では、第32軍司令官牛島満中将が全幅の信頼を置いていた高級参謀八原博通大佐の指揮のもと、沖縄の地形特性を最大限活用した強固な地下陣地による徹底した持久戦が戦われており[678]、上陸した連合軍に多大な出血を強いていた[679]。しかし、大本営の横やりで陣地を出ての総攻撃を強要され、八原の反対を押し切って強攻したが逆に大損害を被り、連合軍に利することとなった。その後は再び八原の方針通りで徹底した持久戦を展開[680]シュガーローフの戦いの戦いなどで連合軍に多大な損害を与えていたが[681]、圧倒的な戦力差で次第に日本軍は後退を余儀なくされていた。このまま首里に構築していた防衛線に固執していたのでは全滅は免れないと考えた八原は、更なる連合軍足止めのために沖縄本島南部へ撤退し戦線を再構築することとした[682]。沖縄本島南部には戦火を逃れた住民が多数避難しており、戦闘に巻き込まれることは必至で島田叡沖縄県知事は反対したが、牛島の決断で強行された[683]

南部への撤退は後にイギリス軍とアメリカ軍からなる連合軍に賞賛されるほどに巧みに行われ[684]、戦線を再構築した日本軍はこの後も1か月弱に渡って連合軍を足止めし、総司令官のサイモン・B・バックナー中将が戦死するなど大損害を与えたものの[685]、狭い地域に軍民が雑居することとなり、戦闘に巻き込まれた他、スパイと疑われて日本兵に殺害されたり、集団自決をはかったりして大量の住民の命も奪われた。6月23日に総司令官の牛島が自決し、沖縄での組織的抵抗が終わったが、日本軍によるゲリラ戦は7月後半まで続いた[686]。この沖縄戦で18万8,136人が死亡したが、このうちの65%が軍に召集された沖縄成人男性と沖縄の一般市民であった[687][688]。一方でアメリカ軍を主力とする連合軍も約20,000人が戦死し[689][690][691]、55,000人以上が負傷するなど、第二次世界大戦でも最大級の人的損害が出た戦いとなった[692]

日本本土空襲激化

平塚を爆撃するB-29(1945年7月)

沖縄戦における九州への戦術爆撃任務に失敗したB-29であったが、5月に入ると、従来の都市への無差別爆撃任務に復帰した。B-29の生産も軌道に乗り、常時400機のB-29が稼働状態となっていた[693]。5月14日昼間に529機、5月16日夜間に522機のB-29により名古屋大空襲が行われ、名古屋市街と周辺の工場地帯を完全に破壊してしまった。焼夷弾で焼失した建物のなかには名古屋城も含まれていた[694]。3月10日の東京大空襲で甚大な被害を受けた東京にも、5月23日の夜間にB-29が558機、5月25日の夜間にB-29が498機という大兵力で再度の無差別爆撃が行われた[695]。この空襲で東京の被爆面積は都市全域の半分の145km2に及び、さらに皇居内の建物の28,520m2のうち18,239m2が焼失、鈴木貫太郎首相の首相官邸も焼失してしまった。ルメイは東京を既に破壊し尽くしたと判断し、主要爆撃リストの目標から外した[696]

この東京への2回の爆撃でB-29は今までで最悪の43機を損失、169機が損傷を被るという大きな損害を被ったので、5月29日の横浜への無差別爆撃任務(横浜大空襲)のさいには、B-29の454機に硫黄島に展開するP-51D101機を護衛につけた[697]。白昼堂々の大規模爆撃であったので、日本軍も陸海軍共同の64機で迎撃、P-51とも空戦になり、アメリカ軍は日本軍戦闘機26機撃墜、9機撃破、23機撃墜不確実と大きな戦果を主張したが[697]、日本軍側の記録によれば未帰還機は2機であった[698]。P-51の護衛を突破した日本軍戦闘機はB-29を攻撃し、撃墜18機を報じたが[698]、アメリカ軍の記録ではB-29の損失が7機、P-51が2機であった[699]。爆撃は成功し、横浜市街はこの1日で34%が焼失し、死者は3,649名、焼失家屋は79,017戸にもなった[700]

次いで6月1日のB-29の454機による神戸大阪の無差別爆撃にもP-51の護衛を出撃させたが、離陸直後に暴風圏にぶつかって、P-51が一度に27機も墜落している。編隊で計器飛行ができないP-51に対しては、B-29が航法誘導する必要があり、ルメイは護衛戦闘機は足手まといぐらいに考えていたが[701]、P-51の護衛により、結果的に日本軍戦闘機の迎撃は困難になってしまった[702]。この頃には、大本営は本土決戦準備のため航空戦力温存策をとっており[703]、P-51の護衛が増えた1945年6月以降は日本軍機の迎撃は極めて低調で、日本軍戦闘機からのB-29の損害は激減している[704]。また、防空戦力は、大都市に集中していたので、地方の中小都市については、まともな迎撃戦は行われなかった。このような防空戦略の後退は、国民の厭戦気分を高めることになり、航空総軍司令官河辺正三大将には「国を亡ぼすものは東條なり。大阪を焦土に化するものは河辺なり・・・」などの投書が複数寄せられている。日本において軍の司令官にこのような露骨な誹謗投書が寄せられるのは、極めて異例であった[705]

その後も大都市圏には繰り返し無差別爆撃が行われ、1945年4月18日の川崎大空襲で焼失していた川崎と、東京、横浜を含めた6大都市圏は1945年6月までには破壊しつくされた。6大都市圏713km2のうち、B-29に焼き払われたのは274km2に及んだが、そのなかには多くの兵器工場が含まれており、また数百万人の日本人が住居を失った[706]。日本の大都市を破壊しつくしたルメイは、目標を人口10万人から20万人の中小都市58に対する無差別爆撃を行うこととした。この作戦は6月17日に開始されて、鹿児島大牟田浜松四日市豊橋福岡静岡富山などが目標となり終戦まで続けられた。このころになると日本国民はアメリカ軍のどの兵器よりもB-29を恐れるようになっており、日本在住のブルーノ・ビッテル神父は「日本国民の全階層にわたって、敗戦の意識が芽生え始めるようになったのは、B-29の大空襲によってであった」と証言している[707]

B-29は合計380回の任務で述べ33,401機が日本本土に来襲し、147,576トンの爆弾を投下して日本の主要都市を焼き払い[708]、30万人~40万人の一般市民を殺害した[709]。開戦直後から本土爆撃をされていたドイツとは異なり、本土防空体制構築に後れを取った日本軍は、その後も前線での航空戦を重視しすぎたあまり、B-29に対抗できる本土防空体制の構築に失敗し、本土空襲で甚大な損害を被ることとなった[710]。それでも限られた戦力で日本軍防空陣は敢闘し、戦闘任務でB-29は485機が失われ[708]、総出撃機数に対する損失率は1.32%となった。これはドイツ本土爆撃でのB-17の損失率1.61%や、B-24の損失率1.60%と大きくは変わらないものであったが[711]、戦後に日本とドイツに対する戦略爆撃の効果を調査した米国戦略爆撃調査団が出した結論は、日本本土空襲における第20空軍のB-29が日本軍から被った損失は、第8空軍がドイツ本土爆撃でドイツ軍戦闘機から被った損失の1/3に過ぎず、警戒システムも迎撃地上管制システムもともに“poor”(貧弱)だったとしている[712]

ドイツの降伏とポツダム宣言

5月7日ドイツ(フレンスブルク政府)が連合国に降伏。同盟国である日本に対して事前協議も行われなかった無条件降伏であった。これで枢軸国で残るは日本だけとなり、その日本は1946年4月25日まで有効な日ソ中立条約を根拠に中立を保つソ連に頼るしかなかったため、ドイツの降伏後はソ連を通じた和平工作に注力する。しかしこれに先立つ2月、連合国によるヤルタ会談の密約で、ドイツを破った後のソ連軍は3か月後に満洲、朝鮮半島、樺太、千島列島へ北方から侵攻する予定でいた。

5月9日には、東京の駐日ドイツ大使館は、判明している限りでは世界の公的機関で唯一ヒトラーの追悼式を行った[713]。しかし、同盟国である日本に対し事前協議も行われないまま無条件降伏を行ったドイツに対する日本政府の反応は冷淡で、同盟国の首脳の追悼式に対して外交儀礼上異例である、外務省の儀典課長を参列させたのみで弔電や半旗の掲揚などは行わなかった[714]

5月10日には、日本が開発していた原爆の材料となるウランなどを積んで大西洋上日本に向かっていたドイツ海軍のU-234がドイツの降伏を受けてアメリカ海軍に投降し、その直前に友永英夫技術中佐と庄司元三技術中佐が艦内で自決している。なおドイツに駐在していた日本の軍人と外交官、民間人は、ソ連の占領区域にいたものは速やかにモスクワ経由でシベリア鉄道で5月末に帰国。イギリスおよびアメリカの占領区域にいたものは捕虜となり、アメリカ経由で戦後の12月に帰国した[715]

6月になり、日本政府はもはや「ドイツに中央政府がなくなった」ことを理由に、東京のドイツ大使館、横浜と神戸領事館の閉鎖と引き渡し、ドイツ人学校やドイツ人クラブの閉鎖を命じた。なお3,000人いた在日ドイツ人は、以降終戦まで警察の監視のもと日本国内に軟禁されるこことになる[716]

6月初頭には、疎開先だった箱根の強羅ホテルでソ連のヤコフ・マリク大使は、元駐ソ連大使の広田弘毅元首相の2度の訪問を受け、非公式での終戦交渉を行ったが当然ながら良い返事はもらえず、さらに月末にも広田元首相はわざわざ港区麻布のロシア大使館のマリク大使を訪れている[717]が、その後マリク大使は病気を理由に会談を拒否している。なお既にソ連は2月のヤルタ会談において、ヨーロッパでの戦勝の日から3ヶ月以内に対日宣戦することで英米中と合意しており、それとは矛盾する日本政府からのソ連中立の要請や、大東亜戦争の停戦講和の依頼など受けられるはずがなかった。

さらに5月から6月にかけて、ポルトガルやスイスにある在外公館の陸海軍駐在武官から、ソ連の対日参戦についての情報が日本に送られたり[718]、モスクワから帰国した陸軍駐在武官補佐官の浅井勇中佐から「シベリア鉄道におけるソ連兵力の極東方面への移動」が関東軍総司令部に報告されたりしていた[719]。しかしソ連の「裏切り」についてのこれらの決定的に重要な情報は、中立条約を結んでいたソ連との講和仲介に最後の望みをかけていた日本政府と軍の間では、不都合過ぎて真剣に共有されなかったか、重要性に気付かれないまま見捨て置かれていた。

ポツダム会議に訪れた3か国首脳(1945年7月)

アメリカ軍を主力とする連合軍は、日本本土上陸作戦(ダウンフォール作戦)により日本を屈服させようと考えており、1945年11月に九州地方上陸作戦「オリンピック作戦[720]、その後関東地方への上陸作戦(「コロネット作戦」)を計画していたが[721]、先の沖縄戦で、アメリカ軍史上最強の軍と評されていた[722]第10軍計27万8000人が、戦力、火力で圧倒的に劣る日本軍第32軍に苦戦し、39%もの人的損失を被るにあたって[723]、沖縄戦での人的損失が日本の抵抗の激しさを示すものであれば、日本本土侵攻にどれほどの犠牲を伴うのかアメリカの指導部内に不安が蔓延することとなった[724]。そのため、アメリカ側に甚大な損害必至の日本本土上陸作戦を避けて、終戦を模索する動きが活発化していた[76]

7月17日から8月2日にかけ、ベルリン郊外ポツダムツェツィーリエンホーフ宮殿において3カ国の首脳(イギリスの首相ウィンストン・チャーチルおよびクレメント・アトリー[注釈 24]アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリン)が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について話し合われた(ポツダム会談)。

7月26日には、イギリス首相、アメリカ大統領、中華民国主席の名において、全13か条からなる条件付き宣言である日本軍の降伏に関する「ポツダム宣言が発表された[725](8月9日に対日参戦したソビエト連邦は、同日に後から加わり追認した)。ポツダム宣言を受け、対応を協議するため、翌27日に最高戦争指導会議と閣議が開催されたが、陸軍大臣の阿南惟幾が「政府として発表する以上は、断固これに対抗する意見を添え、国民が動揺することないよう、この宣言をどう考えるべきかの方向性を示すべき」と拒否を主張したのに対し[726]、外務大臣東郷茂徳は「本宣言は(13条からなる)有条件講和であり、これを拒否する時は極めて重大なる結果を惹起する」と真っ向から対立した[727]「和平交渉の道を残しておくため、宣言を拒否しないことが必要」と考えていた東郷茂徳と。議論の末、一旦は日本政府として方針を示さないが、各新聞にコメント入りで報道させて国民に周知させるという結論となった[728]

翌28日、首相の鈴木貫太郎は記者会見で「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず“黙殺”し、我々は戦争完遂に邁進する」と述べたが、この会見が翌日の29日の新聞各紙で「政府は黙殺」などと報道され、さらに海外では「黙殺」が「reject(拒絶)」と報道された。トルーマンは7月25日の日記に「日本がポツダム宣言を受諾しないことを確信している」と書いているなど、日本が一旦はポツダム宣言を拒絶することを予測しており、日本への原子爆弾投下を合理化する理由ともなった[729]。戦後、鈴木はこの発言を振り返って「この一言は後々に至るまで、余の誠に遺憾と思う点であり・・・」と悔やんでいる[728]

広島への原爆投下

広島での核爆発によるキノコ雲(8月6日)

アメリカはマンハッタン計画原子爆弾の開発を進めていたが、ポツダムで会議に臨んだトルーマンの元にトリニティ実験の成功の報がもたらされた。原爆の使用について、陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル元帥らダウンフォール作戦推進派は、原爆を日本本土侵攻作戦での戦術核としての使用を主張していたが、陸軍長官ヘンリー・スティムソンら日本との講和提唱派は、日本に最終的な決断を促す一つの手段とみており、慎重派、推進派ともに日本に対する原爆の使用を提唱していた[730]。トルーマンは、外交チャンネルを通じて口頭では天皇制の保障を匂わすことをスティムソンら講和提唱派に約束し、進言通り、降伏を促す手段として原爆の使用を決定した[76]

8月6日にアメリカ軍のボーイングB29「エノラ・ゲイ」により広島市への原子爆弾投下が行われ、投下直後には78,150人の犠牲者が生じ[77]、最終的な犠牲者数の詳細は不明ながらも、1945年12月末までには14万人に達したと推計されている[731]

広島の被害状況は想像を絶するもので通信は途絶えて全く沈黙していた。何時間経っても被害甚大という程度の情報しか入ってこなかったが、夕方近くになって、ようやく情報局に、この惨禍は侵入してきた3機のB-29のうち1機が投下した1発の爆弾によってもたらされたことが判明し、下村宏情報局総裁が鈴木に降伏の決断を促すため首相官邸に出向いたが、鈴木は不在であった[732]。結局6日は無為に過ぎ去ったが、ようやく8月7日の明け方になって、その破滅的な状況が明らかになってきた[733]。さらには、トルーマンが「我々は20億ドルを投じて歴史的な賭けを行い、そして勝ったのである」「広島に投下した爆弾は戦争に革命的な変化をあたえる原子爆弾であり、日本が降伏に応じない限り、さらに他の都市にも投下する」という声明を発表し、原子爆弾が投下されたことが判明した[734]

8月7日午後から、関係閣僚会議が開催されて、対策が協議されたが、本土決戦による一撃講和が方針の陸軍は、大臣の阿南が「たとえトルーマンが原子爆弾を投下したと声明しても、それは法螺かも知れぬ」と強く主張し、方針は決まらなかった。軍部は自ら原子爆弾の開発を行っていることもあって薄々は解ってはいながら、原爆を認めて公表すれば軍と国民への士気の影響が大きすぎると考えて、協議の結果、詳細な調査が必要ということになり、大本営発表では原爆ではなく「新型爆弾」とされ、詳細は不明と報じられた[735]。陸軍は原子爆弾を研究していた仁科芳雄博士を含む調査団を広島に派遣、8日に上空から廃墟となった広島を見た仁科は「このような壊滅的な破壊をもたらすことができるのは原爆だけである」と即座に結論を下した[736]

8月8日、外相の東郷は首相の鈴木と協議の後、皇居に参内して昭和天皇に、原爆の使用とアメリカとイギリスからの降伏勧告について報告し、もはやポツダム宣言を受諾するほかないと進言した。昭和天皇も「原爆のような新兵器の出現をみた以上、戦争の継続は不可能である。速やかに終戦措置を講ずるようにせよ」との意思を伝えた。東郷はただちに昭和天皇の意思を木戸幸一内大臣に伝え、鈴木に対しては、至急、最高戦争指導会議の召集を申し入れて、8月9日に開催されることが決定した[737]。一方で東郷は、まだソ連を仲介とした講和にも一縷の望みをかけており、駐ソビエト連邦大使佐藤尚武に交渉を命じていた。佐藤は8月8日にようやくヴャチェスラフ・モロトフ外務人民委員との面談約束を取り付け、午後5時(日本標準時午後11時)にクレムリンを訪れたが、話題を切り出そうとしたところ、モロトフから遮られ「私はここに、ソ連邦の名において日本政府に対する通告を持っており、これを貴下に伝達したい」告げて、日ソ中立条約の破棄と対日宣戦布告の文書を読み始めた。佐藤は心の動揺を抑えながら「中立条約期限切れ前の一方的な破棄は遺憾である」と抗議、この文書の日本本国への打電の許可を申し出し、了承された[738]

ソ連対日参戦と長崎への原爆投下

満洲国で日本軍へ砲撃するソ連軍(8月9日)

さらに日本の望みとは逆に、ソビエト連邦は上記のヤルタ会談での密約を元に、締結後5年間(1946年4月まで)有効の日ソ中立条約を一方的に破棄、8月8日午後11時(以下日本標準時)に対日宣戦布告し、翌9日の午前1時に満洲国と日本へ侵攻を開始した(8月の嵐作戦。また、ポツダム宣言に署名していないソ連政府は、日本への侵攻と同時にポツダム宣言に署名した。

9日未明に、関東軍総司令部は第5軍司令部からの緊急電話により、ソ連軍が攻撃を開始したとの報告を受けた。さらに牡丹江市街がソ連軍の空爆を受けていると報告を受け、さらに午前1時30分頃に新京郊外の寛城子が空爆を受けた。当時、満洲国駐留の日本の関東軍は、主力を南方へ派遣し弱体化していたため、ソ連軍に対する市民含む地上戦が行われ必死に反撃を行うも総崩れとなった。関東軍総司令部は急遽対応に追われ、総参謀長が大本営の意図に基づいて作成していた作戦命令を発令。しかし日本政府がソ連の対日宣戦の事実を知ったのは、9日午前4時にソ連のタス通信がその事実を報じ始めてからで、外務省では午前5時頃に外相の東郷に報告が上げられた。

これはソ連との中立条約の維持を根拠に和平の道を辿ろうとしていた日本政府にとって、最後の頼みの綱が切れた瞬間であった。ソ連が日本と開戦したこの日以降、日本政府と軍は急激に降伏への道を進んでいく

ソ連の参戦を受けて9日昼前に行われた最高戦争指導会議では、これまでと違い「国体の護持」、「保障占領」、「自発的な武装解除」、「日本人の戦犯裁判への参加」を条件に、ポツダム宣言を受諾をするという方針が優勢となった。しかし「国体の護持」のみに絞るとする外相・東郷茂徳と、4条件にこだわる陸相・阿南惟幾との間で意見が激しく対立した[739]。 特に陸相の阿南は、海相米内光政とのやり取りで「戦局は5分5分、負けとは見てない」、「海戦では負けているが戦争では負けていない。陸海軍で感覚が違う」と主張し、さらに外相である東郷からの「交渉が決裂したらどうするのか」との質問に「一戦を交えるのみ」と答えるなど[740]議論は平行線をたどり、さらに徹底抗戦派の軍令部総長豊田副武が、招かれてもいないのに軍令部次長大西瀧治郎を同席させるなど問題行為があった。結論は9日未明に開催される天皇臨席の御前会議に持ち越された。

長崎市への原子爆弾投下で廃墟と化した長崎市(8月9日)

一方でアメリカは着々と2発目の原子爆弾投下準備を進めていた。短期間の間に2回も原子爆弾を投下するのは、日本側にいつでも原子爆弾を投下できるストックがあると知らしめることが目的であったが、実際は次に投下する予定のファットマンがアメリカ軍が製造していた最後の原子爆弾であった[741]。原爆投下の第1目標を九州小倉市、そして第2目標を長崎と定め、1945年8月9日、B-29ボックスカーがテニアン島を出撃した。ボックスカーは午前8時43分に小倉上空に達したが、天候不良で小倉は厚い雲に覆われており、やむなく第2目標の長崎に向かった。長崎も天候は不良であったが、レーダーで爆撃進路をとっているときに一瞬雲の切れ目が見えたので、午前10時58分にファットマンは長崎市への原子爆弾投下を行いそのまま沖縄に向けて飛行した[742]

日本軍も広島への原子爆弾投下以降警戒は強化しており、国東半島から北九州地区に向かう2機のB-29を発見したが、西部軍管区は広島と同様の編成であったのでこれを原子爆弾搭載機と判断し10時53分に空襲警報を発令した。第16方面軍司令部は、敵機の目標は長崎と判断しラジオを通じて「B-29少数機、長崎方面に侵入しつつあり。全員退避せよ」という放送を繰り返し流させたが[743]、事前の空襲警報やラジオ放送は長崎市民には認知されておらず殆ど避難していなかった[744][745]。長崎に配置されていた香焼町と長崎市内金毘羅山山頂の高射砲隊も、ボックスカーの機影を発見したが、約10,000mの高高度を飛行しており、射程距離外で攻撃できなかった[746]。11時2分に現在の原爆落下中心地公園上空でファットマンがさく裂、長崎でも一瞬のうちに23,752人もの市民の命が奪われ[78]、1950年(昭和25年)までに放射能障害も含めて73,884人が犠牲となった[747]

8月10日
松花江で進軍を続けるソ連軍(8月10日)

10日午前0時3分[748]から行われた御前会議での議論では、外相の東郷茂徳、海相の米内光政、枢密院議長の平沼騏一郎が、天皇の国法上の地位存続のみを条件とする外務大臣案(原案)と主張、それに対し陸相の阿南惟幾、陸軍参謀総長の梅津美治郎、海軍令部総長の豊田副武は、これに自主的な軍隊の撤兵と内地における武装解除、戦争責任者の日本による処断、保障占領の拒否の3点を加えて条件とする陸軍大臣案を主張した。

しかし、唯一の同盟国であったドイツ政府は5月に無条件降伏し、イギリスとアメリカ、オーストラリアやカナダ、ニュージーランドやカナダなどの連合軍は本土に迫っており、さらに唯一の頼みの綱であった元中立国で日ソ中立条約を破って開戦したソ連も、先日の開戦により樺太や満州から日本本土へ迫っており、北海道上陸さえ時間の問題であった。

先頭から順に鈴木首相、米内海相、阿南海相

ここで午前2時過ぎに議長の鈴木貫太郎首相から、昭和天皇聖断を仰ぐ奏上が為された。天皇は外務大臣案(原案)を採用すると表明、その理由として、従来勝利獲得の自信ありと聞いていたが計画と実行が一致しないこと、防備並びに兵器の不足の現状に鑑みれば、機械力を誇る米英軍に対する勝利の見込みはないことを挙げた。次いで、軍の武装解除や戦争責任者の引き渡しは忍びないが、大局上三国干渉時の明治天皇の決断の例に倣い、人民を破局より救い、世界人類の幸福のために外務大臣案で受諾することを決心したと述べる。

このあと、「天皇の国法上の地位を変更する要求を包含し居らざることの了解の下受諾する」とした外務大臣案に対して、枢密院議長の平沼騏一郎元首相から異議が入り、その結果「天皇統治の大権を変更する」要求が含まれていないという了解の下に受諾する、という回答が決定された。いずれにしても、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にしたことにより御前会議での議論は降伏へと収束し、10日の午前3時から行われた閣議で日本のポツダム宣言受託が承認された[749]

日本国の首脳陣の中では、最終的に中立国であったソ連の参戦が最終的にポツダム宣言受諾を受託する理由となったが、なお実際に昭和天皇実録に記載されている一連の和平実現を巡る経緯に対し、当時の出席者や歴史学者の伊藤之雄は「(対日中立国の)ソ連参戦がポツダム宣言受諾を最終的に決意する原因だったことが改めて読み取れる」と述べている[750]

日本政府は、ポツダム宣言受諾により全日本軍が降伏を決定する用意がある事実を、10日の午前8時に海外向けのラジオの国営放送を通じ、日本語と英語で3回にわたり世界へ放送し、また同盟通信社からモールス通信で交戦国に直接通知が行われた。また中立国の加瀬俊一スイス公使と岡本季正スウェーデン公使より、11日に両国外務大臣に手渡され、両国より連合国に渡された。これ以降連合国からの回答を待つことになる。なおスウェーデンなど一部の中立国では、ポツダム宣言受諾により全日本軍が降伏を決定する用意がある事実を、「日本が降伏した」と早とちりし、一部マスコミがこれを報じた場合があった[751]

大西洋標準時10日7時、アメリカはこの電文を傍受した。これを受けたアメリカ政府内では、日本側の申し入れを受け入れるべきであるというスティムソン、フォレスタル、リーヒに対し、バーンズは「我々がなぜ無条件降伏の要求から後退しなければならないのか分からない。もし条件を付けるとすれば、日本側ではなくアメリカ側から提示するべきだ。」と反対した。結局フォレスタルの提案で、肯定的な返事をするが、アメリカ政府の立場について誤解を与えない回答を行うべきであるという決定が下された[752]。これにしたがってバーンズを中心とした国務省で対日回答案の検討が開始され、10日の閣議で決定された。回答案は英・ソ・中の三国に伝達され、同意が求められた。イギリスは同意したが、ソ連は日本が条件をつけようとしていることを非難した。しかし11日未明には反対を撤回し、かわりに日本占領軍の最高司令官を米ソから一人ずつ出すという案を提案してきた。W・アヴェレル・ハリマン駐ソ大使はこれを拒否し、結局日本時間12日午前0時過ぎのバーンズの回答案が、連合国の回答[3]として決定された。

なおソ連大使館側の要請により、10日午前11時から貴族院貴賓室にて外相東郷と駐日ソ連大使ヤコフ・マリクの会談が行われた。その中で、マリク大使より正式に対日宣戦布告の通知が行われたのに対し、東郷は「日本側はソ連側からの特使派遣の回答を待っており、ポツダム宣言の受諾の可否もその回答を参考にして決められる筈なのに、その回答もせずに何をもって日本が宣言を拒否したとして突然戦争状態に入ったとしているのか」とソ連側を強く批判した。また10日夜にはソ連軍による南樺太および千島列島への進攻、つまり沖縄に次ぐ日本固有の領土内での、市民を巻き込んだ市街戦も開始された[753]

ポツダム宣言は日本政府により正式に受諾されたものの、この時点では日本軍や一般市民に対してもそのことは伏せられており、さらに停戦も全軍に対して行われておらず、それは「ポツダム宣言受諾=降伏ではない」ことから、完全な停戦を行っていないのはイギリスやアメリカ、ソ連などの連合国も同様であった[754]。なお実際10日にはアメリカ軍により花巻空襲が行われ、家屋673戸、倒壊家屋61戸、死者42名の被害を出した。

8月11日

11日においては日本、連合国の双方の首脳陣において大きな動きはなかったが、連合国軍による久留米空襲加治木空襲が行われた。

8月12日

12日午前0時過ぎに連合国は、日本のポツダム宣言受託の承認を受けて、連合国を代表するものとしてアメリカのジェームズ・F・バーンズ国務長官による「日本のポツダム宣言受託への連合国からの正式な返答」、いわゆる「バーンズ回答」を行った[749]

その回答を一部和訳すると「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に従属(subject to)する」[755]としながらも、「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」[756]というものであった。この回答の意図は、「天皇の権力は最高司令官に従属するものであると規定することによって、間接的に天皇の地位を認めたもの」[757]であった。また、トルーマンは自身の日記に「彼らは天皇を守りたかった。我々は彼らに、彼を保持する方法を教えると伝えた。」[758]と記している。

しかし午前中に原文を受け取った参謀本部は、これを「隷属する」と曲解して阿南陸相に伝えたため、軍部強硬派が国体護持について再照会を主張し、また「連合国全体ではなくアメリカ1国だけの回答」であることや、「アメリカ大統領ではなく国務長官からの回答」であったこともあり、鈴木首相も再照会について同調した[749]。東郷外相は「(連合国からの)正式な公電が到着していない」と回答して時間稼ぎを行ったが、一時は辞意を漏らすほどであった[752]

なお12日朝には皇族に対して、ポツダム宣言受諾承認を昭和天皇から直接伝えられている[759]。にもかかわらず、12日午後には軍令部総長の豊田は梅津陸軍参謀総長ともにポツダム宣言受諾の反対を奏上する[760]。同日米内海軍大臣は豊田と大西の2人を呼び出した。米内は豊田の行動を「それから又大臣には何の相談もなく、あんな重大な問題を、陸軍と一緒になって上奏するとは何事か。僕は軍令部のやることに兎や角干渉するのではない。しかし今度のことは、明かに一応は、海軍大臣と意見を交えた上でなければ、軍令部と雖も勝手に行動すべからざることである。昨日海軍部内一般に出した訓示は、このようなことを戒めたものである。それにも拘らず斯る振舞に出たことは不都合千万である」と述べ、また大西には「最高戦争指導会議(9日)に、招かれもせぬのに不謹慎な態度で入って来るなんていうことは、実にみっともない。そんなことは止めろ」となどと激しく叱責し、豊田は硬直したかのような不動の姿勢で聞き、「申し訳ない」という様子で一言も答えなかった[761]

なお、日本海軍の艦上攻撃機天山3機が、沖縄本島南東沖に展開していたアメリカ海軍の戦艦「ペンシルバニア」を夜9時頃に攻撃、撃破し、20名の死者と多数のけが人を出した。これは日本海軍機による最後の戦果であった[762]

8月13日
小田原空襲後の市街地(8月14日)

この日の閣議は2回行われ、午前9時から行われた日本政府と軍の最高戦争指導会議では、「国体護持について再照会の返答」をめぐり再度議論が紛糾したが、これに先立つ午前2時に駐スウェーデン公使岡本季正から「バーンズ回答は日本側の申し入れ(国体護持)を受け入れたものである」という報告が到着し、2回目にはポツダム宣言の即時受諾が優勢となった[763]

しかし1日以上経っても、「バーンズ回答」に対しての日本政府からの「正式な回答」がなかったため、連合国とアメリカ政府、連合国軍とアメリカ軍では「日本のポツダム宣言受諾への回答が遅い」、「ポツダム宣言受諾に対して、政府と軍部でからの停戦の同意がなされていないのではないか」という意見が起きており、13日の夕刻には日本政府の決定を訝しむ連合国軍が、アメリカ軍を通じて東京に早期の申し入れと、連合国からの正式な返答である「バーンズ回答」を記したビラを散布している[764]

さらにイギリスやアメリカ、そして中立国の多くも日本政府のポツダム宣言受諾をラジオや新聞などで一般に伝えたが、日本政府はポツダム宣言受諾の意思を日本国民および前線に伝えなかったために、日本政府と軍の態度を懐疑的に見たイギリス軍やアメリカ軍、ソ連軍との戦闘や爆撃は継続され、その後も千葉(下記参照)や小田原熊谷土崎などへの空襲や、南樺太および千島列島、満洲国への地上戦も行われた[753]。が継続された。

8月14日
御前会議(8月14日午前11時/日本標準時

午前11時より行われた再度の御前会議は、昭和天皇自身もその開催を待ち望んでおり、阿南陸相は午後1時が都合がいいと申し出していたが、昭和天皇はなるべく早く開催せよと鈴木首相に命じて、午前11時開始となった[765]

御前会議では依然として阿南陸相や梅津陸軍参謀総長らが戦争継続を主張したが(この時阿南や梅津は、もし終戦になったら陸軍内で一部将兵がクーデターが起こす可能性が高いことを理解していた)、昭和天皇が「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と訴えたことで、阿南陸相も了承し、鈴木首相は至急詔書勅案奉仕の旨を拝承した。

これを受けて夕方には閣僚による終戦の詔勅への署名、深夜には昭和天皇による玉音放送が皇居内で録音され、録音されたレコードが放送局に搬出された。また同時に加瀬スイス公使を通じて、ポツダム宣言受諾に関する正式な詔書を発布した旨、またポツダム宣言受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国側に伝えられた[753]

なお、昭和天皇によるラジオ放送の予告は、午後9時の全国および外地、占領地などのラジオ放送のニュースで初めて行われた。昭和天皇がラジオで国民に向けて話すのはこれが初めてのことであった。内容として「このたび詔書が渙発される」、「15日正午に天皇自らの放送がある」、「国民は1人残らず玉音を拝するように」、「官公署、事務所、工場、停車場、郵便局などでは手持ち受信機を活用して国民がもれなく放送を聞けるように手配すること」などが報じられたが、どのような内容の放送が行われるかは秘されたままであった。なお連合国の各前線は、未だ日本国民や軍に向けての通達が行われないままであることから、軍民の体制は崩さぬままであった。

阿南陸相は14日の御前会議の直後の午後1時に井田正孝中佐ら陸軍のクーデター首謀者と会い、御前会議での昭和天皇の言葉を伝え「国体護持の問題については、本日も陛下は確証ありと仰せられ、また元帥会議でも朕は確証を有すと述べられている」[766]、「御聖断は下ったのだ、この上はただただ大御心のままにすすむほかない。陛下がそう仰せられたのも、全陸軍の忠誠に信をおいておられるからにほかならない」[767]、と諄諄と説いて聞かせた。

しかしクーデター計画の首謀者の一人であった井田中佐は納得せず「大臣の決心変更の理由をおうかがいしたい」と尋ねると、阿南陸相は「陛下はこの阿南に対し、お前の気持ちはよくわかる。苦しかろうが我慢してくれと涙を流して申された。自分としてはもはやこれ以上抗戦を主張できなかった」[768]、「御聖断は下ったのである。いまはそれに従うばかりである。不服のものは自分の屍を越えていけ」と説いた[769]

この期に及んでも一部の佐官から抗議の声が上がったが、阿南陸相はその者たちに対して「君等が反抗したいなら先ず阿南を斬ってからやれ、俺の目の黒い間は、一切の妄動は許さん」と大喝している[770]。なお終戦詔勅への署名の後、日本軍の上層部ならびに情報部などそれらの直属の部署には、ポツダム宣言受託と終戦の連絡が伝わっていた[725]

8月15日

しかし8月15日未明には、「聖断」をも無視する椎崎二郎中佐や井田正孝中佐などの狂信的な陸軍将校らにより、玉音放送の録音音源の強奪とクーデター未遂事件が皇居を舞台に発生し、森赳近衛師団長が殺害されたが、15日朝に鎮圧される(宮城事件)など、昭和天皇の元ポツダム宣言受諾をしたにもかかわらず陸軍内で争いが起きていた。また、午前6時過ぎにクーデターの発生を伝えられた昭和天皇は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べている。なお、クーデターか起きる中、阿南惟幾陸相は15日早朝に自決している。

玉音放送を聞く日本国民(8月15日12時)

また午前7時21分より全国および外地、占領地などのラジオ放送で、正午に昭和天皇自らのラジオ放送が行われる旨の2回目の事前放送が行われた[771]

正午に昭和天皇はラジオ放送(玉音放送)をもって、日本の全国民と全軍にポツダム宣言受諾と日本の敗戦を表明し、ここに全ての日本軍の戦闘行為は停止された[772]。ドイツのような軍と政府を含む無条件降伏ではなく、政府が「ポツダム宣言」での英米中蘇の連合国側の諸条件を受諾した上での降伏であった(「調印後」参照)[725]

公式な第二次世界大戦の最後の戦死者は、玉音放送の1時間半前の午前10時過ぎに、イギリス海軍空母「インディファティガブル」から化学製品工場を爆撃すべく千葉県長生郡に飛来したグラマン TBF アヴェンジャーら日本軍に撃墜され、乗組員3名が死亡したものだった。なお、同作戦でスーパーマリン シーファイア零式艦上戦闘機との戦闘で撃墜され、フレッド・ホックレー少尉が無事パラシュート降下し陸軍第147師団歩兵第426連隊に捕えられ、その約1時間後に玉音放送があったもののそのまま解放されず、夜になり陸軍将校により斬首された事件も発生した(一宮町事件)。

なおソ連軍による日本侵攻作戦は、自ら8月9日に承認したポツダム宣言受諾による戦闘行為停止の8月15日正午のみならず、9月2日の日本との降伏文調印をも完全に無視して継続された。南樺太と千島列島、満洲などは沖縄戦同様民間人を巻き込んだ凄惨な地上戦となった。

また満洲ではソ連軍と中華民国軍との戦いの中、逃げ遅れた日本人開拓民が混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残ることとなった。結局ソ連軍は満洲のみならず、日本領土の南樺太、北千島択捉国後色丹歯舞朝鮮半島北部の全域を完全に支配下に置いた9月5日になってようやく戦闘攻撃を終了した。

停戦後(8月15日-28日)

8月15日正午からの玉音放送終了後、直ちに終戦に伴う臨時閣議が開催され、まず鈴木首相から「阿南陸軍大臣は、今暁午前5時に自決されました。謹んで、弔意を表する次第であります」との報告があり、阿南の遺書と辞世の句も披露した。閣僚たちは、1つだけ空いた陸軍大臣の席を見ながら、予想していたこととはいえ大きな衝撃を受けていた[773]。阿南は陸軍大臣就任前の陸軍航空総監部兼航空本部長のときから「俺も最後には特攻隊員として敵艦に突入する覚悟だ」「富士山を目標として来攻する敵機群の横っ腹に向かって自ら最後には突入する」と周囲に公言もしており[774]、約束通り「一死以て大罪を謝し奉る 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 花押 神州不滅を確信しつつ」との遺書を遺して、日本陸軍の罪を一身に背負って自決した[775]

また午後に大本営大日本帝国陸軍および大日本帝国海軍に対して「別に命令するまで各々の現任務を続行すべし」と命令し、自衛のための戦闘行動以外の戦闘行動を停止するように命令した[776]。しかし、日本の敗戦を知った厚木基地の一部将兵が16日に徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり、停戦連絡機を破壊するなどの抵抗をしたが、まもなく徹底抗戦や戦争継続の主張は止んだ。他は大きな反乱は起こらず、外地や占領地を含むほぼ全ての日本軍が速やかに戦闘を停止した。

特攻直前の宇垣纒中将(8月16日)

玉音放送後、日本軍人のなかで敗戦の責任を取るため自決を選んだ人間が多く出た。他の敗戦国と比較し日本軍の自決者はあまりに多かったため、正確な集計はできていないが、遺族団体などの関係団体が集計した結果は最低でも527人に上るという[777]。その中には阿南を始めとして、多くの将官や指揮官たちがいたが、特に特攻関連の自決者が相次ぎ、神風特別攻撃隊の創設者大西瀧治郎中将は玉音放送の翌日の8月16日に「特攻隊の英霊に曰す」という遺書を遺して自決し[778]菊水作戦の最高指揮官であった第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将も、玉音放送終了後8月15日夕刻、大分から「彗星四三型」11機で沖縄近海のアメリカ海軍艦隊に突入を図って戦死した[779]。他にも陸軍航空本部長寺本熊市中将が「天皇陛下と多くの戦死者にお詫びし割腹自決す」と遺書を残して自決、他にも第4航空軍の参謀長として、フィリピンで特攻を指揮した隈部正美少将[780]航空総軍兵器本部の小林巌大佐[781]、練習機『白菊』特攻隊指揮官、高知海軍航空隊司令加藤秀吉大佐[782]など58名の将官級を含む航空隊関係者が自決した[783]

また、開戦時の総理大臣であった東條英機は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)からA級戦犯容疑者として逮捕される直前に、拳銃を胸に撃ち込んで自殺をはかったが(東條英機自殺未遂事件)、アメリカ軍の野戦病院に運び込まれ、救命治療によって東條は九死に一生を得て、その後東京裁判の被告となった。東條逮捕を知った近衛文麿杉山元も自決している[784]

17日には連合国最高司令官指令から一般命令第一号が下ったが、同日には日本本土を偵察に来たコンソリーデーテッドB-32を、厚木基地の日本軍機が襲い翌日アメリカ人搭乗員1人が死亡するなどのトラブルが起きた。しかし本土では同じような連合国とのトラブルはこれ以降起こらなかった上、すぐにイギリス軍やアメリカ軍が陸海空軍の相当数の部隊を上陸できる体制にあった。

しかしわずか20数年前の第一次世界大戦で負けたばかりで、その時と同様に本土が崩壊し首都が陥落、中央政府が崩壊したドイツとは違い[270]、およそ2千6百余年の歴史上始まって初めての敗戦で、さらに未だに本土と首都が陥落していなかった上に、中央政府は存続しており[270]、まだ相当の軍人と武器や航空機、船舶が残っていた日本に対する連合国軍の動きは慎重に慎重を重ねた。連合国軍の日本占領部隊の第一弾であるアメリカ軍やイギリス軍が日本本土に上陸するまでは、結果として約2週間という異例の長さであった。

17日に鈴木貫太郎内閣は総辞職し、皇族である東久邇宮稔彦王が首相を継いだ。皇族が首相に就いたのは武器解除を速やかに進めるためともいわれ、皇族の首相は初めてのことであった。副総理格の国務大臣には近衛文麿、外務大臣には残留した重光葵、大蔵大臣には津島寿一内閣書記官長情報局総裁には緒方竹虎が任命された。また海軍大臣には元首相の米内光政が留任した。陸軍大臣は任命が内定していた下村定陸軍大将が23日に帰国するまでの間、東久邇宮が兼任した。

アメリカ海軍のグラマンF6Fに護衛される機上作業練習機「白菊」の緑十字機(8月19日)

この時点でも、日本は連合軍に占領された沖縄県を除く日本本土と樺太千島、台湾、朝鮮半島などの開戦前からの元来の領土の他に、中華民国の上海をはじめとする沿岸部、現在のベトナム、マレー半島、インドネシア、ティモール島などの北東アジアから東南アジア、ウェーク島からラバウルなど太平洋地域にも広大な占領地を維持しており、他にもタイや満洲国などの友好国、スイスやスペイン、アフガニスタンやチリなどの中立国に膨大な数の民間人と軍人が駐留していることから、これらの地からの引き揚げと権限の移譲を速やかに行う必要があった。

そこで16日に連合軍は中立国のスイスを通じ、日本に対して占領軍の日本本土受け入れや、総勢1万数千機以上の残存機、空母や戦艦、潜水艦など数千隻の残存艇に上る各地の日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼した。これを受けて19日に、日本政府側の停戦全権委員が2機の緑十字飛行の塗装をした一式陸上攻撃機木更津から伊江島に飛行し、そこからダグラス DC-4でマニラへと向かい、マニラ・ホテルでチャールズ・ウィロビー少将らなどと停戦および全権移譲の会談や、さらに日本本土進駐の際の安全の確保と情報提供を要求するなど、イギリス軍やオーストラリア軍、アメリカ軍やフランス軍、オランダ軍に対する停戦と武装解除、日本進駐の準備は順調に遂行されるかにみえた[785]。また日本と同盟下にあったタイは、16日の日本降伏後に日本側の内諾を得た上で「宣戦布告の無効宣言」を発し、連合国側と独自に講和した。

終戦後の中華民国漢口の日本軍の第85戦隊および第22戦隊

しかし、引き揚げを受け入れず「欧米諸国からのアジアの解放」という、大東亜戦争の理念を信じて、ジャワやインドシナ、ビルマ、マレーなどで勃発したイギリスやフランス、オランダからの独立戦争に協力する日本軍の将兵や、再び国共内戦に向かいつつある中華民国軍に佐官級で残ることを依頼されそのまま残留を決めたもの(通化事件)、のちに個人の意思で中華民国国軍中国人民解放軍に編入されたものもいた[注釈 25]。また、これらの独立戦争で戦う側とフランスやオランダなどの現地の政府軍などの双方に、日本軍の残留した航空機(九九式襲撃機九八式直接協同偵察機など)や戦車、銃器など接収した武器がそのまま利用されることも多かった。

日本とフランス植民地政府の権力の空白が生まれたインドシナでは、17日にベトナム八月革命が勃発した。日本の後ろ盾を失った満洲国はソ連軍の侵攻を受けて崩壊し、18日に退位した皇帝の愛新覚羅溥儀愛新覚羅溥傑ら満洲国帝室と、関東軍の吉岡安直中将や橋本虎之助中将などはその後日本への亡命を図るが、奉天に侵攻してきたソ連軍に身柄を拘束された。さらには、アメリカ領フィリピンのルバング島1974年まで日本軍の残留兵として戦い続けた小野田寛郎少尉のように、日本軍の将兵として戦闘行為を継続していた者や、アナタハン島のように島単位で引き揚げから取り残される者も発生した。

なお、沖縄県を含む南西諸島および小笠原諸島は停戦時にすでにアメリカ軍の占領下、勢力下にあった。また、中四国イギリス連邦占領軍が後に駐留することが決まり、結果的にアメリカ軍とイギリス連邦軍だけで正式に日本を占領することとなった。なお、中華民国も軍事占領を検討したが、占領時の食料の大部分を日本に頼ろうとしたために、イギリス軍とアメリカ軍から正式に拒否された

樺太真岡町に進軍するソ連軍(8月20日)

少しでも多くの日本領土略奪を画策していたヨシフ・スターリンは、北海道の北半分のソ連軍による分割占領をアメリカ政府に提案したが、当然のことながら拒否され、駐在武官のみを送るにとどめた。しかしスターリンの命令で、ソ連軍は日本の降伏後も南樺太・千島への攻撃を継続し、22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃を受ける三船殉難事件が発生した。北方領土択捉島国後島は8月末、歯舞諸島での日本軍とソ連軍との戦いは9月上旬になってからも続いた。

この様に日本とその友好国側、連合国側の上記のような準備と混乱を経たものの、22日から23日にかけて台風が日本を襲い上陸予定地の厚木飛行場も滑走路が水に浸かってしまい、さらに連合国軍の占領は遅れた[786]

占領開始(8月28日-9月1日)

到着したアメリカ軍のマッカーサー陸軍大将(8月30日)

ようやく停戦から2週間後の28日に連合国軍による日本占領部隊の第一弾として、チャールズ・テンチ大佐率いる45機のカーチスC-47からなるアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着。同基地を占領した。なお、全面戦争において首都の陥落がないままで、また停戦から首都占領まで2週間も時間がかかったのは、近代戦争のみならず史上でも初めてのことであった[787]

また、同日東京の大森にある連合軍の捕虜収容所に、アメリカ海軍の軽巡洋艦「サンフアン」から上陸用舟艇が手配され、病院船「ビネボレンス」に、イギリス軍やアメリカ軍の病人や怪我人などを収容していった。

30日午前、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の総司令官として、連合国の日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も、専用機「バターン号」でフィリピンから厚木基地に到着した。一行は午後に日本軍が用意した専用車で横浜市内のホテルニューグランドに移り、宿を取った。続いてイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍、カナダ軍の占領軍と、中華民国軍、フランス軍、オランダ軍、ソ連軍などの他の連合国軍の代表団も到着した[788]

降伏文書調印 (9月2日)

USSミズーリ艦上の日本側全権代表団(9月2日)
連合国側全権代表団(9月2日)

降伏文書調印式は9月2日に、東京湾(内の瀬水道中央部千葉県よりの海域)に停泊中のアメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上[789]で、日本側全権代表団と連合国代表が出席して行われた。

午前8時56分にミズーリ艦上に日本側全権代表団が到着した。日本側代表団は、大日本帝国政府全権外務大臣重光葵大本営全権参謀総長梅津美治郎陸軍大将、随員は終戦連絡中央事務局長官岡崎勝男、参謀本部第一部長宮崎周一陸軍中将、軍令部第一部長富岡定俊海軍少将(軍令部総長豊田副武海軍大将は出席拒否)、大本営陸軍部参謀永井八津次陸軍少将、海軍省出仕横山一郎海軍少将、大本営海軍部参謀柴勝男海軍大佐、大本営陸軍部参謀杉田一次陸軍大佐、内閣情報局第三部長加瀬俊一、終戦連絡中央事務局第三部長太田三郎らであった。

先に到着していた連合国側全権代表団は、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、中華民国、アメリカ、フランス、オランダなど17カ国の代表団と、さらには8月8日に参戦したばかりで、しかも15日の日本軍の停戦を無視して、満洲や択捉島、朝鮮などで進軍を続けていたソビエト連邦の代表団も「戦勝国」の一員として臨席した。

9時2分に日本側全権代表団による対連合国降伏文書への調印が、その後連合国側全権代表団による調印が行われ、9時25分にマッカーサー連合国軍最高司令官による降伏文書調印式の終了が宣言され、ここに1939年9月1日より足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦はついに終結した

しかし、そのとき甲板ではカナダ代表が署名する欄を間違えたことによる4ヶ国代表の署名欄にずれが見つかり、日本側からの指摘で、正式文書として通用しないとして降伏文書の訂正がなされていた。具体的には、連合国用と日本用の2通の文書のうち、日本用文書にカナダ代表のエル・コスグレーブ大佐が署名する際、自国の署名欄ではなく1段飛ばしたフランス代表団の欄に署名した。しかし、次の代表であるフランスのフィリップ・ルクレール大将はこれに気づかずオランダ代表の欄に署名、続くオランダのコンラート・ヘルフリッヒ大将は間違いには気づいたものの、マッカーサー元帥の指示に従い渋々ニュージーランド代表の欄に署名した。最後の署名となるニュージーランドのレナード・イシット少将もアメリカ側の指示に従い欄外に署名することとなり、結果としてカナダ代表の欄が空欄となった。

その後各国代表は祝賀会のために船室に移動したが、オランダ代表のヘルフリッヒ大将はその場に残り、日本側代表団の岡崎勝男に署名の間違いを指摘した。岡崎が困惑する中、マッカーサー元帥の参謀長リチャード・サザランド中将は日本側に降伏文書をこのまま受け入れるよう説得したが、「不備な文書では枢密院の条約審議を通らない」と重光がこれを拒否したため、岡崎はサザランド中将に各国代表の署名し直しを求めた。しかし、各国代表はすでに祝賀会の最中だとしてこれを拒否。結局、マッカーサー元帥の代理としてサザランド中将が間違った4カ国の署名欄を訂正することとなった。日本側代表団はこれを受け入れ、9時30分に退艦した。

調印後

旅順口区を不法占領したソ連軍(9月15日)

さらに翌9月3日に、連合国軍最高司令官総司令部は、アメリカの大統領ハリー・S・トルーマンの布告を受け、「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言を反故にし、「行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く」という布告を下し、さらに「公用語も英語にする」とした。

これに対して日本の外相重光葵は、マッカーサー最高司令官に「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツと日本は違う。ドイツは(フレンスブルク政府のように)政府が壊滅したが日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを強く要求した。その結果、連合国軍側は即時に重光の抗議を認め、トルーマンの布告の即時取り下げを行い、英米による占領政策は日本政府を通した間接統治となった連合国軍占領下の日本も参照)[790][注釈 26]

また、当日には連合国軍最高司令官総司令部よりすべての航空機の飛行が禁止されたほか、漁船を含む船舶の一切の移動が禁じられた。なお、マッカーサー最高司令官は9月8日まで横浜のホテルニューグランドに宿泊し、そのあと東京のアメリカ大使館に入っている[791]

連合国軍は直ちに日本軍および政府関係者40人の逮捕令状を出し[792]、のちに極東国際軍事裁判などで裁かれた。日本での戦犯逮捕を指揮したエリオット・ソープCIC部長は、遡及法でA級戦犯を裁くことに疑問を感じ、マッカーサー最高司令官に「戦犯を亡命させてはどうか」と提案したことがあったが、マッカーサー最高司令官は「そうするためには自分は力不足だ、連合軍の連中は血に飢えている」と答えたという[793]。さらに後年、「極東国際軍事裁判は失敗であった」と悔やんでいる[794]。最終的に逮捕したA級戦犯の容疑者は126名となった。

一方、中華民国やイギリス領香港、マレー、シンガポール、ビルマ、インド、またはアメリカ領フィリピンやオランダ領ジャワ、フランス領インドシナ、オーストラリアなどにいた日本軍人、軍属はそれぞれの現地で捕虜となり、その後現地でB級ならびにC級戦犯として裁判に掛けられる者が多かった。これらの軍人、軍属に対する連合国のB級ならびにC級軍事裁判は1946年まで行われ、その結果、収容所に入れられるか[795]または現地で死刑となった。

さらにソ連の捕虜になった日本軍将兵は、まともな裁判もないままにシベリア抑留などで強制就労にさせられ5万5千人が現地で死亡した。また金目の物や車、タイプライター家具までソ連軍に強奪され、ソ連に送られた[796]。その後帰国してきた軍人も、共産党の教育下で赤化されているだけでなく瀬島龍三中佐のようにソ連軍のスパイ(スリーパー)として仕込まれている者も多かった[797]

民間人や外交官、軍属などは1945年8月より帰国を開始する。自国領土の台湾や朝鮮、またマレーやインドシナ、タイなどからは比較的順調に帰国したものの、中華民国や満洲国では内戦やソ連の占領下にあるなど混乱が多く、中国残留孤児など戦後の混乱でやむなく置いていかれる者も多かった。


注釈

  1. ^ 1944年8月25日の対枢軸国宣戦布告以降の損失も含む。
  2. ^ ドイツ民間人の戦争犠牲者には(a)空襲や地上戦による死者(b)人種的、宗教的、政治的迫害による死者(c)東中央ヨーロッパからの避難民の死者が含まれる。
  3. ^ ルーマニア国民の空襲や地上戦における犠牲に加え、ルーマニア国内に居住していたユダヤ人の虐殺犠牲者を含む。
  4. ^ ただし日本国との平和条約では、本戦役は第二次世界大戦の一部とは定義されていない。
  5. ^ 実際にソ連領として併合されてしまうと、そこからの出国は、ソビエト体制に不満を持つ反革命分子として摘発されるおそれがあったので、避難民たちは出国を急いでいた。西方からのドイツの脅威と東方からのソ連軍の進駐によって、難民たちは窮地に陥っていたのである。
  6. ^ この調印に際してドイツ軍は第一次世界大戦時に当時のドイツ帝国が連合軍に対する降伏文書に調印した食堂車を特別に調印場所として用意させた。
  7. ^ アフリカ大陸では、広大な植民地を持つフランスが降伏し、北部のフランス植民地、アルジェリアチュニジアモロッコ、アフリカの東沖マダガスカル島などがヴィシー政権の管理下となった。
  8. ^ イギリスの首相ウィンストン・チャーチルは地中海地域を「ヨーロッパの下腹」と呼んだ。
  9. ^ ソ連書記長スターリンは情報部からドイツ軍の動向を繰り返し警告されていたが、それらはイギリスが意図的に流した偽情報と考え、侵攻に備えていなかった。
  10. ^ なお、国民の士気低下を恐れて陸軍の英雄、ロンメルの死の真相は公にされず、戦傷によるものと発表され10月18日、盛大な国葬が営まれた。
  11. ^ 紛爭解決ニ至ラサルトキハ聯盟理事會ハ全會一致又ハ過半數ノ表決ニ基キ當該紛爭ノ事實ヲ述へ公正且適當ト認ムル勸告ヲ載セタル報告書ヲ作成シ之ヲ公表スヘシ
  12. ^ 聯盟理事會ノ報告書カ【紛爭當事國ノ代表者ヲ除キ】他ノ聯盟理事會員全部ノ同意ヲ得タルモノナルトキハ聯盟國ハ該報告書ノ勸告ニ應スル紛爭當事國ニ對シ戰爭ニ訴ヘサルヘキコトヲ約ス(報告書が当事国を除く理事会全部の同意を得たときは連盟国はその勧告に応じた紛争当事国に対しては戦争に訴えない)
  13. ^ 特高資料では「9月28日」とされているが、上記「褒賞上申書」や和歌山県で北林の逮捕に立ち会った元和歌山県警刑事の証言により実際の逮捕日は9月27日であることが渡部富哉によって確認されている[358]
  14. ^ ゾルゲの紹介にはフランクフルター・ツァイトゥングの「東京特派員だった」という記述が散見されるが、ゾルゲ逮捕後の1941年11月に新聞社がドイツ外務省に出した書簡で日本の支局代表者は、ゾルゲとは正式な特派員契約を結んだことがないこと、1936年3月にベルリンの編集長宛にゾルゲから手紙で売り込みがあってから寄稿者として利用したことを記している[359]
  15. ^ さらに、戦時国際法では「期限のない最後通牒を、事実上の宣戦布告と見なすことは可能」、とするのが通説であることに鑑みれば、「ハル・ノートを突きつけられた」と勝手に日本が判断した時点で、「これは宣戦布告に等しい」、と見なす考えもある。最後通牒の項も参照。
  16. ^ 1940年3月、日本の協力の元に汪兆銘を首班として南京に設立された政権。
  17. ^ しかし後にポルトガル政府は暗黙の下、両地を事実上統治下に置いた。
  18. ^ 当時はイギリスとオランダの植民地
  19. ^ オランダの植民地
  20. ^ 現在のスリランカ
  21. ^ 正式にはドイツ占領下のフランス
  22. ^ その後ブリティッシュ・ロイヤルティは浮揚修理され、アッドゥ環礁に移動。同地でドイツ軍のUボートU-183の雷撃を受けて大破。応急修理後燃料油貯蔵船となり、戦後の1946年1月5日に浸水により沈没した。
  23. ^ 1945年にはアメリカ潜水艦の攻撃を受けた阿波丸事件により、315名いた技術者は160名が戦病死した。
  24. ^ 首相交代による。チャーチルは7月26日まで。アトリーは27日以降(ただし前半も次席として参加)。
  25. ^ 林航空隊は東北民主連軍航空学校として中国人民解放軍空軍創立に尽力した。
  26. ^ 永井和によれば、重光の具申により方針を撤回させたことは重要であり、無条件降伏があくまで日本軍に対するものであって国に対するものではないことに基づくとする。
  27. ^ カティンの森事件については、1990年にソ連政府がスターリンの指示による犯行を認め遺憾の意を表明した。
  28. ^ 日本兵のシベリア抑留については、1992年にロシアの大統領エリツィンが謝罪した。
  29. ^ Joint Army - Navy Assessment Committee
  30. ^ 実際の戦闘に参加したものは5%に過ぎなかった。
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