文禄・慶長の役 文禄・慶長の役の概要

文禄・慶長の役

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文禄の役
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文禄の役『釜山鎮殉節図』[注 1]。釜山鎮城攻略の様子で左に密集しているのは上陸した日本の軍船。
戦争:文禄の役
年月日:文禄元年4月13日1592年5月24日) - 1593年7月
場所朝鮮半島全域、満州豆満江一帯
結果小西行長沈惟敬らの協議によって日本と明の間では休戦成立[注 2][出 1]。日本軍は南に後退したものの、朝鮮半島に築いた城塞に駐留した。
交戦勢力
五七桐 豊臣政権
Flag of the king of Joseon.svg 李氏朝鮮
指導者・指揮官
総大将 宇喜多秀家
一番隊

宗義智、小西行長、松浦鎮信有馬晴信大村喜前五島純玄

二番隊

加藤清正鍋島直茂相良長毎

三番隊

黒田長政大友吉統

四番隊

毛利勝信(森吉成)島津義弘高橋元種秋月種長伊東祐兵島津忠豊

五番隊

福島正則戸田勝隆長宗我部元親蜂須賀家政生駒親正来島通之(得居通幸)来島通総

六番隊

小早川隆景毛利秀包立花鎮虎(宗茂)高橋統増筑紫廣門毛利輝元[注 3]

七番隊[注 4]

宇喜多秀家ほか

八番隊[注 5]

浅野幸長中川秀政宮部長煕ほか

九番隊

豊臣秀勝細川忠興長谷川秀一木村重茲ほか

水軍

九鬼嘉隆藤堂高虎脇坂安治加藤嘉明亀井茲矩菅達長桑山一晴桑山貞晴堀内氏善杉若氏宗

明軍

兵部尚書石星
兵部左侍郎邢玠
兵部右侍郎宋慶昌→顧養謙
防海禦倭総兵官(提督李如松
副総兵(遼東軍)祖承訓 参将劉綖

朝鮮軍(組織

都体察使
柳成龍李元翼
都元帥
金命元
都巡察使
、韓應寅
巡察使
李鎰、金睟、権慄
防禦使
成應吉、趙儆
助防将
洪允寛、劉克良、邊璣、朴宗男
兵馬節度使
李珏、高彦伯、金誠一、曹大坤
水軍節度使
朴泓、元均李舜臣李億祺
僉節制使
鄭撥、尹興信
府尹
尹仁涵、邊應星
大都護府使
鄭煕績
牧使
金時敏金汝岉
都護府使
徐禮元、宋象賢、朴晋
郡守
趙英珏、李彦誠
義兵
郭再祐、高敬命、趙憲

戦力
日本軍
158,700人[出 1](毛利家文書による通説。総勢は日本軍陣立を参照)
明軍 53,000人
朝鮮軍 172,000人
義兵軍 22,400人
計247,400人(「軍事力と軍事情勢」を参照。)
損害
少なくとも約21,900人以上[出 2](病死、落伍、負傷帰国、休戦時に病傷者で後に回復する者を含む)

一説に約50000[注 6](大半が病死・餓死。戦死はわずか)

  • 中川秀政が戦闘中以外で討死
不明
  • 鄭撥、尹興信、宋象賢などが戦死
文禄の役(壬辰倭乱)
慶長の役
Ulsan waesung attack.jpg
蔚山籠城図屏風, 包囲された加藤清正を毛利秀元らが救援して明軍に大勝した。(福岡市博物館所蔵)
戦争:慶長の役
年月日1597年1月 - 1598年12月
場所:朝鮮半島三南地方
結果:豊臣秀吉死去で日本軍が帰国して終結[1]講和せずに豊臣政権が瓦解したため双方が勝利を主張したまま未決着。(「柳川一件」も参照)
交戦勢力
五七桐 豊臣政権
Flag of the king of Joseon.svg 李氏朝鮮
指導者・指揮官
総大将小早川秀秋 明軍

兵部尚書邢玠(総督
都察院右僉都御史楊鎬→萬世德
提督麻貴
禦倭総兵官劉挺
禦倭総兵官董一元
水帥陳璘
副総兵陳蠶
副総兵鄧子龍
左協軍大将李如梅
朝鮮軍
都元帥権慄
三道水軍統制使李舜臣元均李舜臣
全羅右水使李億祺
義兵大将郭再祐

戦力
141500人[出 3] (諸説あり)
損害
不明
  • 来島通総が戦死。
  • 来島通之には戦死説があったが、現在は否定。
数十万人[注 7][注 8](文禄・慶長両役の総計)
慶長の役(丁酉倭乱)

なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年の1592年のほとんどの出来事は、厳密にいえば元号では天正20年の出来事であったが、慣例として文禄を用いる。また特に注記のない文中の月日は全て和暦[注 10])で表記。( )の年は西暦である。

目次


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注釈

  1. ^ 菊池正憲 2012, p. 234.
  2. ^ 笠谷 & 黒田 2000, p.2
  3. ^ 宣祖修正實錄 25年 4月 14日 "鎰又發倉廩, 誘募散民, 得數百人, 倉卒徧伍, 合兵僅六千餘人。" [1]
  4. ^ a b c d e Turnbull, Stephen. 2002, pp. 116-123.
  5. ^ 宣祖修正實錄 25年 6月 1日 "十萬衆次第潰散" http://sillok.history.go.kr/url.jsp?id=wnb_12506001_001
  6. ^ a b Turnbull, Stephen. 2002, p. 72-3.
  7. ^ a b Turnbull, Stephen. 2002, p. 240.
  8. ^ a b Turnbull, Stephen. 2002, p. 73-4.
  9. ^ a b c d e Turnbull, Stephen. 2002, p. 74-5.
  10. ^ a b Turnbull, Stephen. 2002, p. 75-6.
  11. ^ a b c d e f Turnbull, Stephen. 2002, p. 77-8.
  12. ^ 国史大辞典、吉川弘文館
  13. ^ a b c d e f Turnbull, Stephen. 2002, p. 79-80.
  14. ^ 岡本良知「豊臣秀吉」中公新書
  15. ^ Turnbull, Stephen. 2002, p. 81-82.
  16. ^ 『加藤清正 朝鮮侵略の実像』より
  17. ^ 国史大辞典、吉川弘文館
  18. ^ この戦闘は閑山島海戦(1592年7月、脇坂安治指揮の日本軍対李舜臣指揮の朝鮮軍)・幸州山城攻防戦(1593年2月、宇喜多秀家指揮の日本軍対権慄指揮の朝鮮軍)と合わせて韓国では「壬辰倭乱の三大捷」と呼ばれている。
  19. ^ 国史大辞典、吉川弘文館
  20. ^ 国史大辞典、吉川弘文館
  21. ^ Turnbull, Stephen. 2002, pp. 110-5.
  22. ^ [2]
  23. ^ [3]
  24. ^ [4]
  25. ^ [5]
  26. ^ 国史大辞典、吉川弘文館。[6]
  27. ^ 李舜臣行録
  28. ^ 国史大辞典、吉川弘文館
  29. ^ 朝鮮人は女真族のことを「野蛮人」という意味をこめて「オランケ(兀良哈)」と呼んでいた。これが転じて日本人は女真族を「オランカイ」と呼んだ
  30. ^ 岡本良知「豊臣秀吉」中公新書
  31. ^ 清正の報告内容は「オランカイは朝鮮の倍ほどの広さで、これを通って明に入るにはモンゴルも通らねばならないので無理である」「オランカイは畑地ばかりで雑穀しかとれず、兵糧米が手に入る見込みはない」「オランカイには日本の守護のような統治者がおらず、伊賀者・甲賀者のように砦を構え、まるで一揆国のようである」というものである。『加藤清正 朝鮮侵略の実像』
  32. ^ 『加藤清正 朝鮮侵略の実像』より
  33. ^ 『加藤清正 朝鮮侵略の実像』より
  34. ^ 『加藤清正 朝鮮侵略の実像』より
  35. ^ 国史大辞典、吉川弘文館
  36. ^ [7]
  37. ^ 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』文英堂, 2000年, 46頁
  38. ^ a b c d e f 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』文英堂, 2000年
  39. ^ 「我國無一人出撃、天兵又不追之、獨李時言尾其後不敢逼、伹斬飢病落後者六十餘級」(『懲毖録』。史料稿本による)、「敵は日本人たちを追跡して来なかった。話によると彼らの多くは負傷しており、継続した戦闘で疲労していたし、大軍が移動するのには時間を要した。ことにシナ軍の武器は、前にも述べたように非常に重く、逃亡する敵を追跡するにあたっては迅速、かつ容易に取り扱いかねたのもその理由であった」(『完訳フロイス日本史5』42章、本来の第3部53章)
  40. ^ 中野2008, 104頁
  41. ^ 中野2008, 104頁
  42. ^ 『宣祖修正実録』宣祖26年4月条
  43. ^ 笠谷和比古・黒田慶一同書, 121頁
  44. ^ 寒川旭「秀吉と地震」
  45. ^ 地震の年表 (日本)参照
  46. ^ 『日本戦史 朝鮮役』/日本陸軍参謀本部
  47. ^ 『懲毖録』柳成龍
  48. ^ 『宣祖実録十月十二日条』
  49. ^ 豊臣秀吉の死後まもなく、徳川家康を敵対勢力に想定して、毛利輝元は増田長盛、石田三成、前田玄以、長束正家の四奉行と連携し、不測の事態に備えて上方方面に大軍を終結させるなど、軍事衝突さえ起こりかねない状況下にあった。光成準治『関ヶ原前夜』日本放送出版協会 (2009)
  50. ^ 『日本戦史 朝鮮役』/日本陸軍参謀本部393項
  51. ^ 来年は御人数指し渡され、朝鮮都までも動きの儀、仰せ付けららるべく候。其の意を得、兵糧、玉薬沢山に覚悟仕り、在庫すべく候なり『慶長三年三月十三日付朱印状(立花家文書)』 度々仰せ遣わされ候ごとく、来年大人数遣わされ働の儀、仰せ付けらるべく候間、其の中いずれの城々も丈夫に在番肝用に候『慶長三年五月二十二日付朱印状(鍋島家文書)』等
  52. ^ 看羊録
  53. ^ Colin McEvedy and Richard Jones, 1978, "Atlas of World Population History," Facts on Fileによる推計。1500年の時点では日本1700万、李氏朝鮮は400万、明朝は1億1000万、満州は500万。なお鬼頭宏の推計では1600年の日本の人口は、1547万人。「人口から読む日本の歴史」講談社学術文庫, 2000年, 84頁。歴史上の推定地域人口を参照
  54. ^ 歴史上の推定地域人口を参照
  55. ^ いずれも漢城占領後に渡朝した。
  56. ^ 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』文英堂, 2000年
  57. ^ 『慶長二年陣立書』に基づくが、兵站を担当した兵数不詳の寺沢正成を含まない。(『文禄・慶長の役』/中野等 192頁)
  58. ^ 『文禄・慶長の役』/中野等 137頁
  59. ^ 文禄の役における島津勢15437人のうち6565人 (43%) が人夫・水夫である。(『歴史群像シリーズ35 文禄・慶長の役』/学研 74頁)
  60. ^ 『松浦古事記』巻之下(小瀬甫菴道喜撰)・六 名護屋御陣所の事[8]
  61. ^ ノエル・ペリン「鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮」中公文庫
  62. ^ ノエル・ペリン前掲書
  63. ^ 柳成龍は日本軍の火縄銃(朝鮮では鳥銃)を大きな脅威としている。
  64. ^ 有効射程は口径や装薬量により異なるが概ね200m程度とされる。
  65. ^ なお、他言語版に見られる日本水軍を強化するために秀吉がポルトガルガレオン船を二隻雇って戦争に参加させようとしたとする逸話は、1586年にイエズス会準管区長ガスパル・コエリヨを大阪城で謁見した際の打診であり、九州征伐の頃のことであって、文禄の役開戦後の朝鮮水軍の活動を受けてのものではない。
  66. ^ 「シナ軍の兵力について、多くの者は誇張しすぎているが、信用できる幾人かのキリシタンからの通信によると、少なくとも20万くらいはいた。しかもそれは同じく無数ともいえる朝鮮の軍勢を除いての数だということである」『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇2』第41章
  67. ^ 「ところで彼らの鉄砲(エスピンガルダ)はどのようにして発射されるのか不可解である。というのは、無数に発砲した後も、そのための死傷者が一人も出なかったからである」 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇2』第41章
  68. ^ ルイス・フロイスが1593年の平壌戦における明軍の装備に言及している。「(明の)兵士たちは身に適当な厚さの鋼鉄の鎧をまとい、同じく鋼鉄製の膝当てをつけていた。それらは馬上にあっても、足のあたりまで垂れ下がり」「従来発見されたものの中では最優秀を誇っていた日本軍の刀や槍をもってしても、なんら損傷を加え得なかった」「(日本軍の)刀や槍はたび重なる戦闘によって威力が鈍っており、他方シナ軍の武装はいとも堅固で、日本軍の刀を寄せ付けぬほどであった」 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇2』第41章
  69. ^ 『懲毖録』柳成龍/平凡社・東洋文庫版187頁
  70. ^ なお、フロイスには誇張癖があり(『フロイスの日本覚書』(松田 毅一、E・ヨリッセン著)より、ヴァリニャーノのフロイス評)、彼は朝鮮には渡っていないので伝聞に基づいていること、また日本の大陸侵攻について「無謀な企て」と否定的に記していることに留意が必要。
  71. ^ 『宇都宮高麗帰陣物語』
  72. ^ 『朝鮮と日本の関係史』朴鐘鳴監修/明石書店 (2000) 192頁
  73. ^ 『懲毖録』柳成龍/平凡社・東洋文庫版14頁
  74. ^ ルイス・フロイスによると、日本は「それ(=火砲・矢)以外の武器、特に刀剣は短く、大して役立たない」という事前情報を得ていた。『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇2』第36章
  75. ^ 朝鮮の同時代史料である懲毖録には「弓矢の技は百歩に過ぎないが、鳥銃はよく数百歩に及び、(中略)とても対抗できない」(東洋文庫版283頁)とある。(当時の朝鮮の歩は約118cm) また同書に、尚州での両軍の戦闘においては朝鮮の弓は実射程が100mに満たず(「矢は数十歩で墜ちて」東洋文庫版60頁)日本軍に届かず、開平地の戦闘では火縄銃にアウトレンジされ一方的に損害を被ったことが記されている。
  76. ^ ただし、朝鮮の「片箭(ピョンジョン)」という弓は遠距離用の短い矢を用いれば最大射程は450mに達するともいう。
  77. ^ 天字銃筒 射程距離96m、地字銃筒 同64m、玄字銃筒 同160m 『壬辰戦乱史』/李烱錫
  78. ^ 『懲毖録』東洋文庫版 140頁では「数十歩」と記録
  79. ^ これは奴婢や特権階級の第二夫人以下に生まれた子息の徴兵も含む内容であった。
  80. ^ 壮年男子は農耕やその他の経済活動に優先的に従事させる政策を採用したため
  81. ^ 朝鮮軍の組織には重大な欠陥があった。外国からの侵攻を受けた場合でも、地方の軍隊は管轄区域外に、独自の判断で救援に向かう事は許されず、王から新たに任命された将軍が新規に編成した部隊を率いて来援するのを待たねばならなかった。更に、任命された将軍は遠方から着任するため、任地における自軍の戦力や地理をよく知らない場合が多く、兵も僅かな常備軍しかなかったため、戦争が始まってから徴兵された新兵が大部分を占め訓練不足であった。
  82. ^ 『李朝実録』宣祖万歴20年5月6月
  83. ^ 『壬辰倭乱と朝鮮民衆の戦い』/矢沢康祐
  84. ^ 義兵を束ねる諸将が両班層(貴族階級)であるのに対して、兵士の大部分が奴婢、李朝においては賤民身分に貶められていた僧侶などであったが、命を賭して貢献したにも関わらずその望みは叶えられず、戦争が終わると再び農奴身分へと戻され、僧侶もまた賤民のままとされた。文禄・慶長の役で官職を授けられた将軍も、戦役後には党派間の政争に組み込まれ、その多くは権力者らの猜疑心や妬みからその地位を追われ、果ては流刑か死刑かの不遇な生涯を送ることになった。『秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争』金奉鉉/彩流社
  85. ^ たとえば大石学「江戸の外交戦略」角川学芸出版、2009、李進熙『日本文化と朝鮮』日本放送出版協会、1980、上垣外 憲一『文禄・慶長の役―空虚なる御陣』講談社学術文庫ほか。
  86. ^ 秀吉が徳川家の所領増加を嫌ったためと言われる。(「逆説の日本史11」井沢元彦
  87. ^ 『朝鮮日々記を読む 真宗僧が見た秀吉の朝鮮侵略』 朝鮮日々記研究会編 法藏館 2000年
  88. ^ 『島津家文書』『吉川家文書』
  89. ^ 『毛利家文書』
  90. ^ 『伊達家文書』
  91. ^ 『フロイス日本史』
  92. ^ 中野等『文禄・慶長の役』吉川弘文館
  93. ^ 米、牛、豚などの他、朝鮮の女人も要求している
  94. ^ その後しばらくの間朝鮮に鼻のない人間が多く見られたということが知られているが、はなそぎも1597年の慶長の役の頃が主体であるが、これまで戦争全般を通じた蛮行であるがごとく語られてきた。
  95. ^ 熱田公『日本の歴史11 天下一統』集英社
  96. ^ 万石以上の知行のある大名としては唯一の戦死。
  97. ^ 不在の上杉景勝を除く。

出典

  1. ^ 1709年の初筆を1760年に模写したもの。
  2. ^ ただし晋州城攻略は実施した。
  3. ^ a b c 毛利家文書では七番隊とされる。しかし松浦古事記等には六番隊と同じグループに書かれており、毛利輝元は実際には六番隊と行動を共にしていた。徳富蘇峰等も先駆衆を六軍とする。
  4. ^ a b c 毛利家文書では八番隊とされる。松浦古事記には隊に番号が付けられておらず、朝鮮国都表出勢衆を3つのグループに分けていた。
  5. ^ a b c 毛利家文書には書かれてない諸部隊。松浦古事記による。
  6. ^ 「完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇II」より、ルイス・フロイスらが「百方手を尽くして」情報収集した結果、「もっとも信頼でき、かつ正確」だと判断した数字。死因については「敵によって殺された者はわずかであり、大部分の者は、まったく、労苦、飢餓、寒気、および疾病によって死亡したのである」と記している。
  7. ^ a b c ウィキソース(中国語)
    自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。 — 『明史・朝鮮伝(漢文)
  8. ^ ルイス・フロイスは朝鮮人の被害について、日本のものと比べ次のように記している。『朝鮮人の死者については知り得なかったが、死者と捕虜を含め、その数は日本人のそれとは比較にならぬほど膨大であった。なぜならば、都その他の地方に連れて行かれた者を除き、この下(しも)にいる捕虜の数は、数えきれぬほど多いからである。』完訳フロイス日本史5 第44章より。
  9. ^ a b 日本・中国(明)・朝鮮の元号。朝鮮は明と同じ暦法を用いた。
  10. ^ 出典にある明と朝鮮の暦の日付は+1日多いので注意。
  11. ^ a b 朝日新聞2006年6月28日夕刊文化面「『倭乱』と東アジア 韓国の国際シンポから 上」より。スオープ准教授(中国軍事史)は「『明軍は弱い』というイメージは明を倒した清により作られたもので、当時は武器も優秀で精強だった。一方の秀吉軍は戦乱で鍛え上げられた世界最強の軍団。両者の激突は16世紀世界最大の戦争だった」とも述べている。
  12. ^ ここでの高麗はコリアと同じ意味。
  13. ^ ただし李王朝を戦国大名と同列に見ていたと言うことはできる。そのことはこの戦役が起こった原因に通じるものがある。
  14. ^ 後述する素行の朝鮮属国説も参照(動機に関する諸説
  15. ^ 出兵とすると「秀吉の朝鮮侵略戦争」(世界史用語集、山川出版社)などとの説明が必要になるため、征伐が避けられるのとは逆の理由で回避される。ただ、これはかなり最近の話で、朝鮮出兵はまだかなり用いられている。
  16. ^ 教科書の用語ではこの名称は使われていないが、日本史リブレットなどの副読本には登場。
  17. ^ 滅亡に瀕したにもかかわらず、日本をあくまでも蛮族と捉え、蛮族が天朝(中国)と朝鮮朝廷に逆らい秩序を乱した反乱であったという定義である。名称の上で倭寇の活動と秀吉による朝鮮征服を同列とする考えは、儀礼的関係を重視する朝鮮の特徴的な行動。
  18. ^ 日本語読み;じんしんわらん、朝鮮語読み;イムジンウェラン(임진왜란)。
  19. ^ 日本語読み;ていゆうわらん、朝鮮語読み;チョンユウェラン(정유왜란))。
  20. ^ 日本語読み;ていゆうさいらん、朝鮮語読み; チョンユヂェラン(정유재란)。
  21. ^ 日本語読み;じんしんそこくせんそう、朝鮮語読み;イムジンチョグクチョンジェン(임진조국전쟁
  22. ^ 後述するが、『懲毖録』によると景轍玄蘇も朝鮮との交渉において言及した。ただし徳富蘇峰は『近世日本国民史』では売言葉に買言葉で玄蘇の本音ではないと寸評している。
    笠谷 & 黒田 2000, p.34。柳 & 長野 1921, pp.20-21。徳富 1935, p.218
  23. ^ これらは『高麗史』や『成宗実録』の記述に基づくものである。済州島の島民も倭寇に加わった(または倭寇と偽って海賊行為を働いていた)という説もあるが、韓国の研究者は高麗賤民や済州島海民の倭寇参加の事実に抵抗している。
  24. ^ 倭寇と言うものの、高麗賤民もしくは済州島海民を主体とする集団であったという説が有力。(前期)倭寇の8-9割は朝鮮人であったという朝鮮人説には異説もあるが、いずれにしても日本側から出征した勢力はわかっておらず、前者でなければ正体不明。
  25. ^ ただし、これについて日本側には外寇があったという記録がない。
  26. ^ 李承晩による竹島の占領を除く場合。
  27. ^ 村井 1993, p.218
    且つ聞く、倭人、中原に言いて曰く、「朝鮮は我に服事す、我まさに其の上に序すべし」と云えりと。乃ち厚待の恩を念わず、反りて驕心を生じ、班を上国に争う。其の言此の如く、唇のこれより大いなるは莫し。交隣の道、亦まさに節あるべく、永く絶つ能わざると雖も、此の時に及びては、裁制するが当なり — 中宗39-4壬辰

    すでに1540年(天文9年)の時点で、日朝貿易に従事する大内義隆が明の北京へ派遣した湖心碩鼎ら第18次遣明使が、「日本は朝鮮を服事(服属)させているから、席次は朝鮮より上にすべし」と要請していた[2]

  28. ^ ただし朝鮮においては、当時よりこの文禄・慶長の役を倭寇の最大最後のものと考えたことは注意が必要である。彼らは倭軍と称するものと倭寇とを区別しなかった。この認識の誤りは当時の対応の失敗だけでなく、(後に訂正されるまで)その後の韓国史学会の認識の誤りも生み出した。
  29. ^ a b 琉球王国は2年1貢や、1年1貢で、回数が多いほど重用され、冊封体制内での待遇が良いことをさす。他の冊封国では3年1貢が多い。
  30. ^ 毎年元旦の正朝使、明皇帝の誕生日の聖節使、明皇太子の誕生日の千秋節使、および正朝廃止後は冬至節。
  31. ^ 正学あるいは官学とも言う。
  32. ^ ルイス・フロイスは『日本史』第55章で「信長は、日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成して支那を武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考えであった」と記している。
  33. ^ この日付は岩沢愿彦の考証による推定。
  34. ^ 宗氏の一族で、対馬国守護代を務めた。宗義智とは意見が合わず、後に暗殺された。
  35. ^ これは島津氏、後北条氏、伊達氏など諸大名の平定と同じやり方で、帰順すれば許すが、逆らったり無視した場合は大軍を派すというのが、秀吉の常套手段だった。
  36. ^ ここで言う「これまでの国王」とは、天皇家ではなく足利将軍家を指す。対外的には足利将軍が日本国王であった。秀吉と足利義昭の間にはもとより主従関係はなく、秀吉は将軍位を求めなかったので、簒奪とは言えず、日本の情勢に疎かったことが伺える。また前述のように李成桂や李芳遠など王位を奪った歴代国王のいる朝鮮の方が遥かに簒奪の国と言うにふさわしかった。
  37. ^ 海路不慣れで道が分からないの意味。
  38. ^ 柳成龍の『懲毖録』による。代々の柚谷氏は朝鮮との交渉役の家柄であったのに、懲毖録では康広が朝鮮を侮辱した言動が書かれている。日本側記録に康広の処刑の話はなく、一族(康広の息子と思われる)柚谷智広は戦役後の国交回復交渉に携わって朝鮮で獄死した。
  39. ^ 宗義調は隠居してすでに死去。子の宗義智が継いでいた。
  40. ^ 宗氏のいつものやり口かで無関係の囚人を引き渡した。
  41. ^ 柳成龍の『懲毖録』によるとこれが朝鮮が手にした最初の日本製の火縄銃だということだが、兵器廠に死蔵され顧みられなかった。
  42. ^ a b 宣祖は側室の仁嬪を寵愛し、その息子の信城君を溺愛していたが、群臣は光海君に従っていた。鄭澈(西人派)は仁嬪の弟・金公諒が専横の傾向があるので排除しようとしたが、李山海(東人派/北人派)の子を通じてその話が金公諒に漏れ、仁嬪が国王に泣きついたことから、宣祖は激怒して鄭澈の官職を剥ぎ、追放に処した。
  43. ^ 金誠一はこのとき「必ず来寇があるとは限らない」という曖昧な否定論を述べた。翌年4月23日、日本軍が席巻する中で彼は慶尚右兵使の職務にあったが、解任逮捕された。しかし再び東人派の援護で、直後に慶尚右招諭使に任命されて、義兵の徴募に当たった。徳富 1935, p.398
  44. ^ 対馬の士は対外上は朝鮮陪臣でもあり、柳川調信は先の引見で朝鮮国王より嘉善大夫の爵位を授与されていた。参謀本部 1924, p.18
  45. ^ 。またこのとき、加藤清正が傷心の秀吉に外征を勧めて自らが先鋒を務めることを請うたという話があるが、これは清正の立場や前後の事情から考えて明らかに辻褄が合わず、鶴松死亡説(鬱憤説)に沿って作られた寓話か、加藤家傳が清正の役割を大きく誇張して書いたものと思われる。また、同年8月13日に清正が領国に対して36か条に及ぶ準備を指示する書状(「渋沢栄一文書」所収、東京大学史料編纂所所蔵影写本)には、大規模な軍事作戦に対する危機感を顕わにしている(中野等「唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」)。
  46. ^ 笠谷 & 黒田 2000, p.36
    「その際はなはだ注目されるのは、その地は僻地であって、人が住むのには適しておらず、単に食料のみならず、事業を遂行する際のすべての必需品が欠けており、山が多く、しかも一方は沼地で、あらゆる人手を欠いた荒地であったことである」 — 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉編Ⅱ』第35章より
  47. ^ 文禄の役における島津勢15,437人のうち6,565人 (43%) が人夫・水夫であった学研編 『文禄・慶長の役 : 東アジアを揺るがせた秀吉の野望』 学研〈歴史群像シリーズ35〉、1993年、74頁。ISBN 4056002789 
  48. ^ 動員されたが出征していないため一般的に軍の合計には加えない。しかし元来はこれらもすべて渡海する計画であった。
  49. ^ 宮部藤左衛門尉か?
  50. ^ 生駒親正の弟。生没年不明。
  51. ^ 大塩正貞の子。旧字で「大鹽與一郎」。生没年不明。
  52. ^ 長崎奉行に出世。
  53. ^ 慶長の役では軍目付。
  54. ^ 佐竹氏は出撃を命じられ、代わりに佐竹義久が出陣した。
  55. ^ 伊達政宗は出撃を命じられて、自主的に3,000人と出陣した。
  56. ^ 鍋島勢は1万で、波多党は鍋島配下とされたが、命令に背いて独自の大名として動き、再び秀吉の勘気に触れた。
  57. ^ 豊臣秀勝は巨済島で病死したので織田秀信に替わる。
  58. ^ しばしば陸上部隊としても活動。兵員の半分ほどは水主。
  59. ^ 編者注:「○○説」と自らの学説・主張を名乗らない学者が多く、後世の学者それぞれによって命名・分類されたため、各説の呼ばれ方には微妙に違いがある。また表記の都合で、似たような説はまとめて表記した。
  60. ^ 中村 1935, pp.389-392
    「・・・つらつら思に、今此世間に望みなし、さりとて山林竹裏の住居も、却って天下亂逆の基たれば、大明國を隠居の活命と思召定め・・・」 — 三藐院記、近衛信尹
  61. ^ 福岡藩の朝鮮通信の応接役で、柳成龍の『懲毖録』の日本版の序文を書いている人物。
  62. ^ この敗戦の責任を問われ、4月25日に朝鮮側が斬首刑に処した。朝鮮史編修会 1937, p.442
  63. ^ この計画の創案者は李鎰自身であった。
  64. ^ そのような事実があったかどうかは不明。『加藤家傳』など加藤清正が先鋒であったとする書籍もあり、日朝交渉にかこつけて小西行長が抜け駆け的に単独突入をしたという説もあるが、概ね清正を立派な武人、行長を小人として描くのは典型的な江戸時代から好まれた“ストーリー”であり、徳富蘇峰は小西行長が一番隊で、加藤清正は二番隊であったのは純然たる事実として、否定する。また、中野等は豊臣秀吉が渡海せずに主戦場にいなかったこと、小西行長が関ヶ原の戦いで滅んだことなどで、文禄・慶長の役における加藤清正が実像を超えて肥大化していることを指摘する。
  65. ^ 開戦前に郡県に準備ないという理由で、徴兵に反対した人物。
  66. ^ 朝廷に不幸が訪れる不吉の前兆のこと。武帝(蕭衍)の故事により「惑 南斗に入れば、天子 殿を下りて走る」と言われる。
  67. ^ 御史台の官僚のなかで君主を諫める役職のこと。
  68. ^ ただし明には上奏していないために非公式である。
  69. ^ 朝鮮側の記録は加藤清正を講和反対派と勝手に決めつけて、このときも景應舜は加藤清正に捕まって殺されたという記述があるが、事情を考えれば戦乱の中でその後どうなったのか分からないわけであって殺害者を特定できるというのはおかしい。
  70. ^ 朝鮮国王が出す勅令のこと。君主からの直接命令であり身分の違いなく絶対的服従を要求される。
  71. ^ 李山海の弾劾によって辞職させられた西人派の前領議政。尹根壽、尹は兄弟。
  72. ^ 『西征日記』では村民の隠していた船を数隻見つけたとあり、『懲毖録』では家屋を壊して筏としたとある。
  73. ^ 「乱民」や「叛民」とは朝鮮朝廷に逆らった朝鮮人民衆をさす。彼らの論理では日本軍は賊軍であるので、賊軍に従う民衆の意味。
  74. ^ 出典(韓国の国家機関国史編纂委員会が管理)
    人心怨叛,與倭同心耳 我民亦曰:倭亦人也,吾等何必棄家而避也
    (人心は怨み叛き、倭に同調するのみ。我が民は言った「倭もまた人である。どうして我々が家を捨てて逃げる必要がある?」) — 『宣祖實録』二十五年(1592) 五月壬戌
  75. ^ 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇II』第38章
  76. ^ 軍役の義務のない知行のこと。投降しても朝鮮国王の生活費は保証すると約束したことを意味する。
  77. ^ なお、ここでいう「三国」とは日本・朝鮮・支那のことであり、もっと一般的な唐・天竺・本朝のことではない。
  78. ^ 東殿局は大谷吉継の生母。東殿局と客人局の両名とも北政所付きの侍女で、侍女を介して北政所に情勢を説明するための手紙であったと考えられている。
  79. ^ 日本名では「小琉球」または「呂宋国」。
  80. ^ Gómez Pérez Dasmariñas
  81. ^ (Juan Cobo)
  82. ^ a b 日本二十六聖人の1人。秀吉によって長崎で処刑された。
  83. ^ この前後に出征を命じられ、晋州城攻防戦に参加した。
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