文禄・慶長の役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/06/02 00:43 UTC 版)
| 文禄の役 | |
|---|---|
文禄の役・釜山城攻略『釜山鎮殉節図』[1] |
|
| 戦争:文禄・慶長の役 | |
| 年月日:1592年4月 - 1593年7月(第二次晋州城攻防戦) | |
| 場所:朝鮮半島全域、満州・豆満江一帯 | |
| 結果:小西行長と沈惟敬らの共謀により日明間で休戦[2][3] | |
| 交戦勢力 | |
| 明・李氏朝鮮連合軍 | |
| 指揮官 | |
大将軍宇喜多秀家(八番隊)
|
明軍大将軍(防海禦倭総兵官)李如松
|
| 戦力 | |
| 158700人[3] | 明軍53000 朝鮮軍 172000 義兵軍22400 計247400人[4] |
| 損害 | |
| 約50000[5](大半が病死・餓死。戦死はわずか) | 数十万人[6][7](文禄・慶長両役の総計) |
| 慶長の役 | |
|---|---|
| 戦争:文禄・慶長の役 | |
| 年月日:1597年1月 - 1598年12月 | |
| 場所:朝鮮半島 | |
| 結果:豊臣秀吉死去により日本軍が帰国し終結 | |
| 交戦勢力 | |
| 日本 | 明・李氏朝鮮連合軍 |
| 指揮官 | |
| 大将軍宇喜多秀家 他西国諸将 |
明軍大将・経略朝鮮軍務楊鎬
|
| 戦力 | |
| 141500人[8] | (諸説あり) |
| 損害 | |
| (諸説あり) | 数十万人[6](文禄・慶長両役の総計) |
文禄の役は1592年(文禄元年)に始まって翌1593年(文禄2年)に休戦した。また、慶長の役は1597年(慶長2年)講和交渉決裂によって始まり、1598年(慶長3年)の秀吉の死を受けた日本軍の撤退をもって終結した。
なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年の1592年のほとんどの出来事は元号的には天正20年の出来事である。
目次 |
- ^ 1709年初筆を1760年に模写
- ^ ただし晋州城攻略は実施。
- ^ a b 林屋辰三郎『日本の歴史12 天下一統』中央公論社
- ^ 節「軍事力」参照
- ^ 「完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ」より、ルイス・フロイスらが「百方手を尽くして」情報収集した結果、「もっとも信頼でき、かつ正確」だと判断した数字。死因については「敵によって殺された者はわずかであり、大部分の者は、まったく、労苦、飢餓、寒気、および疾病によって死亡したのである」と記している。
- ^ a b c d 自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。『明史・朝鮮伝』[1]
- ^ ルイス・フロイスは朝鮮人の被害について、日本のものと比べ次のように記している。『朝鮮人の死者については知り得なかったが、死者と捕虜を含め、その数は日本人のそれとは比較にならぬほど膨大であった。なぜならば、都その他の地方に連れて行かれた者を除き、この下(しも)にいる捕虜の数は、数えきれぬほど多いからである。』完訳フロイス日本史5 第44章より。
- ^ 非戦闘員含む.「文禄・慶長の役」中野等、192頁
- ^ 朝日新聞(2006年6月28日夕刊文化面)「『倭乱』と東アジア 韓国の国際シンポから 上」「新しい歴史像 日中激突16世紀最大の戦」の中で、ケネス・スオープ米ボールステート大準教授の「両者(日中)の激突は16世紀世界最大の戦争だった」との発言が紹介されている。
- ^ a b c [2]中野等「文禄・慶長の役研究の学説史的検討」日韓歴史共同研究第2回報告書2010年3月
- ^ a b 一瀬千恵子 文禄・慶長の役の伝承に関する研究 朝鮮軍記を中心として
- ^ 北島万次『豊臣政権の対外認識と朝鮮侵略』 (1990) /校倉書房
- ^ じんしんわらん、임진왜란、イムジンウェラン、戦役総称として使う場合もある。
- ^ ていゆうわらん、정유왜란、チョンユウェラン。または丁酉再乱(ていゆうさいらん、정유재란、チョンユヂェラン)
- ^ じんしんそこくせんそう、임진조국전쟁、イムジンチョグクチョンジェン
- ^ ちょうせんのえき、朝鮮之役、朝鲜之役
- ^ 鄭 杜煕、李ギョンスン、金 文子、小幡倫裕編『壬辰戦争』明石書店 (2008)
- ^ 元代の記録による。倭寇参照。ほか日本でも景徹玄蘇がこの面を朝鮮側との交渉において言及している
- ^ 中宗39-4壬辰
- ^ 村井章介『中世倭人伝』岩波新書,1993年、218頁
- ^ たとえば大石学「江戸の外交戦略」角川学芸出版 ,2009.李進熙『日本文化と朝鮮』日本放送出版協会、1980、上垣外 憲一『文禄・慶長の役―空虚なる御陣』講談社学術文庫ほか。
- ^ 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』文英堂,2000年,24頁
- ^ 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』文英堂,2000年,24頁。および村井章介『中世倭人伝』岩波新書,1993年、218頁
- ^ 村井章介『中世倭人伝』岩波新書,1993年
- ^ ルイス・フロイスは『日本史』第55章で「信長は、日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成して支那を武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考えであった」と記している
- ^ 急成長を遂げて来た豊臣家は、発展し続ける事によって家臣の家禄を増やして忠誠心を維持していたため、更なる発展がない事は、豊臣家の天下の存続に係わる問題であった。
- ^ a b c d e 朝尾直弘「体系日本の歴史8 天下一統」小学館
- ^ 岩沢愿彦(よしひこ)考証による日付確定。藤木久志 『織田・豊臣政権』 小学館、1975年=『天下統一と朝鮮侵略』講談社学術文庫,2005年
- ^ Rockstein, Edward D., Ph.D. pp. 38
- ^ 藤木久志 『織田・豊臣政権』 小学館、1975年=『天下統一と朝鮮侵略』講談社学術文庫,2005年
- ^ 同書
- ^ a b 清水紘一「博多基地化構想をめぐって -天正禁教令との関連を中心として-」(藤野保先生還暦記念会編 『近世日本の政治と外交』 雄山閣、1993年、ISBN 4639011954)
- ^ 本願寺文書による
- ^ Swope. 2005. pp. 21.
- ^ a b 『秀吉と文禄・慶長の役』 佐賀県立名護屋城博物館、2007年
- ^ 『異国往復書翰集 増訂異国日記抄』村上直次郎編、雄松堂、1966年
- ^ 『秀吉と文禄・慶長の役』 佐賀県立名護屋城博物館、2007年、43頁
- ^ 佐藤信淵『宇内混同秘策』
- ^ 秀吉側近の山中長俊の書状「組屋文書」による(『秀吉と文禄・慶長の役』 佐賀県立名護屋城博物館、2007年、43頁)
- ^ 『秀吉と文禄・慶長の役』 佐賀県立名護屋城博物館、2007年、16頁
- ^ 『異国往復書翰集 増訂異国日記抄』村上直次郎編、雄松堂、1966年
- ^ Colin McEvedy and Richard Jones, 1978, "Atlas of World Population History," Facts on Fileによる推計。1500年の時点では日本1700万、李氏朝鮮は400万、明朝は1億1000万、満州は500万。なお鬼頭宏の推計では1600年の日本の人口は、1547万人。「人口から読む日本の歴史」講談社学術文庫,2000年,84頁。歴史上の推定地域人口を参照
- ^ 歴史上の推定地域人口を参照
- ^ いずれも漢城占領後に渡朝した。
- ^ 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』文英堂,2000年
- ^ 『慶長二年陣立書』に基づくが、兵站を担当した兵数不詳の寺沢正成を含まない。(『文禄・慶長の役』/中野等 192頁)
- ^ 『文禄・慶長の役』/中野等 137頁
- ^ 文禄の役における島津勢15437人のうち6565人(43%)が人夫・水夫である。(『歴史群像シリーズ35 文禄・慶長の役』/学研 74頁)
- ^ 『松浦古事記』巻之下(小瀬甫菴道喜撰)・六 名護屋御陣所の事[3]
- ^ ノエル・ペリン「鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮 」中公文庫
- ^ ノエル・ペリン前掲書
- ^ 柳成龍は日本軍の火縄銃(朝鮮では鳥銃)を大きな脅威としている。
- ^ 有効射程は口径や装薬量により異なるが概ね200m程度とされる。
- ^ なお、他言語版に見られる日本水軍を強化するために秀吉がポルトガルのガレオン船を二隻雇って戦争に参加させようとしたとする逸話は、1586年にイエズス会準管区長ガスパル・コエリヨを大阪城で謁見した際の打診であり、九州征伐の頃のことであって、文禄の役開戦後の朝鮮水軍の活動を受けてのものではない。
- ^ 「シナ軍の兵力について、多くの者は誇張しすぎているが、信用できる幾人かのキリシタンからの通信によると、少なくとも20万くらいはいた。しかもそれは同じく無数ともいえる朝鮮の軍勢を除いての数だということである」『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇2』第41章
- ^ 「ところで彼らの鉄砲(エスピンガルダ)はどのようにして発射されるのか不可解である。というのは、無数に発砲した後も、そのための死傷者が一人も出なかったからである」 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇2』第41章
- ^ ルイス・フロイスが1593年の平壌戦における明軍の装備に言及している。「(明の)兵士たちは身に適当な厚さの鋼鉄の鎧をまとい、同じく鋼鉄製の膝当てをつけていた。それらは馬上にあっても、足のあたりまで垂れ下がり」「従来発見されたものの中では最優秀を誇っていた日本軍の刀や槍をもってしても、なんら損傷を加え得なかった」「(日本軍の)刀や槍はたび重なる戦闘によって威力が鈍っており、他方シナ軍の武装はいとも堅固で、日本軍の刀を寄せ付けぬほどであった」 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇2』第41章
- ^ 『懲毖録』柳成龍/平凡社・東洋文庫版187頁
- ^ なお、フロイスには誇張癖があり(『フロイスの日本覚書』(松田 毅一、 E・ヨリッセン著)より、ヴァリニャーノのフロイス評)、彼は朝鮮には渡っていないので伝聞に基づいていること、また日本の大陸侵攻について「無謀な企て」と否定的に記していることに留意が必要。
- ^ 『宇都宮高麗帰陣物語』
- ^ 『朝鮮と日本の関係史』朴鐘鳴監修/明石書店(2000) 192頁
- ^ 『懲毖録』柳成龍/平凡社・東洋文庫版14頁
- ^ ルイス・フロイスによると、日本は「それ(=火砲・矢)以外の武器、特に刀剣は短く、たいして役立たない」という事前情報を得ていた。『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇2』第36章
- ^ 『日本戦史 朝鮮役』/日本陸軍参謀本部
- ^ 朝鮮の同時代史料である懲毖録には「弓矢の技は百歩に過ぎないが、鳥銃はよく数百歩に及び、(中略)とても対抗できない」(東洋文庫版283頁)とある。(当時の朝鮮の歩は約118cm) また同書に、尚州での両軍の戦闘においては朝鮮の弓は実射程が100mに満たず(「矢は数十歩で墜ちて」東洋文庫版60頁)日本軍に届かず、開平地の戦闘では火縄銃にアウトレンジされ一方的に損害を被った事が記されている。
- ^ ”朝鮮の弓はアジアでは最も優れている部類のもので、最大射程は約450メートル”との主張も見られるが、英国のギャルウェイ卿によるテスト結果から世界最強の弓とされる19世紀のトルコ弓(角弓)であっても実戦用の矢を使用した場合の最大射程は約400mであり、また米カリフォルニア大学のサクストン・ポープ教授による同大人類学博物館所蔵の世界各地の弓の実射テストによる結果でも、トルコ弓の飛距離が257mおよび250mであったのに対し、朝鮮弓そのものではないものの同系統の東アジアの角弓である中国弓(清朝)が91.4m、モンゴル弓(タタール族)が82.3mおよび102.4mと同じ角弓であってもトルコ弓に著しく劣る。(なお、同実験における和弓は142.6m)
- ^ 遠矢用の軽い矢を用いれば最大射程は4町(約436m)を超える。(『図説・日本武器集成』/学研 68頁)
- ^ 天字銃筒 射程距離96m、地字銃筒 同64m、玄字銃筒 同160m 『壬辰戦乱史』/李烱錫
- ^ 『懲毖録』東洋文庫版 140頁では「数十歩」と記録
- ^ これは奴婢や特権階級の第二夫人以下に生まれた子息の徴兵も含む内容であった。
- ^ 壮年男子は農耕やその他の経済活動に優先的に従事させる政策を採用したため
- ^ 朝鮮軍の組織には重大な欠陥があった。外国からの侵攻を受けた場合でも、地方の軍隊は管轄区域外に、独自の判断で救援に向かう事は許されず、王から新たに任命された将軍が新規に編成した部隊を率いて来援するのを待たねばならなかった。更に、任命された将軍は遠方から着任するため、任地における自軍の戦力や地理をよく知らない場合が多く、兵も僅かな常備軍しかなかったため、戦争が始まってから徴兵された新兵が大部分を占め訓練不足であった。
- ^ 『李朝実録』宣祖万歴20年5月6月
- ^ 『壬辰倭乱と朝鮮民衆の戦い』/矢沢康祐
- ^ 義兵を束ねる諸将が両班層(貴族階級)であるのに対して、兵士の大部分が奴婢、李朝においては賤民身分に貶められていた僧侶などであったが、命を賭して貢献したにも関わらずその望みは叶えられず、戦争が終わると再び農奴身分へと戻され、僧侶もまた賤民のままとされた。文禄・慶長の役で官職を授けられた将軍も、戦役後には党派間の政争に組み込まれ、その多くは権力者らの猜疑心や妬みからその地位を追われ、果ては流刑か死刑かの不遇な生涯を送ることになった。『秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争』金奉鉉/彩流社
- ^ 国史大辞典、吉川弘文館
- ^ 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』文英堂,2000年,34頁
- ^ a b c d e f g h i j 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』文英堂,2000年
- ^ 笠谷和比古・黒田慶一同書36頁
- ^ a b c d 中野等『文禄・慶長の役』吉川弘文館
- ^ なお加藤清正隊編成は総兵力12,604人 内直臣2,814人(武士728人 鉄砲1,820人 弓256人 忍10人) その他陪臣・下僕・浪人衆9,790人 ※加藤清正隊は他の隊にはある長槍が無く代わりに鉄砲を多く装備していた[要出典]。
- ^ 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』吉川弘文館1995,40頁
- ^ 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』吉川弘文館1995,41頁
- ^ 国史大辞典、吉川弘文館
- ^ 松浦鎮信の家臣・吉野甚五左衛門の従軍記録(吉野日記)
- ^ 『加藤清正 朝鮮侵略の実像』北島万次
- ^ 以下、歴史家のStephen Turnbullの記述による。Turnbull, Stephen,2002
- ^ a b c Turnbull, Stephen. 2002, p. 65-6.
- ^ a b c d Turnbull, Stephen. 2002, p. 67-8.
- ^ 宣祖実録の「人心怨叛,與倭同心耳」(人心は怨み叛き、倭に同調するのみ)、「我民亦曰:倭亦人也,吾等何必棄家而避也?」(我が民は言った「倭もまた人である。どうして我々が家を捨てて逃げる必要がある?」)で伺い知ることができる。『宣祖實録』二十五年(1592)五月壬戌
- ^ 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ』第38章
- ^ 『宣祖修正實録』二十五年(1592)四月晦日
- ^ a b c d e f g Turnbull, Stephen. 2002, pp. 116-123.
- ^ a b Turnbull, Stephen. 2002, p. 72-3.
- ^ a b Turnbull, Stephen. 2002, p. 240.
- ^ a b Turnbull, Stephen. 2002, p. 73-4.
- ^ a b c d e Turnbull, Stephen. 2002, p. 74-5.
- ^ a b c Turnbull, Stephen. 2002, p. 75-6.
- ^ a b c d e f Turnbull, Stephen. 2002, p. 77-8.
- ^ 国史大辞典、吉川弘文館
- ^ a b c d e f Turnbull, Stephen. 2002, p. 79-80.
- ^ 岡本良知「豊臣秀吉」中公新書
- ^ Turnbull, Stephen. 2002, p. 81-82.
- ^ 『加藤清正 朝鮮侵略の実像』より
- ^ 国史大辞典、吉川弘文館
- ^ この戦闘は閑山島海戦(1592年7月、脇坂安治指揮の日本軍対李舜臣指揮の朝鮮軍)・幸州山城攻防戦(1593年2月、宇喜多秀家指揮の日本軍対権慄指揮の朝鮮軍)とあわせて韓国では「壬辰倭乱の三大捷」と呼ばれている。
- ^ 国史大辞典、吉川弘文館
- ^ 国史大辞典、吉川弘文館
- ^ a b c Turnbull, Stephen. 2002, pp. 110-5.
- ^ 安国寺恵瓊は、かつて僧侶であったが、毛利輝元と豊臣秀吉の間の和睦交渉の際の功績を認められて大名となり、全羅道制圧の任に当たる六番隊の一部を率いていた。
- ^ [4]
- ^ [5]
- ^ [6]
- ^ [7]
- ^ 国史大辞典、吉川弘文館。[8]
- ^ 李舜臣行録
- ^ 国史大辞典、吉川弘文館
- ^ 朝鮮人は女真族の事を「野蛮人」という意味をこめて「オランケ(兀良哈)」と呼んでいた。これが転じて日本人は女真族を「オランカイ」と呼んだ
- ^ 岡本良知「豊臣秀吉」中公新書
- ^ 清正の報告内容は「オランカイは朝鮮の倍ほどの広さで、これを通って明に入るにはモンゴルも通らねばならないので無理である」「オランカイは畑地ばかりで雑穀しかとれず、兵糧米が手に入る見込みはない」「オランカイには日本の守護のような統治者がおらず、伊賀者・甲賀者のように砦を構え、まるで一揆国のようである」というものである。『加藤清正 朝鮮侵略の実像』
- ^ 『加藤清正 朝鮮侵略の実像』より
- ^ 『加藤清正 朝鮮侵略の実像』より
- ^ 『加藤清正 朝鮮侵略の実像』より
- ^ 国史大辞典、吉川弘文館
- ^ [9]
- ^ 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』文英堂,2000年,46頁
- ^ 「我國無一人出撃、天兵又不追之、獨李時言尾其後不敢逼、伹斬飢病落後者六十餘級」(『懲毖録』。史料稿本による)、「敵は日本人たちを追跡して来なかった。話によると彼らの多くは負傷しており、継続した戦闘で疲労していたし、大軍が移動するのには時間を要した。ことにシナ軍の武器は、前にも述べたように非常に重く、逃亡する敵を追跡するにあたっては迅速、かつ容易に取り扱いかねたのもその理由であった」(『完訳フロイス日本史5』42章、本来の第3部53章)
- ^ 中野2008,104頁
- ^ 中野2008,104頁
- ^ 笠谷和比古・黒田慶一同書,121頁
- ^ 寒川旭「秀吉と地震」
- ^ 地震の年表_(日本)参照
- ^ 『日本戦史 朝鮮役』/日本陸軍参謀本部
- ^ 『懲毖録』柳成龍
- ^ 『宣祖実録十月十二日条』
- ^ 豊臣秀吉の死後まもなく、徳川家康を敵対勢力に想定して、毛利輝元は増田長盛、石田三成、前田玄以、長束正家の四奉行と連携し、不測の事態に備えて上方方面に大軍を終結させるなど、軍事衝突さえ起こりかねない状況下にあった。光成準治『関ヶ原前夜』日本放送出版協会 (2009)
- ^ 『日本戦史 朝鮮役』/日本陸軍参謀本部393項
- ^ 来年は御人数指し渡され、朝鮮都までも動きの儀、仰せ付けららるべく候。其の意を得、兵糧、玉薬沢山に覚悟仕り、在庫すべく候なり『慶長三年三月十三日付朱印状(立花家文書)』 度々仰せ遣わされ候ごとく、来年大人数遣わされ働の儀、仰せ付けらるベく候間、其の中いずれの城々も丈夫に在番肝用に候『慶長三年五月二十二日付朱印状(鍋島家文書)』等
- ^ 看羊録
- ^ 秀吉が徳川家の所領増加を嫌ったためと言われる。(「逆説の日本史11」井沢元彦)
- ^ 『朝鮮日々記を読む 真宗僧が見た秀吉の朝鮮侵略』 朝鮮日々記研究会編 法藏館 2000年
- ^ 米、牛、豚などの他、朝鮮の女人も要求している
- ^ その後しばらくの間朝鮮に鼻のない人間が多く見られたということが知られているが、はなそぎも1597年の慶長の役の頃が主体であるが、これまで戦争全般を通じた蛮行であるがごとく語られてきた。
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