自動車競技 自動車競技の概要

自動車競技

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/21 04:18 UTC 版)

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一般に「自動車レース」や「自動車競技」と言う時の「自動車」は一般的呼称の「自動車」つまり四輪(あるいは6輪 - 8輪、一部三輪)の自動車のことであり、日本の交通行政用語(道路交通法用語)の「自動車」ではない。

英語でも二輪車とサイドカーの競技は「Motorcycle racing」と呼び分けられている。

概要

「自動車レース」や「自動車競技」は、自動車を用いたレース(競走、競技)を指す。

自動車競技の大半は「速さ」を競う競技である[1]。つまり、多くの自動車レースは、定められたコースを最短時間で走りきった者を勝者とするレースである。 (なお、どの車両も完走できなかった場合は、やむなく最長距離を走破した者を勝利者としている場合が多い。ただしル・マン24時間レースなどのように、完走することを非常に重視し、完走しなければポイントは与えられないレースもある。)

また、自動車レースの中には、速さではなく燃費を競うもの(燃費競争)もある。一定距離を走った後、消費した燃料を計測し、(定められた範囲の時間であれば)たとえ他車より遅くても燃費が良い者が勝利者となる。

あるいは特殊な例として、自動車の美しさを競う競技会「コンクール・デレガンス」がある。こちらは現代ではクラシックカーイベントの一種とされており、また自動車を走行させることもないため、自動車競技としては分類されない場合もある。

1887年フランスパリで約2 kmを走行し競ったのが最初期の自動車レースだったとも考えられている。1894年にはパリからルーアンまでの127 kmのレースが行われたことが記録に残っている。1900年には、初の国際レース(多数の国の参加者が参加するレース)が開催された。→#歴史

現在、世界を見回せば、非常に多種多様な自動車レースが開催されている。 自動車レースは、様々な方法で分類することができる。ひとつはレースに用いるコースの種類による分類である。他にも使用する車両の種類で分類する方法もある。→#コースによる分類#競技車両による分類

世界的なレースはテレビで放送されるなど人々の目に触れることが多く、認知度も高いが、実際には、放送もされない中規模のレースや、さらには、少人数が集って行われている自動車レース(いわゆる「草レース」と呼ばれるもの)まで、さまざまな規模がある。

レースであるから、一般になんらかの共通のルールのもとで競いあわれており、大半のレースが「ホモロゲーション」と呼ばれる、車両に関する規約(車両規定)を設けている。→#規約

現代では、レースへの参加はチームで行われることが一般的である。→#レーシング・チーム

レースで自動車を運転する人(チームの中で運転を担当する人)を「レーシング・ドライバー」や単に「ドライバー」などと言う。(草レースなどでは資格がはっきりと定められていない場合もあるが、多くは何らかの資格が定められており)国際自動車連盟(FIA)公認の大会では、FIA傘下の団体が発行したモータースポーツライセンスが必要となる。→#レーシング・ドライバー

国・地域や国民性などによって自動車レースの位置づけは異なる。 ヨーロッパの多くの国やアメリカ合衆国では自動車レースの人気は高く、数多くのレースが開催されている。(なおスイスは例外で、国内でレースを行うことを禁止している。)日本自動車産業が盛んになり、(欧米ほどではないものの)自動車レースの人気はかなり高く、サーキットが多数作られ、国際競技で使えるサーキットも複数建設された(→日本のサーキット一覧)。

歴史

ド・ディオン・ブートン社の蒸気自動車に乗るアルベール・ド・ディオン伯爵。

起源

自動車レース、すなわち自動車競技の起源として伝えられているのは1887年4月28日にフランスパリで行われたもので、その内容はヌイイ橋からブローニュの森までの約2キロメートルを走行。優勝者はド・ディオン・ブートン社英語版蒸気自動車をドライブしたジョルジュ・ブートン英語版であった。彼はアルベール・ド・ディオン英語版伯爵と共にド・ディオン・ブートン社を共同設立した人物でもあった。だが、集まった車のうち、スタートできたのはこの蒸気車1台しかなく[2]、これをレースと呼ぶにはほど遠い内容であったとも伝えられる。

正式な優勝者である、ジョルジュ・ルメートルと彼が所有するプジョーType3(写真:上)
パリ - ルーアンレースの様子。何も規制されていない公道の中でレースを行う(写真:下)

記録として残る自動車競技は1894年7月22日に開催された、127キロメートルのパリ - ルーアン・トライアル英語版である。この企画は、フランスの大衆新聞「ル・プティ・ジュルナル英語版」が、当時同社自身も主催するなど人気のあった自転車レースの延長上に、新しい乗り物である自動車での競技を発案したものであった。先述のような試みはあるものの、ほとんど実績がないイベントであったために危険性についての考慮などさまざまな論議を呼んだ。レースの内容は今日のラリーに近いもので、パリのポルト・マイヨーを1台ずつスタートし途中のチェックポイントを通過、マントでは昼食会を開くといったのんびりしたもので、乗用車としての適格性も採点の対象となると定められていた[3]。参加費用に10フランを徴収した。なお、この大会の事前登録には102名もの公募が集まった。

ただし、書類上の提示などで要件を満たしていないなどのオーナーもあって、25台でレースを行うこととした[4]。その後、4台がレース参加が不可能となり最終的には21台でのレースが開催された。参加した多くのドライバーが、当時最新であったプジョーパナール、ド・ディオン・ブートン社の車両とそのオーナーであったが、1880年製と製造後10年以上経過していたアメデー・ボレー父子の大型蒸気バス「ラ・ヌーヴェル」(La Nouvelle) も参加した[5]。このレースの結果、パリ - ルーアン間を最初にフィニッシュしたのは自ら製作させたド・ディオン・ブートン車を運転するアルベール・ド・ディオン伯爵であり、タイムは6時間48分、平均速度は毎時およそ19キロメートルであった。ただし彼の車は蒸気自動車であり、当時としては強力高速だがボイラーに燃料をくべる助手が同乗せねばならなかったためルール上失格扱いとなった(さらにド・ディオン伯の車はスピードを出し過ぎ、途中で畑に突っ込むアクシデントも起こしたが、レースは続行できた)。速度や安全性などについて総合的な審議の結果、これからはガソリン車を売り込みたいという、運営側の思惑もあり、優勝者はガソリンエンジン車のプジョー Type 3を操縦し、ド・ディオンに遅れること3分30秒でフィニッシュして2着となったアルベール(ジョルジュ)・ルメートル[6]と、やはりガソリン車で33分30秒遅れて4番目にゴールしたパナール・ルヴァッソールのルネ・パナールの2名とされた[7]。なお21台中完走は17台で、4台はエンジントラブルなどでリタイヤした[8]

パナール・ルヴァッソール Type A。左の人物がエミール・ルヴァッソールであり、ルネ・パナールらと共にこの車を設計した

自動車競技黎明期

1894年のパリ – ルーアン間競走の終了後に開催された夕食会の席上でフランス自動車クラブ (ACF) が誕生したとされる。これは今日のFIA(国際自動車連盟)の前身であり、この年からあらゆる自動車スポーツの統括を行うこととなった。ド・ディオン伯がリーダー格となり、その年の11月の委員会で早くも本格的なスピードレースが計画され、翌1895年6月に第1回の都市間レースとしてパリとボルドー間往復のレースが行われた[9]。パリを出発してボルドーに向かい、再びパリに引き返してゴールするというもので、総走行距離1,178キロメートルにおよぶ長距離レースだった。

6月11日午前10時からベルサイユを2分間隔でスタートし[10]、最短時間でゴールしたのはパナール2気筒車に乗るエミール・ルヴァッソール(1843年1月21日 - 1897年4月14日)で、所要時間は48時間48分だった。この時ルヴァッソールは、ほとんど途中休憩をとることなく、ほぼ全区間を自身の運転によって昼夜兼行、不眠不休で走りきったという。当時の自動車性能から考慮してもこの記録は驚異的な速さであり、自動車競技黎明期の偉大な記録の一つといっても過言ではない[11]。ただしこのルヴァッソールの出走車は2座席車であり、レース規定では4座席車であることとなっていたため優勝者とは認定されず、公式にはルヴァッソールより11時間以上遅れて3番目にゴールした4座席プジョーのポール・ケクランが優勝者となって賞金を獲得している(2番目ゴールのルネ・リグロのプジョーも2座席車だった)。なおこのレースにはタイヤメーカー・ミシュラン創業者のミシュラン兄弟のアンドレが参加、自作の自動車用空気入りタイヤを装備したダイムラーに大量のスペアチューブを載せて出走したが、途中20回以上もパンクを繰り返す災難に遭い、規定時間内にゴールできなかった。

ロードアイランド州クランストンナラガンセット・トロット競馬場で開催された「馬なし馬車レース (Horseless Carriage Race)」スタート直前の様子
(※:写真は1896年9月26日)

1895年11月28日にアメリカ国内で初開催となる自動車レースが行われた。イリノイ州シカゴから市街地南部、一部エバンストンを走る長さ87.48kmの走行距離を競った。このレースは大吹雪によって悲惨なレースとなり、多くの競技参加者が脱落した。優勝者はフランク・デュリエで記録は10時間23分であった[12]。1896年には後述されるサーキット開催の原型ともいえる競馬場を利用したレースが開催される。そのため、こうしたレースを「Horseless Carriage Race = 馬なし馬車レース」と呼ばれ、特にアメリカでは自動車競技に対してこのように呼称された[12]

デュリエ兄弟。向かって左がチャールズ、右がフランク。(※:1908年頃の写真)

自動車競技を定期的なイベントとして開催する事になったのは1897年のニースで、3月後半から「スピードウィーク」と呼ばれるスケジュールを立てて定期開催された。スプリントレース、ドラッグレースヒルクライムなどの多くの自動車競技がここで始まった。

ゴードン・ベネット・カップに出場するリシャール・ブラシエ(1904年)

国際レースの登場

国際レースとしての最初の自動車競技は、1900年から1905年まで6回にわたって開催されたゴードン・ベネット・カップである。最初の大会はパリ - リヨン間の速さを競った。これらの大会中、1900年、1901年、1904年、1905年の4回をフランス勢が制し、1902年大会でイギリスネイピア & サン車が勝利した。優勝者の国で翌年開催されることになっており、1903年の大会がイギリス初の国際自動車競技会場となった。ただし開催されたのは正式にはアイルランドキルデア県。この年のゴードンベネットカップを制したのはドイツメルセデスであったため、翌1904年はドイツ国内のタウヌスで開催された。1905年最後の大会はフランスのクレルモン=フェランのオーヴェルニュ地域圏を周回する競技(※:後にシャレード・サーキットとなった)で開催され、リシャール・ブラシエに乗るレオン・テリーが前年に続き2連覇した[13]

ブリティッシュグリーン(※:ブリティッシュレーシンググリーン、BRGカラーとも)は1902年大会で優勝したネイピアの車に施されていた色であり、これに由来して深みのある独特なオリーブグリーン色がその後のイギリスにおける自動車競技に伝統するナショナルカラーとなった。

1906年に初開催されたフランスグランプリの様子。先頭を走るのはルノーを駆るフェレンク・ジス。

一方、フランスでは1901年ポーで開催されたレースでは、クラス毎に分けた取り組みがなされた。軽量クラスに与えられた「グランプリ・デュ・パレ・ドール (: Grand Prix du Palais d’Hiver)」、重量(最速)クラスに与えられた「グランプリ・ド・ポー (: Grand Prix de Pau」と賞の名前に初めて「グランプリ」が使用された。グランプリは「: Grand Prize = グランドプライズ」すなわち「大賞・最高賞」を意味する言葉であり、これが起因して今日では最高位レースにグランプリという名称が使用されるようになった。1906年にフランス自動車クラブ (: Automobile Club de France, ACF) が主催して「ACFグランプリ(通称1906年フランスグランプリ)」が開催される。一般公道を使用するレースは後述する1903年に開催されたパリ〜マドリード間レースでの死亡事故によって禁止されていたが、ゴードン・ベネット・カップをヒントに公道を閉路として使用した「クローズドロードレース」としてル・マンで開催され、1周103.18kmを12周、合計1238.16kmで争われるレースであった。その後1907年、1908年、1912年はディエップにて、1913年はアミアン、1914年はリヨン第一次世界大戦が勃発するまで開催された。余談ではあるが、終戦後の最初のフランスグランプリは1921年に再びル・マンに戻され、現在のサルト・サーキットの原型となる場所で開催された。また、ポーも1930年に国際レースとしてフランスグランプリが開催された場所でもある。ポーは1933年より「ポー・グランプリ」と呼ばれ、開催されなかった1934年、1940年から1946年、1956年、そして2010年を除いてF1、F2、F3、WTCCなどなんらかの国際競技が開催されるなどこれらの都市はフランスにおけるレースの聖地となっている。

ニューヨーク~パリ間レースに出場するトーマス・フライヤーの車両と、ドライバーのジョージ・シャスター、クルー達。
(写真は1908年2月12日)

その他、国際レースとして超長距離レースが行われるようになった。1907年には北京〜パリ間レースが開催され、北京からスタートして、パリまで14994kmを横断するレースだった。参加した車両は合計5台でイタリアからはイターラ1台、オランダからはスパイカー1台、フランスからは三輪自動車のコンタル1台と蒸気自動車のド・ディオン・ブートン2台が参加した。6月10日にスタートし、62日かけてイターラのボルゲーゼ公爵がゴールし優勝した。なお、優勝賞品はG.H.MUMMシャンパン1本だけだった[14]

翌1908年にはニューヨーク〜パリ間レースが開催された。イタリアのツースト、ドイツのプロトス、アメリカのトーマス・フライヤー、そして今回もフランスからド・ディオン・ブートン、モトブロックシゼール=ノーダンの3台が出場し、合計6台で争われた。2月12日にニューヨークをスタートしてアメリカ大陸を横断した後にシアトルから日本横浜へ渡航し、敦賀まで480キロメートルを縦断した[15][16]。余談だがこのレースが記録に残る日本で初めて自動車競技が行われた瞬間である。そこから日本海を渡りウラジオストクに上陸してシベリアを横断する形でユーラシア大陸を東から西へ駆け抜けパリに向けて距離にして22,000キロメートルを旅するものであった。最初にゴールしたのは7月26日にパリに到着したドイツのプロトス車を運転する陸軍中尉ハンス・コーペンであったが、北米大陸横断の際、一部区間で鉄道を使って車を運んだため15日間のペナルティを科されたので[17]、正式な優勝は7月30日にゴールしたトーマス・フライヤーを駆るアメリカのジョージ・シャスターであった。 この自動車競技は「偉大なレース」として数えられ、後のラリーラリーレイドの原型となった。

マルセル・ルノーの運転するルノー車が未舗装路を疾走(1903年パリ - マドリードレース)。当時のカメラの高速シャッター特性から、高速の自動車を撮影した画像は斜めに歪む。マルセルはこのレースで事故により死亡した

公道レースからサーキットの誕生へ

フランスを中心とした自動車競技は大きな成功を収めていたが、自動車性能の向上は同時に危険性をはらむものでもあった。上記の通りそのほとんどのレースが市街地レースや都市間レースであった一方、沿道の観客整理は不十分で、一部を除いた多くの道路は未舗装の砂利道であった。この悪条件の中で、1900年を過ぎた頃には、自動車だけが10リッター超の巨大エンジンにより100km/hを超える高速で疾走するようになったが、そのパワーに操縦性やブレーキ性能が到底追随できておらず、リスクは増大していた。

危惧された通り、1903年5月のパリ - マドリード間レースでは、ルノー社の共同創設者であるマルセル・ルノー (1872年 - 1903年5月25日)が観客を巻き込む事故を起こして自身も死亡するなど大事故が続発、レースは途中のボルドーで急遽中止されたが、累計死者は観客も含め9名に及んだ。事態を重く見たフランス政府は多くの自治体における公道レースの禁止を発表するなど、大きな波紋を呼んだ[18][19]

上記の事故がヨーロッパのみならず、アメリカ国内においてのサーキット建設に拍車をかけたといわれている。サーキットとは「閉路」で、語義通りには(終点が始点に戻る形でつながって〈閉じて〉いる)「周回路」のことであるが[20]、日本ではもっぱら、競技走行用に他から乗り入れることが不可能にされた走行路、といったような意味あいで使われている。

自動車競技の歴史において記録に残る最も古くに競技場にて開催された場所はナラガンセット・トロット競馬場である[21]。この競技場はトロット競馬場であるが、1896年9月26日に10台の自動車を用いて「Horseless Carriage Race = 馬なし馬車レース」として開催された。 ただし、当時ナラガンセット・トロット競馬場にて自動車競技が行われた背景には、むしろ安全性よりも様々な形態の自動車性能を見極めるための観客の志向や「馬なし馬車レース」という名称でもわかるとおり見世物としての要素が強かったとされる。 現存する世界最古のサーキットはミルウォーキー・マイルであり、1903年以来現在でも自動車競技が開催されている。このサーキットも元は競馬場として1876年に創業されたものであり、それを自動車競技のサーキットとして使用したのが始まりである[22]

現在のブルックランズサーキット。当時のままの路面を残している。現在はブルックランズ美術館として営業している。

自動車競技を目的として最初に創業したサーキットはイギリスのサリーにあったブルックランズサーキットであった。1907年6月の創業以来、多くのレースがここで行われた。全長4.43 kmのコースでバンク角は最大30°コース幅は100フィートにも及ぶ広大さを誇る完全舗装サーキットであった[23]。ブルックランズは当時の最高基準で建設されたサーキットであり、当時としては路面状況が非常によく、自動車、オートバイ、三輪自動車などを問わずあらゆるジャンルの自動車競技が開催された。世界最高速記録の樹立や500マイルレースなどの耐久レースも行われ、自動車の信頼性、性能のそれぞれの向上に大きな役割を担ったサーキットともいえる。ブルックランズは1939年に後述する第二次世界大戦の影響によって航空機の生産が念頭となったために同年8月7日のレースを最後に閉鎖したが[24]、自動車競技専用のサーキット建設とそこで開催されたレースの興行的な成功と、それを利用することによって自動車性能が飛躍的に向上と工業技術力の向上、さらには四輪自動車のみならずオートバイにおいても高い安全性を提供できたことからも、ブルックランズに続いて各国各地でサーキット建設が行われるようになった。

ブルックランズサーキットでのレーススタートの様子。ル・マン式スタートで出走している。
(写真は1930年)

自動車会社の成功と国家技術力競争

現在、国際自動車連盟 (Fédération Internationale de I'Automobile, FIA) の前身となる国際自動車公認クラブ協会 (Association Internationale des Automobile Clubs Reconnus, AIACR) が設立されたのは1904年であるが、毎年恒例の会議の中で特に議題になっていたのが自動車会社の自動車レースへの関心の高さであった。 それまでのレースの興行的な成功と、フランスやドイツ、イギリス、イタリア、アメリカなどの自動車会社の成功はすなわち自動車会社の技術力の象徴として扱われたため、自動車の技術発展と同時に自社の宣伝効果にも莫大な意義があるということは明白だったからである。そのためAIACRは自動車選手権の必要性を認め1923年に「ヨーロッパグランプリ」という名目で前年にイタリアに完成したばかりのサーキットであるアウトドローモ・ナツィオナーレ・ディ・モンツァで初開催した。このヨーロッパグランプリは1930年までの間にフランスのリオン、ベルギーのスパ・フランコルシャン、スペインのサン・セバスティアンなどで開催された。

アウトウニオン・Pワーゲンを駆るローゼマイヤー
(※:写真は1937年ニュルブルクリンク

国際的な注目を得た自動車会社はナショナルカラーで塗られ、自動車を使った工業先進国の技術力の高さを表した。この傾向は特に1930年代に入ってからナチス・ドイツのメルセデス(現在のメルセデス・ベンツ)、アウディアウトウニオン)が自国の技術力を他国に見せつける国威発揚の場として使われた。ヨーロッパにおける自動車の速度記録は1928年にイギリスのマルコム・キャンベルが記録した281.44km/hを最後となっていたが、ナチス・ドイツでは1934年にメルセデス・ベンツ・W25を駆るルドルフ・カラツィオラが317.460km/hを記録。また、アウトウニオンはフェルディナント・ポルシェを起用してアウトウニオン・Pワーゲンを開発。1937年にはベルント・ローゼマイヤーがアウトウニオン・Pワーゲンを駆って401.9km/hを記録した。 しかし、ヨーロッパを中心とした世界情勢に暗雲が垂れ込め第二次世界大戦が勃発し、ヨーロッパにおけるグランプリは1939年から終戦まで開催されることはなかった。南米では1940年から1942年まで開催され、1940年にサンパウログランプリと冠してブラジルインテルラゴス・サーキットで開催された。1941年にはブラジルでリオデジャネイログランプリとアルゼンチンブエノスアイレスグランプリが開催され、1942年にはブエノスアイレスに加えサンタフェグランプリが開催された。その後は大戦の世界的な激化により終戦まで全てのグランプリが中止された。

フェラーリ・500F2を駆るアルベルト・アスカリとルイジ・ヴィロレージ。
(写真は1952年イタリアGP

終戦からFIAの発足。「フォーミュラ」の誕生

第二次世界大戦後に最も早く開催されたレースは1945年9月9日にブローニュの森で開催されたパリ杯である。優勝者はブガッティを駆るジャン=ピエール・ワイミルであった。彼はフランス陸軍の兵役がまだ残っていたため、レースに出場する為に陸軍に許可をとって出場した。

1946年には国際競技としてフランスのサン=クルー、スイスのジュネーヴ市街地、イタリアのトリノで3カ国のグランプリとその他17グランプリの計20グランプリが開催された。当時自動車競技部門を統括していた下部組織である、国際スポーツ委員会 (Commission Sportive Internationale, CSI) によって最高峰のシングルシーターによる自動車競技の発足を目指した。それまでにあったグランプリという国際競技でありながら、新しい定義の競技の必要性が講じられ戦後の自動車競技における新しい「規格」を由来に「Formula = フォーミュラ」と名付けられ、いくつかの階級に分ける案が認められた。その理由に戦前におけるグランプリにて3.0リッタースーパーチャージャー付きエンジンと、4.5リッター自然吸気エンジンの2つが混在していたこともあり、すでにカテゴリの分裂が起きていた。性能差の是正から3.0リッタースーパーチャージャー付きエンジンを廃止し、1.5リッタースーパーチャージャー付きエンジンと、4.5リッター自然吸気エンジンのどちらかの使用というルールとなり、このエンジン使用規約が1950年に初開催されるフォーミュラ1の最初のルールとなった。 また、1949年までは「Championship = 選手権」というものがなかったが、フォーミュラ1で初めて年間戦績を競う世界選手権方式が採用された。

政治的な動きとしては、1947年に国際自動車公認クラブ協会(AIACR)を前身とした国際自動車連盟 (FIA) が設立された。

ル・マン参戦用の車両。
(※:写真は1956年、ロータス・エンジニアリングの車両「イレブン」)

スポーツカー世界選手権の誕生

自動車競技の多様性は形態が限りなく市販車に近いスポーツカーレースにまで発展していった。前述のフォーミュラ1はフォーミュラカーを使用したシングルシーターによる比較的短距離(スプリント)なレースであり、選手権の内容もドライバーを重視したものであった。これに対し市販車ないし市販を前提に開発した車両、つまりは運転席と助手席が存在するスポーツカーを使用したレースは自動車製造業者(マニファクチュアラー)が主体のものとなった。したがって、自動車性能を示す一つである耐久性も考慮され、大変長距離(エンデュランス)なレースとなるが、こうしたレースはそれまでにミッレミリアル・マン24時間、RACツーリストトロフィーレースといった伝統的なものが存在していたが、それぞれのレースに主催団体が違っていた為にそれまで選手権としての統一が実現しなかった。 その為、こうした耐久レースを統一したものとして1953年にスポーツカー世界選手権 (Championnat du Monde des Voitures de Sport) が発足された。 初開催となった1953年は上記の伝統的なレースに加え、近年に発足された12時間耐久グランプリフランコルシャン24時間、国際ADAC1000キロメートルレース、カレラ・パナメリカーナを合わせて計7戦が開催された。

世界ラリー選手権の誕生

1973年に「世界ラリー選手権」が発足された。 その後も多くの自動車競技カテゴリが発足され、現在に至るまで自動車競技は自動車業界全体の活性化に大きな役割を担い続けている。




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  2. ^ 折口 1970, p. 20.
  3. ^ 折口 1970, p. 22.
  4. ^ 応募車両の動力には「圧縮空気」「重力」「家畜動力併用」など、本気で出場する気があったのか疑わしい内容も多数存在したという。現実のレースに出場したのは蒸気自動車とガソリン自動車・オートバイだけであった。
  5. ^ アメデー・ボレーと息子のアメデー2世およびレオンは、1873年以来長らく蒸気自動車を開発し続けていた。このレースでラ・ヌーヴェルは鈍足ながら十分な信頼性を示し、途中リタイアしたドライバーたちを拾ってルーアンまで完走している。
  6. ^ 宇宙物理学者のジョルジュ・ルメートルではない。
  7. ^ 折口 1970, p. 22.
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  9. ^ 折口 1970, p. 22.
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  20. ^ たとえば電気回路の「回路」もサーキットであるが、電気の場合、電源から出て電源に戻るように接続されたものが「回路」である。
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  30. ^ 追突防止用の赤色リアランプ(リアフォグランプ、バックフォグランプ)は装備しており、ウェットレースでは点灯が義務付けられる。
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  41. ^ 中にはテストドライバーとしてチームに在籍するだけでスポンサーがチームに付く場合もある。こうした事情は単にチーム側の実情だけでなく、スポンサー側の意向も反映している。
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  45. ^ 当時はスポンサーを行う事は合法であり、車体のロゴ、ヘルメット、レーシングスーツ、サーキット看板でロゴや銘柄を連想させるような図柄は随所に存在した。
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  48. ^ かつてのヨーロッパツーリングカー選手権はセミ耐久レース。
  49. ^ スプリントカップ、ネイションワイドシリーズ、キャンピングワールドトラックシリーズ、カナディアンタイヤシリーズなど細分化がされており、それぞれのシリーズ、または開催されるサーキットで走行距離が異なる。一般的にスプリント競技からセミ耐久レースまで行われる。
  50. ^ 現在はパリを使用しないルートであるが現在でも「パリダカ」と呼ばれることがある。
  51. ^ “Rally America”. Rally America. http://www.rally-america.com/ 
  52. ^ “Official Rules and Regulations”. 昭和シェル石油. http://www.shell.com/home/content/ecomarathon/about/rules/ 2010年10月3日閲覧。 
  53. ^ 自動車競技の楽しみ. 論創社. (2002-2). ISBN 978-4846002213 
  54. ^ “Chamiers Histoire et histoires”. Mairie de Coulounieix-Chamiers. (1988年). http://www.coulounieix-chamiers.fr/1-33585-Au-Sault-du-Chevalier...-en-1898.php 2011年2月7日閲覧。 




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