自動車競技黎明期とは? わかりやすく解説

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自動車競技黎明期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 08:56 UTC 版)

自動車競技」の記事における「自動車競技黎明期」の解説

1894年パリルーアン競走終了後開催され夕食会席上フランス自動車クラブ (ACF) が誕生したとされる。これは今日FIA国際自動車連盟)の前身であり、この年からあらゆる自動車スポーツ統括を行うこととなった。ド・ディオン伯がリーダー格となり、その年の11月委員会早くも本格的なスピードレース計画され、翌1895年6月第1回都市レースとしてパリボルドー往復レースが行われた。パリ出発してボルドー向かい再びパリ引き返してゴールするというもので、総走行距離1,178キロメートルにおよぶ長距離レースだった。 6月11日午前10時からベルサイユを2分間隔でスタートし最短時間ゴールしたのはパナール2気筒車に乗るエミール・ルヴァッソール(1843年1月21日 - 1897年4月14日)で、所要時間48時間48分だった。この時ルヴァッソールは、ほとんど途中休憩をとることなく、ほぼ全区間自身の運転によって昼夜兼行不眠不休走りきったという。当時自動車性能から考慮してもこの記録驚異的な速さであり、自動車競技黎明期の偉大な記録一つといって過言ではない。ただしこのルヴァッソールの出走車は2座席車であり、レース規定では4座席車であることとなっていたため優勝者とは認定されず、公式にはルヴァッソールより11時間以上遅れて3番目にゴールした4座席プジョーポール・ケクラン優勝者となって賞金獲得している(2番ゴールのルネ・リグロのプジョーも2座席車だった)。なおこのレースにはタイヤメーカー・ミシュラン創業者ミシュラン兄弟アンドレ参加自作自動車用空気入りタイヤ装備したダイムラー大量のスペアチューブを載せて出走したが、途中20回以上もパンク繰り返す災難遭い規定時間内にゴールできなかった。 1895年11月28日アメリカ国内初開催となる自動車レースが行われた。イリノイ州シカゴから市街地南部一部エバンストンを走る長さ87.48kmの走行距離競った。このレースは大吹雪によって悲惨なレースとなり、多く競技参加者脱落した優勝者はフランク・デュリエで記録10時23であった1896年には後述されるサーキット開催原型ともいえる競馬場利用したレース開催される。そのため、こうしたレースを「Horseless Carriage Race = 馬なし馬車レース」と呼ばれ、特にアメリカでは自動車競技に対してこのように呼称された。 自動車競技定期的なイベントとして開催するになったのは1897年ニースで、3月後半から「スピードウィーク」と呼ばれるスケジュール立てて定期開催された。スプリントレースドラッグレースヒルクライムなどの多く自動車競技がここで始まった

※この「自動車競技黎明期」の解説は、「自動車競技」の解説の一部です。
「自動車競技黎明期」を含む「自動車競技」の記事については、「自動車競技」の概要を参照ください。

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