自動車競技
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/24 03:22 UTC 版)
歴史
起源
自動車レース、すなわち自動車競技の起源として伝えられているのは1887年4月28日にフランスのパリで行われたもので、その内容はヌイイ橋からブローニュの森までの約2キロメートルを走行。優勝者はド・ディオン・ブートン社の蒸気自動車をドライブしたジョルジュ・ブートンであった。彼はアルベール・ド・ディオン伯爵と共にド・ディオン・ブートン社を共同設立した人物でもあった。だが、集まった車のうち、スタートできたのはこの蒸気車1台しかなく[2]、これをレースと呼ぶにはほど遠い内容であったとも伝えられる。
記録として残る自動車競技は1894年7月22日に開催された、127キロメートルのパリ - ルーアン・トライアルである。この企画は、フランスの大衆新聞「ル・プティ・ジュルナル」が、当時同社自身も主催するなど人気のあった自転車レースの延長上に、新しい乗り物である自動車での競技を発案したものであった。先述のような試みはあるものの、ほとんど実績がないイベントであったために危険性についての考慮などさまざまな論議を呼んだ。レースの内容は今日のラリーに近いもので、パリのポルト・マイヨーを1台ずつスタートし途中のチェックポイントを通過、マントでは昼食会を開くといったのんびりしたもので、乗用車としての適格性も採点の対象となると定められていた[3]。参加費用に10フランを徴収した。なお、この大会の事前登録には102名もの公募が集まった。
ただし、書類上の提示などで要件を満たしていないなどのオーナーもあって、25台でレースを行うこととした[注 1]。その後、4台がレース参加が不可能となり最終的には21台でのレースが開催された。参加した多くのドライバーが、当時最新であったプジョー、パナール、ド・ディオン・ブートン社の車両とそのオーナーであったが、1880年製と製造後10年以上経過していたアメデー・ボレー父子の大型蒸気バス「ラ・ヌーヴェル」(La Nouvelle) も参加した[4]。このレースの結果、パリ - ルーアン間を最初にフィニッシュしたのは自ら製作させたド・ディオン・ブートン車を運転するアルベール・ド・ディオン伯爵であり、タイムは6時間48分、平均速度は毎時およそ19キロメートルであった。ただし彼の車は蒸気自動車であり、当時としては強力高速だがボイラーに燃料をくべる助手が同乗せねばならなかったためルール上失格扱いとなった(さらにド・ディオン伯の車はスピードを出し過ぎ、途中で畑に突っ込むアクシデントも起こしたが、レースは続行できた)。速度や安全性などについて総合的な審議の結果、これからはガソリン車を売り込みたいという、運営側の思惑もあり、優勝者はガソリンエンジン車のプジョー Type 3を操縦し、ド・ディオンに遅れること3分30秒でフィニッシュして2着となったアルベール(ジョルジュ)・ルメートル[5]と、やはりガソリン車で33分30秒遅れて4番目にゴールしたパナール・ルヴァッソールのルネ・パナールの2名とされた[3]。なお21台中完走は17台で、4台はエンジントラブルなどでリタイヤした[6]。
自動車競技黎明期
1894年のパリ – ルーアン間競走の終了後に開催された夕食会の席上でフランス自動車クラブ (ACF) が誕生したとされる。これは今日のFIA(国際自動車連盟)の前身であり、この年からあらゆる自動車スポーツの統括を行うこととなった。ド・ディオン伯がリーダー格となり、その年の11月の委員会で早くも本格的なスピードレースが計画され、翌1895年6月に第1回の都市間レースとしてパリとボルドー間往復のレースが行われた[3]。パリを出発してボルドーに向かい、再びパリに引き返してゴールするというもので、総走行距離1,178キロメートルにおよぶ長距離レースだった。
6月11日午前10時からベルサイユを2分間隔でスタートし[7]、最短時間でゴールしたのはパナール2気筒車に乗るエミール・ルヴァッソール(1843年1月21日 - 1897年4月14日)で、所要時間は48時間48分だった。この時ルヴァッソールは、ほとんど途中休憩をとることなく、ほぼ全区間を自身の運転によって昼夜兼行、不眠不休で走りきったという。当時の自動車性能から考慮してもこの記録は驚異的な速さであり、自動車競技黎明期の偉大な記録の一つといっても過言ではない[8]。ただしこのルヴァッソールの出走車は2座席車であり、レース規定では4座席車であることとなっていたため優勝者とは認定されず、公式にはルヴァッソールより11時間以上遅れて3番目にゴールした4座席プジョーのポール・ケクランが優勝者となって賞金を獲得している(2番目ゴールのルネ・リグロのプジョーも2座席車だった)。なおこのレースにはタイヤメーカー・ミシュラン創業者のミシュラン兄弟のアンドレが参加、自作の自動車用空気入りタイヤを装備したダイムラーに大量のスペアチューブを載せて出走したが、途中20回以上もパンクを繰り返す災難に遭い、規定時間内にゴールできなかった。
1895年11月28日にアメリカ国内で初開催となる自動車レースが行われた。イリノイ州のシカゴから市街地南部、一部エバンストンを走る長さ87.48kmの走行距離を競った。このレースは大吹雪によって悲惨なレースとなり、多くの競技参加者が脱落した。優勝者はフランク・デュリエで記録は10時間23分であった[9]。1896年には後述されるサーキット開催の原型ともいえる競馬場を利用したレースが開催される。そのため、こうしたレースを「Horseless Carriage Race = 馬なし馬車レース」と呼ばれ、特にアメリカでは自動車競技に対してこのように呼称された[9]。
自動車競技を定期的なイベントとして開催する事になったのは1897年のニースで、3月後半から「スピードウィーク」と呼ばれるスケジュールを立てて定期開催された。スプリントレース、ドラッグレース、ヒルクライムなどの多くの自動車競技がここで始まった。
国際レースの登場
国際レースとしての最初の自動車競技は、1900年から1905年まで6回にわたって開催されたゴードン・ベネット・カップである。最初の大会はパリ - リヨン間の速さを競った。これらの大会中、1900年、1901年、1904年、1905年の4回をフランス勢が制し、1902年大会でイギリスのネイピア & サン車が勝利した。優勝者の国で翌年開催されることになっており、1903年の大会がイギリス初の国際自動車競技会場となった。ただし開催されたのは正式にはアイルランドのキルデア県。この年のゴードンベネットカップを制したのはドイツのメルセデスであったため、翌1904年はドイツ国内のタウヌスで開催された。1905年最後の大会はフランスのクレルモン=フェランのオーヴェルニュ地域圏を周回する競技(※:後にシャレード・サーキットとなった)で開催され、リシャール・ブラシエに乗るレオン・テリーが前年に続き2連覇した[10]。
ブリティッシュグリーン(※:ブリティッシュレーシンググリーン、BRGカラーとも)は1902年大会で優勝したネイピアの車に施されていた色であり、これに由来して深みのある独特なオリーブグリーン色がその後のイギリスにおける自動車競技に伝統するナショナルカラーとなった。
- 詳細は「ナショナルカラー#モータースポーツのナショナルカラー」を参照
一方、フランスでは1901年にポーで開催されたレースでは、クラス毎に分けた取り組みがなされた。軽量クラスに与えられた「グランプリ・デュ・パレ・ドール (仏: Grand Prix du Palais d’Hiver)」、重量(最速)クラスに与えられた「グランプリ・ド・ポー (仏: Grand Prix de Pau」と賞の名前に初めて「グランプリ」が使用された。グランプリは「英: Grand Prize = グランドプライズ」すなわち「大賞・最高賞」を意味する言葉であり、これが起因して今日では最高位レースにグランプリという名称が使用されるようになった。1906年にフランス自動車クラブ (仏: Automobile Club de France, ACF) が主催して「ACFグランプリ(通称1906年フランスグランプリ)」が開催される。一般公道を使用するレースは後述する1903年に開催されたパリ〜マドリード間レースでの死亡事故によって禁止されていたが、ゴードン・ベネット・カップをヒントに公道を閉路として使用した「クローズドロードレース」としてル・マンで開催され、1周103.18kmを12周、合計1238.16kmで争われるレースであった。その後1907年、1908年、1912年はディエップにて、1913年はアミアン、1914年はリヨンと第一次世界大戦が勃発するまで開催された。余談ではあるが、終戦後の最初のフランスグランプリは1921年に再びル・マンに戻され、現在のサルト・サーキットの原型となる場所で開催された。また、ポーも1930年に国際レースとしてフランスグランプリが開催された場所でもある。ポーは1933年より「ポー・グランプリ」と呼ばれ、開催されなかった1934年、1940年から1946年、1956年、そして2010年を除いてF1、F2、F3、WTCCなどなんらかの国際競技が開催されるなどこれらの都市はフランスにおけるレースの聖地となっている。
その他、国際レースとして超長距離レースが行われるようになった。1907年には北京〜パリ間レースが開催され、北京からスタートして、パリまで14994kmを横断するレースだった。参加した車両は合計5台でイタリアからはイターラ1台、オランダからはスパイカー1台、フランスからは三輪自動車のコンタル1台と蒸気自動車のド・ディオン・ブートン2台が参加した。6月10日にスタートし、62日かけてイターラのボルゲーゼ公爵がゴールし優勝した。なお、優勝賞品はG.H.MUMMのシャンパン1本だけだった[11]。
翌1908年にはニューヨーク〜パリ間レースが開催された。イタリアのツースト、ドイツのプロトス、アメリカのトーマス・フライヤー、そして今回もフランスからド・ディオン・ブートン、モトブロック、シゼール=ノーダンの3台が出場し、合計6台で争われた。2月12日にニューヨークをスタートしてアメリカ大陸を横断した後にシアトルから日本の横浜へ渡航し、敦賀まで480キロメートルを縦断した[12][13]。余談だがこのレースが記録に残る日本で初めて自動車競技が行われた瞬間である。そこから日本海を渡りウラジオストクに上陸してシベリアを横断する形でユーラシア大陸を東から西へ駆け抜けパリに向けて距離にして22,000キロメートルを旅するものであった。最初にゴールしたのは7月26日にパリに到着したドイツのプロトス車を運転する陸軍中尉ハンス・コーペンであったが、北米大陸横断の際、一部区間で鉄道を使って車を運んだため15日間のペナルティを科されたので[14]、正式な優勝は7月30日にゴールしたトーマス・フライヤーを駆るアメリカのジョージ・シャスターであった。 この自動車競技は「偉大なレース」として数えられ、後のラリー・ラリーレイドの原型となった。
公道レースからサーキットの誕生へ
フランスを中心とした自動車競技は大きな成功を収めていたが、自動車性能の向上は同時に危険性をはらむものでもあった。上記の通りそのほとんどのレースが市街地レースや都市間レースであった一方、沿道の観客整理は不十分で、一部を除いた多くの道路は未舗装の砂利道であった。この悪条件の中で、1900年を過ぎた頃には、自動車だけが10リッター超の巨大エンジンにより100km/hを超える高速で疾走するようになったが、そのパワーに操縦性やブレーキ性能が到底追随できておらず、リスクは増大していた。
危惧された通り、1903年5月のパリ - マドリード間レースでは、ルノー社の共同創設者であるマルセル・ルノー (1872年 - 1903年5月25日)が観客を巻き込む事故を起こして自身も死亡するなど大事故が続発、レースは途中のボルドーで急遽中止されたが、累計死者は観客も含め9名に及んだ。事態を重く見たフランス政府は多くの自治体における公道レースの禁止を発表するなど、大きな波紋を呼んだ[15][16]。
上記の事故がヨーロッパのみならず、アメリカ国内においてのサーキット建設に拍車をかけたといわれている。サーキットとは「閉路」で、語義通りには(終点が始点に戻る形でつながって〈閉じて〉いる)「周回路」のことであるが[17]、日本ではもっぱら、競技走行用に他から乗り入れることが不可能にされた走行路、といったような意味あいで使われている。
自動車競技の歴史において記録に残る最も古くに競技場にて開催された場所はナラガンセット・トロット競馬場である[18]。この競技場はトロット競馬場であるが、1896年9月26日に10台の自動車を用いて「Horseless Carriage Race = 馬なし馬車レース」として開催された。 ただし、当時ナラガンセット・トロット競馬場にて自動車競技が行われた背景には、むしろ安全性よりも様々な形態の自動車性能を見極めるための観客の志向や「馬なし馬車レース」という名称でもわかるとおり見世物としての要素が強かったとされる。 現存する世界最古のサーキットはミルウォーキー・マイルであり、1903年以来現在でも自動車競技が開催されている。このサーキットも元は競馬場として1876年に創業されたものであり、それを自動車競技のサーキットとして使用したのが始まりである[19]。
自動車競技を目的として最初に創業したサーキットはイギリスのサリーにあったブルックランズサーキットであった。1907年6月の創業以来、多くのレースがここで行われた。全長4.43 kmのコースでバンク角は最大30°コース幅は100フィートにも及ぶ広大さを誇る完全舗装サーキットであった[20]。ブルックランズは当時の最高基準で建設されたサーキットであり、当時としては路面状況が非常によく、自動車、オートバイ、三輪自動車などを問わずあらゆるジャンルの自動車競技が開催された。世界最高速記録の樹立や500マイルレースなどの耐久レースも行われ、自動車の信頼性、性能のそれぞれの向上に大きな役割を担ったサーキットともいえる。ブルックランズは1939年に後述する第二次世界大戦の影響によって航空機の生産が念頭となったために同年8月7日のレースを最後に閉鎖したが[21]、自動車競技専用のサーキット建設とそこで開催されたレースの興行的な成功と、それを利用することによって自動車性能が飛躍的に向上と工業技術力の向上、さらには四輪自動車のみならずオートバイにおいても高い安全性を提供できたことからも、ブルックランズに続いて各国各地でサーキット建設が行われるようになった。
自動車会社の成功と国家技術力競争
現在、国際自動車連盟 (Fédération Internationale de I'Automobile, FIA) の前身となる国際自動車公認クラブ協会 (Association Internationale des Automobile Clubs Reconnus, AIACR) が設立されたのは1904年であるが、毎年恒例の会議の中で特に議題になっていたのが自動車会社の自動車レースへの関心の高さであった。 それまでのレースの興行的な成功と、フランスやドイツ、イギリス、イタリア、アメリカなどの自動車会社の成功はすなわち自動車会社の技術力の象徴として扱われたため、自動車の技術発展と同時に自社の宣伝効果にも莫大な意義があるということは明白だったからである。そのためAIACRは自動車選手権の必要性を認め1923年に「ヨーロッパグランプリ」という名目で前年にイタリアに完成したばかりのサーキットであるアウトドローモ・ナツィオナーレ・ディ・モンツァで初開催した。このヨーロッパグランプリは1930年までの間にフランスのリオン、ベルギーのスパ・フランコルシャン、スペインのサン・セバスティアンなどで開催された。これらのグランプリは1931年に「Championship = 選手権」としてまとめられ、ヨーロッパ・ドライバーズ選手権として年間を通して争われるようになった。
グランプリや選手権を通じて国際的な注目を得たい自動車会社の各マシンはナショナルカラーで塗られ、自動車を使った工業先進国の技術力の高さを表した。この傾向は特に1930年代に入ってからナチス・ドイツのメルセデス(現在のメルセデス・ベンツ)、アウディ(アウトウニオン)が自国の技術力を他国に見せつける国威発揚の場として使われた。ヨーロッパにおける自動車の速度記録は1928年にイギリスのマルコム・キャンベルが記録した281.44 km/hを最後となっていたが、ナチス・ドイツでは1934年にメルセデス・ベンツ・W25を駆るルドルフ・カラツィオラが317.460 km/hを記録。また、アウトウニオンはフェルディナント・ポルシェを起用してアウトウニオン・Pワーゲンを開発。1937年にはベルント・ローゼマイヤーがアウトウニオン・Pワーゲンを駆って401.9 km/hを記録した。 しかし、ヨーロッパを中心とした世界情勢に暗雲が垂れ込め第二次世界大戦が勃発し、ヨーロッパにおけるグランプリは1939年から終戦まで開催されることはなかった。南米では1940年から1942年まで開催され、1940年にサンパウログランプリと冠してブラジルのインテルラゴス・サーキットで開催された。1941年にはブラジルでリオデジャネイログランプリとアルゼンチンでブエノスアイレスグランプリが開催され、1942年にはブエノスアイレスに加えサンタフェグランプリが開催された。その後は大戦の世界的な激化により終戦まで全てのグランプリが中止された。
終戦からFIAの発足。「フォーミュラ」の誕生
第二次世界大戦後に最も早く開催されたレースは1945年9月9日にブローニュの森で開催されたパリ杯である。優勝者はブガッティを駆るジャン=ピエール・ウィミーユであった。彼はフランス陸軍の兵役がまだ残っていたため、レースに出場する為に陸軍に許可をとって出場した。
1946年には国際競技としてフランスのサン=クルー、スイスのジュネーヴ市街地、イタリアのトリノで3カ国のグランプリとその他17グランプリの計20グランプリが開催された。当時自動車競技部門を統括していた下部組織である、国際スポーツ委員会 (Commission Sportive Internationale, CSI) によって最高峰のシングルシーターによる自動車競技の発足を目指した。それまでにあったグランプリという国際競技でありながら、新しい定義の競技の必要性が講じられ戦後の自動車競技における新しい「規格」を由来に「Formula = フォーミュラ」と名付けられ、いくつかの階級に分ける案が認められた。その理由に戦前におけるグランプリにて3.0リッタースーパーチャージャー付きエンジンと、4.5リッター自然吸気エンジンの2つが混在していたこともあり、すでにカテゴリの分裂が起きていた。性能差の是正から3.0リッタースーパーチャージャー付きエンジンを廃止し、1.5リッタースーパーチャージャー付きエンジンと、4.5リッター自然吸気エンジンのどちらかの使用というルールとなり、このエンジン使用規約が1950年に初めて「世界選手権」として開催されるフォーミュラ1(F1)の最初のルールとなった。
政治的な動きとしては、1947年に国際自動車公認クラブ協会(AIACR)を前身とした国際自動車連盟 (FIA) が設立された。
スポーツカー世界選手権の誕生
自動車競技の多様性は形態が限りなく市販車に近いスポーツカーレースにまで発展していった。前述のフォーミュラ1はフォーミュラカーを使用したシングルシーターによる比較的短距離(スプリント)なレースであり、選手権の内容もドライバーを重視したものであった。これに対し市販車ないし市販を前提に開発した車両、つまりは運転席と助手席が存在するスポーツカーを使用したレースは自動車製造業者(マニファクチュアラー)が主体のものとなった。したがって、自動車性能を示す一つである耐久性も考慮され、大変長距離(エンデュランス)なレースとなるが、こうしたレースはそれまでにミッレミリア、ル・マン24時間、RACツーリストトロフィーレースといった伝統的なものが存在していたが、それぞれのレースごと主催団体が違っていた為に、それまで選手権としての統一が実現しなかった。
その為、こうした耐久レースを統一したものとして1953年にスポーツカー世界選手権 (Championnat du Monde des Voitures de Sport) が発足された。初開催となった1953年は上記の伝統的なレースに加え、近年に発足された12時間耐久グランプリ、フランコルシャン24時間、国際ADAC1000キロメートルレース、カレラ・パナメリカーナを合わせて計7戦が開催された。
スポーツカーレースの勃興は欧州はもちろん、それまでオーバルサーキット一辺倒であったアメリカのレース文化を大きく刺激し、Can-amやIMSAなどを誕生させた。
ラリー・オフロード系競技の確立
前述の通り自動車競技の勃興は公道レースからであり、それゆえラリーを始めとするオフロード系レースも古くから存在したが、体系立った選手権・シリーズとしては長らく確立されていなかった。
そこで1970年に各地の伝統のラリーイベントを取りまとめる形で、「IMC(国際マニュファクチャラーズ選手権)」が誕生。これが発展して1973年に現代まで続くWRC(世界ラリー選手権)が発足した。これに多くの日本メーカーを含む自動車メーカーたちが参戦し、その成果を大きく喧伝した。
またWRCと同じく1973年に欧州ラリークロス選手権、1979年にはパリ-ダカール・ラリーが誕生している。
マスキー法とオイル・ショック
世間で自動車の排ガスによる公害が騒がれ始めた頃の1970年に、アメリカでマスキー法が施行された。自動車メーカーたちはこの画期的なまでに厳しい基準をクリアするために、レースに注ぎ込んでいたリソースを新型のエンジンや触媒を開発するために回し、日本メーカーを中心にレース活動の規模縮小や撤退が相次いだ。1973年には第一次オイル・ショックが自動車業界を直撃し、欧州でもワークス勢の多くが撤退した。
これらの事件の影響は深刻で、各地でレースカテゴリが消滅と再編纂を余儀なくされた。特にメーカー対決を売りにするスポーツカーレースは直撃を受け、北米ではCan-Am(第一期)が、日本では日本グランプリが終焉を迎えた。スポーツカー世界選手権やル・マン24時間でも1975年にはワークス不在という事態に陥ったり、新たに施行したグループ5規定(シルエットフォーミュラ)がすぐポルシェワンメイク状態に収斂してしまったりと、芳しくない状態が続いた。
一方で自動車メーカーに依存しないプライベーターたちが誕生・成長を遂げた時代でもある。元々プライベーターが中心だったF1世界選手権や米国のチャンプカーなどのオープンホイールレースはほとんど影響を受けておらず、日本でもプライベーターたちによるフォーミュラカーレースや富士グランチャンピオンレースなどが誕生した。
1980年代に入ってからのモータースポーツ界はグループA・グループB・グループC規定による、現代まで語り継がれるほどの盛り上がりを見せるが、これはオイル・ショックの反動でメーカーたちが大挙して押し寄せたという面も大きい。
現代的レーシングカーの設計思想の確立
自動車の黎明期は様々な技術の試行錯誤が行われたが、現代のレーシングカーにおいて重要とされる設計思想のほとんどは、1960~1980年代に確立された。
従来のフォーミュラカーは市販車同様フロントエンジンが主流であったが、1950年代後半にミッドシップエンジン車が登場し始めると、1960年代F1では全車がミッドシップを採用するようになり、「レーシングカーはミッドシップが有利」という常識が一般化した。
エンジンパワーが増大化するとともに空力でマシンを下に押さえつける力、つまりダウンフォースを得るという設計も求められるようになった。1960年代はF1やCan-Amなどでリアウィングの装着によりダウンフォースを得るのが主流であったが、乱気流や安全の関係でただ装着すればいいというものではなかったため、かなりの試行錯誤がなされた。1970年代後半に鬼才・コーリン・チャップマンがマシン全体やマシン下部(グランドエフェクト)で空力効果を得る手法を確立し、従来より遥かに安定してダウンフォースを得ることが可能となった。グランドエフェクト自体は特有の安全上のデメリットからしばらく敬遠されたが、その考え方自体は現在まで生き続けている。
またチャップマンはスペースフレームシャシーに代わるものとしてモノコック構造を発明し、現代まで続くフォーミュラカーの構造の基礎を築いた。
従来ターボラグが大きく、レーシングカー向きでないとされていたターボチャージャーも1970年代にスポーツカーレースでポルシェ、F1でルノーが活躍し始めると一気に研究が進んだ。F1では1989年に禁止(2014年に解禁)されるまで全盛期を築き上げ、スポーツカーレースではそれ以降も長らく採用が続いた。
4WD(四輪駆動)もラリーレイドや1980年代のアウディ・クワトロの登場以降、サーキットでも急速に採用が進み、市販乗用車の4WD技術・ラインナップにも大きな影響を与えた。
「F1サーカス」の誕生
上述したように、各国で姿かたちやルールの異なる様々な自動車競技が勃興し、それぞれに熱心なファンがついたが、その中でも頭一つ飛び出たのはF1であった。稀代の天才であるバーニー・エクレストンの辣腕により、「F1サーカス」と形容されるような、文字通り世界各国を飛び回る国際的スポーツイベントに成長した。この背景にはTVの普及により、放映権がビジネスとして成立し始めたことも背景にある。
これにより1990年代までには、自動車に興味のない一般大衆にもアイルトン・セナやミハエル・シューマッハといったF1のスターたちの名前は知れ渡るようになった。同時期のスポーツカーレースやWRCも、各メーカーが競って過激かつ多様なマシンを開発してこちらも人気が高かったが、F1の一般大衆への浸透ぶりには及ばなかった。
2000年代になるとメーカーの撤退が相次いだスポーツカーとWRCは勢いを弱めてローカル化が進み、一般人向けとしてはよりF1一強の様相が濃くなっていった。また同じフォーミュラカーレースの中でも、F1とそれ以外(CART、フォーミュラ・ニッポンなど)で人気の2極化が進んだ。
この間ツーリングカーレースもグループAやスーパーツーリング、スーパー2000規定などでメジャーな存在として一時的に大きな勢力となったが、規則や運営、コストなどの問題により、いずれも数年程度で消滅と誕生を繰り返すような不安定な状態が続いている。
北米では90年代以降、長年力を持っていたオープンホイールレースとスポーツカー耐久が組織分裂によってそれまでの勢いを失ったことや、マーケティング手法の巧拙の差もあり、ストックカーレースのNASCARがアメリカン・モータースポーツの頂点に取って代わった。
1990年代以降は電子制御技術が発達し、セミオートマチックトランスミッションやトラクションコントロールなどのハイテクな装備が普及した。
コストダウンとエコの時代へ
1990年代以降日本はおろか欧米でも若者の車離れが叫ばれたり、環境問題への意識が高まるようになると、自動車メーカーにとってのレース参戦の商業的意義・対費用効果にも疑問符がつけられるようになり、それまで自動車競技に熱心であったメーカーが一転してピタリと活動から手を引いてしまう事例が増えた。
また技術革新が進み、原初の頃に比べると相当にハイレベルな技術と高価なパーツを用いるのが当たり前になってしまったため、それに伴う参入障壁や参戦コストの高さに、メーカーやチームが疲弊して崩壊・消滅するカテゴリも多く見られるようになった。
こうした時代の変化に対応するべく運営側も、参加者の経済的・技術的な負荷を減らしたり、環境技術を宣伝できるような規則を導入して、自動車メーカーの招致に知恵を絞るようになった。
具体的には
- マシンの一部または大部分を共通パーツにしたり、あるいはマシンそのものをワンメイク(一社独占)供給にしたりすることで、開発競争によるコストの増長を抑制しつつ、量産効果によるコストダウンも実現する
- 複雑な電子制御を必要とするパーツや高価な素材を禁止してコストと参入障壁を下げる
- 市販車に由来しない鋼管パイプフレームの採用を認可することで、ベース車両の優劣に囚われない開発を可能にする
- 一度ホモロゲーションを取得した部位の開発を制限あるいは凍結して、開発にかかるコストを削る
- エンジンやギアボックスなどについて、一年間に使用できる基数を制限することでコストを削減する
- 予算額そのものをレギュレーションで規定し、コスト増大を阻止する(バジェットキャップ制)
- エンジンの気筒数と排気量を統一し、性能均衡を実現しやすくする
- ある特定のパーツについて、他チームが購入を希望したら一定の価格で販売しなければならない義務を負わせ、1チームの独走を防ぐ
- 性能調整やハンデキャップ制を導入し、資金力や技術力に劣る弱小チームでも勝つチャンスを掴みやすくする
- ダウンサイジングターボやディーゼルエンジン、ハイブリッドカー、電気自動車など、一般にCO2排出量が少ないとされるパワートレイン技術を導入したり、燃料もバイオ燃料など地球環境に配慮したものに替えたりする
など多数のアイディアが存在する。先述の通り自動車競技の覇者となったF1も、こうした時代の流れの前に次々とメーカーを失ったため、上のいくつかの手法を導入して覇権を維持している。
2020年代以降は内燃機関を捨てることを宣言するメーカーが続々と登場し始めたため、FIAは純粋なEV(電気自動車)のみで争われるカテゴリを多数誕生させている。
レーシングカービジネスの流行
エコ意識の高まりに前後して、性能調整を施すことで多様なレーシングカーを参戦することが可能となる手法が確立された。これによりグループGT3/GT4やグループRally、TCRなどといった、自動車メーカーがプライベーターチーム向けに市販車をレーシングカーに改造して販売する規定が2010年代以降に流行した。メーカーにとっては販売・アフターサービスによる収益に加えて購入者が自社製マシンを走らせてくれることで宣伝効果も得られ、プライベーターにとっては戦闘力の高いマシンを低コストで購入・運用することが可能という、双方に利がある理想的なパッケージングである。
ただし一方で、多数のメーカーが参入したことで開発競争の激化によりマシンの価格と運用コストが高騰し、メーカー側からすればビジネスとして採算が取れず、プライベーターからは経済的に手が出せなくなってしまうという問題が散見され始めている。
またあまりに広まりすぎているゆえに、観戦者側からは世界各国のどのレースを見ても同じ規定のカスタマーマシンばかりで退屈という弊害も指摘されている。
この節の加筆が望まれています。 |
注釈
出典
- ^ “モータースポーツ”. スポーツ辞典 S-word. (2009年11月5日) 2010年9月24日閲覧。
- ^ 折口 1970, p. 20.
- ^ a b c 折口 1970, p. 22.
- ^ アメデー・ボレーと息子のアメデー2世およびレオンは、1873年以来長らく蒸気自動車を開発し続けていた。このレースでラ・ヌーヴェルは鈍足ながら十分な信頼性を示し、途中リタイアしたドライバーたちを拾ってルーアンまで完走している。
- ^ 宇宙物理学者のジョルジュ・ルメートルではない。
- ^ “I Paris-Rouen Trial”. Racing-Database.com 2010年9月24日閲覧。
- ^ 折口 1970, p. 23.
- ^ “Biographie d'Emile Levassor”. Les Doyennes de Panhard et Levassor 2010年9月24日閲覧。
- ^ a b . History.com. http://www.history.com/this-day-in-history/frank-duryea-wins-first-us-horseless-carriage-race+2011年10月22日閲覧。
- ^ “The Gordon Bennett Races”. TEAM DAN Website 2010年9月24日閲覧。
- ^ “北京-パリとは”. Beijing-Paris Silkroad International Cross Country Tour 2007. (2007年) 2012年11月13日閲覧。
- ^ “自動車黎明期の日本の道路事情(1)「日本を縦断した冒険野郎 東海道~北陸道」(上)”. トヨタ博物館. (2002年6月) 2012年11月13日閲覧。
- ^ “The Greatest Race – 1908 New York to Paris (Page #3)”. sportscardigest.com. (2011年9月28日) 2012年11月13日閲覧。
- ^ 折口 1970, p. 49.
- ^ “Renault De Louis Renault a la estatización”. Test del ayer 2010年9月24日閲覧。
- ^ “Marcel Renault”. Find a Grave 2010年9月24日閲覧。
- ^ たとえば電気回路の「回路」もサーキットであるが、電気の場合、電源から出て電源に戻るように接続されたものが「回路」である。
- ^ “PROVIDENCE HORSELESS CARRIAGE RACE”. Machine-History.Com 2013年3月2日閲覧。
- ^ “History”. Milwaukee Mile Official Site 2010年9月24日閲覧。
- ^ “Motoring History 1907-1914”. Brooklands Museum 2010年9月24日閲覧。
- ^ “History”. Banking on Brooklands 2010年9月24日閲覧。
- ^ “F1のスタート方式”. F1-DATA.NET 2010年10月12日閲覧。
- ^ “バイクイベントガイド - 全日本ロードレースって?”. HONDA 2010年10月12日閲覧。
- ^ “2009“ミニMOTO-GP”鈴鹿ツイン ミニバイク耐久レース .pdf拡張子ファイル(※:第16条 決勝レーススタート方式、第17条 レーススタートにおける注意点、第18条 決勝スタート)”. miniMotoGP. (2009年2月6日) 2010年10月12日閲覧。
- ^ “WRCとは?”. WRC 日本語公式サイト 2010年10月12日閲覧。
- ^ “パリダカに出るには? (バイク)”. 堀田修 公式ホームページ. (2005年) 2010年10月12日閲覧。
- ^ 追突防止用の赤色リアランプ(リアフォグランプ、バックフォグランプ)は装備しており、ウェットレースでは点灯が義務付けられる。
- ^ “グループN車両製作日記”. K・I・T Service. (2005年8月31日) 2010年10月12日閲覧。
- ^ “SplitterWing”. DeepBlueRoom. (2004年) 2010年10月12日閲覧。
- ^ “鈴鹿ワールドラリーフェスタ”. Offline Meeting EVENT. (2004年10月31日) 2010年10月12日閲覧。
- ^ HINO RANGER:パリダカマシンのすべて - TEAM SUGAWARA
- ^ “ドリフトチューン”. 走り屋への道. (2009年) 2011年10月25日閲覧。
- ^ “セッティング”. 走り屋への道. (2009年) 2011年10月25日閲覧。
- ^ “ジムカーナとは”. ジムカーナ百科事典. (2004年12月3日) 2011年12月17日閲覧。
- ^ “ジムカーナのススメ”. 日部利晃 (ツインリンクもてぎ) 2011年12月28日閲覧。
- ^ “立教大学体育会自動車部 - モータースポーツの世界にようこそ!”. 立教大学自動車部 (asahi.com). (2004年12月3日) 2011年12月17日閲覧。
- ^ “競技の紹介 - ダートトライアル”. 東洋大学自動車部 2011年12月28日閲覧。
- ^ 1990年代ル・マン24時間レースのオープントップや、ダカール・ラリーの2WD規定など。近年はグループGT3もこれに近い
- ^ 「ジェントルマンドライバー=道楽」ではない。CARGUY木村武史が“楽しくない”レースに全力注ぐ理由 - motorsport.com 2021年10月27日
- ^ The gentleman drivers of sportscar racing, and why gradings matter - AUTOSPORT(UK)・2021年8月21日
- ^ 条文の中でワークスとプライベーターを明確に定義し、排除するのが困難なためである
- ^ それ以前は、マシンの横側に車番が書かれているだけのシンプルなものであった。
- ^ 中にはテストドライバーとしてチームに籍を置くだけなのにスポンサー資金を要求する場合もある。
- ^ a b “特集:ペイドライバーの復活”. ESPN F1. (2011年1月28日) 2011年12月28日閲覧。
- ^ a b “ヤルノ・トゥルーリ、ペイドライバーを非難”. ESPN F1. (2011年12月28日) 2011年12月28日閲覧。
- ^ “ルーベンス・バリチェロ 「金がすべてを支配している」”. F1 Gate.com. (2012年2月18日) 2012年2月18日閲覧。
- ^ 当時はスポンサーを行う事は合法であり、車体のロゴ、ヘルメット、レーシングスーツ、サーキット看板でロゴや銘柄を連想させるような図柄は随所に存在した。
- ^ “フェラーリ、バーコードにサブリミナル広告の疑い”. F1 Gate.com. (2010年4月29日) 2010年9月25日閲覧。
- ^ “安売り・飲み放題など、アルコール規制指針を採択 WHO”. AFP. (2010年5月21日) 2010年9月25日閲覧。
- ^ ここでは「切り札」の意味
- ^ ただし現代ではデータロガーの精度・情報量やデータ解析の技術が格段に向上しているため、簡単にはごまかせない
- ^ a b 国や地域による
- ^ 2009年を除く。また2020・2021年はカレンダー入りしているが、2020年9月時点で未開催
- ^ 現在はパリを使用しないルートであるが現在でも「パリダカ」と呼ばれることがある。
- ^ 自動車競技の楽しみ. 論創社. (2002-2). ISBN 978-4846002213
- ^ “Chamiers Histoire et histoires”. Mairie de Coulounieix-Chamiers. (1988年) 2011年2月7日閲覧。
- 自動車競技のページへのリンク