電気グルーヴと関わりの深い人物
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「電気グルーヴ」の記事における「電気グルーヴと関わりの深い人物」の解説
天久聖一 神戸にて看守の仕事に就いていたが、思うところあり漫画家に転身。瀧が率いる草野球チーム「ピエール学園」と漫画家によるチームとの対戦があった際、試合中に奇声を発しながらハッスルプレイを繰り広げていた様子が瀧の目にとまり、以降電気と親しくなる。電気のCDジャケットやラジオのノベルティグッズのデザイン、ミュージック・ビデオのアニメーション作画を手掛けている。彼が作画を担当した「Cafe de 鬼(顔と科学)」のPVはSPACE SHOWER Music Video Awards'05でBEST GROOVE VIDEO並びにBEST ANIMATION VIDEOを受賞した。それ以外にも電気のLIVEに半裸で登場したり、THE・天久聖一withギ・おならすいこみ隊名義の楽曲「モテたくて…」(日射病撲滅キャンペーンソング)などでは作詞とボーカル、赤城乳業ノベルティ版「ガリガリ君」では自作のポエム朗読などを担当した。こういったバンドへの活動と同時に、ゲストとして呼ばれたラジオでうっかり放送禁止用語を発してメンバーやえらい人を困らせたりした。また、石野は彼の著書の多くに「オビラー」(=帯の推薦コメントを書く人、あるいはそういった職業を指すらしい)として秀逸なコメントを提供している。瀧とは「イボピアス」なるユニットを結成している。 椎名基樹 石野の中学時代の後輩にして元「人生」のメンバー「ポートピア83才」。「人生」の代表曲「男の中の男」のコーラスなどを担当。また、『電気グルーヴのオールナイトニッポン』に放送作家として参加。陸上部出身で足腰が強かったので、「深夜の使いっ走り」というコーナーが誕生した。「スイカの差し入れひとつで女性教育実習生を落とした」、「ジェリーボーンのライヴで意気揚々とステージに上がったは良いものの、ボーカルマイクがトラブルを起こしたことに激怒して出演を中断し楽屋に篭城」、「ボイラー技師の親父はいかりや長介似」、「静岡時代は数々のライヴハウスを締め出され、公民館を中心とした活動を余儀なくされる」など数々の伝説をもつ。また、天久らと共に雑誌『SPA!』の投稿ページ「バカはサイレンで泣く」を担当。電気の『オールナイト』のDNAを受け継ぐクオリティの高いネタハガキが毎回投稿される長期名物連載である。 (世界の)ケン・ニシイ 本名・西井健一。1971年4月15日生まれ。電器販売店店員を経て瀧のマネージャーを務めた。メンバーからは「金の埋まる顔」とも、初対面の田中直樹には「あれは反則」とも言わしめた。もともとは『オールナイトニッポン』内の『見知らぬ他人の家にお泊り』企画にハガキを応募した一般リスナーであった。だが、実際には彼の家に瀧は泊まらず、リスナー藤崎龍馬の家に瀧ともども泊まらせられる。それ以降番組内でたびたび名指しで話題に上り、『西井の彼女を募集するコーナー』なども組まれた。番組終了以降もその容姿と憎めないキャラクターを買われ、なにかと電気グルーヴのマスコット的存在として親しまれてきた。『Flash Back Disco』、『ピエール瀧体操30歳』『ピエール瀧の体操36歳』等のPV映像でその姿を確認できる。『電気グルーヴのドリルキングアワー』内にてケン・イシイにあやかり、(世界の)ケン・ニシイの名を授かる。ピエール瀧製作のDVD『究極ホ乳類ニシイ』ではタイトルにその名を冠することとなった。2007年ROCKIN'ON JAPAN6月号のメロン牧場にて、電気のマネージャー引退、実家に戻ることが発表された。ケン・イシイとは熱狂的なプロレスファンであることのみ共通している。『オールナイトニッポン』のハガキ職人「福井県・ペンネーム西井健一」は別人。2008年現在、介護系の仕事に従事している。本人曰く、「電気マネージャーの頃はアッパー系のキ○ガイを相手にしてたけど、今はダウナー系のキ○ガイを相手にしてる」とのこと。 ブラボー小松 本名は小松としひろ。1990年代に朝倉ミツヒロと共にSEXというユニットを結成し活動する傍ら、電気をはじめとしてNOKKOやピチカート・ファイヴのサポートギタリストを担当した。瀧のソロプロジェクト「ピエール瀧とベートーベン」ではギターベートーベンとして加わった。 三波春夫 大衆歌謡歌手。1992年、シングル「ハウスおまんた囃子」で突如ハウス・サウンドを導入。これに関連して開催された"HARUO IN DANCE BEAT"なるライヴイベントにて電気と共演(「ハウスおまんた囃子」等の楽曲の製作そのものには電気は関わっていない)。当日はゲストとして、死んだはずの瀧勝も登場した。そこで勝は春夫に「おまんた囃子」のワンフレーズを伝授されるが音程を外してしまうという、うすら寒いミニコントを披露。春夫サイドの書いたシナリオを瀧が嫌々演じたかたちとなる。この経験は現在でも瀧にとってトラウマになっているという。が、翌日のワイドショー等の報道では電気の活躍の模様は一切触れられなかった。2001年に他界。 日出郎 ニューハーフタレント。デビュー当時の電気とは雑誌の対談がきっかけで親しくなり、『オールナイトニッポン』二部時代には度々ゲストとして登場。「みんなオカマにするわよ!」「起きるのよアンタら!悪夢を見るわよ!」「あ〜らアンタら勉強不足よ!」などの台詞を残した。初期の電気ライブでは、蓑を背負って前説をしたり、ニューハーフを数十人連れて、バックダンサーをした。その後は歌手としても活躍する。代表曲はチモ・バヨの楽曲の日本語カヴァー「燃えろバルセロナ」。1990年代初頭の電気グルーヴは新宿二丁目にハマっており、連日連夜、日出郎の店に通い詰めていた。彼らがゲイというわけではなく、その場の独特の「キてる」雰囲気と、怖いもの見たさ、そしてオカマさん達の強烈なキャラとトークの面白さという点で好んでいた模様。電気がラジオやイベントなどの締めの言葉によく使う「なにひとつ盛り上がることなく - 」というセリフは日出郎がショータイム終了時に使っていたものである。上記の「燃えろバルセロナ」は当初は石野に作詞依頼が来たものの、当時の歌手としての日出郎は普段のキャラとは正反対のシリアス路線の作品を発表し続けていた為、マジメな歌詞を書いて提出したところ、結局ボツになってしまったらしい。実際フタをあければ「燃えろ - 」は当時のバルセロナオリンピック開催に便乗した下品極まりない直球ゲイソングで驚いたと語っている。後に椎名基樹が脚本・シリーズ構成を担当した『OH!スーパーミルクチャン』シリーズでは、オカマの大家を演じている。『DENKI GROOVE THE MOVIE? 〜石野卓球とピエール瀧〜』にも出演。2018年3月3日に大阪・Zepp Namba、3月16、17日に東京・Zepp Tokyoでワンマンライブ「クラーケン鷹」に卓球プロデュース作品『燃える!バルセロナ』にてゲスト出演した。 朝本浩文 かつてはミュート・ビートでキーボーディストとして活躍。その後は自身のバンド「Ram Jam World」の活動と並行し、電気のセカンドアルバム『UFO』やUAなど数多くのプロデュースを手掛ける。 五島良子 「新幹線」および「虹」、「Nothing's Gonna Change」に参加した女性ミュージシャン。そもそもは電気と同じキューンソニー在籍(当時)ということで白羽の矢が立ったが、この起用は正解だったらしく、石野も「天使の声」と絶賛している。電気の作品やライヴへの参加だけでなく、石野プロデュースでシングル「TSUKI NO HANA」もリリースした。 會田茂一 通称アイゴン。堀江博久(現・ニール&イライザ)らとのバンド「ACROBAT BUNCH」としての「FLASH PAPA MENTHOL」への参加、「VITAMIN」での「富士山」のギター、そしてEL-MALOとしての「虹」のリミックスなど、様々な形態で電気の作品に関わる人物。事実、石野もインタビューにて「過去に共演したけど、また共演したいミュージシャン」として名前を挙げたことがある。石野や砂原のソロ作品でもギターを披露。砂原とはEL-MARINなるユニットも結成した。上記の朝本浩文の「Ram Jam World」にもメンバーとして在籍していた。また、EL-MALOとして受けた某雑誌インタビューでは電気のアルバム『DRAGON』の帯に書かれた「道が無くなりゃ自分で作ればいいじゃん」というコピーに甚く共感したことを表明していたが、実はこのコピーはキューンのディレクターが勝手に考えたもので、メンバーの全く意図するものではなかったことがのちに明らかにされている。 王選手 通称あっちゃん。元「人生」のメンバーで、瀧と並んで楽器を演奏しないメンバーとして在籍した。もともとはナゴムレコード関連のライヴの客として訪れていたが、中でも異彩を放っていたため、気がつくと演者として舞台に上がることとなっていた。ナゴムきっての怪人物であったが、昼は某有名大学ロシア文学科に通う秀才でもあった。初期は「井ノ頭健康」の芸名で活躍したが、のちに「王選手」、「長嶋監督」などへと改名する。主にダンスやコントや奇行、暴れ役、たまにメインボーカルも担当。ライヴ中、自分で投げた消火器に当たって四針縫う大怪我を負い血まみれになったことがある。瀧と組んで「畳ワンちゃんミュージカルショー」も公演。サッカーボールに扮した王選手を瀧がドリブルしながら蹴りまわす内容だった。「人生」だけでなく「筋肉少女帯」や「死ね死ね団」などナゴムの看板バンドのいくつかにメンバーとして加入と脱退を繰り返した。しかし「人生」解散後、電気グルーヴとして1991年2月に東京タワーで行われた特別ライヴにダンサーとして乱入を試みるが、メンバーには全くの知らない人として無視される。その頃には都内の翻訳会社に入社。後に外資系のソフトウェア企業に転職、さらに脱サラして有限会社を起こしたなど、様々な噂がある。その姿は、筋少のメジャーデビュー後の楽曲『キノコパワー』のPVで確認できる。冒頭と後半に出演している白塗りに学ラン姿の男が彼である。 DJ TASAKA 石野主催のクラブイベント「LOOPA」のレギュラーを務めた他、同名レーベルではサウンドクリエイターとしても活躍。電気グルーヴの活動には、1999年に行われたスペースシャワーTVの10周年記念イベント「2001: A SPACE SHOWER ODYSSEY」のライヴにサポートメンバーとして関わって以降、アルバム『VOXXX』にはコ・プロデュース的な立場で参加し、続いてライヴツアー「ツアー・ツアー」、WIREでのステージにも上がる。電気からは「美白DJ」との異名を授かるが、もともと極端な色白なので特に美白を心がけているわけではない。 KAGAMI テクノDJ、サウンドクリエイター。のちに「DISCO TWINS」を結成するDJ TASAKAと共に、電気グルーヴの活動には「2001: A SPACE SHOWER ODYSSEY」以降のライヴとアルバム『VOXXX』にサポートメンバーとして関わり、砂原脱退後の電気の屋台骨を支える。「COUNTDOWN JAPAN06/07」では電気関連の限定アイテムとして彼がデザインした「めいろTシャツ」が販売された。ソロでは電気グルーヴはもちろん、くるりなどジャンルを問わず数多くの楽曲のリミックスを手がけている。TASAKAとは電気のサポートメンバーとしての共演から発展し、「DISCO TWINS」なるクラブイベントを催し、同名のプロダクションユニットとして活動。2010年5月25日に過労による急性心不全で死去。石野やDJ TASAKAもTwitter上で哀悼の意を表した。 TOKYO No.1 SOUL SET 渡辺俊美(G.Vo.)、BIKKE(MC.Vo.)、川辺ヒロシ(Turntable)からなるユニット。電気との関係は、電気グルーヴ×スチャダラパーでの活動を経た以降、石野と川辺によるInKなど盛んだが、それ以前にも1990年代よりSOUL SETのメンバーは雑誌のインタビュー等で電気に対するリスペクトを表明していた。また、石野も『オールナイトニッポン』での浅草キッドとのサイコロトークの中で、「いま気になる女性タレント」として渡辺の妻であったタレントのちはるの名を挙げたり、ソウルセットの曲「ヤード」を自身の連載で大絶賛していた。また、石野、川辺ともに番組開始当初のNHK『ポップジャム』にて、「DJ」と称して変な神輿のような高いところにあるブースにひとりぼっちで置き去り&さらし者にされたという苦い経験を持つ。 小山田圭吾 ロリポップ・ソニック、フリッパーズ・ギターを経て、現在はソロユニットCORNELIUSとして活動するミュージシャン。電気とフリッパーズ・ギターは、スチャダラパーなどと共にデビュー当初からポストバンドブームという括りで論じられることが多く、電気も少なからず良きライバル的に意識していたようで、当時の発言の端々でフリッパーズの斬新な活動姿勢や作品などに肯定的な態度を示していた。「ミュージシャンの歌詞には思い入れが無い」と頻繁に言っていた石野ですら、CMJKとの対談で、「好きな歌詞のミュージシャン」としてフリッパーズギターを挙げていたほどである(CMJKはフリクションを挙げていた)。活動当時は自ら「『小学六年生』から『リミックス』まで」と語るほど多岐のジャンルに渡る媒体露出を行ったが、このプロモーションスタイルは電気やスチャダラパーにも影響を与えている(ただし、電気の場合は『リミックス』から『スーパー写真塾』までで、その後、電気グルーヴが小学六年生に露出した際には中山美穂の楽曲を酷評した)。瀧いわく日本の音楽業界は総て少なからず「小山田の影響を受けている」らしい。砂原は「KARATEKA」発表後に、石野の「いないいない病」の発病などから、一時的に解散の危機に陥った電気の状況を憂いで「まだ電気にとっての『ヘッド博士の世界塔』(※フリッパーズが解散直前に発表した傑作とされるアルバム)を作らずに終わるのは勿体無い」と涙ながらに訴えた。一方、小山田も自身のラジオ番組内で電気とスチャダラをして『別の学校にいる同じ学年の友人みたいなもの』と発言している。それから『オールナイトニッポン』、『ドリルキングアワー』に小山田がゲスト出演するなどの場面はあったが、音楽活動方面での直接的繋がりは1996年に発表された『96/69』まで待たれることとなる。このアルバムでは石野と砂原がそれぞれ一曲を手がけたが、当初の構想では電気グルーヴとして一曲任されるアイデアもあったという。同時期に製作された電気の「A」、小山田の「FANTASMA」は互いに何らかの影響を与え合う作品となったという。これ以降、電気とのメディア上での共演もさらに増え、テレビブロス10周年記念シングルとして「九官鳥 & ヒズフレンズ」を石野と共同制作。スペースシャワーTVの10周年記念イベント「2001: A SPACE SHOWER ODYSSEY」では対バンし、電気の10周年企画アルバム「The Last Supper」、電気グルーヴ×スチャダラパーのシングル「聖☆おじさん」にもリミキサーとして参加した。石野、川辺らと共にポップジャムの「DJブース」に置き去りにされた1人でもある。ピチカート・ファイヴと共に瀧が愛猫の便所を掃除したまま手を洗わず握った「喧嘩握り寿司」を食らわされた経験を持つ。 ケラリーノ・サンドロヴィッチ かつては「人生」も所属したインディーズレーベル「ナゴムレコード」を主宰し、石野や瀧を静岡から全国区へブレイクさせた。自身も「有頂天」、「空手バカボン」として音楽活動を行い、石野にも多大なる影響を与える(「いないいない病」の先輩でもある)。これと並行して当時から劇団健康を主宰し、初期の公演では石野と瀧、大槻ケンヂらを演者として起用していた。1991年にクラブチッタ川崎のイベントに電気とともに「ロングバケーション」として出演したが、楽屋で他の出演バンドの喧嘩の嵐に巻き込まれた。その仲裁に砂原が入った時に「ケラさん、逃げて」と発した。2007年には彼が監督を務め、瀧も出演している映画『グミ・チョコレート・パイン』に電気がエンディングテーマ曲「少年ヤング」を提供。同曲シングルのジャケットイラストはケラの手によるものである。近年、飲み屋で泥酔状態の石野に遭遇し、「おばけカボチャに似ている」と笑いものにされ激怒した。 宇宙犬 名古屋のテクノDJ、中原忍らを中心に結成されたユニット。初期電気グルーヴと酷似したスタイルでオモロテクノラップを展開。電気本体としての活動が半ば休止に近い状況にあった『ORANGE』から『A』への間の時期にメジャーデビューし、数枚のCDを発表。当時のクラブ系雑誌のインタビューでは、電気グルーヴの名前が引き合いに出された時点で、ソロ活動に傾倒する当時のメンバー達に対する批判めいたコメントとノーリスペクトな態度を露にしていた。これに対して本人たちは、『メロン牧場』等の連載ではことあるごとに宇宙犬をネタにトークを展開。石野自ら「当時の電気は世の中にナメられていた」と語る状況を最も顕著に物語る事件のひとつ。 伊集院光 自称ギャグオペラ歌手であり元落語家のラジオパーソナリティ、タレント。電気とは共にニッポン放送でラジオ番組を持っていた頃の大親友であり最大の理解者の一人。伊集院は早くから電気のトークの手法やセンスを高く評価し、強い影響を受けている。『オールナイトニッポン』では土曜2部時代に天久聖一と共に「ポパイとマンガさんのザックザク情報局」なる嘘番組のパーソナリティとして登場したり(伊集院=ポパイ、天久=マンガさん)、火曜1部に昇格後は伊集院の担当していた『伊集院光のOh!デカナイト』が直前番組だったため度々番組に乱入、丸々2時間伊集院とのフリートークになってしまったこともある。『電気のANN』『Oh!デカナイト』は番組同士の交流も盛んで、いくつかの企画において数度対決している。まず、ニッポン放送で催された「スーパーファミスタ」対決では電気が惨敗。罰ゲームとしてサソリ、ムカデ、カマキリの腹などを串カツ状にしたゲテモノ料理を食べさせられるハメとなった(後日これが災いし、石野は発熱し体調を崩した)。続いて西武ライオンズ球場でリスナーと芸能人の混合チームによってオーロラビジョンとグラウンドを利用したファミスタ対決リターンマッチが開催された。なお、電気はこのイベントのライブアクトで尻を丸出しにした状態をオーロラビジョンに映し出し、出入り禁止になっている。そして『Oh!デカナイト』内の企画「ベースボールクイズin東京ドーム」の際には「蓮根頭ぶち殴り大会」を開催。電気チームと伊集院&久保こーじチームが対決したが、敗れた伊集院は罰ゲームとして陰毛を剃られ、それを筆に加工した「チン毛筆」を製作させられた。この「チン毛筆」は当時素人の女子高生だった乾貴美子が筆おろしを行っている。乾は伊集院、電気、そして浅草キッドがパーソナリティーを務めたそれぞれの番組のヘビーリスナーであり、電気のANN復活の折にはスタジオへ花束を送っていた。 近年ラジオ番組での共演を機に再び接近。2015年より放送されている「伊集院光のてれび」では伊集院光が石野卓球に直接依頼し、番組テーマソング「人間大統領」を書き下ろしてもらっている。 浅草キッド 玉袋筋太郎と水道橋博士からなるお笑いコンビ。電気とは『電気グルーヴのオールナイトニッポン』と『浅草キッドのオールナイトニッポン』『浅草キッドの土曜メキ突撃!ちんちん電車!』との間を通じて深い親交を得るようになる。その後は玉袋が紹介した風俗店へ電気の二人と繰り出し大暴れするような間柄に。『電気のANN』では2時間丸々この4人のフリートークになってしまうこともあった。また、電気の武道館単独初ライブの前座としてキッドが登場。電気とキッドのジョイントライブ「2階からギョー虫ぶらさげおじさん」も開催している。 ユースケ・サンタマリア かつてラテンロックバンド「BINGO BONGO」にヴォーカル&司会として参加し、電気と同じくキューン・ソニーレコード(当時)に籍を置くミュージシャンであった。その縁で当時は瀧との関係は続き、「ピエール瀧生誕30周年パーティ」ではユースケが司会を務めている。瀧をして「同じジャンルの人」とは、バンドを解散しソロデビュー後間もない彼の弁である。 大槻ケンヂ ミュージシャン、作家。現在は筋肉少女帯、特撮、空手バカボンのボーカリストとして活躍。「人生」が筋少と同じナゴムレコードに所属していた。人生のシングル「LOVE」では大槻やケラをゲストに迎えた。のちに「ボヨヨンロック」でメジャーデビューを果たす「まんが道」という大槻のバンドには瀧も参加していたことがある。インディーズ時代、瀧の静岡の実家へ遊びに行った際「高木ブー伝説」が高木の所属事務所(イザワオフィス)から訴えられたとの一報をケラと石野からの電話で知る。実際はガセの情報だったのだが、レコードは自主回収となり、ナゴム閉社への決定打のひとつとなってしまう。また、筋少メジャーデビュー後に大槻が『大槻ケンヂのオールナイトニッポン』を始める際、パートナーとしてまだインディーズで一般の知名度がほぼ皆無であった石野を起用したいという意向をディレクターに打診したが却下されたというエピソードもある。のちに電気のメジャーデビューにあわせ大槻のオールナイトの枠を借りた電気の特別番組が放送され、それを受ける形で数ヵ月後に電気のオールナイトが放送開始された。2007年には自身が原作の映画『グミ・チョコレート・パイン』に楽曲提供を受けている。 篠原ともえ 1995年に「篠原ともえ+石野卓球」名義のシングル「チャイム」でデビュー。それ以降から初期の活動にあたる三枚のシングルと一枚のアルバムのプロデュースを石野が担当。シングルのカップリングでは人生や電気のライヴのみで演奏されていた楽曲「ポールレモス(チチョリーナ)」(「忘れちゃうモン」に改題)をカバーしている。電気のアルバム『VOXXX』にはゲストボーカルとして参加した。当初「こいつなら恋愛関係に発展することはないだろう」と見込んで石野はプロデュースを引き受けたが、当時16歳だった彼女の肌が赤ちゃんの肌のようにスベスベしていたことを気に入り、顔面を舐めたり、自分の肛門付近の痔を撮影したデジタルカメラ画像を見せる、ラジオで共演した際には胸を触ったりするなどのセクハラまがいのスキンシップを行っていた。2010年の篠原ともえ15周年記念ライブには電気メンバーが出演、同年に発売された『スーパーモデル15thアニバーサリーedition』の付属DVDでは、石野が篠原と共に過去の秘蔵映像に合わせてオーディオコメンタリーを行っている。また、毎年元日にLIQUIDROOMで、瀧、スチャダラパーANI、篠原とで餅つき大会を行っている。この餅つきは今までファンの見学参加は無料だったが、2015年からは年越しライブ入場料金とは別に2000円を徴収するようになった。 李博士 韓国のポンチャックの第一人者。石野が敬愛する根本敬によって日本にその活動が伝えられ、その独自のスタイルに衝撃を受けた電気の推薦もありキューンレコードより日本デビュー。電気の日本武道館公演のオープニングアクトを務めた。電気の楽曲「N.O.」を含む日本のヒット曲メドレーをポンチャック化したCD『ポンチャック大百科』とそのリミックス盤『李博士vs電気グルーヴの「ひらけ!ポンチャック」』などをリリースした。韓国では2000年代に入り逆輸入のかたちでリミックス盤がテクノポンチャク(テックポン)として評価された。 トビーネイション テクノDJのTOBYによるプロジェクト。通称「テクノ外交官」として日本国内へのテクノの認知度アップにも尽力し、電気の海外進出を大きくサポートした人物でもある。自身も「虹」のドイツ盤でリミキサーとして参加した。現在は日本に拠点を移し、石野と並ぶ日本のテクノシーンのベテランDJとして活躍している。 田中秀幸 株式会社フレイムグラフィックス代表のアートディレクター。電気の作品のアートワークやPVの多くを手がけ、「グルーヴ地獄V」にも参加した。瀧とは「プリンストンガ」なるVJユニットを結成し、WIREなどで活躍している。NHKのアマチュアクリエイター育成番組『デジタル・スタジアム』には瀧をパートナーに出演している。 ユニコーン 1990年代初頭のバンドブーム以降の日本のメジャーシーンでブレイクしたバンドの中で、珍しく公に電気がリスペクトを表明した存在。特にライヴでのハイテンションなパフォーマンスが目立った阿部義晴を評価していた。そこから発展したのか、阿部のソロ作品発表の際は電気が作詞を担当している。また、ゲーム好きということで『オールナイトニッポン』では奥田民生との対決も実現。のちに「“KARATEKA”マガジン」にコメントも寄せている。1993年9月21日に電気の『オールナイト』の枠を借りて組まれた特番にてバンド解散が発表された。2009年2月15日にテレビ朝日で放送されたユニコーン再結成の記念番組では瀧が司会進行を担当した。 宇川直宏 MOM/N/DAD PRODUCTIONS, Mixrooffice, GODFATHER主宰。『電気グルーヴ×スチャダラパー/TWILIGHT』のミュージック・ビデオを監督。2006年には『フジロックフェスティバル』のグリーンステージで電気グルーヴのVJを担当した。またWIREでは5年間連続VJとして出演し、石野との競演も多い。また新宿リキッドルーム(現/恵比寿リキッドルーム)では、毎年恒例となった石野卓球の16時間以上に及ぶ死亡遊戯カウントダウンプレイに、共にVJとしてウルトラロングセットを6年連続完走し解脱し続けている。更には石野&川辺のユニットINK『C-46』のCDジャケット、ミュージッククリップも手掛けている。 田中フミヤ テクノミュージシャン、DJ。まだ無名の時期に大阪に訪れた石野と意気投合し、自身のレーベル「とれまレコード」を主宰。1993年頃より黎明期の日本のテクノシーンを石野と共に牽引した。石野にDJを薦めたのも彼。「とれま」の初期のリリースには石野の変名「DOVE LOVES DUB」の作品や石野とまりんのユニット「マンガヘッド」のリミックス曲などがあった。電気グルーヴの活動には一部の楽曲のプロデュースや「たんぽぽツアー」への参加(一部の公演では彼のDJプレイと電気のライヴの二本立イベント形式がとられた)などがある。また、石野以外ではWIREに毎年出演していた唯一のアクトである。 渡部高士 サウンドエンジニア、ミュージシャン。90年代半ばより、石野卓球『ベルリントラックス』、電気グルーヴ『VOXXX』を始め、多くの作品に関わる。電気のライヴ(ヨーロッパツアー、WIRE等)や石野ソロのライヴにもパートナーとして参加することもある。電気のリミックスなども担当している。 リリー・フランキー イラストレーター、小説家、ミュージシャン等、幅広く活動。瀧とは『ココリコミラクルタイプ』で長年共演し、石野とはインストアトークイベントとして『InKとリリーフランキーの楽しいおしゃべり』を開催した。 三平×2 電気のANNにおいて、「ツチノコ市場」、「北京面(ペキンヅラ)」等のペンネームで知られた出待ち兼ハガキ職人。現在は「ペイパービュウ」というコンビで西口プロレスのイベント出演などで活動中。 スチャダラパー BOSEが人生時代からのファンであり、電気グルーヴとほぼ同期。2005年には「電気グルーヴ×スチャダラパー」としてコラボレーションをし、その後も度々コラボしている。 ソウル・フラワー・ユニオン ナオト(ORANGE RANGE) BOOM BOOM SATELLITES 有吉弘行 遠藤薫 THE CRAZY SKB ダウンタウン オードリー ボケの春日俊彰が、「電気以外聴かない」と述べるほどの電気グルーヴの大ファンである。NHK・BS2にて放送された、「電気グルーヴ20周年 ライヴ&アンソロジー」にも、オードリーの二人が出演し、VTRコメントを寄せている。 牛尾憲輔 agraph、LAMAのメンバーで、(故)KAGAMIの後任ライブ・サポートメンバー。プログラマー、サウンドエンジニア、プロデューサー、Pro Toolsオペレーター、またステージ演出に関するアイディア提供も行うなど、昨今の電気の活動にとって非常に重要な存在となっている。石野とは大学2年次に「STERNE(石野がホストを務めるパーティ)」で出会いを果たし、Pro Toolsオペレーターでミュージシャン志望であること、音楽業界へ入りたいとの想いを伝えたところ、石野から「裏で話そう」と誘われ10分ほど対話。その場で「アルバムを一緒に作ろう」との言葉をかけられ、サポートメンバーとして迎えられる。以降、電気グルーヴや石野卓球、RYUKYUDISKO、DISCO TWINSらをサポート。
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