過去在籍したメンバー
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「ジャーニー (バンド)」の記事における「過去在籍したメンバー」の解説
スティーヴ・ペリー(Steve Perry) - リードボーカル(1977年 - 1986年、1996年 - 1998年)歴代ボーカル担当の中でも、ひときわ存在感あふれるボーカリストであったことは、バンドメンバーの誰もが認めている。その常に安定した音程と極めて幅の広い声域は、スタジアム・ロック・バンドが大勢の観衆に歌声を伝えるのに、ぴったりだった。在籍中は作詞・作曲のほとんどに参加し、ジャーニーをヒット連発の黄金時代へと導いた。在籍約10年の後、1986年に発表したアルバム『レイズド・オン・レイディオ』のライヴツアーの途中で、ペリーは心労を理由に突然ジャーニーを脱退する。母子家庭に育ったペリーは母と深い絆で結ばれており、その母を失ったことが非常に大きなショックだったという。それからまた10年、1996年にリリースした再結成アルバム『トライアル・バイ・ファイアー』でペリーは一時ジャーニーに復帰する。このアルバムは大成功となり、カムバックツアーも組まれて、再結成ジャーニーの前途は洋々に見えたが、ペリーはほどなく健康上の理由からツアーの中断と延期を申し出る。ペリーはオフ中ハワイでハイキングをしていた際に股関節を負傷、これが歩くこともままならないほどに悪化しており、検査の結果彼は退行性骨関節疾患を患っていることが判明。ペリーは人工股関節置換手術(en)の必要に迫られたが、なかなかその決断ができず、かといってその体ではツアーを再開してもステージに立つことすらおぼつかないというジレンマのなかで時間だけが浪費されていった。一方ジャーニーの他のメンバーたちは、カムバックツアーがいよいよ調子に乗り始めていた矢先にバンドの「顔」が引き籠ってしまうという事態に業を煮やしていた。ツアーの度重なる延期を1年半にもわたって訴え続けたペリーに対し、結局他のメンバーたちは、早急に手術を受けて体を直すか、さもなければ代替ボーカルを探すことに同意するか、という最後通牒同然の二者択一を迫った。「俺は今後の人生を左右しかねない重大な健康問題に直面して苦悩しているというのに、他のメンバーたちにとってはそんなことよりもバンドの興行収入を確保することを優先するのか」というペリーの怒りと落胆が、彼にジャーニーとの決別を決意させる決定的な理由になった。そして、脱退後は実に7年間の長きにわたって公の場には一切姿を見せず、ほとんど失踪に近い状態にあったことからも、当時の彼の失望と挫折がいかに深い心の傷となったのかが窺える。なおペリーはジャーニーを脱退した後になってやっと人工股関節置換手術に臨んだ。手術は成功し、こちらの傷の方は順調に癒え、ほどなく何の障害もなく歩行やジョギングができるまでに回復している。2015年現在、表立った音楽活動はほとんど行っておらず、時折ロサンゼルス近郊で小さなライブを行っている程度で、自身のアルバムのリリースの予定もまったく無い状況にあったが、2018年10月に約25年振りとなるソロアルバム『トレイシズ』をリリースした。 ロス・ヴァロリー(Ross Lamont Valor)) - ベース、バッキングボーカル(1973年 - 1984年、1996年 - 2020年):(U、E)1949年2月2日サンフランシスコ生まれ。ショーンの旧友で、ショーンと共に結成時のメンバー。16歳でのちのサイケデリック・バンド"フラミアス・バンダースナッチ"の前身、"ミスティークス(Mystiques)"を立ち上げ、ほかにスティーヴ・ミラー・バンドにも在籍した。彼はマルチ・プレイヤーとして知られ、歌、ピアノ、ギター、ドラム、そしてクラリネットが演奏できる。結成以来ベーシストとしてのプレイおよびリズムギター、バックボーカルに専念していたが、2005年発表のアルバム『ジェネレーションズ』では初のリード・ヴォーカル曲「ゴーン・クレイジー」を披露した。トッド・ラングレンのアルバム『セカンド・ウインド』のレコーディングにも参加している。 変顔が大好きで、在籍時には演奏中にしばしばおどけた表情をしていた。 ロス・ヴァロリー公式ウェブサイト(英語) スティーヴ・スミス (Steve Smith) - ドラム、パーカッション(1979年 - 1984年、1996年 - 1999年、2015年 - 2020年):(E)「鉄壁の職人ドラマー」(当時「Steve Machine-gun Smith」とライブではよく紹介されていた)と呼ばれ、『エヴォリューション』以降のバンドの絶頂期に活躍。再結成時『トライアル・バイ・ファイアー』のジャケット裏面写真でメンバー中唯一スキンヘッドにしていたことでも話題を浴びた(黄金期のジャーニーで活動していた頃はロング・ヘアであった)。他のバンドでの活動履歴も多い。ジャーニー脱退前から活動を始めていたヴァイタル・インフォメーションの活動、ジェフ・バーリンのバンド、マイク・スターンのバンドなどにも参加。他に多くのジャズ・セッションにもクレジットされている。マライア・キャリーやジョシュ・グローバンなど、ポップス・シンガーの曲にもセッション・ミュージシャンとして数多く参加している。2015年11月26日に、バンド及びニール・ショーン、そしてスミス本人のFacebook及びTwitterで、2016年からジャーニーのツアーに参加することが公式に発表された。これがディーン・カストロノヴォの解雇を受けての正式な復帰か、一時的なツアーへの参加に留まるかは発表時点では明らかになっていない。 エインズレー・ダンバー(Aynsley Dumbar) - ドラム、パーカッション(1975年 - 1979年)ジョン・メイオール、エインズレー・ダンバー・リタリエイション、ジェフ・ベック・グループ、フランク・ザッパ&マザーズ・オブ・インヴェンション、さらにはデヴィッド・ボウイ&スパイダー・フロム・マーズなどの多種多様な有名バンドに在籍した、メンバー中でも最も豊富なキャリアを持つドラマー。ジャーニー脱退とほぼ同時にジェファーソン・スターシップに移籍し、同グループを一時ハードロック化する戦略に貢献。自身でもエインズレー・ダンバーズ・リテリエーションやエインズレー・ダンバーズ・ブルー・ホエールといったバンドを組織している。余談だが、ブルー・ホエール時代に存続の危機にあったキング・クリムゾンのロバート・フリップを勧誘したら逆に「君がクリムゾンに入ってくれよ」と返されてしまったという逸話もある。また元ディープ・パープルのデヴィッド・カヴァデールのホワイトスネイク最大のヒットアルバムとなる『Whitesnake』では、レコーディングのみとは言え往年のパワフルなドラムを披露している。近年ではエアロスミスのトリビュート・アルバムに参加したり、2000年からは復活したUFOに参加。2枚のアルバムでドラムを担当した。ジェファーソン時代のヴォーカリストミッキー・トーマスの次期アルバムにジェイク・E・リーらと参加している。 グレッグ・ローリー(Greg Rolie) - キーボード、ハーモニカ、ボーカル(1973年 - 1981年)ショーンと同じくサンタナ出身のメンバー。サンタナからはショーンの一足先に脱退してレストランを経営していたが、ジャーニー結成にあたって再度合流した第1期メンバーの中核。サンタナ在籍時のパートとほぼ同様、ジャーニーでもキーボードに加えてロック・オルガンと、そして一部の曲ではリード・ヴォーカルも担当していた。スティーヴ・ペリー加入後は、各アルバムで1〜2曲ずつペリーとのデュエット形式でヴォーカルを担当していた。なお、ジャーニー脱退後にロス・ヴァロリーとスティーヴ・スミスと組み、ザ・ストームというバンドを結成したこともある。2011年頃から、Ringo Starr & His all starr bandにも参加。 ロバート・フライシュマン(Robert Fleischman) - リードボーカル(1977年)今日知られるヒット曲のひとつ「ホイール・イン・ザ・スカイ」で作曲に参加。上述の通り初代専任ボーカリストとして約3か月ほど公演したが、実質的にはゲスト・ボーカリストという見方もある。86年には元キッスのギタリストヴィニー・ヴィンセントのバンドVinnie Vincent Invasionに参加。ハイトーンボーカルを聴かせている。 ジョージ・ティックナー(George Tickner) - リズムギター(1973年 - 1975年)ファーストアルバムとそのツアーに参加後、セカンドアルバム制作前に脱退(疲労、そして進学のためとの説がある)。なお、サード・アルバム『ネクスト』では作曲者として参加。 プレイリー・プリンス(Prarie Prince) - ドラム、パーカッション(1973年 - 1974年)結成時のメンバーだが、レコード・デビュー以前に脱退している『レイズド・オン・レイディオ』にジャケット画(カバー・イラスト)担当として参加。ジェファーソン・スターシップの再結成にも参加、トッド・ラングレンのレコーディング、ツアーにも参加している。 スティーヴ・オージェリー(Steve Augeri) - リードボーカル(1998年 - 2006年)1959年1月30日、ニューヨーク市ブルックリン生まれ。元タイケット、元トール・ストーリーズ。メンバーによるオーディションで選ばれた。ジャーニー参加直前は一時音楽活動を停止し、ニューヨークのGAPの店員として働いていたという。前任のスティーヴ・ペリーに似ているという評判の声質で黄金時代のファンも取り込みバンドの長寿化を促す一翼を担ったが、上述の通り2006年のツアー中に喉の感染症を患ったため離脱し、そのまま脱退した。その後はしばらく療養に専念し、トール・ストーリーズを再結成する等音楽活動を再開している。 ジェフ・スコット・ソート(Jeff Scot Soto) - リードボーカル(2006年 - 2007年)ジャーニーの2006年のデフ・レパードとの合同ツアー途中に、喉の感染症を治療するため一時バンドを離れたスティーヴ・オージェリーの代理として参加。同年12月より正式にバンド加入。イングウェイ・マルムスティーンズ・ライジング・フォースやタリスマンで活躍。ニール・ショーンともソウル・サーカスで共演歴があり、長年のジャーニー・ファンであると公言しているほか、ソロアルバムでジャーニーのヒット曲「Send Her My Love」をカヴァーしたこともある。 しかし、他のメンバーとの確執が原因で、レコーディングには参加しないまま事実上の解雇となった。 ランディ・ジャクソン(Randy Jackson) - ベース(2020年 - 2022年)『Raised On Radio〜時を駆けて』収録曲の内8曲とツアーでプレイした経験を持ち、上述のトラブルで解雇されたロスの後任として正規メンバーに抜擢されている。プロデューサーとしても活躍するサンフランシスコ・ベイエリアの音楽シーンの重鎮。後にUSAソニーコロムビアレコードのA&Rとなり、現在[いつ?]は米フォックス・チャンネルの人気番組で、ミュージシャン発掘を目的とした番組である『アメリカン・アイドル』の審査員としても有名である。元サム&デイヴのサム・ムーアの2006年のアルバムのプロデュースも務めた。 2021年の夏以降のツアーには腰の手術のため、不参加であり、2022年には脱退扱いとなっている。 ナラダ・マイケル・ウォルデン(Narada Michael Walden) - ドラム、パーカッション(2020年 - 2022年)上述のトラブルで解雇されたスティーヴの後任として加入。ドラマーと並行して、プロデューサーとしても才能を発揮し、ブラックミュージック界の重鎮として扱われている。 2022年には脱退扱いとなっており、理由はケイン曰く「アルバムで素晴らしい仕事をしたナラダを試してみようと思ったんだけど、なかなかうまくいかなったんだ」との事。
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過去在籍したメンバー
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「THE MAD CAPSULE MARKETS」の記事における「過去在籍したメンバー」の解説
室姫深(むろひめしん)ギター 初代ギタリスト。前身バンド(BERRIE)からのMADオリジナルメンバー。結成当初はリーダーで、メインソングライターでもあった。1991年脱退。 Shin、SCENEと名乗ったこともある。脱退後はDIE IN CRIES→BLOODY IMITATION SOCIETY→BUG→室姫深ソロ→SPIN→RATS(サポート)→Creature Creature(サポート)・THE SPINを経て、現在はSUSIE LOVE。MADには「MINORU KOJIMA(ミノル コジマ)」として2001年のアルバムに参加、2005年のライブではサポートメンバーを務めるなど脱退後も断続的に関わっている。TAKESHIのソロプロジェクトであるAA=にもサポートとして参加している。 本名:児島実(こじま みのる) 生年月日:1968年10月11日 出身地:神奈川県横浜市 身長:173cm 血液型:A型 ISHIG∀KI(イシガキ)ギター 2代目ギタリスト。1996年脱退。石垣愛(いしがき あい)、AI ISHIGAKIと名乗ることもある。また、本人が「本名:石垣愛」と記載することもあるが、本名は違うため事実上非公開である。 脱退後は、布袋寅泰・吉川晃司・大黒摩季・川村カオリ・デーモン小暮閣下・ends・広石武彦・倖田來未等のライブで、サポートギタリストとして活動する傍ら、2013年からはバンド、Derailersのメンバーとしても活動している。 生年月日:1970年12月25日 出身地:神奈川県横浜市 身長:185cm 血液型:B型 亜気(アキ)ドラム BERRIE時代のドラマー。1990年脱退。 現在はG.L.Gというバンドで活動中。 本名:瀬戸昭人(せと あきひと) 出身地:神奈川県横浜市 血液型:B型
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過去在籍したメンバー
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「電気グルーヴ」の記事における「過去在籍したメンバー」の解説
砂原良徳 CMJKの後継プログラマーとして参加。愛称は「まりん」。電気グルーヴのオールナイトニッポン内でも一貫してまりんと呼ばれていたが、砂原はオールナイトニッポンの二部時代にパーソナリティとしてほとんど姿を現さなかった。作風がテクノ化すると、キーボーディストとしての露出が多くなった。 高橋嵐 プログラマーとして参加。 若王子耳夫(わかぷりんす みみお) 石野や瀧と同じく、前身バンド「人生」から電気グルーヴに参加したメンバー。ギターとストリングスを担当。ベースも弾く。かつて「人生」ではボーカルも担当しており、フロントメンバーのひとりであった。 代表曲「耳夫サンバ」は「人生」やナゴムレコードのファンだった初期のスチャダラパーもサンプリングしていた。瀧とは「悲しい」という別ユニットも結成し、大槻ケンヂ率いる「まんが道」のステージにも参加したことがある。電気結成から間もない頃に宝島社から発売されていたビデオマガジン『VOS』の連載企画「電気グルーヴ的こころ」には石野、瀧、耳夫の元「人生」の三人で出演していた。電気の初代ギタリストとしては吉沢が(一時的とはいえ)先に在籍していた経歴があるため、この「電気グルーヴ的こころ」では二代目ギタリストとして紹介されている。高橋と共にアルバム『662 BPM BY DG』の発表と同時期に電気を脱退した後は、ナゴム時代の同僚バンド「死ね死ね団」に加入しての活動を経て、さらに「Badge714」に参加する。330 mimio名義で、CUBISMO GRAFICO FIVEにギタリストとして在籍していたが、2009年8月23日のライヴを最後に脱退。 CMJK(1967年8月21日 - ) 宮城県仙台市出身。テクノバンド「Cutemen」での活動を一旦終了し、耳夫と高橋が脱退した後の1990年に電気グルーヴに加入。電子楽器のプログラミングと作曲を担当した。本名は北川潤(きたがわ じゅん)。 CMJKの名前は電気グルーヴ加入後につけられたものである。石野、瀧と同じく芸名で活動することを要求されたことから、しぶしぶ考案し名乗るに到ったという。そこで尊敬するDJ「カット・マスター・スウィフト」に肖り「カット・マスター・ジュン・キタガワ」、略してCMJKとした。現在もこの芸名は使用され続けており、今となっては本名よりもこちらを好むという。これがもし考え付かなかったら、メンバーから「ゲンゴロウマル」という芸名がつけられるところであった。 1stアルバム『FLASH PAPA』発表後は電気グルーヴを脱退。その理由に関しては、当時マスコミによってメンバーとの不仲説などいくつかの憶測が囁かれていたが、実際のところは人気グループの一員として楽に活動し、定期的に印税を受け取り、既成のロックバンド的プロセスを踏んでいくことに対し疑問を抱いた結果、いちダンスミュージック・プログラマーとして折り合いをつけた末の決断だったとファンクラブの会報では語っている(マスコミ向けに行った脱退会見では、全裸で会見に臨んだ石野と瀧をバックに「もうこんな奴等とはやってられません」とコメントしている)。後に「ザ・インタビューズ」上では、『FLASH PAPA』レコーディングの為マンチェスターに赴いた際、隣のスタジオで作業をしていたCandy Flip(英語版)との出会いが契機であったと語っている。 このあとピコリンとCutemenとしての活動を再開し、さらに元M-Ageの梶原裕司と共にCONFUSIONを結成。それと同時にゴッサムシティ、CT.SCAN、ALEX, incの変名でも活動。石野や砂原と共に1990年代のジャパニーズテクノシーンの一翼を担う。『キーボードスペシャル』誌での連載「CMJKのGROOVE CONTROL(グルコン)」は、砂原良徳による「まりんのキーボードスペシャル」と並んで、若手クリエイターに支持された。 バンド活動終了後は膨大な数のアーティストのプロデュースや作曲、アレンジを続けている。その主な顔ぶれは浜崎あゆみ、佐野元春、少年隊、PENICILLIN、V6、ユースケ・サンタマリア、猿岩石、キャイ〜ン、篠原ともえ、KICK THE CAN CREW、東京パフォーマンスドール、FLIP-FLAP、片瀬那奈、THC!!、OVA『マクロスプラス』(サウンドトラック参加)など多数。2000年には、テレビドラマ『バーチャルガール』(日本テレビ)のオープニングテーマをはじめとするサントラCDの作成も手がけた。自身のクラブイベント「BOO」でもDJとして活躍している。バンドを脱退したものの現在もメンバーとの付き合いは続いており、電気グルーヴ10周年企画アルバム『The Last Supper』にも参加した。 近年では不定期ながらCMJK名義でソロライヴも行なっており、Cutemenのピコリンをゲストヴォーカリストに迎えてライヴパフォーマンスを展開している。 後藤 - ドラムス 石野いわく「彼、まだ辞めるって言っていないから、まだメンバー。電気グルーヴは、ピエール、卓球、後藤の3人」と話す(2018年3月1日放送、TBSラジオ『たまむすび』にて)。「最初の打ち合わせだけ来た幻のメンバー。辞めるって言ってないから、彼もまだ電気グルーヴのメンバー」と、石野はラジオで語っている。ただし、公式サイトのプロフィール欄に記載されているのは石野卓球、ピエール瀧の2人のみである。 ※この他にもリハーサルまで参加した吉沢、人生(ZIN-SÄY!)の結成メンバーで東京初ライヴのみ参加したK太など一時的に在籍したメンバーも複数存在する。なおサポートメンバーであるDJ TASAKA、KAGAMI、渡部高士、agraphに関しては#電気グルーヴと関わりの深い人物の項目で後述する。
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過去在籍したメンバー
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「CRAYONS」の記事における「過去在籍したメンバー」の解説
恵比原愛莉(えびはらあいり)ノニエル 2014年3月〜ノニエルズ2016年10月〜CRAYONS<クレヨンズ>2020年12月 中村千紗(なかむらちさ)ノニエル 2015年8月〜ノニエルズ2016年10月〜CRAYONS<クレヨンズ>2020年12月 小林千耶美(こばやしちやみ)chibi-N☆<チビノニ>2014年8月〜ノニエルズ2016年10月〜CRAYONS<クレヨンズ>〜2020年12月 奥野未悠(おくのみゆう)2019年8月〜2020年12月 有夢りあ(ありむりあ)ノニエル2015年8月〜ノニエルズ2016年10月〜CRAYONS<クレヨンズ>2017年12月 こまりas駒形梨乃(こまりあずこまがたりの)ノニエルズ2015年5月〜2017年12月 奥野杏莉(おくの あんり)chibi-N☆<チビノニ>2014年8月〜ノニエルズ2016年10月〜CRAYONS<クレヨンズ>〜2019年8月11日卒業(前記の奥野未悠の姉)。
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