初期の活動(1973年 - 1975年)
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「AC/DC」の記事における「初期の活動(1973年 - 1975年)」の解説
1973年11月、マルコムとアンガスはベースにラリー・ヴァン・クリート、ヴォーカルにデイヴ・エヴァンス、ドラムにコリン・バージェスを迎えAC/DCを結成、初のライヴは1973年12月31日、シドニーのChequersというクラブで行った。程なくしてバンドは、EMIがオーストラリアとニュージーランドで配給を行っていたローカルレーベル「Albert Records」と契約を結ぶ。最初期のラインナップは安定しておらず、特にドラムとベースは頻繁に入れ替わっており、コリン・バージェスにいたっては数週間しか在籍しなかった。この状態は約1年程続いたようである。またアンガス兄弟は、ゲイリー・グリッターの様なグラムロッカーからの影響が強かったデイヴ・エヴァンスはバンドに合っていないと結成直後から考えており、バンドのマネージャーだった Dennis Laughlinが彼の代わりにステージに上がるという事もあった(この事がヴォーカリスト交代劇の伏線となっており、デイヴ・エヴァンスはDennis Laughlinを酷く恨んでいたという)。 バンドのトレードマークともいえる、アンガスのスクールボーイスタイルの衣装はこの頃から既に試されており、アンガス自身の中学校の制服とシドニーにあるアッシュフィールド高校の制服を使用していた(このスタイルは彼の姉であるマーガレット・ヤングの提案によるものである)。ただ当時はこの衣装だけでなく、ゴリラや怪傑ゾロ、スーパー・アングなるスーパーマンのパロディーの様な物まで衣装にしていた。 この頃、バンド機材車のドライバーをしていたのがボン・スコットだった。 デイヴ・エヴァンスをヴォーカルに据えたAC/DCはシングル盤「Can I Sit Next to You Girl / Rocking In The Parlour」をリリースし国内をツアー行ったがエヴァンスはツアー中の軋轢が高じてマネージャーと殴り合う事態に至り、バンドからの離脱が避けられなくなってしまった。 1974年9月、バンドはデイヴ・エヴァンスに代わり、オーストラリアでいくつかのバンドで経験のあるボン・スコットをヴォーカリストとして迎え、翌1975年1月に、たった10日間でレコーディングした1stアルバム『ハイ・ヴォルテージ(High Voltage)』をリリース(当初はオーストラリアのみのリリースだった)した。このアルバムからは「It's a Long Way to the Top (If You Wanna Rock 'n' Roll)」がシングルカットされ、B面には2ndアルバムのタイトルトラック「T.N.T.」が収録されている。このころからラインナップは安定し、アンガス兄弟、ボン、フィル・ラッド(ドラム)、マーク・エヴァンス(ベース)の編成が暫く続くこととなる。同年12月には2ndアルバム『T.N.T.』をリリース。 また1974年と1977年に、オーストラリアで全国放送されていた音楽番組「Molly Meldrum's Countdown」に出演しライヴ演奏を行っており、この頃には名実共にオーストラリアで最も成功したバンドとなっている。これ以降、バンドはテレビ番組でのライヴ演奏を行っていない。
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初期の活動(1956年 - 1968年)
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「多田智満子」の記事における「初期の活動(1956年 - 1968年)」の解説
1956年に第1詩集『花火』を書肆ユリイカから出版。悲哀と諧謔を秘めながら、あくまで清新な作品に、一部で注目を集めた。同年秋に結婚(夫君はのち会社社長)し、神戸・六甲へ移り住み、終生その地で暮らすこととなる。関西では神谷美恵子のフランス語私塾の有力メンバーであり、1963年に創刊された神戸の同人誌『たうろす』に参加した(この同人誌には一時期、池内紀も参加している)。この頃、医師立会いによる向精神薬LSDの服用実験を受け、その幻覚体験を基に詩篇「薔薇宇宙」を制作。自らの宇宙観を形象化する、形而上的、幻想的な作風を確立した。1964年にこの詩を含む同名詩集を上梓。 同年にマルグリット・ユルスナールの歴史小説『ハドリアヌス帝の回想』を翻訳出版。夫が結婚前にニューヨーク滞在時の土産で渡されたのが翻訳のきっかけだったが、当初は大学時代の恩師白井浩司との共訳で出版される予定だった。だが多田の訳稿を読んだ白井は「一字も直す必要がないので、あなたの名前で出しなさい」と多田単独訳を薦めた。実際、この翻訳本の反響は大きく、多田の硬質にして華麗な訳文を読み三島由紀夫は「多田智満子さんって……あれは、ほんとは男なんだろ」と信じて疑わず、塚本邦雄は「非の打ち所がない」と絶賛した。 3年後の1967年『讃』、『遠征』などを収めたサン=ジョン・ペルス詩集の翻訳を出版するが、精神医学転向直後にこの訳詩集を手にした中井久夫は、「むいたばかりの果実のように汚れがなくて、滴るばかりにみずみずしかった」と述懐している。翌1968年に、野中ユリの装丁による第4詩集『鏡の町あるいは眼の森』を上梓した。
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初期の活動 (2004‐2005)
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「カスケーダ」の記事における「初期の活動 (2004‐2005)」の解説
ナタリー・ホーラーが17歳の時、彼女は様々なDJのスタジオワークをやっていた。最終的に、彼女はヤノウ (ヤン・ペイフェル)とDJ マニアンに出会うこととなった。もともと、グループはカスケード (Cascade)の名で曲をリリースしていたが、すでに法的措置を脅かすような似た名前である別のアーティストであるカスケード (Kaskade)が存在しており、グループの名をカスケーダ (Cascada)に変更している。カスケーダは同時にSiriaとAkira名義の楽曲をリリースした、しかし、カスケーダが成功したためにこれらプロジェクトは自然と終わっている。ドイツでAndorfine Recordsのもと、デビューおよびシングルである「Miracle」と「Bad Boy」は製作された。それと並行して、アメリカのダンス系レコード会社ロビンス・エンターテイメントの注意を引いた。契約の交渉などをへて、2004年にシングル曲「Miracle」はリリースされた。しかし、それは注目されることは無かったが、やがて、カスケーダは「Everytime We Touch」を提供された。
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