改易
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概論
江戸時代中期の国学者谷川士清が表した『和訓栞』によれば、改易とは戸籍を取り上げることを意味していて(古代中国の律法より生まれた)賊盗律の移郷から発展したものであるとされ、平安時代の『続日本後紀』では改易は別の意味で使われており、後年出来た言葉だという[5]。
改易は「職を改め易(か)える」の意であり、もとは律令制度において現職者の任を解いて新任者を補任するという職務の交代・改補(かいふ)を意味していた[3][6]。職務の交代は概ね不利益を伴うため、中世以降はこの言葉に懲罰的な意味合いが含まれるようになって「所領や所職(しょしき)を没収する」という一種の刑罰をさしたが[7]、原義の職務の交代(変更)の意味も残っていたので、鎌倉時代から室町時代においては守護や地頭職の変更と所領の没収の両方が改易といわれた[注釈 1]。財産を没収する闕所は、改易と似た刑罰だが、鎌倉幕府から室町幕府の初期には御家人に対する刑罰だったが、江戸時代(近世)では士分以外のものに対する刑罰のことをさした[8][9]。
近代以降は大名の領地没収や処罰的な転封を改易と呼ぶことが多いが、同時代史料において大名に対して改易の語が用いられることは極めて稀であり、「領地召上」などの語が使用された[1][10]。近世初期には大名を中心に「改易」の語が用いられ、中期以降は旗本・御家人が中心となって使用される傾向にある[10]。藤田恒春は本来の改易は減転封等とは異なる概念であり、峻別する必要があるのではないかとしている[10]。
幕臣の改易
江戸時代の法制において「改易」の語が初めて用いられるのは元和8年(1622年)2月15日の「付番士当直勤務令」である[11]。『諸例類纂』においては「改易」は「改易者住居御構等ハ無之、御暇被下、平民二相成迄、此名目者當主井嫡子二限り候事」とあり、士分の所領・家禄・屋敷の没収の意味とされた[12]。士籍の剥奪は長期だが、一定期間で許されることも多かった[12]。これに対して遠島や流刑となった場合には許されることは稀であった[12]。『諸例類纂』においては改易の対象は当主と嫡子に限定適用されるとされているが[5]、実際には庶子に対しても改易が行われることは多かった[13]。改易は蟄居より重く、追放刑・遠島・切腹より軽い[14][15]。
『断家譜』にある75件の改易事例のうち、最も多いのは不行跡であり、続いて連座や偽証などがある[16]。また75件の事例のうち、10件についてはその後赦免されている[17]。浪江健雄は武士として品性・廉恥に欠けたものや怠惰なものについて改易刑が適用される傾向にあるとしている[17]。
一 改易は、住所御構等は無レ構 御暇被レ下 平民に相成まで、此名目は当主竝に嫡子に限り候事 — 『大百科事典 第2巻 (ウツーカク)』[5]。
また『御定書百箇条』には運用について書かれており、その末尾に以下のようにある。
「大小渡」は、武士たる身分を剥奪するの意味で、大小の刀を取り上げて抵抗できないようにした上で、上使は被改易者と一緒に帰宅して、当人の口から家族に立ち退きを伝えさせて家屋敷を没収するが、(家族が)家財を持ち出すことは構わないとされていた。法文は簡素であるが、施行によって生ずる結果はすこぶる重大だった[5]。堪忍料を与えられることが多い大名とは違い、一般の武士は、生活の糧を失い、住宅まで失うので、親族のもとに身を寄せるしかなく、突然貧窮した苦しい生活を強いられることになった。
大名の改易
大名の所領を全て収公することを除封ともいい、所領(知行)の一部を削減することは減封または減知という。元の所領は没収するが別の小さな所領を与えて移動(転封)を命じる場合もある。改易された大名は、まず預という刑罰で親族宅に謹慎か配流(流罪)[注釈 2]が命じられることが多く、その後に吟味されて、罪の内容によって、斬首、切腹、蟄居、閉門、逼塞、差控など、他の刑罰が追加で下され、最終的な処分が決定した。
幕府の公式文書で「改易」の語が用いられることはほとんどなく、『廃絶録』には除封された大名のうち「改易」とされた大名は15家にとどまる[19]。このうち11家は慶長から寛永年間にかけての大名であり、中期以降は植村恒朝・本多忠央・金森頼錦・小堀政方の4家である[19]。福島正則の川中島への減転封は公式文書を含む同時代史料には「改易」の語はないが、後世の家譜類には「改易」という言葉が用いられる[20]。藤田恒春は大名の「改易」は大名自身の領地が没収され、嫡子が改易となることが本来の大名改易であるとしている[10]。
大名改易の歴史
関ヶ原の役の戦後処理によって(藤野保の『幕藩体制下の研究』によれば)徳川氏によって87[注釈 3]の大名家が改易された。その石高の合計は440万石余で、このほか大規模に減封された大名3名の石高が207万石余もあったため、没収された総石高は622万石余に及んだ[21]。石田三成、小西行長、宇喜多秀家、長宗我部盛親を始めとして、いわゆる西軍に属して、徳川氏に対する軍事的敵対行動によって処分されたものである[21]。さらに三成、行長らは斬首、増田長盛は切腹、秀家は遠流、盛親は蟄居と、各々刑罰が加算された。
大坂の役で豊臣家が滅ぼされて以後、公儀に対する戦争が無くなると、敗者に対する処分としての改易とは別に、江戸幕府が大名統制の基本政策として行った改易が現れ、徳川家康・秀忠・家光の初期3代の将軍によって強行された[14]。関ヶ原の処分の後から慶安4年(1651年)※までの改易は、約130家で、総石高は1,200万石もの多きに及んだ[21]。この時期には、松平忠輝・松平忠直・徳川忠長といった大身の一門・親藩に対する改易が目立つのであるが、数としては福島氏や加藤氏のような外様大名の改易が多かった[21]。関ヶ原後の移転によりほとんどの外様大名は遠隔地に転封されていたが、幕府はこれらをさらに改易や減封に追いやって、没収で生じた空白地を天領(幕府直轄領)にしたり親藩・譜代大名を新たに配置したりして、将軍権力の絶対優位を確立しようとしたからである[14][7]。
改易の理由としては、世嗣断絶(無嗣断絶)と幕法違反によるものが多かった[14]。幕府が、初め末期養子[注釈 4]を禁じて許さなかったことと、外様大名に厳しく目を光らせていたからである。武家諸法度制定(1615、1635年)前後の幕法違反については、福島正則[注釈 5]や里見忠義が城の無断修築を咎められて改易された件がよく知られる。3代将軍家光の時代には、旧豊臣系の加藤氏・堀尾氏・蒲生氏・京極氏をはじめとする外様大名26家と一門・譜代大名17家が改易された[24]。初期3代の恐怖の処置により、幕府直轄領は拡大して譜代大名の適正な配置が現出したので、譜代大名は絶えず移封の下命を心配しなければならなかったものの、外様大名は骨抜きにされ、幕府に絶対服従の態度をとるようになったのである[25]。
しかし4代将軍家綱の時代に入り、幕府の政治方針に大きな変化が現れた。すなわち、前3代の強圧的な大名整理がすでに十分に奏功して幕府に敵対しようとする大名勢力は一掃されたので、これ以上諸大名を圧迫する恐怖政策は、平和維持を目的とする文治政治の展開には却って弊害があると考えるに至ったのである[26]。改易による藩の取潰しは必然的に多くの浪人を発生させるが、 慶安4年の由比正雪による慶安の変(由比正雪の乱)と翌年の別木庄左衛門(戸次庄左衛門)の承応の変は、生活に追い詰められた浪人が幕府の治安政策の上で大きな障害となり得ることを明らかにした。すでに骨抜きにされ、幕府に対する敵対意識をほとんど失っている大名の戦国的な行動を心配するよりも、むしろ彼らを改易して浪人を作り出す方がより重大な危険を孕んでいたのである。幕府としては治安問題の関心が大名対策から浪人対策へと移っていたので、もはやこれ以上大名への圧迫を続けることは全く得策ではなかった[26]。幕府はこれまでの大名敵視政策を改め、その先達として末期養子の禁令を緩めて、50歳以下の者に限り末期養子を取ることを認め、後年には17歳以上の者とさらに緩和した[22]。元禄5年(1692年)、郡上藩藩主の遠藤常久が死去して、本来であれば無嗣断絶で改易となるところであったが、家綱の側室(瑞春院)の親族(後の遠藤胤親)が家督を継ぐことで改易を免れた例がある[27]。
5代将軍綱吉の時代になると改易は再び増加したが[21]、対象は一門や譜代大名に移っており、一門・親藩の政治干渉を防ぎ、政治安定の実現に主眼があって[28]、綱吉の時代に改易された45件のうち28件が一門・譜代の大名であった[21]。6代将軍家宣以降になると改易は極端に減少し、8代将軍吉宗時代においては「最早改易策による大名取潰しはおこなわれない段階に」達して[21]、無嗣断絶でも末期養子と減知に留める寛大な処置が取られることが多くなった。また、初期の大久保忠隣や本多正純、中期以後の松平乗邑、田沼意次、林忠英、水野忠邦のように、幕府内部の権力闘争に敗れたかそれに連座して、改易された幕臣の大名や旗本も多くいたが、後期の改易は藩での失政や幕府政治の権力争いに関係するものばかりだった。
一方で、幕府が大名を敵視しなくなっても、大名本人が問題となって改易となることがあった。全体を通じて、大名の不行跡や刃傷沙汰、乱心(発狂)といった、広い意味での公序良俗・秩序違反の咎で改易とされた事例が思いのほか多く、赤穂事件の浅野長矩などのように大名同士が事件を起こした張本人であるという事例も少なくなかった。喧嘩両成敗は幕府の法ではなかったにもかかわらず、吉良義央のような幾つかの例外を除いて、刃傷沙汰では被害者も加害者と同様に改易の対象として罰せられた。御家騒動などで家中が揉めて幕府に裁定を委ねる事例があるが、どちらか一方の意見が汲み取られることはむしろ稀で、両派に罰が下されることが通常であり、減知は免れずに家中不行届を理由に改易となることもあった。藩主の失政や苛政により一揆や騒動が起きたという事例が多数あり、大名本人がその地位に就く適性を欠く場合には、不適格者の処分としての改易はむしろやむを得ない処置であったと言える。
改易の処分を受けた後、大名はそれぞれ蟄居や配流といった個別の刑罰に服した。失政や刃傷沙汰を起こした者は切腹となることが多く、島原の乱の原因を作った松倉勝家は切腹ではなく打首となった。ただし処罰後に許され、大名本人または子孫や一族の者が小大名や旗本に取り立てられ家名が存続することは少なくなかった。御家大事の論理を幕府は秩序の維持に有益と考えて重視したからである。譜代・親藩の中には、改易・蟄居処分のあとに許されて、その子孫が旧知とほぼ同じ待遇で復帰した例がある。外様大名でも、改易された有馬晴信の子直純は、例外的にそのまま跡を継ぐことが許された。
改易の申渡しの配慮
改易は領主から家臣と居城、所領を奪い、領国を解体して大名支配を無力化することを意味したので、一つ間違えば反乱の原因とも成り得た。そのため、幕府の側も周到な準備をして、城明渡しの前には諸事に対して万全の配慮を払った。
元和5年(1619年)の安芸・備後50万石の外様大名福島正則の改易[注釈 5]では、将軍秀忠が上洛して正則の嫡男福島忠勝を京都建仁寺に呼び寄せ、正則は江戸に留め置かれた状態で、改易を言い渡すが、幕府は正則に対して牧野忠成と花房正成を上使として派遣し、安芸・備後国の所領を召し上げて替地として津軽国に4.5万石を与える旨を伝えた際、同時に在江戸の諸大名に命じて兵を集めて正則の屋敷を取り囲ませるほどの警戒を見せた[29]。正則は粛々と命令を受け入れるほかになかった。
元和8年(1622年)10月の宇都宮15.5万石の譜代大名本多正純の改易は、正純が最上義俊の改易(最上騒動)を伝える上使として山形城に派遣された折りに言い渡された。上使として伊丹康勝と高木正次が追って派遣され、11か条の不審を詰問し、正純は次々と申し開きをしたが、3か条については答えられずに改易されたという[注釈 6]。ちなみに正純は出羽(佐竹氏預け)に配流となるが、宇都宮を没収する替地として5.5万石を提示されるが「罪があって御処分ならば受けられぬ」として断る気骨を見せている[31]。
寛永9年(1632年)5月の肥後52万石の外様大名加藤忠広[注釈 7]の改易では、忠広は突然老中より「不審の儀がある」として江戸に召喚され、22日に品川宿に着くと江戸に入ることを許さずに池上本門寺で待機するように命じられた[33]。25日に酒井忠勝を徳川御三家に遣わして密議を行い、26日に紀伊和歌山藩主徳川頼宣(夫人が忠広の姉)を江戸に登城させて家光と協議すると、28日に御三家で再び密議をして、29日に再度、頼宣が登城を命じられて忠広の処遇について内達があった。こうして幕府は慎重を期して、徳川頼宣の了解をとりつけた上で、6月1日の拝賀の嘉慶にきた諸大名を前に、老中の口から加藤氏の改易を発表した[33]。諸大名は大変に驚きおののいたが、3日、幕府は肥後国はもちろん全国の各大名の国元に宛に奉書を出して、処分を知らしめた[34]。
この3例は、居城と家臣団から改易大名を切り離した状態を狙ったり、またそのような状況を意図的に作った上で処分を言い渡しており、これは改易を契機とする抗戦を予防するためで、幕府が反乱の芽を摘みとるために細心の注意を払って改易を行っていたことがわかる[35]。
改易では、申渡しの次の段階である国元での城の明渡しについても、細心の注意が払われた。明渡しを告げる「上使」となる幕臣が派遣されるほか、責任者となる「城請取」役の大名が選任され、受け取った後の城を警備する「在番」役の周辺の大名を指名し、万事を監督して将軍に報告する「御目付」となる幕臣も併せて派遣された。没収される藩の石高や城の規模によって、城請取や在番の大名の人数は大幅に増え、それに伴って家臣や動員される人員も大掛かりなものになった。しかし、豊臣家が滅ぼされて以後、武力で抵抗をした大名は皆無で、誰一人として幕府に公然たる反抗をせずに、大人しく取潰されることを受け入れ、無抵抗で城と領地を幕府へ明渡した。福島氏や加藤氏は豊臣以来の大名として強力な存在だったにもかかわらず、他に応援を求めて徳川氏に抗戦するなどという姿勢は微塵も見せなかった。大名は尽く各個撃破されてしまっていたのである[36]。
改易された大名の家臣への扱いは不明なことが多いが、天明7年(1787年)に改易された小堀政方の家臣(近江小室藩)のうち、身寄りがないものに対しては3年間に渡って扶持が行われた[19]。
幕末の改易
幕末には安政の大獄後の彦根藩、第一次長州征伐後には長州藩に対して大幅な減封が行われた。
戊辰戦争によって幕府が崩壊すると、明治新政府は奥羽越列藩同盟に参加した諸侯等に対して処分を行った。仙台藩伊達家、米沢藩上杉家など21家は減封とされ、請西藩林家と会津藩松平家は城地を没収された。このうち会津藩主会津松平家については容保の子慶三郎(松平容大)にあらためて3万石が下賜された[37]。このため、戊辰戦争に関わる新政府処分によって諸侯の身分を失ったのは請西藩林家ただ一家である。これらの諸侯は新たに華族の身分が与えられた。
明治2年6月17日(1869年7月25日)の版籍奉還により諸侯は領主としての地位を失い、行政官としての知藩事となった。ただし知藩事が死亡または隠居した際には血縁者が後継となり、実質的には世襲されていた。明治4年(1871年)7月2日、太政官札贋造事件で福岡藩知事黒田長知は免職され、後任の福岡藩知事に有栖川宮熾仁親王が就任した。その直後の7月14日には廃藩置県を迎え、知藩事は中央から任命される知事に代えられた。ただし、黒田家はこの処分によって華族の身分を喪失したわけではなく、罷免後も旧知藩事に対する家禄をそのまま受け取っていた。
注釈
- ^ 所帯改易・所職改易という[7]。ただし世襲的に継承していた所職からの得分を失うため、変更といっても、没収に近い意味合いである。
- ^ 身柄は配流先の大名に預けられるが、江戸時代の配流地先は主に東北か四国に決まっていた。
- ^ 数え方による。下記『廃絶録』をもとに表にした関ヶ原で改易された大名はもっと多い。藤野保自身も別の資料では82の大名と言っている[14]。
- ^ 大名や武士が急病危篤になってから急遽養子を願い出ること[22]。
- ^ a b 元和3年(1617年)の洪水によって広島城の石垣や堀、楼などが損壊したので、正則はその修復の許可を幕府の取次役である本多正純を通して申請していたが、正純は敢えてこのことを将軍に報告せず、しかも正則には修復だから正式な許可はいらないと曖昧に答えていた。正則は将軍の許可を得ないまま修築作業を始めて罪に問われることになり、元和5年(1619年)4月に正則は弁明のために江戸へ参勤すると共に、修復箇所を破壊して謹慎の態度を示したので一段落するかと思われたが、5月に将軍秀忠は諸大名を率いて上洛すると(正則を江戸に留めて)子福島忠勝に上洛と弁明とを求め、6月2日になって福島氏の改易が突然発表された[23]。
- ^ ただしこの3か条については、明確な記録はなく、後世の作り話であるらしい[30]。
- ^ 元和4年(1618年)、家老の加藤美作と加藤右馬允が対立した御家騒動(牛方馬方騒動)の際には、豊臣方への加担の嫌疑がかかったにもかかわらず、加藤忠広は幼少を理由に改易を免れている。忠広の義理の母は家康の養女(水野忠重の娘)で、妻は秀忠の養女(蒲生秀行の娘)であり、姉は秀忠の弟・頼宣の妻という、重縁の関係であった[32]。
- ^ 大坂の陣後に子の増田盛次が大坂方に与したことを咎められ切腹した。
- ^ 改易の経緯には諸説あり、処分未定のまま病死、あるいは無嗣断絶したためともいう[41]。
- ^ 慶長15年(1610年)に領内再検地、幕府の了解を得て高直しにより36.9万石。
- ^ 毛利輝元の約120万石の所領内から20万石を分知したもの。
- ^ 毛利輝元の減封の後の36.9万石の所領内から5万石を分知したもの。
- ^ 後に石直しにより6万石。
- ^ 後に結城秀康に仕官した。
- ^ ただし石高が確定するのは2代藩主・佐竹義隆の代からである。
- ^ 原因については諸説ある。定次の悪政、漁色、大酒、訴訟等を理由に、大名の不品行を家老中坊秀祐が幕府に直訴した。
- ^ 勝俊と利房は共に西軍に属して所領没収されており、父木下家定が亡くなって遺領が出ると、これを巡って兄弟で争った。
- ^ 水野忠胤の家臣により殺害された。喧嘩両成敗により、喧嘩・殺傷沙汰は被害者も咎を負う。
- ^ 専横を糾弾されて、尾張藩の家老平岩親吉と対立した。
- ^ キリシタンであったため、形式だけで切腹せず家臣の介錯により討たれたとの記録もある。
- ^ 嫡男重信と大久保忠隣の養女との無断婚姻。
- ^ 義弟酒井忠勝の庄内鶴岡に国替えの際に同行し、以後は400石を拝領。
- ^ 義弟坂崎直盛と、罪をおかして逃亡中の妻の甥坂崎左門をかくまった件の争い、敗訴。
- ^ 石川康通の娘を養女として山口重政の嫡男と無断縁組したことや、幕命を受けて京で苛烈なキリシタン狩りを行い、寺々を放火した件、大久保長安事件の連座とするなど、改易の理由については諸説あり。
- ^ 城郭補修・浪人召抱えなどを咎められた。ただし大久保忠隣に連座ともいう。
- ^ 父織田信包の遺言で領地を継承した弟信則を不服として、幕府に訴えたが、逆に不届きとされて除封された。
- ^ 大坂の陣における遅参・不手際、旗本殺害、参内の懈怠など。理由は複数あり。秀忠は家康の死を待って改易に踏み切った。
- ^ 諏訪温泉で死去したが、自殺とも、諏訪部定常によって殺害されたともいう。
- ^ 一族の大久保忠隣の改易に連座か。
- ^ 家老河野氏房の殺害未解決事件の隠蔽を、被害者の子息が訴える。
- ^ 配流先で生まれた次男松千代は3,000石、三男熊千代は2,000石に封じられ旗本となる。
- ^ 田中吉官は小姓頭だっために配下の組中の三宅藤五郎の罪に引責した。
- ^ 家光に対する度重なる諫言。
- ^ 正利は無嗣断絶する。
- ^ 大坂城二の丸石垣築造工事の完成がおくれたため、監督不行届をもって領地を没収された。
- ^ 子徳永昌勝も配流(溝口宣勝預け)1648年に恩赦で赦免され2,000石旗本に。親子の訴訟のための改易だったともいう。
- ^ 仮病で、狩り遊びに興じていて、参勤交代を懈怠したことが露見して改易された。
- ^ 池田長幸の所領分知に関して三男長純に過半を与えることに反対した弟長頼を除いて遺言を作成したがために、長頼は激怒して長純とその舅脇坂安信と脇坂安経に刃傷に及び安経を殺害した。長頼は切腹。長純・安信は傷を負ったが、喧嘩両成敗により改易となった。
- ^ 謀反とも御家騒動ともいうが諸説ある。室賀正俊のもとに将軍の日光参拝を狙った陰謀があると投書するものがあり、調べると加藤光広の家臣前田五郎八というものだったので、光広とその父の忠広は池上本門寺にて蟄居を命じられた。忠広は関与を否定し、光広は若年のため改易どまりとされ、忠広は1万石に減封、光広は100石与えられたという話。または、正室は嫉妬深い人間で、側室が江戸で男子を産んだことに怒り、自分が産んだ嫡子光広の地位が脅かされるとして、家臣前田五郎八に殺害させようとしたという話。
- ^ 長崎代官末次平蔵らの告発で、唐船に対する私的課税、海外渡航証の独断での発給、私貿易船の派遣、収賄などの不正を訴えられた。パオロ・ドス・サントス事件も参照。
- ^ 菅沼忠隆(奥平忠隆)の嫡男。元服前に死んだ。
- ^ 江戸時代の大名で唯一の斬首。
- ^ 池田輝澄は新参の家老小川四郎右衛門を重用したので、これに旧来の家老伊木伊織らが反発して伊木派の物頭衆らが脱藩する事態となった。結局、家臣18名が切腹を命じられ、輝澄も家中不取締の科で所領を収公されて、堪忍料1万石だけが与えられた。
- ^ 高俊の死後、分知により交代寄合旗本となる。
- ^ 遺領は1653年に(政勝の従兄弟で義理の兄弟にあたる)政長に3万石・本多政信に1万石に分知された。
- ^ 突如剃髪して、所領を返上して幕閣を非難した上書を提出。江戸市中を托鉢して四国に向かったので、幕府は謀反を警戒しつつもこれを狂気と判断した。
- ^ 嫡男頼重を廃して、庶子での継承を願い出たが、頼資の不行跡を理由にいずれの子の相続も認めず、所領没収。頼重に1,000石だけ与えられた。
- ^ 且昭は貞就を養子とするが、貞就に子がなく断絶。
- ^ 幕末成羽藩を立藩。
- ^ 落馬の原因になった黒馬を家臣が主人の恨みとして殺したが、その悪評のため、末期養子が許されなかったという。
- ^ 将軍補佐と老中に諫書を提出して幕閣の失政を非難。自身の所領を返上して困窮の旗本を救済するよう願って無断で帰国した。その後も、密かに石清水八幡宮を詣でて将軍家綱の継嗣誕生を祈願するなど、幕法を軽視した勝手な行動が見られて、2回配流先を変えた。
- ^ 1680年、徳川家綱死去の報を聞き、幕法に反して殉死した。
- ^ 女院御所造営助役の役目を怠慢し、参勤交代に遅参した。住民殺害などの失政もあった。
- ^ 高国が襲封後、弟京極高勝の擁立をはかった父高広から親不孝と悪政を幕府に訴えられた。
- ^ a b 増上寺での徳川家綱の法会奉行を務めていたが、警護役の内藤忠勝が乱心して、突然斬り掛かってきて永井尚長は殺害された。巷説に、内藤忠勝はある修験者から名刀を力づくで奪って佩用していたが、この修験者が恨んで怨詛したため、忠勝は乱心したという。
- ^ 知行地境界問題で領地改があった際に、記述の誤りが見つかり、不正であるとして所領を収公された。
- ^ 本来の養嗣子松平綱国は同罪とされて配流され、同じく後に赦免された。それとは別に、徳川光圀の周旋によって松平直矩の三男が養子となって家を継ぎ、この長矩は津山藩を立藩した。
- ^ 本家の松代藩に対抗して、表高が3万石である所を、信利は強引に実高14.3万石を出して幕府に申告。幕府が再度検地をしたところ、実高は6万石に過ぎなかった。申告高に応じて参勤交代の行列規模、御手伝普請が命じれるため、高い年貢をかけられた領民は疲弊した。災害で破損した江戸の両国橋の架替の助役を命じられたが、橋材の納入を怠った。同じ頃、領民が悪政を幕府に直訴し、日頃の不行跡と領内への悪政、納期遅滞を理由に改易された。
- ^ 子もそれぞれ配流となる。後に子真田信音が旗本となるが断絶。
- ^ 親戚の酒井忠明が徳川綱吉から逼塞を命じられた際に、酒井忠能が報告に上がったときに、前将軍時の在国中の苛政と職務怠慢を咎められて改易された。
- ^ 徳川宗家と自身の御家騒動による。
- ^ 前年、巡見使が領内を通過の際に領民が悪政を直訴したことによる。
- ^ 本多利長の不行跡と、領内への悪政、前年の巡見使への作法が不適切であるとして、不行き届きを幕府に咎められ改易された。
- ^ 東叡山寛永寺での徳川家綱の法会のときに不敬の行為があったとして改易された。
- ^ 弟林貞辰を養嗣子としようとしたが、兄雄信の子の土方内匠を推すものがあり、抗争となる。これが幕府に露見した。
- ^ 林貞辰は配流(藤堂高通預け)で、内匠は八丈島へ遠島となった。
- ^ 江戸城中において稲葉正休は大老堀田正俊を刺殺し、正休も居合わせた老中大久保忠朝・阿部正武・戸田忠昌に殺された。巷説では、堀田正俊の暗殺は徳川綱吉の命令であったとか、稲葉正休は懐中に書状をいれていて理由が述べられていたともいう。
- ^ 在任中に綱紀をみだしたとして領地没収。
- ^ 溝口政親の酒狂乱心を家臣が実兄加藤明英に訴え、明英が幕府に伺いを立てて改易となった。
- ^ 那須資弥は実子の存在を隠して、幕府に虚偽の申告をして津軽家より那須資徳を養嗣子にとっており、実子の生母がこれを幕府に直訴して露見して改易となった。
- ^ 側小姓に任命されたが、拒否して将軍徳川綱吉の怒りを買い、重ねて詐病で出仕を拒否して改易された。
- ^ 嫡男堀田正親を指名せず、遺領相続の際の不手際で8,000石没収された。
- ^ 側用人に昇進したが勤務が疎かになっていると責められ改易された。分家の喜多見重治の刃傷沙汰の連座ともいう。
- ^ a b 寺社奉行の同役の坂本重治は本多忠周と共に怠慢があったとして職責を解かれて逼塞を命じられていたが、逼塞を解かれて減知を課された。
- ^ 将軍徳川綱吉の寵愛により奥詰から異例の昇進を重ねて若年寄となるが、病気を理由に辞職を願い出て綱吉の怒りにふれ、謹慎を命じられた。
- ^ 江戸城馬場先門を警備していた家臣高坂権兵衛が旗本長屋を覗き見した容疑で逮捕される不祥事が原因で、鳥居忠則は閉門となり、自害した。
- ^ 失政に加えて、本多政利が罪なき女性を殺害した罪で改易された。配流先でも行状は改まらず、不品行を重ねたので、その報告が遅れた酒井忠真は閉門を命じられ、政利は座敷牢に幽閉されることになった。
- ^ 諫言する家老2名とその一門を殺害して自害した。
- ^ 酒食に溺れ、家臣間の争いを放置したため、監督不行き届きで改易された。
- ^ 叔父小出有仍が旗本として存続。
- ^ 重陽の節句で登城して帰る伊達村和の行列を横切った御小姓組岡孝常を従者が抜刀して威嚇し、孝常の刀を奪い怪我をさせた。駕籠に乗っていた村和は傍観していたが、怒った孝常は槍をとって孝常の駕籠に迫って詫びを入れさせようとした。幕臣が止めて孝常を家に帰らせたが、後日双方が処罰された。
- ^ 松平忠充は暗愚な人物とされ、些細な理由で家臣を追放したりしていたが、家老3人を切腹させその子4人も死刑とするという乱行に及んだため、遺族が幕府に直訴して露見。乱心したと見なされて幽閉された。
- ^ 病を理由に参勤交代の延期を申し出たが、不審に思った幕府が調べたところ、乱心したのを家臣が隠蔽していることが露見した。
- ^ ただし後に恩赦があり、3,000石で旗本となる。家老2人が追放、検見役の家臣だけが死罪とされた。
- ^ 1719年、子毛利元堯が再封をゆるされる。
- ^ 江戸城で将軍徳川吉宗に拝謁して退出の際に、忠恒は突然、通りかかった長州毛利家の世子毛利師就を斬りかかった。師就は傷を負ったが、殿中であるため刀を抜かず鞘で防戦し、御目付長田元鄰が割って入って、戸田氏房が忠恒を取り押さえてことなきをえた。浅野内匠頭と違って、忠恒は理由を供述したが荒唐無稽な内容であったので「乱心」として処理された。幕法を守って刀を抜かなかった師就はお咎めなしとなった。
- ^ 水野忠穀に7,000石を付与して旗本とする。1765年大浜藩立藩。
- ^ 松平乗邑は幕政の責任者として享保改革を推し進めたが、強引な年貢増徴政策で恨まれており、徳川吉宗が隠退すると、突然、勝手掛老中を罷免されて失脚した。
- ^ 分家の植村千吉が義弟の朝比奈万之助に殺害されるという刃傷沙汰があったが、処罰を恐れ、病死と偽って報告し、それが露見した。
- ^ a b 側近政治で台頭した田沼意次は経済改革で成果を出したが、松平武元没後は権勢を増して賄賂を横行させたので、反田沼派が生成され、後盾の徳川家治が死去するとすぐに老中を失脚して幕府を追われ、前代未聞である二度の処罰を受けた。
- ^ 徳川家斉の側近として重用されて台頭。家斉隠居後も権勢を振るい、幕政改革を志向する勝手掛老中水野忠邦と対立するが、家斉が死去すると水野に粛清されて失脚した。
- ^ 将軍継嗣問題関連の処分ともいう。
- ^ 文久の改革で失脚。口実は失政だが、実際には井伊直弼の下で安政の大獄の弾圧の指揮をとったことによる報復人事だった。
- ^ a b 坂下門外の変の後の事後処理による。
- ^ 武田耕雲斎らの天狗党の乱に際して、堀親義は講武所奉行の地位にあったにもかかわらず、留守居の家臣が城に籠もって出撃せずに、清内路関所を通過させたので、これに引責した。
- ^ 天狗党の筑波山挙兵に際して討伐の出兵が遅れたために、一族から天狗党に同調する者が出ていたことと併せて、幕府の嫌疑を受けて処罰された。
出典
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