平岡頼資とは? わかりやすく解説

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平岡頼資

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/02 06:19 UTC 版)

 
平岡 頼資
時代 江戸時代前期
生誕 慶長10年(1605年
死没 承応2年1月8日1653年2月5日
改名 定常(初名)→頼資
別名 牛右衛門(通称)、重勝
戒名 隆光院日詮居士
墓所 岐阜県可児市兼山の専養寺、東京都品川区の本立寺
官位 従五位下、石見
幕府 江戸幕府
美濃徳野藩
氏族 平岡氏
父母 父:平岡頼勝、母:上月景貞の娘
正室:小堀政一の娘
継室:内藤政長の娘
新十郎、頼重、妻木頼次、娘(山下昌勝室)
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平岡 頼資(ひらおか よりすけ)は、美濃徳野藩の第2代藩主。

生涯

慶長10年(1605年)、初代藩主・平岡頼勝の長男として河内で生まれる。母は上月景貞娘(黒田如水の姪)。正室は小堀政一の娘。慶長12年(1607年)の父の死去により、3歳で家督を継いだ。

晩年に庶長子の新十郎と次男の頼重が家督争いを起こし、後継者を指名せずして承応2年(1653年)1月8日(異説として7月4日)に死去した。享年49。

頼資の死後、平岡家は家督争いの他、頼重の不行跡などにより、家督相続が認められず改易となった。ただし、頼重が1000石を与えられ、子孫は2000石(最終的には6000石)の旗本として存続することを許された。

頼資の墓(専養寺)



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