西方藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/08 01:46 UTC 版)
西方藩(にしかたはん)は、江戸幕府開幕前後の時期に、下野国都賀郡西方(現在の栃木県栃木市西方地区付近)を居所とした藩[1]。会津征伐に先立って上杉家を退去した藤田信吉が、徳川家から1万5000石を与えられて入封したが、大坂夏の陣後に改易された。
注釈
- ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。黒文字は本文内で言及する土地。灰文字はそれ以外。
- ^ 1万3000石との説もあるという[1]。
- ^ ほかに慶長8年(1603年)とする説もある[6]。関ヶ原の合戦後も下野国は旧族大名がいくつか残ったが、藤田信吉は徳川家との親しい関係によって下野国に割り込んだという記述がある[1]。この時期の下野国で、「旧族」の流れを汲む大名としては皆川広照(皆川藩)、佐野信吉(佐野藩)、大田原晴清(大田原藩)、大関資増(黒羽藩)、豊臣大名として入封した大名としては成田長忠(烏山藩)があり、新たに封じられた大名としては奥平家昌(宇都宮藩)、本多正純(小山藩)、本多忠純(榎本藩)、松平近正(板橋藩)、日根野吉明(壬生藩)、浅野長重(真岡藩)がある。
- ^ 峯・富張・下宿・富加見内・金井・柴[10]。
- ^ 古宿・中宿・大沢田・新宿[10]。
- ^ 出典では慶長5年(1600年)[11]。
- ^ 明治初年に村の再編が行われており、江戸時代の村の名と大字は必ずしも一致しない。西方村は1994年に西方町となり、2011年に栃木市と合併。
出典
- ^ a b c d e “西方藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2022年10月7日閲覧。
- ^ a b c “西方”. 角川日本地名大辞典. 2022年10月7日閲覧。
- ^ a b c “西方(中世)”. 角川日本地名大辞典. 2022年10月7日閲覧。
- ^ a b 『日本歴史地名大系 9 栃木県の地名』(平凡社、1988年) ISBN 978-4-582-91028-5 P466.「西方城跡」
- ^ 江田郁夫「戦国期の境界領域支配」江田郁夫 編著『中世宇都宮氏 一族の展開と信仰・文芸』<戎光祥中世史論集 第9巻>戎光祥出版、2020年1月 ISBN 978-4-86403-334-3 P129.
- ^ a b c d “西方城址・二条城址”. 栃木市観光協会. 2022年10月7日閲覧。
- ^ a b “津川城”. 日本の城がわかる事典. 2022年10月7日閲覧。
- ^ a b c d “藤田信吉”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2022年10月7日閲覧。
- ^ “結城秀康”. 朝日日本歴史人物事典. 2022年10月7日閲覧。
- ^ a b “新宿村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2022年10月7日閲覧。
- ^ a b “金崎村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2022年10月7日閲覧。
- ^ “柴村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2022年10月7日閲覧。
- ^ “小倉堰”. 栃木市観光協会. 2022年10月7日閲覧。
- ^ “実相寺”. とちのいち. 2022年10月7日閲覧。
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