本多政武
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 慶長3年(1598年) |
死没 | 寛永14年7月13日(1637年9月1日) |
別名 | 成利[1]、利長、利家、左京亮、大学(通称) |
戒名 | 雲竜院殿前拾遺因州大守空休道一居士 |
官位 | 従五位下、因幡守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 大和国高取藩主 |
氏族 | 尾張本多氏 |
父母 | 父:本多俊政、母:猶原左衛門尉の娘 |
妻 | 正室:板倉重宗の娘 |
子 | 男子(夭折)、女子(九鬼良隆正室)、女子(内藤信充室) |
本多 政武(ほんだ まさたけ)は、江戸時代前期の大名。大和国高取藩の第2代藩主。
生涯
慶長3年(1598年)、初代藩主・俊政の長男として生まれる。
慶長15年(1610年)、父の死去により家督を継ぎ、大和国高取城主として2万5千石(または2万7千石とも)を領した[1]。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では徳川方に与し、翌年の夏の陣では道明寺口の戦いで武功を挙げた[2]。囲碁の名人でもあり、慶長15年(1610年)には囲碁本因坊戦で勝利している。また、大坂城修築工事や高野山大塔造営奉行などで活躍した。寛永9年(1632年)には徳川秀忠の遺物である銀300枚を拝領している[2]。
寛永14年(1637年)7月13日に死去した。享年40。嗣子がなかったため、高取藩本多家は無嗣改易となった[1][2]。
脚注
参考文献
- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、221頁。
- 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、706頁。ISBN 4404017529。
- “『系図纂要』 源朝臣姓本多”. 東京大学史料編纂所 (19世紀). 2025年7月6日閲覧。
外部リンク
固有名詞の分類
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