本多政昌とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 本多政昌の意味・解説 

本多政昌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/19 00:42 UTC 版)

本多政昌

本多 政昌 (ほんだ まさあきら、元禄2年4月17日1689年6月4日) - 延享5年3月18日1748年4月15日)) は、加賀藩の執政、加賀八家本多家第5代当主。

父は加賀藩家老本多政敏。正室は本多図書政冬の娘。子は長善連室。養子は本多政行。官位は従五位下安房守。通称は嘉藤次。

生涯

元禄2年(1689年)加賀藩家老本多政敏の四男として生まれる。享保8年(1723年)兄本多政質の死去により家督と5万石の知行を相続する。人持組頭、年寄を務めた。

享保8年(1723年)12月従五位下安房守に叙任。享保11年(1726年)公儀御用(宗門方御触)。享保15年(1730年金沢城代となる。

寛保2年(1742年青地礼幹より、藩主前田吉徳側近大槻朝元(伝蔵)の非行を弾劾する書状を届けられる。礼幹は、本多政重の長男政次の曾孫で、当時前田直躬と共に大槻排斥を強く訴えていた一人である。年寄である政昌の力により大槻排除を期待してのことであったが、大槻が失脚するのは礼幹の没後、藩主吉徳の死去を待たねばならなかった。

延享元年(1744年)藩主吉徳より、不和であった分家本多頼母政恒との和解を命じられる。延享3年(1746年)加賀騒動の当事者大槻伝蔵を屋敷に召還し蟄居を申し渡す。朝元は政昌の組であった。

延享5年(1748年)3月18日没。享年60。家督は一門本多政冬の子政行が相続した。

演じた俳優

  • 東野英治郎:「仲代達矢アワー 加賀騒動」(CX、1964年)

参考文献

  • 東京大学史料編纂所『加賀藩史料』[要文献特定詳細情報]

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「本多政昌」の関連用語

本多政昌のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



本多政昌のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの本多政昌 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS