渡り奉公
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 01:55 UTC 版)
寛永17年(1642年)に肥後入りした宮本武蔵に入門して二天一流兵法を学び、武蔵が死去すると、2代寺尾孫之允勝信に7年随仕して修行に勤め、承応2年(1653年)に寺尾から『五輪書』を相伝され兵法3代となる。のち訳あって肥後国を離国、兄嫁の親戚で武蔵所縁の小倉藩重臣・島村十左衛門を頼り、江戸で旗本家の兵法指南役となる。また十左衛門の紹介にて福岡藩家老黒田(立花)平左衛門重種(丹治峯均の実父)が寄り親となり、万治3年(1660年)に300石で3代藩主黒田光之の御小姓組に召抱えられ、藩士に兵法を指導、福岡藩二天一流の開祖となる。 柴任は寛文年間に黒田家も致仕して、大和郡山藩本多政勝に400石で招聘され、ここで重臣・大原勘右衛門の女を娶る。しかし、政勝の死後、藩主相続をめぐって九六騒動がおこり、15万石の本多家の領地のうち、嫡流本多政長に9万石と政勝実子・本多政利に6万石に分割されると、柴任は政利に従った。 延宝6年(1678年)に政利の播州明石に移封に従い、同8年(1680年)福岡藩の吉田太郎右衛門實貫に『五輪書』を相伝し、二天一流兵法4代目とした。その後、外甥(妻の甥)大原惣右衛門の早世に伴う大原家の家督相続において意見が入れられなかったことを不満に思い致仕。江戸や近江大津にて浪人するが、貞享4年(1687年)64歳の時に、姫路藩本多政武に500石で招聘され藩主側近の相伴衆となる。なおこれは、合戦のなくなった島原の乱以後、兵法や武芸が軽視される中、兵法に優れた者であれば大藩雄藩の上級家臣として召抱えられ、渡り奉公が可能な時期が江戸時代中期まで続いていたという事例として注目される。
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