四日市ぜんそく 症状

四日市ぜんそく

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 12:05 UTC 版)

症状

気管支炎や気管支ぜんそくや咽喉頭炎など呼吸器疾患になる。大気汚染による慢性閉塞性肺疾患であり、息苦しくて、喉が痛み、激しい喘息の発作が起こる。症状がひどいと呼吸困難から死に至る。心臓発作肺気腫肺がん)を併発する場合もある。

黒川調査団の報告では

  1. 気管支ぜんそく
  2. ぜんそく性気管支炎
  3. 慢性気管支炎
  4. 肺気腫

の四種類の疫病が『閉塞性呼吸器疾患』と総称されて、医療費のうち国民健康保険などがカバーする以外の自己負担分を四日市市が支払った[8]

四日市公害裁判の争点

  1. 四日市コンビナート企業各社の共同不法行為が成立するかの是非。
  2. 四日市コンビナート企業の故意の責任の有無。
  3. 四日市コンビナート企業の過失の責任の有無。
  4. 四日市コンビナート企業が排出した汚染物質による四日市公害と四日市ぜんそくなどの健康被害の因果関係があるかの立証。

コンビナートの誘致

[9][10][11][12][13]

  • 四日市市長の平田佐矩と三重県知事の田中覚がコンビナート誘致活動の中心人物となった政治家である。三重県と四日市市などの地方自治体によって日本初のコンビナート施設である四日市コンビナートが誘致された。漁網紡績など繊維産業中心の軽工業から、重工業の石油化学産業の育成のために、四日市コンビナートが建設された。昭和30年代に四日市の重工業化が行われた。
  • 塩浜地区に(第1コンビナート)が建設されて、午起地区に(第2コンビナート)が建設されて、霞ヶ浦地区に(第3コンビナート)が建設された。1955年昭和30年)に 四日市コンビナート建設のために、四日市市塩浜地区の旧大日本帝国海軍燃料廠跡地が石油関連企業に払下げられる。1956年(昭和31年)に第1コンビナートの建設を開始する。1957年(昭和32年)に第2コンビナートの埋立てを開始する。1959年に、第1コンビナートが本格稼働する。

政治的背景

1955年(昭和30年)の三重県知事選挙では、以下の構図となった。戦後初の公選知事であった現職の青木理三重県知事には、自由党日本民主党の推薦と三重県内の川崎秀二衆議院議員など、四日市市選出以外の保守系国会議員・保守的な三重県議会議員の支持があった。

新人候補の田中覚には、以下の労働組合の支持があり、自治労三重県連合・三重県の職労団体・三重県の官公労組織・三重県の地方労協組織・総同盟三重県連合・ゼンセン同盟三重県支部・近鉄労組・紀州工業労組などの労働者の支持と、以下の農協組織の桑名農協・員弁農協・三泗農協・中勢農協・宇治山田農協・北勢農協・牟婁農協など三重県内の農協の支持と日本社会党右派社会党本部・右派社会党三重県連合・左派社会党本部・左派社会党三重県連合)の支援があった[14]

そこで三重県の保守層が、革新知事の誕生に危機感を強めて、いわゆる田中赤攻撃とされる以下の中傷攻撃をした。「田中はアカだ」「伊勢神宮がある聖地三重県が左翼に汚される」「三重県が共産主義になる」とマルクス主義者だと誹謗中傷のビラをまき警戒した(平野孝 1997)。田中覚を応援した親しい官僚は「田中が赤いのは間違いである。田中は若いのだ」と反論した。

日本社会党の労組組織と、田中候補の地元の塩浜地区を中心とする四日市市民の応援と四日市市の保守層(山手満男)の支持を得た農林省の元官僚の田中覚が三重県知事に当選して、三重県に日本初(全国の都道府県で初期ともされる)革新自治体が誕生する。田中覚の出身地の塩浜地区は工業化による四日市コンビナート企業の社宅設立で人口が増加して塩浜地区(塩浜駅周辺の南部)と三浜地区(海山道駅周辺の北部)の2地区(小学校区)に分裂して、塩浜地区は工業化によって地区が発展すると、塩浜地区民は期待していた。

三重県は、自由民主党と日本社会党が共に、田中覚を支えるオール与党体制となる。1959年の四日市市長選挙で日本社会党と四日市北部(富田地区・富洲原地区を地盤とする)保守層の支持を得た平田佐矩が四日市市長に当選をする[15][16]

軽工業に変わる新産業としての重工業化政策

戦前までの四日市市は紡績繊維産業)の町として有名であった。四日市市は、東洋紡績(市内に東洋紡績富田工場・三重工場・四日市工場・塩浜工場・楠工場)、東亜紡織(市内に泊工場・楠工場)、平田紡績(市内に富洲原工場)の発祥地であった[17]。繊維産業を中心とする軽工業に変わる、新しい産業を振興する重工業化政策の必要性から、日本で最初の本格的な石油化学コンビナートの誘致が田中覚知事を中心とする三重県と、平田佐矩市長を中心とする四日市市によって行われた。

建設地

  • 1960年代四日市港沿いの半島地形であった塩浜地区周辺や納屋地区や伊勢湾沿いの海水浴場であった須賀浦海水浴場(四日市市北部の天ヶ須賀地区)・松ヶ浦海水浴場(四日市市北部の富田一色地区)・富田浜海水浴場(四日市市北部の富田地区で第3四日市コンビナートが建設された)・霞ヶ浦海水浴場(四日市市北部の羽津地区で第3四日市コンビナートが建設された)・午起海水浴場(東橋北地区で第2四日市コンビナートが建設された)の砂浜を埋め立てて四日市の石油化学コンビナート港湾施設が建設された。四日市公害(四日市ぜんそく)は化学企業が立地していた第1コンビナート付近の塩浜地区と、石油企業が立地していた第2コンビナートのスモッグが直撃した海蔵地区の塩浜・海蔵の2地区で公害被害が甚大であった。第1コンビナートの建設地は塩浜地区で四日市港沿いの住宅地の周辺であり、戦争中に建設されて四日市空襲で壊滅した海軍燃料廠の跡地があった。そこに、第1コンビナートを建設した。それが、四日市喘息の初期である塩浜喘息の要因となる。公害対策として第1コンビナートの高煙突化が行われたが、それによって被害が甚大であった塩浜地区(塩浜地区・三浜地区・磯津地区)以外の以下の地区(三重郡楠町と四日市南部の日永地区・浜田地区)に四日市公害が拡大した。
  • 第2コンビナートの建設地は午起海水浴場で埋め立てによって建設された中部電力を中心とする第2コンビナートによって四日市喘息が塩浜地区以外の以下の地区に公害が拡大した。
  • 東橋北地区と西橋北地区は納屋地区は近隣に工場がある四日市公害汚染地区である。
  • 羽津地区・海蔵地区・中部地区は四日市公害の汚染物質が拡散した地区である。公害の被害が拡大した結果、大気が汚染された地区である。
  • 第3コンビナートの(建設地は霞ヶ浦海水浴場)で伊勢湾の埋め立て工事をして、建設した人工的に埋め立てられた島で住宅地と離れていた事と、プラント設備など公害対策がとられたので富田地区には深刻な公害が発生しなかった。

反対運動

  • 第1コンビナートが塩浜に建設されたことが、四日市ぜんそくの発端となった。当初は第1(石油化学)四日市コンビナートによる「塩浜ぜんそく」と呼ばれるもので塩浜地区のみの被害だったが、高煙突化によって(三重郡楠町・浜田地区・日永地区)に公害が拡大した。内部地区・河原田地区に三菱油化河原田工場[18]が建設される予定だったが(第1石油化学コンビナートを増設した工場施設の建設計画)公害の健康不安から工場建設に反発した四日市市民による激しい反対運動があった。第1コンビナートを拡大して石油化学企業を誘致する計画が、四日市市民と地区住民の反対で中止となった。
  • 四日市公害(四日市ぜんそく)による健康被害が報道されたことで静岡県で大規模なコンビナートの誘致と工場建設工事の反対運動があった。「ノーモア四日市」[注釈 5]スローガンが叫ばれて、また「四日市の二の舞になるから反対」[注釈 6]の声が高まり革新政党や環境運動家が反公害運動を日本中に積極的に繰り広げて、日本各地の以下の都市にコンビナートを誘致する計画があったが住民の反対で建設が中止となる[19]
    1. 静岡県沼津市
    2. 静岡県三島市
    3. 兵庫県西宮市
    4. 千葉県銚子市
  • 環境運動家や革新政党は戦前の大日本帝国による戦争は「平和ではない時代の殺人」、四日市ぜんそくによる公害問題は「平和な時代の殺人」として反公害運動を拡大して、四日市市は公害(毒ガスに類似する大気汚染)による悲劇の実験都市であるとして、四日市市を公害問題のモデルにして環境問題に取り組んだ。
  • 第2コンビナートは四日市市中部など臨海部に被害を拡大させた。第3コンビナート(四日市市北部の霞ヶ浦地区)が建設されたが、風向きが富田地区と反対の南側に吹いていた事。プラント設備の改善された事。人工島で住宅地から離れていた事から四日市市北部の富田地区では深刻な公害による被害が発生しなかった。
  • 煙突から煙を吐き、昼夜を問わず光とともに稼動する大工場の風景は当初、街の誇りであった。このことはコンビナートのすぐ近くにあった塩浜小学校の校歌にも「科学の誇る工場」と歌われていたことからわかる。公害を理由に、この校歌の歌詞は保護者の抗議を受けて変更された。

他の四大公害病との比較

[20] [21] [22] [23] [24]

  • 三重県と四日市市が強力な石油化学企業の支援をして四日市コンビナートの誘致を実施した事。
  • 三重県と四日市市が第3コンビナートなど工場用地の規模を拡大する建設計画を続けて大気汚染による健康被害があっても効果がある公害対策をしなかったこと。
  • 三重県と四日市市が公害病の原因である石油化学企業の取り締まりをしなかったことなどで公害裁判で行政責任が問われた点。
  • 四日市市を中心に三重県は四日市コンビナートの建設で、戦後期に高度経済成長を達成をした点。
  • しかし経済発展の代償として住民の健康と生活環境が悪化する悲劇が起きて、四大公害病(四日市ぜんそく・水俣病・新潟水俣病・イタイイタイ病)の内では、唯一の大気汚染を原因とする公害病であった点。
  • 汚染物質が100%特定できず、複数の企業が四日市コンビナートで汚染物質を排出しており、どの企業が犯人か因果関係が不明であった点。
  • また当時(高度経済成長期)は、川崎市のコンビナート(川崎公害)地域・岡山県倉敷市水島コンビナート地域などの日本全国の工業地域でも大気汚染があり、他地域との違いを証明する必要性があった事。
  • 四日市市特有の公害事情があった事や四日市コンビナートが喘息疾患の原因とする100%の証明がなくて、四日市公害裁判で勝訴をするのが難しかった事情がある。

行政の責任

四日市市民から四日市の経済発展が期待されていたが、工場が稼働を開始からほどなくして街の空は曇り始め、四日市市への悪臭や異臭の苦情が出始め、その後市内のぜんそく患者が急増した。他の公害病である四大公害病(水俣病イタイイタイ病新潟水俣病)と比較して、経済の発展を優先した行政機関である三重県と四日市市が公害裁判で行政の責任も問われた事が特徴である。

高度経済成長による経済発展の代償

  • 当時(戦後期)の三重県知事(田中覚)と四日市市長(吉田千九郎→吉田勝太郎→平田佐矩→九鬼喜久男)など政治家の関与があり文系出身の政治家であったので[25]理系である石油化学物質の詳しい知識がなかったのが公害被害を防止できなかった要因の1つである。プラスの面として田中覚三重県知事と平田佐矩四日市市長は功績者であり三重県と四日市市を経済的に発展させた実績がある。三重県の1人当たりのGDPに当たる県民経済計算があるが、2008年時点の総務省が実施した2007年度の統計では、各都道府県別の順位は以下のようになっている。
    1位 東京都首都圏大企業が多数立地)
    2位 愛知県(自動車産業などが盛んな工業地域)
    3位 静岡県(自動車産業などが盛んな工業地域)
    4位 神奈川県(首都圏で大企業が多数立地)
    5位 三重県(四日市コンビナートやシャープ亀山工場が立地して自動車産業が盛んな工業地域)となっている[26]
  • 三重県は田中覚が知事だった高度経済成長期には、四日市市に四日市コンビナートが誘致されて、四日市の石油化学産業が発展した事と、田中覚知事によってホンダ(本田技研工業)が誘致されて鈴鹿市自動車産業が発展した事で、経済成長率が平均13%を続ける事となる驚異の経済成長をした[27]

四日市公害病事件が三重県の経済に及ぼした影響

  • 昭和戦後期に津港松阪港付近も工業開発が予定されていたが、工業開発が中止になった理由が四日市ぜんそくの発生だった。三重県(三重県北部の四日市市周辺地域)は、平成期にも急激な経済成長をしている。北川正恭知事が推進した三重クリスタルバレー構想や三重シリコンバレー構想で製造業を成長させる経済政策が実施された。2000年代に三重県はシャープ亀山工場の誘致が行われた事と、インフラ整備として三重県と滋賀県を結ぶ道路網と交通網の新名神高速道路が開通した事で経済成長率が向上した。2000年代には三重県で中華人民共和国型の経済政策が実施された。具体的に製造業の育成による工業化と道路網などインフラを整備する公共事業の推進で、2000年(平成12年)から2009年(平成21年)の期間内で全国の都道府県の中で第1位となる10年間で7%の経済成長率を続けている[注釈 7]リーマンショック後の2009年には、製造業の不振で各都道府県別の統計で、1人当たりのGDPである県民経済計算の順位が15位まで後退したが、2010年代には三重県の製造業が経済回復の傾向であり、三重県は急成長と下降をするジェットコースター経済である。特に四日市市周辺の北勢地域のみではGDPを東京都と愛知県に次ぐまでの経済発展をさせた功績がある。理系の石油化学関係の知識がなく、大日本帝国期(戦前からの繊維企業)の伝統的な日本企業の東洋紡績や東亜紡織(トーア紡コーポレーション)と同じように地域貢献をして、環境保全をすると考えていた平田紡績出身の平田佐矩市長は、まさか石油化学企業が汚染物質を大量に排出するとは思っていなかった[28]

都市部に発生した公害

四日市公害は3大都市圏の名古屋圏中京圏)で発生した都市部の公害であった。熊本県水俣湾で発生した水俣病富山県神通川流域で発生したイタイイタイ病新潟県阿賀野川流域で発生した新潟水俣病などの他の公害は日本の大動脈である太平洋沿岸以外の地方の非都市部であり、経済的には未発達の地域であった。4大工業地帯太平洋ベルト)の工業都市の一部である四日市市で発生した四日市ぜんそくは4大公害病で唯一の工業地域で都市部で発生した公害病である。また四日市公害は沢井余志郎の発言では、公害裁判判決の時点で過去に汚染物質を排出して公害病となった水俣病、イタイイタイ病、新潟水俣病と違い四日市ぜんそくになる四日市市の公害は現在進行形の公害であった。公害裁判後も四日市コンビナートの企業が汚染物質を排出する可能性が高くて、四日市ぜんそくなどの健康被害が公害判決後も、四日市市で引き続き発生する公害であった。

唯一の大気汚染

『四大公害』と言われた公害病の内では、四日市ぜんそく(喘息)だけが水質汚染ではなく唯一の大気汚染である。公害被害によって居住する事が困難となり、四日市の地域環境が悪化し、高度経済成長の経済発展の代償として公害が発生した。そのため、対策が施されることなく汚染物質がそのまま排出されていた。

水俣病・イタイイタイ病・新潟水俣病との違いは、100%特定企業による特定物質による公害と立証できなかった事である。これに関しては四日市コンビナートは複数の企業が関係し、自分の会社は無罪であり、他企業が原因であると主張できる余地があったためである。

四日市公害の教訓によって、戦後期に制定されていた法律の『ばい煙規制法』に代わる新しい法律の大気汚染防止法が制定された。四日市公害訴訟は、四大公害訴訟の1つに数えられる裁判として、津地方裁判所四日市支部に提訴されて、6年間の裁判の結果勝訴となった四日市公害判決の反響から、大気汚染の総量規制の実施・SO2の環境基準の改正の実施・公害健康被害補償法の制定・公害対策基本法の制定などの参考になったが、四日市公害裁判については、複数の問題点がある。

すなわち、大気汚染の発生源に対する共同責任で、どの企業が汚染物質を排出して、四日市コンビナートに進出していた複数の企業の共同不法行為を認定するか(共同不法行為の認定)の問題があった。加えて、大気汚染と喘息症状がある特異的でない、非特異的な閉塞性症状の肺疾患である四日市ぜんそくとの因果関係論の問題があった事である。公害患者の喘息症状を証明しても、大気汚染が四日市ぜんそくの原因と証明できるかの因果関係の問題も存在した。

保守政党(自由民主党)対革新政党による政治問題化

四日市ぜんそくは三重県北部で政治問題化し、自由民主党や財界を中心とする保守政党(四日市コンビナート企業側)と、革新政党(公害患者を支援する被害者側)の政治対立につながった。自由民主党は政治的信用を失い、(日本社会党民社党公明党日本共産党)が公害問題に取り組む革新政党としての支持を広げて、三重県での革新勢力野党)の拡大を許した。また四日市ぜんそくは自由民主党政権による環境庁設立の要因となる。


注釈

  1. ^ 塩浜地区など四日市市南部地域と海蔵地区など四日市市中部地域のみで四日市公害が発生した。患者は「死ぬより辛い」というほどの発作に苦しんだ。四日市市北部地域の富田地区・富洲原地区と四日市市西部地域は四日市公害の被害とは無関係である
  2. ^ 四日市市のみの公害と誤解されるが隣接する三重郡楠町にも公害患者が多数いた
  3. ^ 簡易表記や教育内容の教科書や正式名の四日市ぜんそくの呼称以外に難解漢字表記や医学用語では四日市喘息や水質汚染や喘息以外の病気など公害全体を指す四日市公害の呼称や四日市喘息の呼称がある
  4. ^ 四日市ぜんそくは他の三つの公害の水俣病・イタイイタイ病・新潟水俣病を日本政府が昭和43年に公害病と認定したが、四日市ぜんそくは日本政府の公害病認定がなくて公害病扱いされず、四日市のぜんそく事件と呼ばれていて、公害病ではなくて事件扱いされていた。
  5. ^ 戦時中の原子爆弾投下を繰り返さないノーモア広島ノーモア長崎の原爆ノーモアのヒロシマ・ナガサキがあるが、戦後の革新政党や環境運動家が叫んだノーモアとして公害問題では水俣病のノーモア水俣と四日市ぜんそくと四日市公害に反対するノーモア四日市と新潟水俣病再びのワンモア水俣がある。イタイイタイ病は富山病ではなくて呼称が地名ではなくてノーモアと言われなかった。
  6. ^ 静岡ではノーモア四日市と第二の四日市公害が叫ばれた
  7. ^ 2000年代の日本の都道府県で1人当たりの県民経済計算の所得がプラスとなったのは三重県・愛知県・静岡県・神奈川県・東京都・鹿児島県の6都県のみ。それ以外の府道県はマイナス成長か0%成長であった。三重県はシャープの立地、鹿児島県はキャノンの立地によるものである。
  8. ^ 社会科日本史戦後の公害の記述では四日市ぜんそくについては亜硫酸ガスが原因とされているが、水俣病・イタイイタイ病のように原因物質が正確には立証や特定されていない

出典

  1. ^ 『ガリ切りの記』生活記録運動と四日市公害(出版社)影書房(著者)沢井余志郎63頁
  2. ^ http://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&serial=2634
  3. ^ 『ファミリー版世界と日本の歴史12巻』『現代4巻21世紀への扉』72頁
  4. ^ 四日市ぜんそく 地球doctor
  5. ^ 四日市ぜんそくの原因の質問と回答より
  6. ^ 菅井益郎 『公害の研究―産業の発展によってうしなわれたものとは』16、ポプラ社〈調べ学習日本の歴史〉、2001年4月、28頁14行目から25行目
  7. ^ 時代の流れが図解でわかる。『早わかり昭和史』古川隆久212頁
  8. ^ 『四大公害病』政野淳子執筆192頁2行目から4行目
  9. ^ (参考文献)は四日市市史(第14巻)史料編現代I。
  10. ^ (参考文献)は四日市市史(第15巻)史料編現代II。
  11. ^ (参考文献)は、四日市市史(第19巻)通史編現代。
  12. ^ (引用ホームページ)は、「四日市公害。学習案内。ガイドブック NO.1」四日市公害ぜんそく。
  13. ^ (引用ホームページ)は、かんきょう四日市
  14. ^ 『菜の花の海辺から上巻評伝田中覚』42頁
  15. ^ 四日市市立富洲原小学校創立100周年記念誌(昭和51年に発行)187ページから188ページ下段8行目
  16. ^ 四日市市史(第19巻・通史編・現代)巻末付表の37ページから38ページ歴代市長・助役・収入役3役
  17. ^ 綿糸紡績の歴史じばさん三重 2020年2月11日閲覧
  18. ^ 『ガリ切りの記』生活記録運動と四日市公害(出版社)影書房(著者)沢井余志郎144頁から146頁
  19. ^ 菅井益郎 『公害の研究―産業の発展によってうしなわれたものとは』16、ポプラ社〈調べ学習日本の歴史〉、2001年4月、34頁右側の段落1行目から15行目
  20. ^ 『引用ホームページ』は「四日市公害。学習案内。ガイドブック NO.1」四日市公害ぜんそく。
  21. ^ 『引用ホームページ』は武田邦彦が執筆した「工学倫理講 第七回 水俣病と四日市喘息」。
  22. ^ (参考文献)は四日市市史(第14巻)史料編現代I。
  23. ^ (参考文献)は四日市市史(第15巻)史料編現代II。
  24. ^ (参考文献)は、四日市市史(第19巻)通史編現代。
  25. ^ 四日市市立富洲原小学校創立100周年記念誌(昭和51年に発行)187頁から188頁下段8行目
  26. ^ http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7450.html
  27. ^ 2008年総務省 都道府県統計 県民1人当たりのGDP(県民所得)
  28. ^ 四日市市史(第19巻・通史編・現代)巻末付表の37頁から38頁 歴代市長・助役・収入役3役
  29. ^ 参考文献は、川名英之 1986,菅井益郎 2001,四日市公害記録写真集編集委員会 1992
  30. ^ (参考文献)は、四日市市史(第14巻)史料編現代Iの四日市公害についての記述。
  31. ^ (参考文献)は、四日市市史(第15巻)史料編現代IIの四日市公害を中心とする四日市戦後史の記述。
  32. ^ (参考文献)は、四日市市史(第19巻)通史編現代、639頁
  33. ^ 塩浜中女子生徒・海蔵小学校1年生死亡の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、635頁
  34. ^ 公害予防マスク・文部大臣視察。汚染地区非汚染地区小学校健康比較の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、708頁
  35. ^ 広報よっかいちの公害統計の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、731頁
  36. ^ 最初の公害患者の死亡の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、739頁
  37. ^ 公害患者の自殺の記述。公害患者の年齢・性別・地区別の統計。四日市市史(第19巻)通史編現代、752から755頁
  38. ^ 雨池町・平和町の集団移転の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、618頁
  39. ^ 日本横断運河の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、703頁
  40. ^ 公害対策委員会設置の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、723頁。黒川調査団の記述。
  41. ^ (引用ホームページ)は「四日市公害。学習案内。ガイドブック NO.1」四日市公害ぜんそく
  42. ^ ファミリー版世界と日本の歴史12巻現代4巻21世紀への扉71頁
  43. ^ ファミリー版世界と日本の歴史12巻現代4巻21世紀への扉72頁
  44. ^ http://www.cty-net.ne.jp/~mido-kan/site1/ayamachi.html
  45. ^ 四日市市史(第14巻)史料編現代I、700頁から702頁
  46. ^ 菅井益郎 『公害の研究―産業の発展によってうしなわれたものとは』16、ポプラ社〈調べ学習日本の歴史〉、2001年4月、30頁右側1行目から3行目と左側1行目から9行目
  47. ^ 四日市市史(第14巻)史料編現代I、700から702頁
  48. ^ 四日市市史(第14巻)史料編現代I、723頁
  49. ^ 『ガリ切りの記』生活記録運動と四日市公害(出版社)影書房(著者)沢井余志郎102頁から107頁
  50. ^ 『ガリ切りの記』生活記録運動と四日市公害(出版社)影書房(著者)沢井余志郎112頁から115頁
  51. ^ 『ガリ切りの記』生活記録運動と四日市公害(出版社)影書房(著者)沢井余志郎110頁から111頁
  52. ^ 四日市市史(第19巻・通史編・現代)713頁
  53. ^ 『ガリ切りの記』生活記録運動と四日市公害(出版社)影書房(著者)沢井余志郎63頁
  54. ^ 四日市市史(第14巻)史料編現代I、541頁1行目から7行目
  55. ^ 『四大公害病』176頁、著者は政野淳子、発行者は中公新書
  56. ^ 『四大公害病』178頁。著者は政野淳子。発行者は中公新書
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  58. ^ 日本の公害④高度経済成長と公害4頁。写真と絵画と集成は樋口健二。監修は宮本憲一
  59. ^ 日本の公害④高度経済成長と公害4頁。写真と絵画と集成は樋口健二。監修は宮本憲一
  60. ^ 四日市市史708頁4行目から15行目
  61. ^ ファミリー版世界と日本の歴史12巻現代4巻21世紀への扉72頁
  62. ^ 四日市公害記録写真集編集委員会 『四日市公害記録写真集』四日市公害訴訟判決20年記念、42頁から47頁
  63. ^ 日本の公害④高度経済成長と公害19頁。写真と絵画と集成は樋口健二。監修は宮本憲一
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  93. ^ 参考文献は、四日市市史(第14巻)史料編現代I、の四日市公害裁判の四日市ぜんそく訴訟についての記述。
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  95. ^ 四日市コンビナートを誘致した公害初期に四日市の市長であった平田市長の記述。塩浜地区出身の田中覚三重県知事の記述。平田佐矩の後任の四日市市長は九鬼喜久男であり、午起地区に第2四日市コンビナートを建設して、塩浜地区以外の四日市市南部・中部の臨海部に公害を拡大させた。四日市市の大気汚染をさらに悪化させたのに加えて、公害対策を怠り、四日市市民が死亡するケースとして子供の病死や公害患者の自殺など被害を拡大させた。四日市市の九鬼喜久男市長が、「四日市公害」の歴史に関わった記述を引用。
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  112. ^ 『三重県紳士録』、246頁第3段落の左側の(住所・生年・現職・経歴・趣味・家庭・横顔)の九鬼喜久男の項目
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  119. ^ (参考文献)は国史大辞典(四日市ぜんそくの項目で公害対策と環境技術の革新についての内容)の記事。
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  122. ^ 四日市市史(第19巻・通史編・現代)736頁
  123. ^ 『おはなし歴史風土記』第24巻 三重県、歴史教育者協議会、岩崎書店、74頁1行目から76頁7行目
  124. ^ 四日市ぜんそく公害訴訟判決その後 私記 公害四日市の戦後
  125. ^ 菅井益郎 『公害の研究―産業の発展によってうしなわれたものとは』16、ポプラ社〈調べ学習日本の歴史〉、2001年4月、31頁右側14行目から23行目
  126. ^ 2012年(平成24年)1月6日読売新聞社会面25頁
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