四日市ぜんそく 症状

四日市ぜんそく

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/04 22:24 UTC 版)

症状

気管支炎や気管支ぜんそくや咽喉頭炎など呼吸器疾患になる。大気汚染による慢性閉塞性肺疾患であり、息苦しく、喉が痛み、激しい喘息の発作が起こる。症状がひどいと呼吸困難から死に至る。心臓発作肺気腫肺がん)を併発する場合もある。

黒川調査団の報告では

  1. 気管支ぜんそく
  2. ぜんそく性気管支炎
  3. 慢性気管支炎
  4. 肺気腫

の四種類の疫病が『閉塞性呼吸器疾患』と総称されて、医療費のうち国民健康保険などがカバーする以外の自己負担分を四日市市が支払った[8]

コンビナートの誘致

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  • 四日市市長の平田佐矩と三重県知事の田中覚がコンビナート誘致活動の中心となり、日本初のコンビナート施設である四日市コンビナートが誘致された。漁網紡績など繊維産業中心の軽工業から、石油化学産業の育成が図られ、四日市の重工業化が行われた。
  • 塩浜地区に第1コンビナート、午起地区に第2コンビナート、霞ヶ浦地区に第3コンビナートが建設された。1955年昭和30年)に はコンビナート建設のために、四日市市塩浜地区の旧大日本帝国海軍燃料廠跡地が石油関連企業に払下げられる。1956年(昭和31年)に第1コンビナートの建設を開始する。1957年(昭和32年)に第2コンビナートの埋立てを開始する。1959年に、第1コンビナートが本格稼働する。

政治的背景

1955年(昭和30年)の三重県知事選挙では、以下の構図となった。戦後初の公選知事であった現職の青木理三重県知事には、自由党日本民主党の推薦と三重県内の川崎秀二衆議院議員など、四日市市選出以外の保守系国会議員・保守的な三重県議会議員の支持があった。

新人候補の田中覚には、自治労三重県連合・三重県の職労団体・三重県の官公労組織・三重県の地方労協組織・総同盟三重県連合・ゼンセン同盟三重県支部・近鉄労組・紀州工業労組などの労働者の支持と、桑名農協・員弁農協・三泗農協・中勢農協・宇治山田農協・北勢農協・牟婁農協など三重県内の農協の支持と日本社会党右派社会党本部・右派社会党三重県連合・左派社会党本部・左派社会党三重県連合)の支援があった[14]

三重県の保守層が、革新知事の誕生に危機感を強めて、いわゆる田中赤攻撃とされる以下の中傷攻撃をした。「田中はアカだ」「伊勢神宮がある聖地三重県が左翼に汚される」「三重県が共産主義になる」とマルクス主義者だと誹謗中傷のビラをまき警戒した(平野孝 1997)。田中を応援した親しい官僚は「田中が赤いのは間違いである。田中は若いのだ」と反論した。

日本社会党の労組組織と、地元の塩浜地区を中心とする四日市市民の応援と四日市市の保守層(山手満男)の支持を得た田中が当選して、三重県に日本初の革新自治体が誕生する。田中の出身地の塩浜地区は工業化による四日市コンビナート企業の社宅設立で人口が増加して塩浜地区(塩浜駅周辺の南部)と三浜地区(海山道駅周辺の北部)の2地区(小学校区)に分裂して、塩浜地区は工業化によって地区が発展すると、塩浜地区民は期待していた。

三重県は、自由民主党と日本社会党が共に、田中を支えるオール与党体制となる。1959年の四日市市長選挙で日本社会党と四日市北部(富田地区・富洲原地区を地盤とする)保守層の支持を得た平田佐矩が四日市市長に当選する[15][16]

軽工業に変わる新産業としての重工業化政策

戦前までの四日市市は紡績繊維産業)の町として有名であった。四日市市は、東洋紡績(市内に東洋紡績富田工場・三重工場・四日市工場・塩浜工場・楠工場)、東亜紡織(市内に泊工場・楠工場)、平田紡績(市内に富洲原工場)の発祥地であった[17]。繊維産業を中心とする軽工業に変わる重工業化政策の必要性から、日本で最初の本格的な石油化学コンビナートの誘致が田中を中心とする三重県と、平田を中心とする四日市市によって行われた。

反対運動

  • 第1コンビナートが塩浜に建設されたことが、四日市ぜんそくの発端となった。当初は第1(石油化学)四日市コンビナートによる「塩浜ぜんそく」と呼ばれるもので塩浜地区のみの被害だったが、高煙突化によって(三重郡楠町・浜田地区・日永地区)に公害が拡大した。内部地区・河原田地区に三菱油化河原田工場[18]が建設される予定だったが(第1石油化学コンビナートを増設した工場施設の建設計画)公害の健康不安から工場建設に反発した四日市市民による激しい反対運動があった。第1コンビナートを拡大して石油化学企業を誘致する計画が、四日市市民と地区住民の反対で中止となった。
  • 四日市公害(四日市ぜんそく)による健康被害が報道されたことで静岡県で大規模なコンビナートの誘致と工場建設工事の反対運動があった。「ノーモア四日市」[注釈 1]スローガンが叫ばれて、また「四日市の二の舞になるから反対」[注釈 2]の声が高まり革新政党や環境運動家が反公害運動を日本中に積極的に繰り広げて、以下の都市でコンビナート誘致が住民の反対で中止となる[19]
    1. 静岡県沼津市
    2. 静岡県三島市
    3. 兵庫県西宮市
    4. 千葉県銚子市
  • 環境運動家や革新政党は戦前の大日本帝国による戦争は「平和ではない時代の殺人」、四日市ぜんそくによる公害問題は「平和な時代の殺人」として反公害運動を拡大して、四日市市は公害(毒ガスに類似する大気汚染)による悲劇の実験都市であるとして、四日市市を公害問題のモデルにして環境問題に取り組んだ。
  • 第2コンビナートは四日市市中部など臨海部に被害を拡大させた。第3コンビナート(四日市市北部の霞ヶ浦地区)が建設されたが、風向きが富田地区と反対の南側に吹いていた事。プラント設備の改善された事。人工島で住宅地から離れていた事から四日市市北部のでは深刻な公害による被害が発生しなかった。
  • 煙突から煙を吐き、昼夜を問わず光とともに稼動する大工場の風景は当初、街の誇りであった。このことはコンビナートのすぐ近くにあった塩浜小学校の校歌にも「科学の誇る工場」と歌われていた。公害を理由に、この校歌の歌詞は保護者の抗議を受けて変更された。

行政の責任

四日市市民から四日市の経済発展が期待されていたが、工場が稼働を開始からほどなくして街の空は曇り始め、悪臭や異臭の苦情が出始め、その後市内のぜんそく患者が急増した。他の公害病である四大公害病(水俣病イタイイタイ病新潟水俣病)と比較して、経済の発展を優先した行政機関である三重県と四日市市が公害裁判で行政の責任も問われた事が特徴である。

高度経済成長による経済発展の代償

  • 当時(戦後期)の三重県知事(田中覚)と四日市市長(吉田千九郎→吉田勝太郎→平田佐矩→九鬼喜久男)など政治家の関与があり文系出身の政治家であったので[20]理系である石油化学物質の詳しい知識がなかったのが公害被害を防止できなかった要因の1つである。
  • 三重県は田中が知事だった高度経済成長期には四日市コンビナートが誘致されて経済成長した。石油化学産業が発展した事で生産所得は倍増したが四日市市民の所得は全国平均以下の工場労働者の町となった。田中覚知事によってホンダ(本田技研工業)が誘致されて鈴鹿市自動車産業が発展した事で、高度経済成長期1960年代経済成長率が平均13%を続ける事となった[21]

四日市公害病事件が三重県の経済に及ぼした影響

  • 昭和戦後期に津港松阪港付近も工業開発が予定されていたが、工業開発が中止になった理由が四日市ぜんそくの発生だった。
  • 石油化学関係の知識がなく、戦前からの東洋紡績や東亜紡織(トーア紡コーポレーション)と同じように地域貢献をして、環境保全をすると考えていた平田紡績出身の平田佐矩市長は、まさか石油化学企業が汚染物質を大量に排出するとは思っていなかったという[22]

保守政党(自由民主党)対革新政党による政治問題化

四日市ぜんそくは三重県北部で政治問題化し、自由民主党や財界を中心とする保守政党(四日市コンビナート企業側)と、革新政党(公害患者を支援する被害者側)の政治対立につながった。自由民主党は政治的信用を失い、(日本社会党民社党公明党日本共産党)が公害問題に取り組む革新政党としての支持を広げて、三重県での革新勢力野党)の拡大を許した。また四日市ぜんそくは環境庁設立の要因となる。

公害の歴史

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建設地

  • 1960年代四日市港沿いの半島地形であった塩浜地区周辺や納屋地区や伊勢湾沿いの海水浴場であった須賀浦海水浴場(四日市市北部の天ヶ須賀地区)・松ヶ浦海水浴場(四日市市北部の富田一色地区)・富田浜海水浴場(四日市市北部の富田地区で第3四日市コンビナートが建設された)・霞ヶ浦海水浴場(四日市市北部の羽津地区で第3四日市コンビナートが建設された)・午起海水浴場(東橋北地区で第2四日市コンビナートが建設された)の砂浜を埋め立てて四日市の石油化学コンビナート港湾施設が建設された。四日市公害(四日市ぜんそく)は化学企業が立地していた第1コンビナート付近の塩浜地区と、石油企業が立地していた第2コンビナートのスモッグが直撃した海蔵地区の塩浜・海蔵の2地区で公害被害が甚大であった。第1コンビナートの建設地は塩浜地区で四日市港沿いの住宅地の周辺であり、戦争中に建設されて四日市空襲で壊滅した海軍燃料廠の跡地があった。そこに、第1コンビナートを建設した。それが、四日市喘息の初期である塩浜喘息の要因となる。公害対策として第1コンビナートの高煙突化が行われたが、それによって被害が甚大であった塩浜地区以外の以下の地区(三重郡楠町と四日市南部の日永地区・浜田地区)に四日市公害が拡大した。
  • 第2コンビナートの建設地は午起海水浴場で埋め立てによって建設された。
  • 東橋北地区と西橋北地区は納屋地区は近隣に工場がある公害汚染地区である。
  • 羽津地区・海蔵地区・中部地区は汚染物質が拡散した地区である。
  • 第3コンビナートは伊勢湾を埋め立てた人工島で住宅地と離れていた事と、プラント設備など公害対策がとられたので富田地区には深刻な公害が発生しなかった。
  • 塩浜地区を中心に子供が死亡するケースや公害患者の自殺事件が発生した。四日市公害問題は高度経済成長がもらした公害の典型であった[36]

公害前期

四日市市の石油化学コンビナートの建設は旧海軍燃料廠跡地に通産省の指導でイギリスシェル=三菱系の石油関連資本に払い下げられた1955年にはじまり、昭和34年頃から第1コンビナートの本格的な操業が開始された。続いて昭和38年に大協石油大協和石油化学・中部電力の第2コンビナートが操業を開始した[37]。四日市コンビナートの誘致と建設で有名な言葉となり、四日市市民に定着している用語の『コンビナート』(企業集団)とは戦後に広まった新しい外来語で、当時(昭和時代)の社会主義国であったソビエト連邦で誕生したロシア語であった。四日市市民にこのロシア語が日常用語として使用された[38]

昭和40年代になり、塩浜地区の磯津港で水揚げされる魚は臭い汚染された魚と見られて、風評被害で水産物の購入が敬遠された[39]。塩浜地区民に異常な変な咳の症状の被害が発生した。ぜいぜいと息をする喘息症状の発作が起きるなどの病気が集団発生して塩浜地区民に健康被害が急増した。磯津地区の開業医であった中山医師は、「正確には喘息と確定ではないが喘息の様な特異な疾患」に「塩浜ぜんそく」と命名して、喘息発作止めの注射を打つなどの注射投与による治療方法を考案した。中山医師は注射による措置が有効として公害患者には特別な治療行為をした。 三重県の革新知事であった田中覚は四日市コンビナートの建設によって『輝ける伊勢湾時代』を展望して『大四日市』を構想していた。四日市の工業生産は急成長をしていたが、人口の伸びが鈍り1964年頃には四日市市転入人口より転出人口の方が多くなり人口の構造が逆転して、四日市市の人口30万人都市計画は挫折した。「これは公害の問題ではない。現実の四日市市民が困っている事態で市長として見捨てられない。四日市市が見舞金として支出しても良いではないか。四日市が踏み切れば、国家と三重県が放っておくまい。必ず四日市市に同調をする」以上が平田市長の考えであった。厚生省の反対を押し切り四日市市単独で患者の医療費の補償制度を開始した[40]。街には悪臭が広がり、伊勢湾では汚染された魚が獲れるようになり、四日市市内で漁業が盛んだった塩浜地区・富田地区・富洲原地区の漁村では漁業が衰退した[41]

1963年に異臭魚の被害が拡大した事で「磯津漁民一揆」がおきる。国の黒川真武博士を中心に以下の数10人の一流の学者で調査団が構成された。2000万円の予算を計上した「黒川調査団」が大気汚染の現地である四日市市の塩浜地区の調査をする[42]。工場に最寄りの塩浜地区では、ばい煙・騒音などの環境問題を四日市市に訴えた。

以下の公害運動をする環境団体が結成された。

  1. 公害市民学校が開校[43]された。
  2. ミニコミ公害トマレが発刊[44]された。
  3. 四日市地域の三泗地域地区労
  4. 公害患者を守る会
  5. 日本社会党日本共産党の支持組織で組織された「四日市公害対策協議会」が結成された。
  6. 自治労が推薦する「四日市公害訴訟を支持する会」が結成された。
  7. 磯津の住民による「公害を記録する会」が結成された。
  8. 新左翼系の「四日市公害と戦う市民兵の会」[45]が結成された。
  9. 革新系の四日市市議会議員を長とする「公害患者を励ます会」が結成されたが各組織が1つの組織にまとまらなかった。

地区労の大部分をし占める「三重県化学産業労働組織協議会」は四日市公害訴訟には中立的立場で不支持を表明をした。1964年に公害健康被害補償法公害紛争処理法が成立した。1962年ばい煙規制法と改正工業用水法が成立した[46]。代わって昭和40年代に大気汚染防止法騒音規制法が制定される。

公害後期

1967年に九鬼喜久男市長が四日市市の更なる工業化のため、四日市市議会の自民党系議員に第3四日市コンビナートを建設する議案の採決を働きかけ、強行した。霞ヶ浦地区を埋め立てて昭和40年代に第3四日市コンビナートを建設する議案が[1]強行採決された。第3コンビナート建設予定地の周辺の地区(四日市市北部地域の羽津地区・富田地区・富洲原地区で公害が拡大する事が想定された)で「ノーモア塩浜」のスローガンで公害になると反対していた富田地区連合自治会長・富田地区の住民が見守り、公害が発生していた塩浜地区・中部地区・橋北地区・海蔵地区・日永地区などの四日市市南部地域と中部地域に在住する公害患者が喘息で咳こみ苦しんだり、強行採決に怒りながら傍聴していた。前川辰男議員などの革新クラブ(日本社会党系議員・日本共産党系議員)・公明党・新風クラブ(民社党系議員)の必死の抗議と反対を押しのけて富田地区・富洲原地区の自民党系議員と四日市市西部の農村の自民党系議員によって、四日市第3コンビナートを建設する議案が与野党の激しい乱闘の末に四日市市議会の議場で、賛成が(自民党系)の26票、反対が(野党の日本社会党・日本共産党の革新系と公明党・民社党の中道系)の15票の賛成多数で強行採決された[47]

四日市公害によって地区別では塩浜地区で600人以上の犠牲者、次に被害があった海蔵地区で約200人の死者、中部地区・橋北地区・日永地区でもそれぞれの地区で100人近くの犠牲者が出たと云われる。またそれ以上に自殺者が多数いて、乳児死亡者が多数いて、因果関係不明の死亡者が多数出た。実際の犠牲者は公害病の認定患者とされるのは約1000人だが、塩浜地区民(人口15000人)の内、約40%の住民が身体の異常を訴え、6000人近くの軽度の喘息患者がいたという。よって、公害患者以外の因果関係不明の死亡者を含むと四日市公害の犠牲者は1000人を超え2000人以上の四日市市民が死亡した可能性がある。一方で四日市市北部の富田地区・富洲原地区と四日市市西部の地区では犠牲者は0人であった。

治療は塩浜病院で行われた。1965年に「四日市市公害病認定制度」が発足して、「公害対策委員会」も発足したが、四日市コンビナートは規模を拡大する一方であった。1969年3月に 四日市公害裁判中だった78歳の原告男性が死亡した。 1969年12月 石原産業の工場排水で伊勢湾が汚染されて四日市海上保安部が摘発した。1971年7月には佐藤内閣によって「環境庁」が発足した。また四日市公害裁判の38歳で原告だった女性がぜんそく発作で死亡した。1972年4月に 「三重県公害防止条例」が改正、硫黄酸化物の総量規制がされる。1972年7月24日に「四日市公害病裁判」で患者側が勝訴した。1972年9月2日に小学4年の女児がぜんそく発作で死亡した。1973年10月に 「公害健康被害補償法」が成立した。1974年「三重県公害防止条例」が改正されて、窒素酸化物及びCOD総量規制がされる。1987年9月に 「公害健康被害補償法」が改正されて新規の公害病患者の認定を廃止する。1994年に公害病患者の減少で塩浜病院は閉鎖され、三重県立総合医療センターとなった。

三重県警察と衝突した磯津漁民一揆

重油発電に転換した第2四日市コンビナート内にある中部電力三重火力発電所(四日市火力発電所)が第1コンビナートからの排水で生物ゼロの死の海となった伊勢湾周辺の四日市港(各四日市コンビナート工場の汚排水が流れ込む)伊勢湾の海水を午起地区から取水して、中部電力の発電機の冷却に使用していた。

中部電力は伊勢湾の海水を冷却した後、その冷却した温排水を港と反対側の塩浜地区と楠町の中間の鈴鹿川へ放流していた。水質汚染で塩浜地区の磯津漁港付近の伊勢湾は死の海と変化して磯津漁師の生活権を奪った。 塩浜地区の磯津港近辺の魚がくさく異臭をするようになり風評被害で売れないことから、漁村である磯津の漁師は、鈴鹿川の水を冷却に使い港へ放流する方法の要求と、使用した海水を四日市港へ放流するなどの処置を中部電力に要求したが聞き入れられなかった。

1963年6月21日に、昭和史(特に戦後史)では珍しい貴重な一揆であり、通称名で磯津漁民一揆と呼ばれた漁民一揆が発生をした。三重県・四日市市・会社側(中部電力)と磯津漁民との間で度重なる交渉があったが、返答に業を煮やした磯津漁民は「中部電力の排水口を閉じてしまえ」と10隻の漁船に100人が乗り込み、陸から150人がスコップを手に排水口に押しかけた。

400人程度の磯津漁港の漁民が、廃船と土のうを使用する方法で法的に暴動と誤解される磯津漁民一揆と呼ばれた刑事事件を犯した。しかし磯津漁民の実力行使に対して中部電力と三重県の要請で、三重県警察の警官隊が大量出動をした。工場側は警察権力で水門を警備する事とした。

磯津の漁民は、三重県警の警官隊の制止を無視した。警察の言う事を聞かず、力ずくで磯津漁港の漁民が実力行動に移った。三重県警察は機動隊80人と私服警官30人と警備艇2隻を動員した。磯津漁民による磯津漁民一揆の罪状は「水利妨害の刑法123条違反」であった。塩浜地区連合自治会長であった男性が、この事態が一大事として「留め男」となって塩浜地区の磯津漁民と中部電力の仲介を三重県に頼んだ。同じ塩浜地区出身の田中覚知事に解決をせまることにした[48]

公害の種類

  1. 大気汚染(亜硫酸ガス)
  2. 水質汚濁(濃硫酸・濃硫酸垂れ流し・異臭魚)
  3. 悪臭・騒音・振動・地盤沈下・爆発・火災
  • 無臭の亜硫酸ガスは気管支ゼンソク・慢性気管支炎・肺気腫を引き起こした[48]

調査結果

「広報よっかいち」に四日市市公害対策委員会が進めていた調査結果が公表された。公害対策委員会は汚染地域に亜硫酸ガス測定器を設置して、系統的な化学分析を行っていた。

  • 降雨に含まれる謀煙やチリの降雨量は、冬季では磯津地区の29.9g(平方m)が最高で、これに東橋北地区の21.1gと築港地区の14gが続き、一番少ないのは三重地区の5.5gであった。
  • 夏は築港地区の25.6gが最高であった。降雨に含まれる謀煙やチリの降雨量が多い地区は以下の順番で第2位の地区が塩浜地区の15.5gであった。旧市街地地区の15.5g、三浜地区の12.1gが続いた。
  • それにより住民の生活環境はさらに悪化して、塩浜地区では四日市市による調査世帯の約4割(40%)が何らかの症状を訴えており、中でもアレルギー症状疾患・心臓病・慢性気管支炎などの症状が多かった。
  • 調査結果では以下の順位である。
    1. 四日市市内で有病者が多い第1位の地区は塩浜地区が有病世帯比率が最多であった。
    2. 次に有病者が多かった第2位の地区は海蔵地区の38%であった。
    3. 以下の順番で有病者が多かった。四日市市の調査では、有病者が多い地区の第3位は三浜地区であった。
    4. 有病者が多い地区の第4位は浜田地区であった。
    5. 有病者が多い地区の第5位は東橋北地区であった。
    6. 有病者が多い地区の第6位は日永地区であった。
    7. 有病者が多い地区の第7位は納屋地区の順番で有病者が多かった。
    8. 以下は順位不明の有病者が多い地区の中位に西橋北地区中部東小学校区中部西小学校区羽津地区と続いていた。
    9. 四日市市の調査対象地区で、有病者の比率の最低比率であった三重地区四郷地区でも27%であった。
  • 工業地域で大気汚染がある塩浜地区では学童の16.1%にアレルギー性疾患・心臓病・慢性気管支炎の症状があったのに対して、農村地帯の三重地区では7.9%に留まっていた[49]
  • 四日市市当局が三重大学名古屋大学に調査してもらったところ、四日市市内の硫黄酸化物名古屋市の4倍近い事が分かった。四日市市立三浜小学校(公害汚染地域の塩浜地区)の4年生の身体症状を調査したら、8割以上の児童が変な異臭を訴えて、頭痛、喉の痛み、眼の痛み、吐き気などを経験していた。石油化学コンビナートが大気汚染原であると報告された。しかし、四日市コンビナートの企業、日本政府、四日市市は調査の結果を秘密にした。昭和38年には第2コンビナートに隣接する高浜地区で連日のように悪臭硫酸ミスト(霧)、騒音などの公害事件がおこり、新聞テレビで報道された。それでも四日市市は第3コンビナートの建設をすすめようとした[37]

最初に認定された公害患者の死亡例

1964年に塩浜地区に在住する62歳の男性が、石原産業を退職後に気管支喘息を発病して、塩浜病院に入院していた。1964年3月31日から三日間の期間内に、猛烈なスモッグが塩浜の町を襲っている最中に1964年4月2日に肺気腫で死亡した。男性は主治医に「死後、自身の身体を解剖して、病気の原因を調査してほしい」との遺言を残して息を引き取った。「産業医学研究所」のスタッフと吉田克己教授が解剖した結果、山口県宇部市で開催された(大気汚染協議会)で「四日市公害」による最初の死亡例として報告された。平田市長は四日市コンビナートの誘致による重工業化政策によって四日市市(四日市地域)が驚異の経済発展をした事に自信があり、日本横断運河の建設などの大型公共事業を推進していたが、男性の葬儀に四日市市長として参列をした際に、塩浜地区民から責任を追及された事で、塩浜地区民への罪悪感を持つようになった[50]

教育著名人の公害病死

三重県の旧制中学出身の教育者で四日市公害の犠牲者がいる。三重県教育界で文学的な教育活動で有名だった三重県立桑名高等学校校長の鷲野義俊校長が昭和42年10月5日に64歳で塩浜病院で四日市公害の被害により気管支疾患で死亡した[51]。平成30年度の厚生労働省総務省国勢調査の統計で100歳以上の老人が四日市125人での津市が171人となっている。人口が3万人少ない三重県内の都市の津市より四日市市の100歳以上の老人が少ない要因は、四日市公害の影響で明治大正生まれの老人の病死が急増した事であると公害関係者から主張されている[52]

子供の被害

公害病認定患者872名中では小中学生は224名にのぼる。
塩浜小学校6年生の男子は塩浜病院小児科病練に入院していた。近くの塩浜小学校と病院との生活が日課であった[53]
塩浜中学校3年の女子生徒の公害病死
1967年10月26日午前1時、七ツ屋町〔三菱油化に隣接〕に住む公害病認定患者の塩浜中学校3年生の女子生徒が、喘息による心臓発作で呼吸困難となり、紙片に「家に帰りたい」と最後の言葉を残し15歳で病死した。東京都への修学旅行に行く事で「塩浜よりきれいな空気が吸える」と楽しみにしていた修学旅行の直前であった。同年10月31日の吉田茂元総理大臣の国葬の同日に1500人の四日市市民により大規模な追悼集会が開かれ「彼女が死んだなんて言うな殺されたのだ」のプラカードが掲げられた[54]
海蔵小学校1年生の男子児童の公害病死
1970年11月5日、四日市市立海蔵小学校1年生(7歳)の男子が死亡した[55]。気管支ぜんそくによる「急性呼吸不全」だった。入院と通院を繰り返しながら酸素テントに入りきりの状態であった。また公害死者の最年少記録を更新し、塩浜地区以外の地区の死亡児童となった。御霊前海蔵小学校の供え物と釈精信の戒名が付けられた写真がある[56]
男子児童の追悼と抗議の市民集会が男子児童の母親も参加し、四日市市中心部の中部地区諏訪公園で開かれた。雨が降りしきる中を、四日市市内の「四日市母の会」は乳のみ子を背負いながら幼子の手を引いて、たすきがけで30人の母親たちが参加した。三重県・四日市市の行政機関と四日市コンビナートの企業が「ぜんそくで死ぬのは高齢者で子供が死ぬことはない大丈夫と言っていたのに、死んだじゃないか」と公害病患者の子供たちへの保護者の不安が高まり、四日市市内の母親たちは、空気のきれいな四日市市西部にぜんそく児童の養護学校の建設を三重県に要求することにした[57]。海蔵小学校2名、中部西小学校1名、塩浜中学校1名の「教え子たちの追悼集会」を1972年9月11日の四日市公害の判決後に「三重県教職員組合三四支部」が催した。
中部西小学校4年生の女子児童の公害病死
さらに四日市公害裁判勝訴1972年7月の2カ月後、四日市市立中部西小学校の4年生(当時9歳)の女子がぜんそくによる発作が連続して起きた結果、心臓麻痺によって病死した。5歳のときに喘息症状が出始め、気管支喘息の病名で認定患者となり、中部地区周辺の病院で通院治療を受けていたが症状がなかなか良くならず、健康を心配した両親によって、鈴鹿山脈側の三重郡菰野町に新居を購入して、公害で空気が汚染された中部地区の四日市市西新地の繁華街の自宅から空気が綺麗な環境に移住して治療する方法の転地療法をし、中部西小学校へはバス通学をしていた。「2学期になったら女の子同士一緒の班グループになってもう一度国語係になりたい」[58][59]と記した日記を前月の8月に書き、9月2日の放課後に容態が急変して救急車で緊急輸送をされて「お父さん注射、注射、注射を」との言葉を残していた。
担任の先生は「欠席が多い子でした。2学期の始業式に体重が20キロまで増加して健康になってきたと喜んでいたのに」と声を詰まらせて、中部西小学校のクラスメイトが参列して、涙を流す悲しみの葬儀が行われた。「担任の先生に良く従い、良く勉強する努力家で、家でもノートや日記を毎日書き、絵を描いたりしていた。早い時期に空気の綺麗な地域に引っ越せば良かった」 女子の母親は、9歳で亡くなった長女の写真を平成24年の四日市公害裁判勝訴から40年たった40周年式典後に新聞記者の取材の前に見つめていた。昭和40年代に、近鉄四日市駅付近に住んでおり、女児は幼稚園時代からせき込み初めは風邪と思ったが、四日市市中部地区の四日市市立病院で四日市ぜんそくと診断された。「名古屋市で喘息専門医の診察を受け、空気の綺麗な地域への移住を勧められて菰野町に引っ越してからは喘息の発作が減少して、喜んでいたのに」と母親が振り返り、最後の言葉は 「お母さん、お医者さんに連れてって下さい」だった。
中日新聞に投書した海蔵小学校4年生の男子児童の公害病死
1974年10月18日夜に第2コンビナート付近の〔海蔵地区の三ツ谷町〕に住んでいた公害患者の海蔵小学校4年生(10歳)が激しい発作で死亡した。小中学生の死者は、これで6人目だった[60][61]。死亡した男子児童は1973年6月に中日新聞の発言欄に公害防止を求める投書をしていた。
「僕は夜中に喘息が出てきて、いつも発作の心配をしています。ぜんそくであるのが嫌で、こんな病気がなかったらいいなと思います。公害なんか存在しないといいなと思います。子供らしく早く元気になって虫取りがしたい」 — 題「喘息は注射じゃ治らない」
保育園も休む事が多く、海蔵小学校の運動会も遠足も発作を心配してほとんど欠席していた。

公害患者の自殺

納屋地区の男性の自殺
1966年7月10日に第2四日市コンビナート内の大協石油付近の納屋地区に住む76歳になる男性が「病気の完治する見込みがなくて喘息がいっこうに良くならない。どうしてこんなに苦しまなければならないのだ」と喘息の発作に何度も嘆いていた。入院していたが「死ぬなら自分の家で」と自分から退院して「死ねば薬もいらずに楽になれる」「死んだら仏様になって見守りたい」と遺書を残して自殺した[62]。納屋地区の男性の公害苦による自殺は3日後の国会審議でも取り上げられた[63]
「九鬼喘息やってみろ」と遺書を書いた男性の自殺
1966年7月14日「四日市公害対策協議会」によって自殺した男性の追悼集会が開催されて、追悼集会で「自殺した男性の死を無駄にするな」と書かれたプラカードを持って行進したり、[64]1967年2月に、 第3コンビナートを誘致して建設工事と埋立て工事を許可する議案が強行採決された 四日市市議会に傍聴して公害反対を訴えていた高齢男性がいた。1965年に発足した「四日市公害患者を守る会」の副会長を務めていた公害病認定患者だった。公害と戦う四日市市民の中心となっていた60歳代になる四日市公害患者を守る会の副会長であった四日市ぜんそく(公害病)の認定患者の男性は甘納豆を作っている岡女堂の主人であった。亜硫酸ガスへの逃避行を繰り返して、鈴鹿山脈側の菰野町と四日市市中部地区を行き来して、疲れ果てていた。1967年6月13日に「ああ、今日も、空気が悪い」の一言を残して自殺を図り、加害者の企業への怒りや公害対策や取締りをしない四日市市へは「平田佐矩市長が四日市が経済発展をするために四日市コンビナートが必要と嘘をついた」と不満を記した日記と「九鬼(四日市市長)喘息やってみろ」と市長を恨む遺書を残して喘息を苦にして自殺するなど、ついに公害での死者も出た[65]。明らかになったのは、この2件であるが、その他の自殺者については表にはならず不明である。公害患者を守る会副会長だった自殺した菓子製造業を営み男性は首つり自殺する10日前の日記に「今日も空気が悪い」の遺言と「午後5時よりスモッグがひどい。亜硫酸ガスのために咳がやまず。弁当をつくって早々に我が家を飛び出し、空気の綺麗な所へ逃げる。ああ残念。家にいたくてもさびしい所に行かねばならない。くやしい。九鬼市長ゼンソクやってみろ。わかるだろう。公害の影響で死にたくない」と公害病を恨む遺書が記されていた[36]
その他の自殺や精神的な公害問題
昭和戦後期の四日市市は自殺率が高くて公害病の苦しみから精神疾患になり自殺する四日市市民が多い問題があった。四日市公害関連の精神疾患の症状があった。この他に、公害裁判後の1985年1月5日には、三重郡楠町で四日市公害認定患者の女性(52歳)が病気を苦に、自宅の庭で灯油をかぶって焼身自殺をしている。公害被害者と僧侶によって公害企業を呪い殺す「公害企業主呪殺祈祷僧団」が組織されて祈祷が行われた。 伊勢新聞1972年9月3日の地域記事では、四日市市の患者が死亡するのは、例年決まって夏の終わりから晩秋にかけての時期に多い。医療関係者と公害問題の関係者は「夏バテで身体が弱体化している状態で、秋口の涼風に刺激されて発作が起きやすくなっているのでは」とコメントをして、公害の原点であると言われる最汚染地区の磯津地区でも、北西の風が吹く、秋口から初冬にかけての季節が汚染のピークであった[66]

公害統計

硫黄酸化物や窒素酸化物などの汚染された大気を吸って窒息障害になり多くの四日市市民が死亡した。昭和時代高度経済成長期の四日市市は、塩浜地区を中心とする四日市市市南部地域と中部地区を中心とする四日市市中部地域と富洲原地区を中心とする四日市市北部中心の人口構造から、四日市市西部地域の郊外の人口が急増していて、公害が発生した戦後の高度経済成長期は四日市市民が約20万人いたが、その内、塩浜地区を中心に市民の100分の3の割合(3%)に当たる約5000人が公害患者と全員が認定されなかったが、軽度から重度の喘息症状に発症していた。その内2216人が四日市ぜんそくの公害患者と認定された。公害認定患者は9歳以下の子供たちが4割(40%)近くであり、患者は男性の方が多くて、男性では4割4分(44%)以上が9歳以下の子供で、19歳未満では半数を超えた。女性患者も子供たちが最多で、30歳から40歳までの中年女性が、全体の2割5分(25%)の4分の1を占めた。入院を必要とする重病患者の約3分の1に当たる、3割3分(33%)が塩浜地区内の磯津漁港がある磯津町民で、認定患者の4割(40%)が塩浜地区民であった[67]

公害死亡者数については、子供や若い年代の患者の場合は公害で死亡した可能性が高く、公害死亡者として断定できるが、四日市ぜんそくは高齢者の患者が多数であったため、死亡原因が老化によって喘息以外の病気で死亡した可能性があるため因果関係が難しい事情がある。約600人が公害によって死亡したとする説もあるが、因果関係の判断が難しい乳児死亡や高齢者の死亡者もあるため、公害死者の実数はさらに多数とみられる。自殺者と公害裁判後の病死者を含める統計では、2008年までに946人が死亡し、因果関係がの判断が難しい患者を含めると、四日市市内で四日市空襲の死者808人を超える犠牲者が出た。四日市公害によって約1000人近くが死亡した。四日市市に合併前の三重郡楠町では67名の犠牲者が出た。三重郡楠町は日本史保健体育の教科書の戦後の4大公害の項目に四日市ぜんそくと云う名称で四日市市のみに公害が発生して楠町の被害の記述がない事から楠町の公害被害の記述の加筆を要望していた。

2011年の時点で、四日市公害の認定患者が441名いる。大気汚染をめぐり企業の賠償責任を初めて認めた四日市公害訴訟の判決があった1972年7月24日から5年後の1977年に四日市市営の墓地である大谷斎場の敷地内に四日市公害犠牲者の慰霊碑が建立された。1977年10月23日に四日市ぜんそくの病死者と自殺の公害被害者の慰霊祭が実施された。1977年の慰霊碑の建立当時に調査した統計では、すでに病死や自殺で死亡した公害認定患者は184名だった。慰霊祭は現在まで毎年継続し、公害死亡者は年々増加し2008年9月21日の第26回慰霊祭では、946人が四日市喘息の慰霊碑に公害病の死者とされている。患者は10代の子供と、50代から60代の中高年が多かった。明治生まれの高齢者に死亡者が多く、大部分は平成時代までに四日市ぜんそくの影響で死亡しており、塩浜地区を中心に四日市市の平均寿命が全国平均より短かった。平成期に生存している世代では、当時小学生くらいの子供であった新人類世代に公害患者だったものが多く、2010年代に50代の中年となっている。

大気汚染による代表的な公害病の一つである。喘息の以外の症状として感冒の症状・扁桃炎(へんとうえん)の増加・結膜炎の増加・むかつきの症状・嘔吐の症状・頭痛の症状・気管支炎の症状・肺がんの発症が増加するなど、これらの症状で塩浜地区の平均寿命が、全国平均や四日市市の汚染されていない他の地区と比較して低下する健康問題がおきた。四日市公害で喘息症状になったのは、未成年が多くて、子供の健康被害が大きかったが、児童や生徒の公式な四日市喘息の死者は10人前後と少ない。しかし、原因不明の死亡が多かった四日市公害は四日市市の健康調査の統計でも明らかだが市内の平均寿命や乳児死亡は悪化しており、公害が健康や原因不明の死亡に強い影響を及ぼした。

昭和30年代から昭和50年代まで市の平均寿命と乳児死亡率は、四日市ぜんそくによる塩浜地区を中心とする四日市市南部地域と中部地域の老人の病死が増加した事や公害苦による自殺の増加によって高齢者の死亡率が高かった事から全国平均より明らかに平均寿命が短くて、乳児死亡率は全国平均より明らかに高くなっていた。同じ四日市市内で公害による健康被害があった塩浜地区・中部地区・橋北地区・海蔵地区の子供と、公害汚染がない空気が綺麗な水沢地区・小山田地区・富洲原地区・保々地区の子供の健康状態を比較する健康調査が実施された。これらの死亡記事が四日市市民の怒りになり訴訟のきっかけとなる。

乳児死亡率統計

  • 年間の平均乳児死亡率の統計
  • 1000人に対して何人かの割合(昭和42年度の統計)
    1. 塩浜地区 の乳児死亡率: 36.1人
    2. 四日市市全体の乳児死亡率: 25.6人
    3. 全国平均の乳児死亡率: 18.1人
  • 昭和35年までの乳児死亡率は全国平均以下だった[68][69]

集団移転政策

塩浜地区では公害による生活環境悪化から逃れるため、一部地域の住民が四日市西部の鈴鹿山脈側に集団移転し、ゴーストタウンの様に消滅した町もあった。塩浜地区は第1コンビナートが立地する工業地帯と(塩浜地区・三浜地区)の住宅地で構成されていた。住宅地と工業地の混合地域であったことが、公害を悪化させた原因である。

小学校の問題

煙突から煙を吐き、昼夜を問わず光とともに稼動する四日市コンビナートの大工場は稼動開始当初は四日市の街の誇りであった。この工業化の誇りはコンビナートのすぐ近くにあった塩浜小学校の校歌にも「科学の誇る工場」と歌われていたことからわかる。この校歌は塩浜小学校の保護者の抗議を受けて変更された。四日市市史によると、1965年3月に公害汚染地区である4つの小学校(塩浜地区の塩浜小学校・三浜小学校・中部地区の納屋小学校・橋北地区の東橋北小学校の各小学校)の教職員と児童全員に「公害予防マスク」が配られた。そして1965年4月には厚生省によって汚染被害地区の塩浜小学校・三浜小学校と非汚染地区の四日市市西部の四日市市立桜小学校・四日市市立神前小学校・四日市市北部の富洲原小学校の2年生と6年生の児童の公害検診が実施された。1965年10月には中村梅吉文部大臣が三浜小学校を視察した折にPTAからの陳情がされた。四日市市内の教職員が公害問題に積極的に取り組んだ。1965年1月の三泗教職員組合により公害対策専門職員の配置と定期無料検診などの実施が要望されて、1965年2月には四日市学校保健研究会で、「四日市ぜんそく」の実態の調査報告がされた。1965年11月には日本教職員組合が公害調査のために公害汚染地区の学校や工場を調査している。1967年12月には三重県教職員組合が「第1回公害と教育研究集会」を四日市市内で開催している。そして1971年8月には三重県教職員組合が三泗支部編「四日市の公害と教育?教育実践と地域実践?第1集」が発刊されて、続いて1972年8月には小中学生の作文集「みんなが被害者、四日市公害を訴える子供たち第1集」が発刊された[70]

1966年に三浜小学校の児童会会長であった6年生(12歳)の男子が佐藤栄作総理大臣に手紙を書き、「公害に悩む私たちの学校にもようやく空気清浄機が入りました。しかし夏には暑くて勉強ができません。どうかクーラーを入れて下さい。夏に公害対策として窓の閉鎖が行われて暑さから授業ができずクーラーを設置してほしい」と救援 (sos) の手紙を書いた[71]。手紙を読んだ佐藤栄作首相は、四日市の子供がこんな悲惨な目にあっているのかと涙を流した。九鬼市長を呼びつけて問いただしたが、「子供の話は大した事はなく、四日市には公害がない」と発言して無責任市長の悪評が広がった。

公害汚染がひどかった塩浜地区内の塩浜小学校・三浜小学校と、中部地区内の納屋小学校、橋北地区内の東橋北小学校の4つの四日市市立の公立小学校は、公害による被害で地域住民が引っ越した事で児童数が急激に減少して、同じ塩浜地区内の塩浜小学校と三浜小学校は統合計画が成立して、同じ中部地区内の四日市市立納屋小学校は中部東小学校と統合されて四日市市立中央小学校となり、同じ橋北地区内の東橋北小学校は西橋北小学校と統合計画が進んでいる。

参考文献の『おはなし歴史風土記第24巻 三重県』の『校歌がさびる卒業式』の内容では以下のような公害物語のエピソードが記載されている。『港のほとりに並び立つ科学の誇る工場は平和を守る日本の希望の希望の光です。塩浜小・塩浜小、僕たちは明日の日本を築きます』昭和41年度の四日市市立塩浜小学校の卒業式で塩浜小学校の校歌が流れた。児童たちにはさまざまな子供がいたと紹介されている。

  1. 雑巾を振り回して先生に叱られると「空気を吹いているのや」とみんなを笑わせた男子児童。
  2. 「工場は鬼だ」を節分の絵を描いた男子児童。
  3. 登山水泳も禁止されて、四日市公害に負けてしまった女子児童。
  4. 卒業式が終わると公害対策から東京都に近い千葉県に引っ越す女子児童など全員が校歌を歌った。

卒業式のスピーチで「皆さんは近代科学の町の中心の塩浜で学びました。公害に負けない体力作りをはげみました。これからも、元気で明るく、明日の日本を築く人になれるように努力して、中学校へ進学しても頑張ってください」塩浜小学校の校長が励ましの言葉を述べた。「汚れた空気を吸わない事」できない不可能なことを何度も塩浜の児童たちは先生たちから言われていた[72]

この『おはなし歴史風土記』第24巻 三重県の記述では「四日市は、工業を盛んにするために青い海を売った。青い空を売った。綺麗な空気と汚れた空気を取り換えた。今では子供や老人の命まで売っている」四日市ぜんそく物語で以下の内容が記述されている。四日市市教育委員会が作成した文集に「みんな被害者」と云う出版物もある。

高煙突化対策

1966年ころから、公害対策として塩浜地区の四日市コンビナートには、大気汚染の排煙を遠方へ拡散させるために100mを超す高い煙突が立ち並んだ。1971年には赤色と白色のだんだら模様の高煙突が20本も立ち並び、中には150m級の高煙突があった[73]。煙突を高くする対策で第1四日市コンビナート付近の塩浜地区の硫黄酸化物の濃度が低くなったが、煙が遠方まで汚染物質が流されて、塩浜地区以外の三重郡楠町と日永地区・浜田地区まで大気汚染が拡大した

(菅井益郎 2001)

四日市市の対応

四日市市は公害患者は子供と高齢者に多いが、「喘息で死ぬのは高齢者で子供はほとんど死なない」と云う見解であった。子供が死亡した時の四日市市民の怒りが高く、子供の追悼集会が開かれて、中高年の死亡した時より子供が死亡した時のニュースが大きく報道された。中高年の死亡は原告や公害運動をしていた患者が死亡した場合は大きく報道されたが、高齢者の死亡は大きく報道されなかった。九鬼喜久男市長を中心とする四日市市は本当に四日市コンビナートが喘息の原因で公害によって四日市ぜんそくになったのか、違う原因ではないかと責任を認めていなかった。四日市コンビナートの被告企業も社会的責任を取りたくないので、自己の会社の無罪を主張していた。


注釈

  1. ^ 戦時中の原子爆弾投下を繰り返さないノーモア広島ノーモア長崎の原爆ノーモアのヒロシマ・ナガサキがあるが、戦後の革新政党や環境運動家が叫んだノーモアとして公害問題では水俣病のノーモア水俣と四日市ぜんそくと四日市公害に反対するノーモア四日市と新潟水俣病再びのワンモア水俣がある。イタイイタイ病は富山病ではなくて呼称が地名ではなくてノーモアと言われなかった。
  2. ^ 静岡ではノーモア四日市と第二の四日市公害が叫ばれた
  3. ^ 社会科日本史戦後の公害の記述では四日市ぜんそくについては亜硫酸ガスが原因とされているが、水俣病・イタイイタイ病のように原因物質が正確には立証や特定されていない

出典

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  12. ^ (引用ホームページ)は、「四日市公害。学習案内。ガイドブック NO.1」四日市公害ぜんそく。
  13. ^ (引用ホームページ)は、かんきょう四日市
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  32. ^ 雨池町・平和町の集団移転の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、618頁
  33. ^ 日本横断運河の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、703頁
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  74. ^ 参考文献は、四日市市史(第14巻)史料編現代I、の四日市公害裁判の四日市ぜんそく訴訟についての記述。
  75. ^ 参考文献は、四日市市史(第15巻)史料編現代IIの四日市公害を中心とする四日市戦後史の記述に掲載されている内容。
  76. ^ 四日市コンビナートを誘致した公害初期に四日市の市長であった平田市長の記述。塩浜地区出身の田中覚三重県知事の記述。平田佐矩の後任の四日市市長は九鬼喜久男であり、午起地区に第2四日市コンビナートを建設して、塩浜地区以外の四日市市南部・中部の臨海部に公害を拡大させた。四日市市の大気汚染をさらに悪化させたのに加えて、公害対策を怠り、四日市市民が死亡するケースとして子供の病死や公害患者の自殺など被害を拡大させた。四日市市の九鬼喜久男市長が、「四日市公害」の歴史に関わった記述を引用。
  77. ^ https://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10859329338.html
  78. ^ 『しおはま80年の変遷』塩浜村の四日市市合併80年史(発行)四日市市に合併80周年記念事業実行委員会編集委員会32頁
  79. ^ 『しおはま80年の変遷』塩浜村の四日市市合併80年史(発行)四日市市に合併80周年記念事業実行委員会編集委員会33頁
  80. ^ a b 『しおはま80年の変遷』塩浜村の四日市市合併80年史(発行)四日市市に合併80周年記念事業実行委員会編集委員会34頁
  81. ^ a b 『しおはま80年の変遷』塩浜村の四日市市合併80年史(発行)四日市市に合併80周年記念事業実行委員会編集委員会35頁
  82. ^ 『しおはま80年の変遷』塩浜村の四日市市合併80年史(発行)四日市市に合併80周年記念事業実行委員会編集委員会71頁
  83. ^ 『おはなし歴史風土記』第24巻 三重県、歴史教育者協議会、岩崎書店、70頁1行目から72頁上段14行目
  84. ^ http://yokkaichi-kougai.exp.jp/contents1/guide/3_kiroku/contents/sonnara.htm
  85. ^ 磯津漁民一揆平田市長魚を買うの記述
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  87. ^ 『くさい魚とぜんそくの証文―公害四日市の記録文集』(はる書房、1984年)83頁8行目から85頁2行目
  88. ^ 四日市市史(第14巻)史料編現代I 四日市市史(第15巻)史料編現代II。「塩浜・富洲原魚事件」。1963年の出来事として記述
  89. ^ 昭和41年12月13日四日市市議会議事録
  90. ^ 昭和42年6月16日四日市市議会議事録
  91. ^ 『三重県紳士録』、246頁第3段落の左側の(住所・生年・現職・経歴・趣味・家庭・横顔)の九鬼喜久男の項目
  92. ^ 『三重県紳士録』246ページ第3段落の左側の(住所・生年・現職・経歴・趣味・家庭・横顔)の九鬼喜久男の項目
  93. ^ 菅井益郎 『公害の研究―産業の発展によってうしなわれたものとは』16、ポプラ社〈調べ学習日本の歴史〉、2001年4月、30頁4行目から6行目
  94. ^ 平野孝 『菜の花の海辺から 上巻』27頁 法律文化社、1997年
  95. ^ asahi.com 平成22年4月14日
  96. ^ 四日市市史(第19巻・通史編・現代)巻末付表の74頁地区別の人口と世帯数の推移。昭和30年から平成7年
  97. ^ (参考文献)は、四日市市史(第19巻)通史編現代。630頁⇒三重県立四日市商業高等学校と塩浜中学校の移転の記述。810頁⇒四日市公害裁判の四日市ぜんそく訴訟の記述。
  98. ^ (参考文献)は国史大辞典(四日市ぜんそくの項目で公害対策と環境技術の革新についての内容)の記事。
  99. ^ http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%9B%9B%E6%97%A5%E5%B8%82%E5%96%98%E6%81%AF/四日市喘息用語辞書 [リンク切れ]
  100. ^ 四日市市史(第19巻・通史編・現代)736頁
  101. ^ 『おはなし歴史風土記』第24巻 三重県、歴史教育者協議会、岩崎書店、74頁1行目から76頁7行目
  102. ^ 四日市ぜんそく公害訴訟判決その後 私記 公害四日市の戦後
  103. ^ 菅井益郎 『公害の研究―産業の発展によってうしなわれたものとは』16、ポプラ社〈調べ学習日本の歴史〉、2001年4月、31頁右側14行目から23行目
  104. ^ 『四大公害病』176頁、著者は政野淳子、発行者は中公新書
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  107. ^ 四日市公害記録写真集編集委員会 『四日市公害記録写真集』四日市公害訴訟判決20年記念、42頁から47頁
  108. ^ 日本の公害④高度経済成長と公害19頁。写真と絵画と集成は樋口健二。監修は宮本憲一
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  111. ^ http://yokkaichi-kougai.www2.jp/index.php/component/content/?view=featured&start=80
  112. ^ 『四大公害病』194頁10行目から195頁4行目
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  118. ^ 読売新聞三重版、2011年10月3日






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