四日市ぜんそくに取り組む政治家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 14:44 UTC 版)
「前川辰男」の記事における「四日市ぜんそくに取り組む政治家」の解説
1959年(昭和34年)5月から~1971年(昭和46年)までと、1975年(昭和50年)から~1991年(平成3年)までの期間に四日市市議会議員を7期務める。四日市市議会議員選挙で合計7回当選する。1971年(昭和46年)の四日市市議会議員選挙では日本社会党が5人から7人以上と候補者を増やした為に地盤割りに失敗をして、同じ塩浜地区出身で、新人の日本社会党に所属していた福田香史候補に票を奪われて落選をする。この落選のショックで前川の人間性が変わり、昭和50年代に四日市市議会議員に復帰した後は塩浜地区の四日市公害関係の質問は一切せず、新しい地盤となった高花平団地関係の質問が中心となった。1967年(昭和42年)から~1972年(昭和47年)までの期間は四日市公害裁判に専門的に取り組んだ。1975年(昭和50年)に再び四日市市議会議員に復帰した。 塩浜地区から四日市ぜんそくによる環境悪化による健康被害からの避難を理由に新しく団地住宅を購入して引っ越して四日市市の高花平団地に在住している。平田佐矩四日市市長にいち早く公害問題を提起した。四日市市議会で前川辰男などの革新系四日市市議会議員が「平田佐矩市長は、ロングビーチ(姉妹都市提携)へばかり行ってないで、公害患者救済に本腰を入れろ」と追及した。公害対策をしない九鬼喜久男市長を公害裁判や四日市市議会で糾弾して、積極的に公害問題に取り組んだ。前川は熱心に塩浜地区民の公害被害を訴えた。 「公害訴訟を支持する会」の事務局長を務めた。1963年(昭和38年)7月1日に四日市公害対策協議会(略称は四日市公対協であった)を結成した。以下の四者で構成されていた。 日本社会党四日市支部(橋詰興隆四日市市議と支持組織の大協石油労組) 日本共産党北勢地区委員会(橋本健治北勢地区委員長) 三泗地区労働組合協議会(古谷精三が四日市市の職労の書記長で略称は地区労であった) 四日市市革新議員団(前川辰男日本社会党四日市市議で支持組織は市職労) その後に参加したのは、四日市コンビナート労組主体とする労組で四日市地区労未加盟労組を含んでいる。三重県化学産業労組協議会(杉野正一が代表で合成ゴム労組委員長だった。略称は三化協である) 高度経済成長時代に発生した四日市公害の裁判を開始して、故郷である塩浜地区の公害患者の支援をして反公害運動を実施した政治家であり、地元では「四日市の田中正造」と云われていて、四日市公害と闘った環境運動家である。 前川辰男議員の四日市市議会での、公害に苦しむ塩浜地区民の思いを込めた演説は、公害対策や環境問題に取り組む名演説として感動を呼び、四日市市議会の議場から拍手が鳴り響いた。「このままでは、四日市市と四日市コンビナートの企業に殺されるどうせ死ぬなら、裁判で訴えよう」の患者の思いから、塩浜地区出身で日本社会党所属の前川辰男市議は弁護士と相談した結果、公害裁判で勝機がある事が判明して、塩浜地区の患者と四日市公害訴訟として津地方裁判所に提訴した。四日市ぜんそくは1972年(昭和47年)7月の公害裁判で勝訴した。総量規制が実施された事で四日市の環境問題が解決したことは、地元四日市市では、「日本社会党の歴史で最大の功績」とされている。
※この「四日市ぜんそくに取り組む政治家」の解説は、「前川辰男」の解説の一部です。
「四日市ぜんそくに取り組む政治家」を含む「前川辰男」の記事については、「前川辰男」の概要を参照ください。
- 四日市ぜんそくに取り組む政治家のページへのリンク