四日市公害訴訟
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1967年(昭和42年)9月1日の関東大震災の発生日を選び民事裁判を提訴。9人の四日市公害訴訟裁判の原告は、全員の住所が四日市市内の塩浜町在住である。 三重県立大学付属塩浜病院公害病室に入院中の男性7人と女性2人の合計9人である。(四日市公害記録写真集編集委員会 1992)当時35歳の男性。職業は船大工と漁業。四日市公害により気管支喘息に発病した。1964年7月頃から、男性に咳が出始める。1964年春頃より1日2回から3回の喘息が起きる。1965年6月に公害病認定患者となる。1965年11月より塩浜病院へ入院をする。 当時56歳の男性。職業は漁業。四日市コンビナートによる四日市公害で喘息性気管支炎に発病した。1962年10月頃より、発作が出始める。1965年6月頃には注射をうっても発作が鎮らない程ひどくなった。1965年6月に三重県立塩浜病院に入院し、公害病認定患者となる。 当時40歳の男性。職業は漁業。四日市公害によって気管支喘息に発病する。1962年頃より喉が鳴り出す。1963年から1965年に通院治療をした。発作時に注射している。1965年6月に公害病認定患者となる。1965年9月、三重県立大学付属塩浜病院へ入院する。 原告最年長の当時77歳の男性。職業は漁業。四日市コンビナートによる大気汚染で喘息と発作を併発した慢性気管支炎に発病した。1961年8月頃より1週間に一度から二度発作となる。1963年6月に三重県立大学付属塩浜病院に入院する。風向きにより何度も発作を起こす。1965年5月に公害病認定患者となる。1969年3月に四日市公害裁判中に78歳で死去する。 当時61歳の男性。職業は青果業。四日市コンビナートによる大気汚染によって肺気腫に発病した。1961年10月頃から、急に気管支炎に発病する。最初は風邪の様な症状であったが悪化した。1964年2月に三重県立大学付属塩浜病院へ入院する。1965年5月に公害病認定患者となる。「あそこが一番の発生源だ」と塩浜病院のベッドから訴えていた。四日市公害裁判勝訴から4年後の1976年に、74歳で亡くなった。 当時62歳の女性。職業は主婦と内職の煮干加工である。四日市公害によって喘息性気管支炎に発病した。1961年5月頃より咳が月に1回か2回、3時間ほど続く。1961年9月に身体衰弱に陥る。1962年6月に三重県立大学付属塩浜病院に入院する。1965年5月に公害病認定患者となる。 当時35歳の男性。職業は漁業と自由労働者である。四日市ぜんそくの症状で気管支喘息に発病した。1962年頃より1週1回程度の発作がある。1964年頃より3日に1回程度の発作となる。1965年6月に三重県立大学付属塩浜病院へ入院し、公害病認定患者となる。 当時73歳の男性。職業は漁業。四日市ぜんそくの症状で喘息性気管支炎に発病する。1961年4月下旬から突如喘息発作が毎日のように起きる。1964年8月に三重県立大学付属塩浜病院へ検査のため10日間入院する。1966年4月に塩浜病院に入院する。1965年6月に公害病認定患者となる。 原告最年少の当時34歳の女性。職業は主婦と網内職である。四日市ぜんそくの症状で気管支喘息に発病した。1962年11月頃より風邪をひく程度の咳が出る。1963年夏頃より1日2回程度喘息発作が起きる。特に夜中に喘息発作が起きて、昭和46年に病院に搬送されたが間に合わず38歳の若さで死亡した。1964年3月に三重県立塩浜病院に入院する。1965年5月に公害病認定患者となる。1971年7月10日に四日市公害裁判中に38歳で死去する。四日市公害裁判の傍聴席から病死に対する黙とうの呼びかけがあったが、石原産業や三菱系の企業など被告企業が黙とうを拒否した。同じ原告の野田(2019年に死亡した語り部)は『恐れていた事が起きてしまった。雨が降る中汚染された四日市の街で(女性の名字)さんの涙の雨だあ』と泣きながら叫んだ。生前は夜は幼い子どもたちの面倒をみるため自宅に帰り、朝は夫や子どもたちを送り出すと小さな末の子を連れて病院のベッドで暮らす生活であった。夫と3人の子供が代わりに四日市公害の遺族として原告となった。 津地方裁判所四日市支部は昭和47年7月24日に被告企業6社に8800万円の損害賠償を命じた。裁判長は四日市公害裁判の翌日に定年で退官した。 被告側も控訴せず、公害防止に努力すると約束した。 公害患者の1人(野田)の「ありがとうの一言は四日市市内に青空が回復した後に言います」の野田メッセージがあった。 三重県知事の田中覚と四日市市長の九鬼喜久男も行政責任を認めて塩浜地区を中心とする四日市市南部地域・中部地域の住民に謝罪した。 前川辰男四日市市議は1964年に『四日市で公害訴訟を起こせるのか』と野呂汎弁護士に相談した。1964年4月に公害犠牲者第1号が出た事を伝える報道があり、法廷で企業の責任を追及する事が日本社会党や日本共産党の議員の間で議論された。野呂汎は名古屋市に事務所を置く弁護士で労働問題を手掛けていた東海労働弁護団の一員であった。 四日市公害裁判の結果は原告の全面勝訴であった。津地裁四日市支部は企業6社に対して、原告(公害患者7人と死亡した原告2人の遺族5人の合計12人)に対して合計8821万1823円の損害賠償の支払いを行う事を命じた。 要旨は次の5つである。①注意義務。四日市コンビナート付近の塩浜地区住民の生命の危険・身体の危険に考慮しなかった注意義務。 ②予見可能性。明治時代に発生した足尾銅山事件などで人の健康被害の前例があった。 ③共同不法行為。他の複数の石油化学企業とのばい煙の排出に対する共同不法行為の認定。公害被害・健康被害に対する共同責任があった。 ④違法性の不存在。人の生命の貴重さ・身体の貴重さから違法性が無いと認められない。 ⑤予防措置。世界最高の技術知識を動員してでも、公害発生の防止措置を講ずるべきであった。
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