四日市公害問題に取り組む
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 01:38 UTC 版)
「福田香史」の記事における「四日市公害問題に取り組む」の解説
四日市公害裁判公害裁判中に病死した原告主婦の長女が、経済的困窮により高校を中退して家事手伝をしていることを知った福田は、四日市市の社会党を中心に学費援助の支援活動を行い、寄付が集まった結果復学が可能となった。学資は三菱油化が、家政婦の給与は三菱化成が援助した。 1972年(昭和47年)10月18日に子供を患者に持つ磯津の母親3人とともに三重県庁に出向いた。「昭和石油の増設プラントの操業を開始しても、公害発生の恐れはないと言うが、三重県知事としてその事に責任をもてるかどうか」と田中覚三重県知事に詰め寄った。磯津地区公害患者会の会長の加藤光一が、母親3人を誘い知事と会談した。福田は(1)三重県側(2)四日市コンビナートの石油化学企業側(3)塩浜地区の住民側の3つの団体で三者協定を結んでほしいと申し入れた。 1980年(昭和55年)3月18日に交通事故のため47歳で急死した。伊勢新聞の報道によると、当日の市議会の後、他の市議との宴会で大量に飲酒したとされていて、そのまま飲酒運転を行い磯津地区内にある小さい川に転落、車内で溺死し、三重県警察の捜査及び捜索の結果の車内から水死体で発見された。葬儀・通夜では、前川辰男四日市市議会議員など社会党の関係者や磯津地区民が多数参列した。
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