四日市九鬼家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 13:46 UTC 版)
関ヶ原の戦いの際、九鬼一族は九鬼嘉隆が西軍に、息子の九鬼守隆が東軍について家中は二分したが、嘉隆と共に西軍に加担し、敗戦後に逃れた嘉隆の末男・守隆の末弟が、四日市九鬼家の始祖である。この九鬼家は江戸時代初期に武士身分を捨てて商人となり、四日市を基盤に九鬼水軍時代からの海運能力を活かして、赤穂の塩を江戸に販売するなど回船業と商業を営んだ。 幕末から明治の初め、四日市九鬼家は四日市港地区と塩浜地区に菜種畑が広がり、水が綺麗である好条件に目を付け、製油業を始めた。1886年(明治19年)に8代目九鬼紋七が「油を搾る製油業は九鬼家が最高品質の油をより良い技術で」ということから、日本で初めて圧搾法を用いた四日市製油所で胡麻油の製造を開始した。これが九鬼産業に発展し、紋七の長男の九鬼紋十郎と婿養子の九鬼喜久男が後継の九鬼産業グループの経営者となった。
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