四日市市の都市問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 12:05 UTC 版)
「四日市ぜんそく」の記事における「四日市市の都市問題」の解説
四日市市南部・中部の伊勢湾沿いの臨海地域は、公害被害や漁業被害・再開発の遅れにより衰退を余儀無くされた。同じく伊勢湾沿いの臨海部である四日市市北部の富田地区・富洲原地区も伊勢湾台風・東海豪雨などの水害や漁業被害や再開発の遅れで衰退を余儀なくされた。 四日市市の中心市街地である中部地区の人口は1965年の38488人をピークに1995年には24602人まで減少し、四日市市の中心部の橋北地区の人口は1965年の14667人をピークに1995年には7143人まで減少した。四日市市南部地域の塩浜地区は1965年の人口15650人をピークに1995年には8192人まで減少した。 四日市市北部地域の富田地区の人口は1965年の14461人をピークに1995年には11722人まで減少した。四日市市北部地域の富洲原地区の人口は1950年の17869人をピークに1995年には9761人まで減少するドーナツ化現象が発生するなど、四日市の市政が抱える都市問題が浮き彫りとなった。四日市公害を契機に四日市市内の政界の名門の家柄であった(九鬼紋七・九鬼紋十郎が国会議員を務めた九鬼家と平田耕一が国会議員を務めたチヨダウーテ平田家と平田佐矩が四日市市長を務めた平田紡績家と九鬼喜久男が四日市市長を務めた九鬼産業家)・財界の名門の家柄であった(四日市市の平田佐次郎・二代目平田佐次郎・平田佐十郎・平田佐矩の平田家と九鬼紋七・九鬼紋十郎・九鬼喜久男などが経営していた九鬼産業家の四日市二大実業家の富洲原平田家と四日市九鬼家が四日市地域で平田財閥と九鬼財閥を形成した)・教育界(平田一族の宗村佐信が暁学園を創設して宗村完治・宗村南男が暁学園の理事長を務めた)で名門であった平田家(平田紡績家)と九鬼家(九鬼産業家)は没落に至った。
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