四日市市平町
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「松原地区 (四日市市)」の記事における「四日市市平町」の解説
2011年(平成23年)の四日市市が集計した人口統計では世帯数が438軒、総数が1089人(男性533人、女性556人)である。終戦時の1945年(昭和20年)には、平町の世帯数は20数戸であった。伊勢湾台風の際は流木被害があり、近鉄名古屋線路西側のわずか2軒の家に被害があり、この2軒の被害が一番大きかった。農業が盛んな田園地帯から海岸線から離れた平町に富田一色や松原地区の分家が移住してきて、サラリーマン家庭を中心に他地域からの住民が転入してきた。国道1号沿いの地域は新興の工業地区と住宅地区である。平町南部の三重県道26号四日市多度線沿いに大垣共立銀行富田支店が立地している。東平町北部の川越町との境界沿いにカレーハウスCoCo壱番屋富洲原店が立地する。 1929年(昭和4年)に伊勢電鉄の富洲原駅(現在の富洲原保線車両基地)が松原平町に開設された。1945年(昭和20年)三重郡川越村に富洲原駅(現在の川越富洲原駅)が移転した。飛び地だった富田一色地区の一部と松原地区の一部であった通称町名の松原平町をとって、1966年(昭和41年)に九鬼喜久男市長の方針で実施された四日市市の新住所制度の執行によって、住所制度での四日市市平町が成立した。東平町自治会と西平町自治会で構成する平町が由来である。旧町名の平町がそのまま使用されて四日市市平町となった。 松原の石取祭では、東平町自治会は松原第3組、東平町自治会は松三祭車で平町の東部、近鉄名古屋線の東側である。「平らな広大な田んぼが広がっていた事」から平町と命名された。平田紡績の経営者だった宗村佐信が建設した邸宅があり、平田紡績の社長を代々務めた宗村家があった。宗村家邸の跡地は幸楽苑富洲原店となっている。東平町には小規模製網会社が複数ある。西平町自治会は西平町子ども祭車を保有している。西八風町自治会と東八風町自治会は松原第1組である。南側の境界は三重県道26号四日市多度線、東側の境界は国道1号、近鉄名古屋線の西部は西平町自治会で富洲原霊園がある。四日市市平町は近鉄名古屋線の西側の西八風町自治会の北部・西平町自治会全域と近鉄名古屋線の東側は東平町自治会全域・東八風町自治会の北部・新栄町自治会の一部・錦町自治会の一部で構成されている。
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